灰を絶やすな
山の上の集落へ戻ったのは、七年ぶりだった。
祖母が亡くなったと、母から連絡があったのは三日前だった。葬儀そのものはもう済んでいて、私は仕事の都合で初七日のあとにようやく来られた。雪の時期でなかったのが、まだ救いだった。細い県道を上がり、ガードレールの頼りない山道をいくつも曲がっていくと、見慣れていたはずの景色が、少しずつ思い出されてくる。杉の黒い影、崩れかけた石垣、谷から上がってくる湿った冷気。子どものころは広く感じていた道が、大人になってみると、車一台分の幅しかなかった。
祖母の家は、集落のいちばん奥にあった。
もう空き家に近かった。祖母が一人で住まなくなってからは、母が月に一度、風を通しに来るだけだったらしい。だが、鍵を開けて中へ入った瞬間、懐かしい匂いがそのまま残っていた。古い木の匂い、少し湿った畳の匂い、それと、煤の匂いだった。
居間の真ん中には、囲炉裏が切ってある。
灰はきれいに均されていて、中央にだけ、ほんの少し盛り上がりがあった。祖母がいたころは、冬になるとここで鍋をかけ、芋を焼き、夜は灰の下に火を埋めて寝ていた。朝になると、祖母は火箸で灰をそっと掻き、奥に残った赤い火種を起こしていた。
その様子を、私はよく覚えていた。
「灰は朝まで殺しちゃだめだよ」
子どものころ、祖母はそう言っていた。
意味を聞いても、祖母は笑うだけだった。
「山のもんは、火が消えた家から入ってくる」
「熊?」
「熊ならまだいいね」
当時は脅かし文句だと思っていた。夜更かしをしているときや、囲炉裏のそばで遊んで灰を散らしたときに言われる、昔話の類だと思っていた。母も叔父も、同じことを言っていたが、理由をちゃんと説明したことはない。ただ、この集落ではどの家も、冬のあいだは灰の下に火を少しだけ残して寝るのが当たり前だった。
今になって思えば、古い暖房の知恵のようなものだったのだろう。朝の火起こしが楽だから、その習慣が残っただけだ。都会で長く暮らすうちに、私はそんなふうに考えるようになっていた。
懐かしいとは思ったが、本気で信じているわけではなかった。
––
母はその日、麓の親戚の家に泊まることになっていた。私は仕事の都合で一泊しかできず、祖母の家に一人で泊まると伝えると、母は少しだけ嫌そうな顔をした。
「じゃあ、囲炉裏の灰、いじらないでよ」
「まだ言うのかよ」
「この辺じゃ、それだけは残すもんだよ」
「もう火なんか入ってないだろ」
「入ってなくても、掻き切らないの」
その言い方が、少し気になった。
けれど、母も理由までは言わなかった。昔からそうだから、とだけ言って、仏間の花と茶碗を整え、暗くなる前に下りていった。
日が落ちると、山の夜は早かった。玄関の外はすぐに黒くなり、戸を閉めると、家の中の広さだけが妙に目立った。静かだった。風が吹くたび、板戸が小さく鳴る。時おり、遠くで沢の音がする。テレビもつけずに座っていると、自分の吐く息と、天井の古い梁がきしむ音ばかりが耳についた。
私は台所で簡単に湯を沸かし、持ってきた弁当を食べた。片づけをしてから、何となく居間に戻ると、囲炉裏の灰が目についた。中央の盛り上がりが、そのまま残っている。
祖母がいたころなら、そこに火種が埋まっていたのだろう。
私は火箸を持ち上げて、少しだけ灰をつついた。もちろん、熱はなかった。ただ、中途半端に盛り上がっているのが、妙に気になった。誰も火を使わない家で、灰だけ昔のまま残しておくのも、不潔に思えた。
結局、私は片づけの延長のつもりで、囲炉裏の灰をきれいに均した。中央の盛り上がりも崩し、底のほうまで軽く掻いて、何も残っていないのを確かめた。灰はさらさらと白くなり、囲炉裏全体が冷たく整った。
それで、妙にすっきりした。
子どものころには触らせてもらえなかった場所を、大人になった自分が、ようやくきちんと片づけたような気分だった。
その夜は、深く眠れなかった。
寒いわけではなかったのに、何度か目が覚めた。夢も見た気がする。誰かが囲炉裏の前に座っている夢だったような気もするが、起きるたびに細部はすぐ消えた。ただ、朝方に一度だけ、廊下を誰かがゆっくり歩くような音を聞いた。古い家だから、木が鳴っただけだろうと思ったが、妙に、足を引きずるような間のある音だった。
