うしろのこえ
その村に預けられたのは、小学三年の夏だった。
母が入院することになって、父も仕事を休めなかった。夏休みのあいだだけ、母方の祖母の家で過ごすことになったのだと、私は前の日の夜に聞かされた。祖母の家には、これまで一度しか行ったことがなかった。山の中の村で、電車は通っていなくて、店も近くになくて、夜になると真っ暗になる、と母は言った。
「ちょっと不便だけど、すぐ慣れるよ」
「何日いるの」
「お盆過ぎまでかな」
私はあまり乗り気ではなかった。仲のいい友達と遊ぶ約束もあったし、夏休みの自由研究も途中だった。けれど、母の病院のことを聞かされてから文句を言う気にはなれなかった。
次の日の朝、父の車で村へ向かった。
町を抜けて、山道へ入ってからが長かった。カーブのたびに体が揺れて、窓の外はずっと木ばかりだった。ときどき小さな川が見えて、古い橋を渡る。携帯は途中から圏外になった。父はラジオをつけていたが、ざあざあいう音ばかりで、途中で諦めて消した。
祖母の家は、村のいちばん奥にあった。
黒い瓦の古い家で、縁側の前に広い庭がある。庭の端には柿の木が一本立っていて、その向こうはすぐ山だった。車を降りると、土の匂いがした。町の匂いとは違う、湿っていて少し冷たい匂いだった。
玄関の前で祖母が待っていた。小柄で、背中の曲がった人だった。私の顔を見ると笑って、「よう来たね」と言った。父は荷物を下ろしてから、祖母と少しだけ話をした。母のことや、迎えに来る日や、私の食べ物の好き嫌い。そういうことを話したあとで、父はしゃがんで私の肩を叩いた。
「ちゃんとしろよ」
「うん」
「ばあちゃんの言うこと聞けよ」
「うん」
車が見えなくなるまで、私は門のところで見送った。
そのあと、祖母に連れられて家へ入った。玄関はひんやりしていて、土間の暗さに目が慣れるまで少しかかった。畳の部屋には風が通っていて、扇風機が一台だけ回っていた。私の寝る部屋は、縁側に面した六畳だと教えられた。
昼ごはんを食べて、麦茶を飲んで、少し落ち着いたころだった。
祖母がふいに言った。
「この村じゃね、小さい子は、うしろから名前呼ばれても振り向いちゃだめなんだよ」
私は何を言われたのかわからなくて、祖母の顔を見た。
「え?」
「うしろからだよ。お前の名前を呼ばれても、すぐには見ちゃだめ」
「なんで」
「そういうもんだから」
祖母は麦茶の入ったコップを台の上に置き、何でもないことのように続けた。
「前から声かけられたらいい。けど、うしろからはだめ。お前くらいの歳までは、みんなそうしてる」
「誰が呼ぶの」
「誰でも」
その答え方が嫌だった。
私は少し笑ってみせた。
「ばあちゃんが呼んでも?」
「ばあちゃんでも」
「変なの」
「変でもいいの。そういうもんなんだから」
祖母はそこで話を切り上げた。説明する気はなさそうだった。
その日の夕方、近所の家へ挨拶に連れて行かれたときも、同じことを言われた。
家の前で畑仕事をしていたおばさんが、私を見るなり「あんた、しばらくこっちおるんかい」と言って、それからすぐに、
「名前呼ばれても、うしろ見ちゃだめだよ」
と言った。
祖母は「そうそう」とうなずいた。
その家の縁側でスイカを食べていた男の子も、私と同じくらいの歳だった。けれど、私のほうを見て笑いもしない。ただ、スイカを食べながら静かにこちらを見ていた。私が「こんにちは」と言っても、小さくうなずくだけだった。
帰り道、私は祖母に聞いた。
「みんな同じこと言うの」
「言うよ」
「なんで」
「昔からだから」
「何かあるの」
「何もないよ。振り向かなきゃね」
それは答えになっていなかった。
––
村の子どもは少なかった。私と同じくらいの子は三人しかいなくて、みんな親戚同士らしかった。名前は、勇太と、紗奈と、もう一人は敬介といった。最初の日はあまり話さなかったが、二日目になると、沢で魚を見たり、神社の石段で蝉の抜け殻を集めたりして、少しだけ一緒に遊ぶようになった。
けれど、変だと思うことがひとつあった。
その子たちは、名前を呼ばれても、すぐには返事をしなかった。
