置いていく山
四国の山を歩くのは初めてだった。
仕事で近くまで来る用事があり、半日空いたので、地図に載っていた古い巡礼道の一部を歩いてみることにした。
整備された道ではなく、脇道のような扱いになっているルートだ。
それでも、かつては人が行き来していたらしく、石仏や小さな祠が点々と残っている。
登り口に、小さな茶屋があった。
中には年配の男性が一人いて、古びた湯呑みを磨いていた。
水を買うと、男は私の装備を一通り見てから言った。
「布、持っとるか」
「布?」
「白い布や。手ぬぐいでもええ」
私は首を振った。
「持ってないですけど……必要なんですか?」
男は棚の奥から、畳んだ布を一枚取り出した。
「これ、持っていき。帰りは置いてくるんや」
「どこにですか?」
「山の中でな。場所は見たら分かる」
それだけだった。
「昔からそういうもんや」
私は曖昧に頷いて、布を受け取った。
––
道は細く、静かだった。
風も弱く、葉の擦れる音がほとんどしない。
足音だけが、やけに大きく聞こえる。
手に持った白い布が、妙に気になった。
軽いはずなのに、指に引っかかるような感触がある。
「場所は見たら分かる」
その言葉が、頭の中に残っていた。
––
しばらく進むと、小さな石仏が並ぶ場所に出た。
その前に、白い布がいくつも置かれている。
どれも丁寧に畳まれているが、古いものほど黒ずみ、形が崩れていた。
私は足を止めた。
ここか、と思った。
しかし、どこか違う気もした。
数は多いが、雑然としている。
置かれているというより、積み重なっているだけのようにも見える。
私は布を取り出し、しばらく見つめた。
ここで置いてしまえば楽だ。
これ以上持ち歩く理由もない。
そう思い、石の上に布を置こうとした。
そのとき、指先に違和感が走った。
布が、ほんのわずかに重くなる。
持ち上げると軽い。
置こうとすると、重い。
試すように、何度か繰り返す。
結果は同じだった。
私は布を持ち直した。
ここではない、という感覚だけが、はっきり残った。
––
さらに奥へ進むと、人影があった。
巡礼装束に近い格好の女性だった。
「その布、もらいました?」
唐突にそう聞かれた。
「ええ、下の茶屋で」
女性は小さく頷いた。
「そこじゃないですよ」
私が何も言わないうちに、そう続けた。
「さっきの石仏のところ、置こうとしました?」
「……はい」
「だめです。あそこは違います」
理由は説明しなかった。
「もう少し下です。下りに入ってから」
それだけ言って、女性はそれ以上話さなかった。
––
やがて、下りに差し掛かった。
その頃には、布の感触が変わっていた。
わずかに重い。
濡れてはいないのに、水を含んだような質量がある。
腕にじわりと負担がかかる。
道はさらに静かになり、音が吸われるようだった。
ふと、誰かの足音のようなものが、背後に重なる気がした。
振り返ると、誰もいない。
それでも、歩き出すとまた重なる。
布を握る手に、冷たい感触が伝わる。
––
耳元で、何かが擦れるような音がした。
言葉ではない。
布の内側から、息のようなものが漏れている気がした。
私は立ち止まった。
そのとき、前方の木の間に、白いものが見えた。
布だった。
一枚だけ、低い枝に掛けられている。
他には何もない。
石も、祠もない。
ただ、その一枚だけが、そこにあった。
なぜか、ここだと思った。
––
私は近づき、自分の布を取り出した。
手の中で、重さがはっきりと増す。
中に何かが移ったような、確かな変化。
指がわずかに引きつる。
それでも、枝に掛けた。
触れていた重さが、ふっと消えた。
同時に、周囲の気配が引く。
背後にあったはずの足音も、消えていた。
––
布は、風もないのに、わずかに揺れていた。
その隣に掛けられていた古い布の一枚が、ふと目に入る。
裏側に、薄い跡があった。
手のひらのような形。
それがいくつも重なって、染みのようになっている。
私は目を逸らし、その場を離れた。
––
茶屋に戻ると、男が同じように湯呑みを磨いていた。
「置いてきたか」
「ええ」
「場所、分かったやろ」
私は頷いた。
どうして分かったのか、自分でも説明できなかった。
男はそれ以上何も聞かなかった。
––
帰りの道で、何度か振り返りそうになった。
あの枝に掛けた布のことが、頭から離れなかった。
あれは、本当に「置いてきた」のだろうか。
それとも、何かを「受け取らせた」のか。
あの重さが、どこから来て、どこへ行ったのか。
答えは出ないまま、山だけが静かに残っていた




