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第5話 永瀬の気がかり、瑞穂の躊躇い


 翌日、咲耶は早朝から永瀬のお叱りを受けていた。

 出社するなりいきなり名前を呼ばれ、こうして永瀬の前に立たされている。ちらっと壁に掛けられた時計を見ると、針は8時15分を指していた。


 会社の始業時間は9時。けれど、新人の咲耶は先輩社員よりも早めに出社し、8時半を過ぎる頃には一通りのメールチェックを終わらせている。

 新人故、先輩社員よりも仕事に時間がかかってしまうので、せめて自分一人でできることくらいは始業時間までに終えてしまおう。そう配属当初から心がけて続けていることだった。


 朝の早い時間帯はフロアの社員は疎らで、だいたい始業時間の15分前くらいから一気に出社する社員が増えてくる。人も少なく、開放的でゆったりとした雰囲気の中で過ごす僅かな時間は、実は咲耶にとってちょっとした安らぎにもなっていた。

 しかし、今日は……


 目の前で不機嫌そうに腕を組んでいる永瀬が、椅子に座ったままジロリと咲耶の身体を下から上に見上げる。


「お前、一体何を考えている?」

「……何がですか?」


 永瀬が何に怒っているのか理由が分からず、咲耶は首を傾げた。


「今日は大事な商談だと言ったはずだが?」

「は、はい。予定はちゃんと、空けてあります」

「……」

「あの、……主任?」


 その、無言の重圧は何でしょうか? という続きの言葉はゴクリと呑み込む。

 永瀬は相変わらず無言のまま、鋭い視線を咲耶に向けている。

 こんな風にじっと射抜くように見つめられると、自然と身体が竦んでしまう。この数秒後に、大きな雷が自分を直撃することを知っているからだ。タラタラとさっきから変な冷や汗が背中を伝っていく。


「まったく、これじゃあ部長の思うツボだろ」

「え?」


 何かぼそぼそと喋っているのは分かったものの、その言葉までは聞き取れない。ただ、ものすごく怒っている、というわけではなさそうだ。


「お前は合コンにでも行くつもりか」

「合コン?」

「何でよりによって今日、そんな気合いいれてくるんだ……」


 どうやら永瀬は、自分の身形みなりについて物申したいらしい。

 咲耶は自分の身体を見下ろした。

 朝の出勤前は必ず、玄関の横に立てかけてある姿見に全身を映すことが習慣になっている。今朝も、服装やメイクをきちんとチェックして来た。何度見ても、糸が解れているとか、ストッキングが伝線しているとか、そういった服装の乱れはなさそうだ。

 

 ということは──問題は、メイク?

 ほんの少しの心当たりから、咲耶は両手で頬を覆った。


「やっぱり、メイク……濃かったですか?」


 オフィスではいつも、アイラインやアイシャドウは控えめに、あくまでナチュラルを心がけている。もともと目鼻立ちがハッキリしていることもあり、濃い色のアイシャドウや、上下を囲うようなアイラインを入れてしまうと、一気に派手顔になり浮いてしまうからだ。

 プライベートで友人に会う場合は、オフィスの時よりは華やかさを意識したメイクにするけれど、そんな日は決まって街中で怪しい名刺をたくさん押しつけられる。

 もともと目立つことが嫌いな咲耶は、そういうこともあって、オフィスではフェイスパウダーにブラウンシャドウ、マスカラ、軽めのチークといった、限りなく素肌に近いメイクで過ごしていた。

 もちろん今日もいつも通りの装いにするつもりだったのに、今朝方、咲希がこんなことを言い出したのだ。





『ちょ、ちょっと! そのカッコで行くの?』


 玄関に向かっていると、ちょうど咲希が部屋から出てきた。咲耶はいつものように「行ってくるね」と彼女に笑顔を向けた。

 咲希も起きたばかりで完全に覚醒していない目を擦りながら、「行ってらっしゃ……」と言いかけ、そこでぴたりと言葉を止めた。そして咲耶の姿を視界に捉えるなり彼女を二度見すると、勢いよく目の前の腕を掴んで先ほどの台詞せりふを言ったのだ。


『今日って、接待じゃなかったの?』

『そうだけど……。え、何か変? いつもと同じつもりだけど』

『いつもと同じじゃダメじゃん!』

『……なんで?』

『よく考えて。咲耶は今日、“華”として呼ばれてるんだよ? なのに全身ガッチガチの黒ずくめって、あり得ない! しかも何、この黒縁眼鏡。いつの間にこんなの買ったの?』


 咲耶がかけている見慣れない眼鏡に、咲希は思わず手を伸ばした。視力の良い二人はいつも裸眼で、眼鏡なんてサングラスくらいしか持っていない。


『だって接待だよ? ちょっとでも知的に見えた方がいいかと思って、昨日佐伯さんに頼んでおいたの』


 そう言えば昨日両親と別れた後、迎えに来てくれた佐伯さんが、咲耶に小さな袋を渡していたのを見たような……。なるほど、アレの中身がコレなのか。

 咲希はようやく合点がいったとばかりに、半分呆れたような顔をして小さく二度頷いた。


『咲耶、今すぐ着替えるのよ』

『えっ、なんで!? ちょ、ちょっとーっ!』

『いつの時代の接待よ、まったく』


 咲希の部屋に連れ込まれ、抵抗する隙もなくポンポンと服を脱がされる。咲希はクローゼットから目当ての服を取り出すと、強引に咲耶の頭にそれを被せた。


『勝負の時はこれよ、これ』


 胸下で切り替えられた真っ白なワンピースと、ボタンの代わりに白いリボンを結んで留める紺のジャケット。その襟元や袖口は白で縁取られたマリンスタイルで、咲耶の見た目も一気に涼しげになる。