たとえば、紗奈のおばさんが畑の向こうから「さなー」と呼ぶ。聞こえているはずなのに、紗奈は足を止めるだけで振り向かない。少ししてから、自分で身体ごと向きを変えて、初めて返事をする。勇太も同じだった。後ろから呼ばれても、顔だけぱっと向けることがない。いちいち立ち止まって、それからゆっくり向きを変える。
最初は、たまたまかと思った。
けれど、何度見てもそうだった。
三日目の昼、神社の裏の坂を四人で下りていたときだった。私はいちばん後ろを歩いていて、勇太と紗奈が前、その少し先を敬介が行っていた。蝉がうるさくて、葉っぱの擦れる音も重なって、山の空気はむっとしていた。
そのとき、すぐ後ろで声がした。
「しゅん」
私の名前だった。
母の声に聞こえた。
私は反射的に振り向きかけて、ぎりぎりで止まった。祖母に言われたことを思い出したからだ。
背中の皮膚だけがひやっとした。
今、母は病院にいるはずだった。こんなところにいるわけがない。
私は首を半分だけ戻したまま、後ろを見なかった。勇太たちは何も言わず、前を歩いたままだった。聞こえなかったような顔をしている。
もう一度、声がした。
「しゅん」
今度は少し遠くて、でも同じ声だった。
私は喉が乾いて、足が止まった。
「どうしたの」
前から紗奈が聞いた。
その顔が普通だったので、私は急に恥ずかしくなった。
「……なんでもない」
そう言って、また歩き出した。後ろからは、それきり何も聞こえなかった。
その夜、夕飯のときにそのことを話すと、祖母は箸を止めた。
「見たの」
「見てない」
「振り向いた?」
「向いてない」
祖母はしばらく黙ってから、
「ならいい」
と言った。
「今の、母さんの声だった」
「そうかい」
「母さん、来てたのかな」
「来てないよ」
祖母はそう言って味噌汁を飲んだ。それ以上、何も説明しなかった。
––
次に声を聞いたのは、その二日後だった。
夕方、家の裏で洗濯物を取り込むのを手伝っていた。祖母が縁側のほうでタオルをたたんでいて、私は物干しから取り外した洗濯物を抱えて立っていた。山の向こうに日が落ちかけていて、庭の端から順番に影が濃くなっていた。
「しゅん」
今度は父の声だった。
近かった。すぐ後ろだった。
私はびくっとして、その場で固まった。
祖母は何も言わない。洗濯物をたたむ手も止めない。
「しゅん」
もう一度、同じ声がした。
私はたまらず前を向いたまま祖母を見た。祖母はようやく顔を上げて、私の目を見た。それだけだった。振り向くなとも、大丈夫とも言わない。ただ、じっと見ていた。
私は口の中がからからになって、抱えていた洗濯物を落としそうになった。
そのとき、門のほうから本物の人の声がした。
「ばあちゃん、胡瓜もろたで」
近所のおばさんの声だった。
その瞬間、背中のすぐ後ろにあった気配がすっと薄くなった。私はへなへなとその場にしゃがみこんでしまった。祖母は何も言わず、落ちた洗濯物を拾い集めた。
夜、布団に入ってから、私は小さな声で聞いた。
「ばあちゃん」
「なに」
「なんで、みんな平気なの」
「平気じゃないよ」
「じゃあなんで」
「小さいうちはね、ああいう声に顔を返しちゃだめなんだよ」
暗がりの中で、祖母の声だけが聞こえた。
「ほんとの人の声じゃないから」
「じゃあ、何」
「知らないよ」
祖母はそこでまた黙った。
その黙り方が、本当に知らないのか、知っていて言わないのか、私にはわからなかった。
––
お盆が近づくと、村の中は少しだけ忙しくなった。
各家の門先に提灯が下がり、夜になると灯りがぽつぽつ見える。昼間は親戚らしい車が何台も来て、普段は静かな道を人が行き来した。祖母の家にも叔父夫婦が一度だけ顔を出した。叔父は私にお菓子をくれ、それから笑いながら言った。
「うしろから呼ばれても見るなよ」
「みんなそれ言う」
「言うさ」
叔父の笑い方は軽かったのに、その横にいた叔母は少しも笑っていなかった。
お盆の入りの日の夕方、祖母は仏壇の前に小さな膳を置いた。水と、ご飯と、煮物。それから玄関先で火を焚いた。迎え火だと教えられた。火はすぐに細くなり、煙だけが庭のほうへ流れていった。
夜になっても、私はなかなか眠れなかった。
