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その土地に残る作法には、だいたい理由がある  作者: トミカ


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8/10

雨宿りの礼

山あいの集落へ入ったのは、午後三時を少し回ったころだった。


県道から一本外れただけなのに、道は急に細くなった。ガードレールの向こうはすぐ斜面で、杉林のあいだから湿った風が上がってくる。カーナビはとうに当てにならなくなっていて、私は事前に送られてきた簡単な地図と、電柱に貼られた古びた地名表示だけを頼りに、ゆっくり車を進めていた。


仕事は空き家の確認だった。


不動産会社に勤めて三年目になる。売買というより、処分前の立ち会いや現況確認を任されることが多かった。今回も、相続されたまま長く放置されている古い家を、今後どうするか決める前の下見だった。依頼主は麓の町に住む息子夫婦で、今日は現地で鍵を預かり、建物の状態を見て、簡単に写真を撮るだけでいいと聞いていた。


集落の入口にある雑貨屋兼郵便取扱所のような店で、私は車を止めた。戸を開けると、店の奥にいた年配の女が顔を上げた。名前を告げて事情を話すと、女は「ああ、下の町から来た人」と言って、壁の鍵箱からひとつ取り出した。


「奥の田代さんの家ですね。裏手の坂を上がって二軒目。大きい柿の木があるからすぐわかります」

「ありがとうございます。今日中に見て、鍵は戻したほうがいいですか」

「明日の朝でもかまいませんよ。どうせ今夜は降るし」

「降るんですか」

「山は急ですから」


女はそう言って、鍵を紙に包んで渡してきた。それから、思い出したように言った。


「この辺、軒先借りても、礼は言わないでくださいね」

「え?」

「助かりました、とか、ありがとうございます、とか」

「どうしてですか」

「言わないほうがいいからです」


それだけ言って、女は奥へ引っ込んだ。冗談なのか本気なのかも、よくわからなかった。


––


田代家は、言われたとおりすぐに見つかった。


坂道の途中、石垣の上に建つ古い木造家屋だった。庭には柿の木が一本だけ残っていて、葉の落ちた枝が、曇り空を引っかくように広がっている。門扉は傾き、軒先には枯れた蔓がからんでいた。だが、建物そのものは思っていたよりしっかりしていた。瓦も大きく崩れてはいないし、窓ガラスもまだ残っている。人が住まなくなって久しいのに、妙に形が保たれていた。


玄関の鍵は、少し力を入れたら開いた。


中はひどく静かだった。古い家特有の湿った匂いはあるが、腐ったような臭いはない。畳は波打っているものの抜け落ちてはいないし、仏壇もそのまま残っていた。台所には、最後に使ったのがいつかわからない琺瑯のやかんと、煤けた鍋がひとつ置かれている。誰もいない家のはずなのに、すべてが「少し前まで誰かいた」ような距離感で残されていた。


私は一通り写真を撮り、床の傷みや雨漏りの痕を確認した。二階は上がらないほうがよさそうだったので、階段の状態だけ見て引き返す。依頼主に送るメモをスマホに打ち込み、最後に外観を撮ろうと玄関を開けたとき、雨が落ちてきた。


最初は、ぽつ、ぽつ、という程度だった。


だが、空を見上げた次の瞬間には、葉の裏を叩く音が一斉に広がった。山の雨だった。遠くから来るのではなく、頭上でいきなり始まる。車までは少し距離がある。門を出て坂を下りるだけで、傘なしではずぶ濡れになるのがわかった。


私は仕方なく、玄関脇の深い軒の下へ寄った。


瓦の張り出しが大きく、そこだけ別の空間のように暗い。古い家の軒先は、思っていた以上に雨を防いだ。雨脚はすぐに強くなり、庭の土を叩いて白く跳ねる。柿の木の向こうも煙ったように見えた。車の屋根を打つ音だけがやけに遠い。


雑貨屋の女の言葉を思い出したが、馬鹿らしいと思った。礼を言うかどうかで何かが変わるわけがない。


十五分ほどして、雨は急に弱まった。山の向こうの空が少し明るくなり、軒から落ちる雫の間隔もまばらになる。私は足元の泥を避けながら、門のほうへ出た。


そのとき、振り返りもせずに言った。


「助かりました」


反射的な一言だった。言ったあとで、自分でも少し可笑しかった。誰もいない家に向かって礼を言うのは妙だったが、口をついて出たものは仕方がない。


ただ、最後の音だけが、軒の暗がりに置き忘れたような感じがした。


私はそのまま車へ戻った。


––


その夜は、集落の入口にある小さな宿に泊まることになっていた。


宿というより、昔の商家を改装した民宿のような建物だった。六畳の和室が三つ並び、食事は一階の広間で出る。宿の女将は一人で切り盛りしているらしく、雑貨屋にいた女がそのまま受付にも座っていた。


