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その土地に残る作法には、だいたい理由がある  作者: トミカ


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9/10

うしろのこえ

その村に預けられたのは、小学三年の夏だった。


母が入院することになって、父も仕事を休めなかった。夏休みのあいだだけ、母方の祖母の家で過ごすことになったのだと、私は前の日の夜に聞かされた。祖母の家には、これまで一度しか行ったことがなかった。山の中の村で、電車は通っていなくて、店も近くになくて、夜になると真っ暗になる、と母は言った。


「ちょっと不便だけど、すぐ慣れるよ」

「何日いるの」

「お盆過ぎまでかな」


私はあまり乗り気ではなかった。仲のいい友達と遊ぶ約束もあったし、夏休みの自由研究も途中だった。けれど、母の病院のことを聞かされてから文句を言う気にはなれなかった。


次の日の朝、父の車で村へ向かった。


町を抜けて、山道へ入ってからが長かった。カーブのたびに体が揺れて、窓の外はずっと木ばかりだった。ときどき小さな川が見えて、古い橋を渡る。携帯は途中から圏外になった。父はラジオをつけていたが、ざあざあいう音ばかりで、途中で諦めて消した。


祖母の家は、村のいちばん奥にあった。


黒い瓦の古い家で、縁側の前に広い庭がある。庭の端には柿の木が一本立っていて、その向こうはすぐ山だった。車を降りると、土の匂いがした。町の匂いとは違う、湿っていて少し冷たい匂いだった。


玄関の前で祖母が待っていた。小柄で、背中の曲がった人だった。私の顔を見ると笑って、「よう来たね」と言った。父は荷物を下ろしてから、祖母と少しだけ話をした。母のことや、迎えに来る日や、私の食べ物の好き嫌い。そういうことを話したあとで、父はしゃがんで私の肩を叩いた。


「ちゃんとしろよ」

「うん」

「ばあちゃんの言うこと聞けよ」

「うん」


車が見えなくなるまで、私は門のところで見送った。


そのあと、祖母に連れられて家へ入った。玄関はひんやりしていて、土間の暗さに目が慣れるまで少しかかった。畳の部屋には風が通っていて、扇風機が一台だけ回っていた。私の寝る部屋は、縁側に面した六畳だと教えられた。


昼ごはんを食べて、麦茶を飲んで、少し落ち着いたころだった。


祖母がふいに言った。


「この村じゃね、小さい子は、うしろから名前呼ばれても振り向いちゃだめなんだよ」


私は何を言われたのかわからなくて、祖母の顔を見た。


「え?」

「うしろからだよ。お前の名前を呼ばれても、すぐには見ちゃだめ」

「なんで」

「そういうもんだから」


祖母は麦茶の入ったコップを台の上に置き、何でもないことのように続けた。


「前から声かけられたらいい。けど、うしろからはだめ。お前くらいの歳までは、みんなそうしてる」

「誰が呼ぶの」

「誰でも」


その答え方が嫌だった。


私は少し笑ってみせた。


「ばあちゃんが呼んでも?」

「ばあちゃんでも」

「変なの」

「変でもいいの。そういうもんなんだから」


祖母はそこで話を切り上げた。説明する気はなさそうだった。


その日の夕方、近所の家へ挨拶に連れて行かれたときも、同じことを言われた。


家の前で畑仕事をしていたおばさんが、私を見るなり「あんた、しばらくこっちおるんかい」と言って、それからすぐに、

「名前呼ばれても、うしろ見ちゃだめだよ」

と言った。


祖母は「そうそう」とうなずいた。


その家の縁側でスイカを食べていた男の子も、私と同じくらいの歳だった。けれど、私のほうを見て笑いもしない。ただ、スイカを食べながら静かにこちらを見ていた。私が「こんにちは」と言っても、小さくうなずくだけだった。


帰り道、私は祖母に聞いた。


「みんな同じこと言うの」

「言うよ」

「なんで」

「昔からだから」

「何かあるの」

「何もないよ。振り向かなきゃね」


それは答えになっていなかった。


––


村の子どもは少なかった。私と同じくらいの子は三人しかいなくて、みんな親戚同士らしかった。名前は、勇太と、紗奈と、もう一人は敬介といった。最初の日はあまり話さなかったが、二日目になると、沢で魚を見たり、神社の石段で蝉の抜け殻を集めたりして、少しだけ一緒に遊ぶようになった。