––
翌朝、起きてすぐにわかった。
家の中の空気が、何かおかしかった。
寒いのとは違う。窓の外には薄い朝日が差していて、山の稜線も明るく見えているのに、家の中だけが夜のつづきみたいに感じられた。明るい場所と暗い場所の境目が鈍く、廊下の奥が遠く見える。台所へ行くまでの距離が、昨日より長いような気さえした。
気味が悪い、というほどではない。だが、ずっと誰かに見られているような、家の中のどこかが起ききっていないような、そんな感じだった。
顔を洗おうとして、土間の手前で立ち止まった。
土の上に、細い筋がいくつもついていた。箒で掃いたようにも見えるし、指先で撫でたようにも見える。昨夜はなかったはずのものだった。猫でも入ったかと思ったが、足跡ではない。何かを引きずった跡にも見えなかった。
嫌な感じがして、私は見なかったことにした。
午前のうちに、隣の家の様子を見に行った。祖母と親しかった近所の家だ。門口で声をかけると、出てきたのは辰爺だった。子どものころから知っている、集落でもいちばん年上の男で、昔は炭焼きをしていたと聞いたことがある。
私の顔を見るなり、辰爺は「ああ」とだけ言った。祖母のことを少し話し、線香をあげると言ってくれたあと、ふいに鼻を鳴らした。
「お前んとこ、昨夜、火を殺したな」
あまりに唐突で、私は言葉を返せなかった。
「……何の話」
「灰だよ」
辰爺は私の肩越しに、祖母の家のほうを見るような目つきをした。
「誰が灰を殺した」
「別に、火なんかなかったよ。昔のまま盛ってあったから、片づけただけだ」
「そういうことじゃない」
辰爺の声は低く、責めるでもなく、ただ確認しているようだった。
「火があるないじゃない。朝まで残しとくもんを、掻き切ったかって聞いてる」
「そんな言い方されても」
「山を離れると、みんなそうなるな」
そこで初めて、私は少し腹が立った。昔の決まりを守らないだけで、何か無知なよそ者みたいに言われるのが癪だった。
「今どき、そんなの本気で言ってるのかよ」
「本気でなくていい。残しておけばいいだけだ」
「理由も言わないで」
「理由を知りたいなら、今夜わかる」
そう言うと、辰爺はそれ以上何も言わなかった。線香もあげずに家へ戻ろうとしたので、私は思わず呼び止めた。
「今夜って何だよ」
辰爺は振り返らなかった。
「戸を叩かれんなら、まだ間に合う」
その言葉だけを残して、裏へ回ってしまった。
––
昼のあいだも、家の中の感じは消えなかった。
仏壇の前に座っていても、背後の襖の向こうが気になる。茶を飲んでいても、廊下の奥に誰かが立っているような気がする。目を向けると、もちろん何もない。だが、何もないにしては、視線を外したときのほうが気配が濃くなる。
夕方、母に電話をした。辰爺に妙なことを言われた、と軽く笑い話にするつもりだったが、囲炉裏の灰を均したと伝えた瞬間、母は黙った。
「なんでそんなことしたの」
「気になったからだよ」
「だから触るなって言ったろ」
「何なんだよ、みんなして」
「今から戻せないの」
「戻すって、火なんかないのに」
「そういうことじゃないんだよ」
母の声は、辰爺と同じ言い方だった。
「昔はね、どこの家も夜は少しだけ残して寝たの。山の仕事で遅くなる人もいたし、雪で帰れないこともあった。火が見える家は、まだ人の家だったの」
「だったら、目印ってだけじゃないか」
「そう思うなら、それでいい。でも灰を掻き切ると、家の気配が切れるって言うの」
「気配?」
「夜のうちに帰ってくるものが、間違えるんだよ」
そこから先は聞きたくなかった。
私は話を打ち切り、戸締まりを見直した。玄関、勝手口、裏の板戸。どれも閉まっている。雨戸も古いが、まだ使えた。馬鹿らしいと思いながら、念のため全部を確かめた。
日が落ちるころには、外の気温が一気に下がった。山の家は音がよく通る。沢の音も、木の葉が擦れる音も、昼より近くなる。灯りをつけた居間に一人で座っていると、囲炉裏の黒い縁だけが、部屋の中央でぽっかりと口を開けているように見えた。
夜の八時を過ぎたあたりで、外を歩く音がした。