夕食の席で、私は昼間のことを何となく口にした。


「さっき言ってたことなんですけど。礼を言うなっていうの」

女将の箸が止まった。

「何ですか」

「田代さんの家で雨に降られて、軒先借りたんです。出るとき、つい言っちゃって」

「……どこで」

「田代さんの家です」

しばらくして、女将は小さく「あそこか」と言った。

「まずかったですか」

「この辺じゃ、黙って出るんです」

「だから、どうしてです」

「そういうもんなんです」


私はそれ以上聞かなかった。聞いても、たぶん答えない顔だった。


食事の終わり際、女将は器を下げながら言った。


「今夜、何か聞こえても開けないでください」

「何がですか」

「開けないでください」


それだけだった。


––


部屋に戻ったのは九時前だった。


廊下の突き当たりの六畳で、窓の外はすぐ裏庭になっている。雨はもう上がっていた。けれど、障子越しの空気はまだ湿っていて、山の夜特有の冷たさが残っている。私は風呂を済ませ、明日の予定を確認し、なるべく何も考えずに布団へ入った。


眠れない、というほどではなかった。


だが、明かりを消してしばらくすると、外に水の音がし始めた。


残った雫が落ちているだけかと思った。けれど、その音はやけに近かった。窓のすぐ外で、細く、長く続いている。自然に落ちる雨だれというより、濡れたものがじっとそこにある感じの音だった。


私は寝返りを打ち、枕元の時計を見た。十時半を過ぎている。


音はやまなかった。しばらくして、それとは別に、外に何かが立っているような気配が混じりはじめた。音も声もないのに、そこだけ暗がりが重くなっているのがわかる。


戸を叩かれる、と思った。


けれど、いつまで待っても、叩く音はしなかった。


ただ、水の音だけが続く。


叩かれないことのほうが、だんだん気味が悪くなった。人がいるとわかっているのに、用があるようにも見えない。ただ、そこにいる。雨が降っているときの軒下みたいに。


そのことに気づいてから、私はほとんど動けなくなった。


朝方まで、水の音は途切れたり戻ったりしながら続いていた。


––


朝、外は晴れていた。


朝食の席で、私は女将に聞いた。


「夜、裏に誰かいましたか」

「さあ」

「水の音がしてたんです」

「そうですか」

「昨日のことと関係あるんですか」

女将は少し考えるようにしてから、

「礼なんか、言わなきゃよかったのにね」

と言った。


それ以上は何も言わなかった。


宿を出るとき、玄関のたたきにだけ、細い濡れ跡が一本残っていた。誰かが濡れた裾を引いて立っていたような、まっすぐな跡だった。


私は見なかったふりをして、そのまま車に乗った。


––


山を下りて、会社に戻ったのは昼過ぎだった。


報告書をまとめ、写真データを整理し、依頼主へ連絡を入れる。仕事はいつもどおり進んだ。山の集落のことも、午後になるころには半分ほど遠のいていた。寝不足で少し頭が重いだけで、何も起きていないようにも思えた。


夕方、喫煙所へ向かった同僚が、ドアの外で「あれ?」と声を上げた。


何気なく見ると、庇の下のコンクリートだけが濡れていた。


雨は降っていない。空も明るい。なのに、入口の細い一帯だけ、誰かがしばらく立っていたように濡れている。水たまりとも違う、妙な濡れ方だった。


同僚は「掃除でもしたのかな」と言って、それで終わった。私だけが、少し息苦しくなった。


次の日の朝は、自宅の共用廊下で、同じような濡れ方を見た。私の部屋の前だけ、庇の真下の幅に合わせて、床が細く濡れていた。夜のあいだに雨は降っていない。隣の部屋の前は乾いている。


三日目の朝、玄関を開けると、濡れ跡はもっとはっきりしていた。


一直線に落ちる水の跡だった。けれど、私の部屋の上にある新しい鉄の庇では、こんな落ち方はしない。もっと低く、もっと深い、古い屋根の雨だれみたいな落ち方だった。


私は扉を半開きのまま、しばらく動けなかった。


晴れているのに、玄関の外だけ、雨の匂いがした。


誰かがそこに立って、少し前にいなくなったばかりみたいな匂いだった。濡れた土と、古い木と、冷えた瓦の匂い。山のあの家の軒の下で嗅いだ匂いと、よく似ていた。


それでも私は、何が起きているのか考えないようにした。


ただ、あのとき口にした一言が、何かひとつ余計だったのだとは思う。


今でも、雨の日に軒の下へ入るときは、なるべく何も考えない。やんでも、すぐには動かない。出るときも、黙って歩く。


なのに、ときどき晴れた朝に、玄関を開けた瞬間だけ、見上げたこともない古い屋根の影が頭の上にある気がすることがある。


そして、ドアを閉める直前、背中の外側にだけ、細い雨だれの音がしている。

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