けれど、変だと思うことがひとつあった。


その子たちは、名前を呼ばれても、すぐには返事をしなかった。


たとえば、紗奈のおばさんが畑の向こうから「さなー」と呼ぶ。聞こえているはずなのに、紗奈は足を止めるだけで振り向かない。少ししてから、自分で身体ごと向きを変えて、初めて返事をする。勇太も同じだった。後ろから呼ばれても、顔だけぱっと向けることがない。いちいち立ち止まって、それからゆっくり向きを変える。


最初は、たまたまかと思った。


けれど、何度見てもそうだった。


三日目の昼、神社の裏の坂を四人で下りていたときだった。私はいちばん後ろを歩いていて、勇太と紗奈が前、その少し先を敬介が行っていた。蝉がうるさくて、葉っぱの擦れる音も重なって、山の空気はむっとしていた。


そのとき、すぐ後ろで声がした。


「しゅん」


私の名前だった。


母の声に聞こえた。


私は反射的に振り向きかけて、ぎりぎりで止まった。祖母に言われたことを思い出したからだ。


背中の皮膚だけがひやっとした。


今、母は病院にいるはずだった。こんなところにいるわけがない。


私は首を半分だけ戻したまま、後ろを見なかった。勇太たちは何も言わず、前を歩いたままだった。聞こえなかったような顔をしている。


もう一度、声がした。


「しゅん」


今度は少し遠くて、でも同じ声だった。


私は喉が乾いて、足が止まった。


「どうしたの」


前から紗奈が聞いた。


その顔が普通だったので、私は急に恥ずかしくなった。


「……なんでもない」


そう言って、また歩き出した。後ろからは、それきり何も聞こえなかった。


その夜、夕飯のときにそのことを話すと、祖母は箸を止めた。


「見たの」

「見てない」

「振り向いた?」

「向いてない」

祖母はしばらく黙ってから、

「ならいい」

と言った。


「今の、母さんの声だった」

「そうかい」

「母さん、来てたのかな」

「来てないよ」


祖母はそう言って味噌汁を飲んだ。それ以上、何も説明しなかった。


––


次に声を聞いたのは、その二日後だった。


夕方、家の裏で洗濯物を取り込むのを手伝っていた。祖母が縁側のほうでタオルをたたんでいて、私は物干しから取り外した洗濯物を抱えて立っていた。山の向こうに日が落ちかけていて、庭の端から順番に影が濃くなっていた。


「しゅん」


今度は父の声だった。


近かった。すぐ後ろだった。


私はびくっとして、その場で固まった。


祖母は何も言わない。洗濯物をたたむ手も止めない。


「しゅん」


もう一度、同じ声がした。


私はたまらず前を向いたまま祖母を見た。祖母はようやく顔を上げて、私の目を見た。それだけだった。振り向くなとも、大丈夫とも言わない。ただ、じっと見ていた。


私は口の中がからからになって、抱えていた洗濯物を落としそうになった。


そのとき、門のほうから本物の人の声がした。


「ばあちゃん、胡瓜もろたで」


近所のおばさんの声だった。


その瞬間、背中のすぐ後ろにあった気配がすっと薄くなった。私はへなへなとその場にしゃがみこんでしまった。祖母は何も言わず、落ちた洗濯物を拾い集めた。


夜、布団に入ってから、私は小さな声で聞いた。


「ばあちゃん」

「なに」

「なんで、みんな平気なの」

「平気じゃないよ」

「じゃあなんで」

「小さいうちはね、ああいう声に顔を返しちゃだめなんだよ」


暗がりの中で、祖母の声だけが聞こえた。


「ほんとの人の声じゃないから」

「じゃあ、何」

「知らないよ」


祖母はそこでまた黙った。


その黙り方が、本当に知らないのか、知っていて言わないのか、私にはわからなかった。


––


お盆が近づくと、村の中は少しだけ忙しくなった。


各家の門先に提灯が下がり、夜になると灯りがぽつぽつ見える。昼間は親戚らしい車が何台も来て、普段は静かな道を人が行き来した。祖母の家にも叔父夫婦が一度だけ顔を出した。叔父は私にお菓子をくれ、それから笑いながら言った。


「うしろから呼ばれても見るなよ」

「みんなそれ言う」

「言うさ」


叔父の笑い方は軽かったのに、その横にいた叔母は少しも笑っていなかった。


お盆の入りの日の夕方、祖母は仏壇の前に小さな膳を置いた。水と、ご飯と、煮物。それから玄関先で火を焚いた。迎え火だと教えられた。火はすぐに細くなり、煙だけが庭のほうへ流れていった。


