二度目の鍵
転勤の辞令が出てから、あまり間を置かずに引っ越し先が決まった。会社が用意したのは、駅から歩いて十五分ほどの古い長屋だった。
地図では市街地の一角だが、実際に行ってみると、その場所だけ時間が取り残されたようだった。細い路地の奥に、低い軒の木造家屋が横に長く続いている。周囲には新しい住宅が並んでいるのに、そこだけが古いまま残っていた。
部屋は六畳が二間と台所だけ。畳と壁紙は新しかったが、柱や鴨居は使い込まれて黒ずみ、触れるとひんやりしていた。玄関の戸も古く、錠前には少し癖があった。鍵を開けるとき、一度では足りず、軽い手応えのあとにもう半回転ぶん、奥で何かを外すような感触がある。管理会社の担当は古いからねと笑っていたが、私はそのとき特に気にしなかった。
荷物を運び込んでいると、右隣の戸がわずかに開いた。
年配の女が、隙間からこちらを見ている。
「越してきたの」
短くそう言ったあと、女の視線は私の顔から外れ、玄関の錠前に落ちた。
「夜は、二度回しなさい」
それだけだった。
私が何か返す前に、戸は閉まった。
古い建物なのだから、鍵がきちんとかかるようにという意味だろうと思った。特に不思議にも思わず、そのまま片付けを続けた。
––
最初の夜、言われた通りに鍵を回した。
一度回すと軽く止まり、二度目で奥まで入る。鈍い手応えが残った。
寝る前、廊下の電気を消そうとしたとき、隣の戸口から金属音がした。
カチ、と一度。
少し間を置いて、もう一度、カチ、と鳴る。
そのあと、別の戸からも同じ音がした。
さらにもう一つ先でも。
どの部屋も、同じように二度ずつ鍵を回している。
間を置いて、当たり前のようにもう一度回す。その繰り返しが、長屋全体を順番に閉じていくようだった。
数日住んでみて、それがこの建物の決まりなのだと分かった。
誰も説明しないが、誰もが同じ手順で夜を終える。
ある夕方、隣の女と顔を合わせたとき、私は何気なく聞いてみた。
「やっぱり、二度回すんですね」
女は手に持っていた袋を持ち直しながら、こちらを見ずに言った。
「そういうもんだから」
それ以上は続かなかった。
––
問題の夜は、帰りが遅かった。
雨上がりで、路地の空気は足元に重く溜まっていた。
部屋に入り、灯りをつけ、簡単に食事を済ませる。
玄関で鍵をかける。
カチ、と一度。
そこで手が止まった。二度目を回すのが妙に億劫だった。たったそれだけのことなのに、今日はいいかと思った。内側にいるのだから同じだろうと。
そのまま布団に入ると、すぐに眠った。
どれくらい経ったのか分からない。
ふと目が覚めた。
音で起きたのではなかった。
部屋の中の空気が、少し変わっていた。
何かが減ったような、軽い感じ。
それまであったものが、ほんのわずかに抜けたような違和感だった。
暗がりの中で耳を澄ます。
遠くで水の落ちる音が一度して、それも止む。
そのあと、玄関のほうから、金属が擦れる音がした。
カチ、と鳴る。
鍵の音だった。
ゆっくり、確かめるように回される音。
私は布団の中で体を強張らせた。
自分は動いていない。玄関までの廊下は短いのに、やけに遠く感じた。
少し間を置いて、もう一度。
カチ、と鳴る。
二度目の音は重かった。
奥まで入ったときの、鈍い響きだった。
その音が止んだ瞬間、部屋の奥で何かが擦れた。
畳の上を布が引かれるような、短い音だった。
目を凝らすと、奥の襖が指一本ぶんほど開いていた。
寝る前に閉めたはずだった。
暗い隙間だけがそこにあり、その奥は見えないのに、見られているような気がした。
それ以上は何も起きなかった。
音も、気配も、やがて消えた。
いつの間にか眠っていた。
––
朝、玄関に立つ。
鍵は二度かかっていた。
戸を開けると、湿った朝の空気が流れ込んできた。
路地はいつも通りで、昨夜のことが現実から少しずれているように感じられた。
その日は何も考えずに仕事へ向かった。
夜に帰ってきたとき、隣の女と顔を合わせたが、女は私の顔より先に鍵へ目を落とした。それから何も言わずに通り過ぎた。
私はその夜、戸を閉めるとすぐに二度回した。
一度。
間を置かずに、もう一度。
二度目は、前よりわずかに重かった。
––
それから、毎晩必ず二度回すようになった。
夜中に鍵の音を聞くことはなくなったし、襖が勝手に開くこともなくなった。
朝、戸を開けるとき、私は無意識に足元を見るようになった。
最初は気のせいかと思ったが、敷居の前の濡れ方が少し違っていた。細く、線のように湿りが残っている。
何日かして、それが泥だと分かった。
路地の奥から、まっすぐ戸口に向かって伸びている。ためらいなく来て、敷居の手前で止まっている。
ほかの戸の前にも同じものがあった。
短いものもあれば、途中で消えているものもある。
誰もそれを掃かない。
一度だけ見て、そのまま跨いでいく。
私もそうするようになった。
––
夜、鍵を回すとき、二度目のほうがわずかに重い日がある。
そういう晩は、部屋の奥が少し暗く見える。
一度だけ、二度目を回した直後に、奥で畳を擦る音がした。
私は振り返らなかった。
翌朝、泥の線は敷居のすぐ前まで来ていた。
それが、入れなかったものなのか、そこまでで足りたものなのかは、まだ分からない。