障子の向こうに提灯の灯りがにじんでいて、風が止むと、外がしんと静かになる。静かになるたび、遠くで誰かが歩く音のようなものがした。砂利を踏むわけでもなく、葉っぱを擦るわけでもない、もっと柔らかい音だった。
その音は、家の周りをゆっくり回っているように聞こえた。
私は布団の中で息をひそめた。
すると、廊下の向こうで、声がした。
「しゅん」
自分の声に聞こえた。
昼間、勇太たちと笑っていたときの、自分の声そのものだった。
私は心臓がどくんと鳴って、布団を頭までかぶった。祖母は隣の部屋で寝ているはずだった。呼べば来るだろうと思った。けれど、声が出なかった。
「しゅん」
今度は、もう少し近かった。
廊下の真ん中あたりから聞こえた気がした。
私は目をつぶって、耳を塞いだ。けれど、自分の名前だけは、指の隙間からでも入ってきた。母の声でも、父の声でもなく、自分の声で呼ばれるほうがよほど怖かった。
しばらくして、ふっと静かになった。
気づくと、家の外で虫が鳴いていた。さっきまで止まっていたのかもしれない。いつの間にか眠ってしまったらしく、次に目を覚ましたときは、障子が白くなっていた。
朝食のとき、私は昨夜のことを祖母に話した。
祖母は何も驚かなかった。
「そうかい」
「ばあちゃん、聞こえなかったの」
「聞こえたかもしれないね」
「何で起こしてくれないの」
「返事してないだろ」
「してない」
「ならいい」
そればかりだった。
私はいらいらして、味噌汁の椀を乱暴に置いた。
「何がいいの」
「顔を見せなかったなら、それでいいんだよ」
「何の顔」
祖母は箸を止めたが、答えなかった。
––
振り向いてしまったのは、その日の昼だった。
理由は、ほんのくだらないことだった。
勇太たちと三人で、村の外れの空き地へ行っていた。敬介は用事があると言って来なかった。空き地の向こうには竹藪があって、風が吹くたびに高い音がした。私たちはそこでトンボを追いかけたり、地面に棒で丸を描いたりしていた。
帰るころになって、勇太が急に言った。
「お前、きょう帰るの」
「明日」
「ふうん」
そのとき、後ろで紗奈の声がした。
「しゅん」
私は何も考えずに振り向いた。
紗奈が忘れ物でもしたのかと思った。ただ、それだけだった。
後ろには誰もいなかった。
竹藪が揺れていて、その前の土が少し湿っていた。さっきまで晴れていたのに、そこだけが濡れているように見えた。気のせいかと思ったが、見ているうちに、その濡れた色が足の形に見えてきた。裸足の足跡が、こちらへ向いて並んでいるように。
私は息を止めた。
「見たの」
前から、勇太が小さな声で言った。
振り返ると、勇太も紗奈も、もう私の目を見ていなかった。二人とも、私の肩の少し後ろを見ていた。
「何」
と言おうとしたが、うまく声が出なかった。
紗奈が私の手を引いた。
「帰ろ」
その手が冷たかった。
家へ戻るまでのあいだ、二人はほとんど口をきかなかった。途中で近所のおばさんとすれ違ったときも、私の顔を見たあと、何も言わずに通り過ぎた。その沈黙が、いちばん怖かった。
祖母は、私を見るなりわかったらしかった。
「振り向いたね」
私は黙っていた。
「見たの」
「……何か」
「何を」
「足みたいなの」
祖母はしばらく立ったままだった。それから、家の戸を全部閉めた。昼なのに雨戸まで半分だけ引いた。仏壇の前に線香を立て、水を替え、何か小さく口の中で唱えた。
「ばあちゃん」
「今夜は外に出るんじゃないよ」
「何がいるの」
「知らない」
「みんな、何で教えてくれないの」
祖母は振り向かないまま言った。
「教えたって、お前はもう顔を返したんだから」
その言い方で、私は急に泣きそうになった。
––
その晩、村の空気はいつもと違っていた。
提灯の灯りはあるのに、外が妙に暗い。夕飯のあと、祖母は戸締まりを何度も見直した。玄関、勝手口、縁側の障子。どれも閉まっているのに、落ち着かないようだった。私も落ち着かなかった。昼のことを思い出すたび、首の後ろが重くなる気がした。
「父さんに電話したい」
と言うと、
「今日はだめ」
と祖母は言った。
「なんで」