夜になっても、私はなかなか眠れなかった。


障子の向こうに提灯の灯りがにじんでいて、風が止むと、外がしんと静かになる。静かになるたび、遠くで誰かが歩く音のようなものがした。砂利を踏むわけでもなく、葉っぱを擦るわけでもない、もっと柔らかい音だった。


その音は、家の周りをゆっくり回っているように聞こえた。


私は布団の中で息をひそめた。


すると、廊下の向こうで、声がした。


「しゅん」


自分の声に聞こえた。


昼間、勇太たちと笑っていたときの、自分の声そのものだった。


私は心臓がどくんと鳴って、布団を頭までかぶった。祖母は隣の部屋で寝ているはずだった。呼べば来るだろうと思った。けれど、声が出なかった。


「しゅん」


今度は、もう少し近かった。


廊下の真ん中あたりから聞こえた気がした。


私は目をつぶって、耳を塞いだ。けれど、自分の名前だけは、指の隙間からでも入ってきた。母の声でも、父の声でもなく、自分の声で呼ばれるほうがよほど怖かった。


しばらくして、ふっと静かになった。


気づくと、家の外で虫が鳴いていた。さっきまで止まっていたのかもしれない。いつの間にか眠ってしまったらしく、次に目を覚ましたときは、障子が白くなっていた。


朝食のとき、私は昨夜のことを祖母に話した。


祖母は何も驚かなかった。


「そうかい」

「ばあちゃん、聞こえなかったの」

「聞こえたかもしれないね」

「何で起こしてくれないの」

「返事してないだろ」

「してない」

「ならいい」


そればかりだった。


私はいらいらして、味噌汁の椀を乱暴に置いた。


「何がいいの」

「顔を見せなかったなら、それでいいんだよ」

「何の顔」

祖母は箸を止めたが、答えなかった。


––


振り向いてしまったのは、その日の昼だった。


理由は、ほんのくだらないことだった。


勇太たちと三人で、村の外れの空き地へ行っていた。敬介は用事があると言って来なかった。空き地の向こうには竹藪があって、風が吹くたびに高い音がした。私たちはそこでトンボを追いかけたり、地面に棒で丸を描いたりしていた。


帰るころになって、勇太が急に言った。


「お前、きょう帰るの」

「明日」

「ふうん」


そのとき、後ろで紗奈の声がした。


「しゅん」


私は何も考えずに振り向いた。


紗奈が忘れ物でもしたのかと思った。ただ、それだけだった。


後ろには誰もいなかった。


竹藪が揺れていて、その前の土が少し湿っていた。さっきまで晴れていたのに、そこだけが濡れているように見えた。気のせいかと思ったが、見ているうちに、その濡れた色が足の形に見えてきた。裸足の足跡が、こちらへ向いて並んでいるように。


私は息を止めた。


「見たの」


前から、勇太が小さな声で言った。


振り返ると、勇太も紗奈も、もう私の目を見ていなかった。二人とも、私の肩の少し後ろを見ていた。


「何」

と言おうとしたが、うまく声が出なかった。


紗奈が私の手を引いた。


「帰ろ」


その手が冷たかった。


家へ戻るまでのあいだ、二人はほとんど口をきかなかった。途中で近所のおばさんとすれ違ったときも、私の顔を見たあと、何も言わずに通り過ぎた。その沈黙が、いちばん怖かった。


祖母は、私を見るなりわかったらしかった。


「振り向いたね」

私は黙っていた。

「見たの」

「……何か」

「何を」

「足みたいなの」

祖母はしばらく立ったままだった。それから、家の戸を全部閉めた。昼なのに雨戸まで半分だけ引いた。仏壇の前に線香を立て、水を替え、何か小さく口の中で唱えた。


「ばあちゃん」

「今夜は外に出るんじゃないよ」

「何がいるの」

「知らない」

「みんな、何で教えてくれないの」

祖母は振り向かないまま言った。

「教えたって、お前はもう顔を返したんだから」


その言い方で、私は急に泣きそうになった。


––


その晩、村の空気はいつもと違っていた。


提灯の灯りはあるのに、外が妙に暗い。夕飯のあと、祖母は戸締まりを何度も見直した。玄関、勝手口、縁側の障子。どれも閉まっているのに、落ち着かないようだった。私も落ち着かなかった。昼のことを思い出すたび、首の後ろが重くなる気がした。