 咲希は、仕事でここぞという時にこの服を必ず身に着ける。これを着ると、商談が必ず成功するという。彼女にとって、欠かせないラッキーアイテムというわけだ。

 自分のお気に入りアイテムに身を包んだ咲耶を見ると、咲希は満足気に笑った。


『これなら派手じゃないし、TPOも選ばないし、完璧でしょ。……あ、そのメイクも何とかしなきゃね』

『わっ! そ、それはいいってば!!』

『いいから、黙ってて』


 必死の抵抗も虚しく、アイライン、アイシャドウ、チーク、ルージュが、咲希によって塗り重ねられていく。

 数分後、鏡に映った自分の変貌振りに咲耶はぎょっとした。


『ちょっと咲希! やばいって、コレ』

『何がよ。華やかになったでしょ? これで今日の接待は上手くいくから!』

『だって、完全にこれ、ホステスじゃん……』

『咲耶、それは本物のホステスに失礼よ。こんなんじゃまだまだ、プロの足元にも及ばない。髪の毛は……そのままでいっか』


 ヘアアイロンを使って、少し癖づいた部分を丁寧に伸ばしていく。何がそんなに楽しいのか、咲希は鼻歌まで歌い始めた。


『ホステスって言えば、確かに今日咲耶はホステスでなきゃね』

『え?』

『だって今日、咲耶はもて成す側でしょ? ホステスみたいに、お客様に気持ち良く接することを忘れずに!』

『……そっか』

『はい、出来上がり。バッグもこれ使って』


 そうして全身咲希プロデュースによる、いつもより少し華やかな咲耶が出来上がったのである。


  



 しかし、やっぱり戦術を読み違えてしまったのかもしれない。その証拠に、永瀬は未だ眉を寄せたままだ。


「あの、主任?」

「……心配しなくても、会社的にはそれでも問題ない。第一、お前より派手な格好をしている女性社員はいくらでもいる」

「じゃあ」

「問題なのは、今日の接待の相手だ」


 永瀬は額に手をやると、そのままくしゃりと前髪をかきあげた。

 その仕草があまりにも色っぽくて、咲耶は思わず見入ってしまう。朝からなんて色気だ。そのまま視線を逸らせずにいると、永瀬が突然顔をあげて言った。


「いいか。お前、今日の接待は絶対に俺の側から離れるな。俺がトイレに立てば、お前も一緒に来い」

「はっ?」

「一緒に抜け出せという意味だ」

「……どうして、ですか?」

「これは上司命令だ」


 口ごたえするな、と永瀬の顔が言っている。

 釈然としないものの、鬼の言うことは絶対だ。咲耶は不満顔のまま小さく頷いた。


 その日は怒涛の一日だった。残業が出来ないこともあり、ほとんど社内で会話を交わすこともないまま、目の前の作業に没頭した。

 永瀬も咲耶に構っている暇などないのだろう。簡単に仕事の指示を出すと、会議室に閉じ篭った。

 怒鳴られない日があることは珍しい。もちろんそれは嬉しいことだ。しかし一方で、何か物足りないというか、落ち着かないというか、不思議な気分でもある。

 ポキポキと首を鳴らしていると、瑞穂が椅子毎近づいてきた。そして周りに聞こえないように、小声でそっと囁く。


「今日、咲耶ちゃんも接待に行くんだって?」

「はい、そうなんです。もしかして、主任から聞きました?」

「ううん、違うの。咲耶ちゃんが昨日帰った後、部長が永瀬くんにそんなこと話してたのが聞こえたのよ」


 何故か瑞穂は浮かない顔をしていた。


「瑞穂さん?」

「咲耶ちゃん、今日は絶対に永瀬くんの側を離れちゃダメよ」


 デジャヴだと思った。まさか、瑞穂にもそんなことを言われてしまうとは。


「……私って、そんなに頼りないですか?」


 何でもない風を装いたくても、沈んだ気持ちが表情に出てしまう。咲耶はギュッと唇を噛んだ。

 今日の接待の相手がとても気分屋であることを、事前に永瀬に聞かされていた。だからこそこうして二人とも、自分が何かやらかしてしまうのではないかと心配しているのだ。

 一人落ち込む咲耶を見兼ねてか、瑞穂が焦ったように否定した。


「違う違う、そうじゃないの。別に私も永瀬くんも、咲耶ちゃんを信用していないとか、そういうんじゃないのよ」


 ただ──と何かを言いかけたものの、瑞穂は続きを口にするのを躊躇っているようだった。いつもはっきりと物を言う瑞穂には珍しく、歯切れが悪い。それが自分のせいだということは分かっている。


「大丈夫ですよ? だって大事な接待なのに、いきなり新人の私が飛び入りするなんて、誰だって不安になりますよね。そもそも私を呼ぼうとした部長がおかしいんですよ、きっと」

「咲耶ちゃん……」


 それ以上、瑞穂は何も言わなかった。けれど、最後にぎゅっと咲耶の手を握ると、「永瀬くんの隣にいれば大丈夫だから」とだけ言って笑った。

 その言葉の意味を、咲耶は身をもって知ることになる。



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