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その土地に残る作法には、だいたい理由がある  作者: トミカ


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3/12

二度目の鍵

転勤の辞令が出てから、あまり間を置かずに引っ越し先が決まった。会社が用意したのは、駅から歩いて十五分ほどの古い長屋だった。

地図では市街地の一角だが、実際に行ってみると、その場所だけ時間が取り残されたようだった。細い路地の奥に、低い軒の木造家屋が横に長く続いている。周囲には新しい住宅が並んでいるのに、そこだけが古いまま残っていた。


部屋は六畳が二間と台所だけ。畳と壁紙は新しかったが、柱や鴨居は使い込まれて黒ずみ、触れるとひんやりしていた。玄関の戸も古く、錠前には少し癖があった。鍵を開けるとき、一度では足りず、軽い手応えのあとにもう半回転ぶん、奥で何かを外すような感触がある。管理会社の担当は古いからねと笑っていたが、私はそのとき特に気にしなかった。


荷物を運び込んでいると、右隣の戸がわずかに開いた。

年配の女が、隙間からこちらを見ている。


「越してきたの」

短くそう言ったあと、女の視線は私の顔から外れ、玄関の錠前に落ちた。

「夜は、二度回しなさい」


それだけだった。

私が何か返す前に、戸は閉まった。


古い建物なのだから、鍵がきちんとかかるようにという意味だろうと思った。特に不思議にも思わず、そのまま片付けを続けた。


––


最初の夜、言われた通りに鍵を回した。

一度回すと軽く止まり、二度目で奥まで入る。鈍い手応えが残った。


寝る前、廊下の電気を消そうとしたとき、隣の戸口から金属音がした。

カチ、と一度。

少し間を置いて、もう一度、カチ、と鳴る。


そのあと、別の戸からも同じ音がした。

さらにもう一つ先でも。


どの部屋も、同じように二度ずつ鍵を回している。

間を置いて、当たり前のようにもう一度回す。その繰り返しが、長屋全体を順番に閉じていくようだった。


数日住んでみて、それがこの建物の決まりなのだと分かった。

誰も説明しないが、誰もが同じ手順で夜を終える。


ある夕方、隣の女と顔を合わせたとき、私は何気なく聞いてみた。

「やっぱり、二度回すんですね」


女は手に持っていた袋を持ち直しながら、こちらを見ずに言った。

「そういうもんだから」


それ以上は続かなかった。


––


問題の夜は、帰りが遅かった。

雨上がりで、路地の空気は足元に重く溜まっていた。


部屋に入り、灯りをつけ、簡単に食事を済ませる。

玄関で鍵をかける。


カチ、と一度。

そこで手が止まった。二度目を回すのが妙に億劫だった。たったそれだけのことなのに、今日はいいかと思った。内側にいるのだから同じだろうと。


そのまま布団に入ると、すぐに眠った。


どれくらい経ったのか分からない。

ふと目が覚めた。


音で起きたのではなかった。

部屋の中の空気が、少し変わっていた。


何かが減ったような、軽い感じ。

それまであったものが、ほんのわずかに抜けたような違和感だった。


暗がりの中で耳を澄ます。

遠くで水の落ちる音が一度して、それも止む。


そのあと、玄関のほうから、金属が擦れる音がした。


カチ、と鳴る。


鍵の音だった。

ゆっくり、確かめるように回される音。


私は布団の中で体を強張らせた。

自分は動いていない。玄関までの廊下は短いのに、やけに遠く感じた。


少し間を置いて、もう一度。

カチ、と鳴る。


二度目の音は重かった。

奥まで入ったときの、鈍い響きだった。


その音が止んだ瞬間、部屋の奥で何かが擦れた。

畳の上を布が引かれるような、短い音だった。


目を凝らすと、奥の襖が指一本ぶんほど開いていた。

寝る前に閉めたはずだった。


暗い隙間だけがそこにあり、その奥は見えないのに、見られているような気がした。


それ以上は何も起きなかった。

音も、気配も、やがて消えた。


いつの間にか眠っていた。


––


朝、玄関に立つ。

鍵は二度かかっていた。


戸を開けると、湿った朝の空気が流れ込んできた。

路地はいつも通りで、昨夜のことが現実から少しずれているように感じられた。


その日は何も考えずに仕事へ向かった。

夜に帰ってきたとき、隣の女と顔を合わせたが、女は私の顔より先に鍵へ目を落とした。それから何も言わずに通り過ぎた。


私はその夜、戸を閉めるとすぐに二度回した。

一度。

間を置かずに、もう一度。


二度目は、前よりわずかに重かった。


––


それから、毎晩必ず二度回すようになった。

夜中に鍵の音を聞くことはなくなったし、襖が勝手に開くこともなくなった。


朝、戸を開けるとき、私は無意識に足元を見るようになった。

最初は気のせいかと思ったが、敷居の前の濡れ方が少し違っていた。細く、線のように湿りが残っている。


何日かして、それが泥だと分かった。

路地の奥から、まっすぐ戸口に向かって伸びている。ためらいなく来て、敷居の手前で止まっている。


ほかの戸の前にも同じものがあった。

短いものもあれば、途中で消えているものもある。


誰もそれを掃かない。

一度だけ見て、そのまま跨いでいく。


私もそうするようになった。


––


夜、鍵を回すとき、二度目のほうがわずかに重い日がある。

そういう晩は、部屋の奥が少し暗く見える。


一度だけ、二度目を回した直後に、奥で畳を擦る音がした。

私は振り返らなかった。


翌朝、泥の線は敷居のすぐ前まで来ていた。


それが、入れなかったものなのか、そこまでで足りたものなのかは、まだ分からない。

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