「父さんに電話したい」

と言うと、

「今日はだめ」

と祖母は言った。

「なんで」

「今日はだめ」


理由は言わなかった。


夜になって布団に入ると、家の外を歩く音がした。


砂利の上を裸足で歩くような、湿った音だった。門のところで止まり、庭を横切り、縁側の下を通って、また門へ戻る。ぐるりと家を回っているのがわかった。


私は布団の中で丸くなった。


祖母は隣の部屋にいるはずだったが、物音ひとつしない。寝ているとは思えなかった。家の中の誰もが、息をひそめているような静けさだった。


そのうち、歩く音が縁側の前で止まった。


私は目を閉じた。


すぐそこに誰かが立っている気配がした。障子一枚向こうに、何かがいる。人なら息遣いがあるはずなのに、それは何の音もしなかった。ただ、いる、という重さだけがあった。


そして、声がした。


「しゅん」


今度は母の声だった。


私は唇を噛んだ。


「しゅん」


父の声になった。


次には祖母の声になった。


それから勇太、紗奈、学校の担任の先生。聞いたことのある声が、順番もなく、同じ場所から私の名前を呼んだ。どの声も、少しだけ近すぎた。人が実際に話す距離より、半歩ぶん近いところで鳴っているようだった。


私は耳を塞いだ。けれど、聞こえるものは聞こえた。


最後に聞こえたのは、自分の声だった。


「しゅん」


その声に、私は思わず目を開けた。


障子の向こうに、影がひとつあった。


人の形に見えた。子どもくらいの高さで、じっと立っている。提灯の灯りで向こうが透けるはずなのに、その部分だけ、白くも黒くもなく、ただ濃かった。


私は悲鳴を上げそうになった。


そのとき、隣の部屋で祖母が強く戸を叩いた。ばん、と大きな音だった。続けてもう一度、ばん、と鳴った。


影が少し揺れた。


祖母は何も言わず、三度目を叩いた。


すると、障子の向こうの濃さが、ゆっくりと薄れていった。歩く音はしなかった。ただ、そこにあったものが、庭の暗さに溶けるみたいに消えた。


私は朝まで眠れなかった。


––


翌朝、祖母は父に電話をかけた。


今日すぐ迎えに来てほしい、とそれだけを言っていた。父は何か聞き返していたようだが、祖母はほとんど答えなかった。昼前には来る、と言って受話器を置いた。


私は縁側の部屋に座ったまま、庭を見ていた。


晴れているのに、庭の端の土だけがところどころ濡れていた。雨なんて降っていない。けれど、夜のうちに誰かが歩いたように、湿った色が点々と続いている。


門のところで車の音がした。父が来たのだとわかった。


そのとき、私のすぐ後ろで声がした。


「しゅん」


小さな声だった。


私は全身を固くした。父の声でも、母の声でもなかった。聞いたことのない声だった。けれど、知らない人の声という感じでもなかった。前からずっと知っていたものが、初めて本当の声を出したような、変な近さだった。


私は振り向かなかった。


もう振り向いてはいけないことだけは、はっきりわかっていた。


玄関のほうで祖母が私を呼んだ。


「しゅん、はようおいで」


今度は前からだった。


私は立ち上がって、縁側の障子を開けた。外の光がまぶしくて、一瞬目がくらんだ。庭の端の濡れた土は、さっきより少しだけ増えているように見えたが、よく見なかった。


父の車に乗り込むまで、私は一度も後ろを見なかった。


村を出る橋を渡るとき、祖母が門のところに立っているのが見えた。小さくなっていく家と庭と山を、私はまっすぐ前だけ見ていた。父は何か話しかけてきたが、うまく返事ができなかった。


あの夏のことは、長いあいだ家でも話さなかった。


母が退院してからも、父は「田舎で変な話を聞かされたんだろう」と笑っていた。私は何も言い返さなかった。本当に変な話だったのかどうか、自分でもうまくわからなかったからだ。


ただ、それから何年か、後ろから名前を呼ばれると、すぐには返事ができなくなった。


大学に入って一人暮らしを始めてからは、だいぶ忘れていた。


それでも、夜中に目が覚めて、窓の外に雨でもない水の音がするときがある。そんなとき、ふっと、自分の名前を呼ばれそうな気がする。母の声でも父の声でもない、もう思い出せないはずの、あの近すぎる声で。


そのたびに、私は布団の中で目を閉じる。


振り向かなければ、まだ間に合う気がしている。

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