「今日はだめ」
理由は言わなかった。
夜になって布団に入ると、家の外を歩く音がした。
砂利の上を裸足で歩くような、湿った音だった。門のところで止まり、庭を横切り、縁側の下を通って、また門へ戻る。ぐるりと家を回っているのがわかった。
私は布団の中で丸くなった。
祖母は隣の部屋にいるはずだったが、物音ひとつしない。寝ているとは思えなかった。家の中の誰もが、息をひそめているような静けさだった。
そのうち、歩く音が縁側の前で止まった。
私は目を閉じた。
すぐそこに誰かが立っている気配がした。障子一枚向こうに、何かがいる。人なら息遣いがあるはずなのに、それは何の音もしなかった。ただ、いる、という重さだけがあった。
そして、声がした。
「しゅん」
今度は母の声だった。
私は唇を噛んだ。
「しゅん」
父の声になった。
次には祖母の声になった。
それから勇太、紗奈、学校の担任の先生。聞いたことのある声が、順番もなく、同じ場所から私の名前を呼んだ。どの声も、少しだけ近すぎた。人が実際に話す距離より、半歩ぶん近いところで鳴っているようだった。
私は耳を塞いだ。けれど、聞こえるものは聞こえた。
最後に聞こえたのは、自分の声だった。
「しゅん」
その声に、私は思わず目を開けた。
障子の向こうに、影がひとつあった。
人の形に見えた。子どもくらいの高さで、じっと立っている。提灯の灯りで向こうが透けるはずなのに、その部分だけ、白くも黒くもなく、ただ濃かった。
私は悲鳴を上げそうになった。
そのとき、隣の部屋で祖母が強く戸を叩いた。ばん、と大きな音だった。続けてもう一度、ばん、と鳴った。
影が少し揺れた。
祖母は何も言わず、三度目を叩いた。
すると、障子の向こうの濃さが、ゆっくりと薄れていった。歩く音はしなかった。ただ、そこにあったものが、庭の暗さに溶けるみたいに消えた。
私は朝まで眠れなかった。
––
翌朝、祖母は父に電話をかけた。
今日すぐ迎えに来てほしい、とそれだけを言っていた。父は何か聞き返していたようだが、祖母はほとんど答えなかった。昼前には来る、と言って受話器を置いた。
私は縁側の部屋に座ったまま、庭を見ていた。
晴れているのに、庭の端の土だけがところどころ濡れていた。雨なんて降っていない。けれど、夜のうちに誰かが歩いたように、湿った色が点々と続いている。
門のところで車の音がした。父が来たのだとわかった。
そのとき、私のすぐ後ろで声がした。
「しゅん」
小さな声だった。
私は全身を固くした。父の声でも、母の声でもなかった。聞いたことのない声だった。けれど、知らない人の声という感じでもなかった。前からずっと知っていたものが、初めて本当の声を出したような、変な近さだった。
私は振り向かなかった。
もう振り向いてはいけないことだけは、はっきりわかっていた。
玄関のほうで祖母が私を呼んだ。
「しゅん、はようおいで」
今度は前からだった。
私は立ち上がって、縁側の障子を開けた。外の光がまぶしくて、一瞬目がくらんだ。庭の端の濡れた土は、さっきより少しだけ増えているように見えたが、よく見なかった。
父の車に乗り込むまで、私は一度も後ろを見なかった。
村を出る橋を渡るとき、祖母が門のところに立っているのが見えた。小さくなっていく家と庭と山を、私はまっすぐ前だけ見ていた。父は何か話しかけてきたが、うまく返事ができなかった。
あの夏のことは、長いあいだ家でも話さなかった。
母が退院してからも、父は「田舎で変な話を聞かされたんだろう」と笑っていた。私は何も言い返さなかった。本当に変な話だったのかどうか、自分でもうまくわからなかったからだ。
ただ、それから何年か、後ろから名前を呼ばれると、すぐには返事ができなくなった。
大学に入って一人暮らしを始めてからは、だいぶ忘れていた。
それでも、夜中に目が覚めて、窓の外に雨でもない水の音がするときがある。そんなとき、ふっと、自分の名前を呼ばれそうな気がする。母の声でも父の声でもない、もう思い出せないはずの、あの近すぎる声で。
そのたびに、私は布団の中で目を閉じる。
振り向かなければ、まだ間に合う気がしている。