雪ではないから、足音そのものは聞こえない。だが、家の周りの落ち葉が、ざ、ざ、と小さく鳴る。縁側の下を、誰かがゆっくり回っているような音だった。止まることなく、家を一周して、また戻ってくる。
私は息を潜めた。
玄関へ行くべきか迷ったが、足が動かなかった。戸を叩かれたらどうしよう、そう思っていた。けれど、いつまで経っても、叩く音はしなかった。
ただ、歩いている。
縁側の下、勝手口の脇、裏の板戸の前。ぐるりと回るたび、音だけが少しずつ近くなる気がした。
そして、ふと気づいた。
戸を叩かれないのが、おかしかった。
外にいる何かが中へ入りたいなら、どこかで止まるはずだった。玄関の前でも、勝手口でも。けれど、それは一度も立ち止まらない。ただ家の外をなぞるように歩くだけだ。
まるで、もう入る必要がないみたいに。
その考えが浮かんだ途端、背中の皮膚が冷えた。
私はゆっくり振り返った。居間の襖は半分だけ開いていて、その先に廊下の暗がりが見えている。昼間からずっと感じていた視線が、今ははっきりとそこにあった。誰かが立っている、とは見えない。けれど、立っているとしか思えない濃さで、暗がりの形が重くなっていた。
外の音は、まだ続いていた。
家の中と外とで、同じものがいるのではないかと、そのとき思った。
帰る場所を間違えたものが、外を歩いているのではなく、帰ってきたものを、中の何かが迎えているのではないかと。
私は居間から動けなくなった。灯りの中から廊下を見つめ、廊下の奥からこちらを見ているものの気配を感じながら、夜が過ぎるのを待った。外の足音は、いつのまにか消えていた。
だが、家の中の視線だけは、朝方までなくならなかった。
––
明け方、少しだけ眠ったらしい。
目を覚ますと、障子の向こうが白んでいた。鳥の声がする。山の朝の、いつもの音だった。だが、体は重く、喉が乾いていた。ひどく長い夜を越えたはずなのに、眠った感じがしない。
居間の真ん中で、私はしばらく囲炉裏を見ていた。
昨夜のうちに、何度も目を向けた場所だった。灰は冷え切って、きれいに均されたままのはずだった。私が自分でそうしたのだから、間違いない。
けれど、今は違っていた。
囲炉裏の中央、灰のほんの一点だけが、赤かった。
火箸の先ほどの、小さな赤だった。燃え上がる気配はない。煙もない。ただ、灰の奥に埋もれるように、確かに火が残っていた。まるで、誰かが夜のあいだに灰をそっと割り、底へ火を戻して、また丁寧に埋めたみたいに。
私はしばらく、それを見つめていた。
触って確かめる気にはなれなかった。昨夜、自分が底まで掻き切ったことは覚えている。何も残っていないのを見た。赤いものなんかなかった。それなのに、今はある。
廊下のほうから、家鳴りがひとつ聞こえた。
誰かが歩いたようにも聞こえたが、振り向かなかった。
私は台所へ行き、火箸を持って戻った。囲炉裏のそばにしゃがみ、赤い一点を消さないように、そっと灰を寄せた。祖母が昔やっていたのと同じように、山をつくるようにして、火の名残を埋める。
そうしているあいだ、背中に視線を感じていた。
それが誰のものかは、考えなかった。
灰を整え終えると、囲炉裏はまた、昔からそこにあった形に戻った。中央がわずかに盛り上がり、その下に何かが残っているとわかる、あの形だった。
私はようやく息をついた。
家の中の空気は、まだ少しだけ重かった。だが、昨夜のような、どこか起ききらない暗さは薄れていた。朝の光がちゃんと廊下の奥まで届いている。仏間の襖も、昨日より近く見えた。
帰る支度をしながら、私は一度も廊下の奥を見なかった。
玄関を開ける直前、ふと居間のほうを振り返りそうになったが、それもやめた。
囲炉裏の灰の下には、また火が残っている。
それで十分だった。自分が何を家に入れ、誰がそれを外へ立たせ直したのかは、知りたくなかった。
山を下りる車の中で、母から着信が入った。私は出なかった。
バックミラーの向こうで、祖母の家の屋根が木々のあいだに見えなくなる直前、囲炉裏の煙でもないのに、白いものが細く立ち上るのが見えた気がした。朝靄だろうと思うことにした。
あの家では、今夜も灰の下に火を残すのだろう。




