案山子の数
伯父の田を見に行ったのは、九月の終わりだった。
稲刈りには少し早いが、青さの抜けた穂が重たく垂れはじめるころで、田の色はもう真夏の明るさではなかった。風が吹くたび、穂先がいっせいに白っぽく裏返って、遠くから見ると水のない田に波だけが立つように見えた。
伯父が死んだのは、その年の春だった。妻も子もいなかったので、土地と家は兄弟にあたる私の父へ話が回り、その確認に私が来ることになった。処分するにしても、貸すにしても、まず現地を見ておけ、と父は言った。私は子どものころ、この村に来たことがある。だが、覚えているのは夏の川と、夜になるとやけに暗かったことくらいで、伯父の家も田も、今ではほとんど初めて見るのと変わらなかった。
村は、山の裾にへばりつくようにあった。
県道から枝分かれした細い道が、田と畑のあいだを蛇のように曲がり、その先に家が十数軒ほどまとまっている。屋根の黒い家ばかりで、夕方になると影のほうが先に村へ入ってくる。電柱はあるが、線が山の木々に半分呑まれていて、町より空が低い気がした。
私は村の入口に近い雑貨屋で、伯父の家の鍵を預かった。店番をしていたのは、父と同じくらいの年の女だった。父の名を告げると、すぐに事情を察したように鍵を出し、「今日は泊まるの」と聞いた。そうだと答えると、「暗くなる前に田だけ見たほうがいいよ」と言った。
「家はあとでも見られるけど、田は日が落ちるとわからなくなるから」
「そうします」
「案山子がまだ立ってるはずだから」
そこで一度、女は黙った。
何か続けるつもりで、やめたような間だった。私は鍵を受け取りながら、「案山子?」と聞き返した。女は店先の田のほうを見てから、あまりこちらを見ずに言った。
「夕方は、数だけ取らないこと」
「数?」
「案山子の本数」
「なんでです」
「暮れかけの田で、人型を数えるもんじゃないの」
口調は軽かったが、冗談とも言い切れなかった。私は曖昧に笑い、「気をつけます」とだけ答えた。女はそれ以上、何も言わなかった。
––
伯父の家は、村の奥の少し高くなったところにあった。
瓦の低い平屋で、家の前から田が三枚続いている。そのさらに向こうには用水路があり、その先はもう斜面だった。草刈りはされているが、人が住まなくなって半年以上経っている家は、遠目にもどこか薄く見えた。縁側のガラスに空の色が映っているせいかもしれないし、板壁の煤けた色が、影と区別しにくいせいかもしれない。
家へ荷物だけ置いて、私はすぐ田のほうへ下りた。
用水の音が近かった。村の田は一枚ごとが小さく、細い畦で区切られている。伯父の田は三枚ともほぼ長方形で、そのうち奥の二枚に案山子が立っていた。最初に見たときは、四本だと思った。畦の端に二本、中央に一本、奥の斜面寄りに一本。どれも古い服を着せた、ごくありふれた案山子だった。
ただ、伯父らしいと思ったのは、服が妙にきれいなことだった。
農家の案山子は、もっとぼろ布を巻いてあるものだと思っていたが、ここのはどれも、ちゃんと袖のあるシャツや古い上着を着せていた。笠までかぶっているものもある。近くで見れば雑な作りなのかもしれないが、少なくとも離れて見るぶんには、人が立っているのと大して変わらない。
私は畦に立って、一枚ずつ見て回った。
土の柔らかさや、水の入り具合、畦の崩れをざっと確認する。知識があるわけではないが、写真を撮って送れば父にもわかるだろうと思った。途中で二度、村のほうから軽トラックの音がしたが、姿は見えなかった。風が吹くたび、案山子の袖がぱた、と鳴る。田の案山子というものを、私はあまりじっくり見たことがなかったが、近くに立つと、どれも思っていたより背が高かった。
中央にある一本のところまで行ったとき、ふと、さっき雑貨屋で言われたことを思い出した。
数だけ取るな。
どういう意味だろうと思いながら、私は何気なく田を見渡した。四本。そう見えた。もう一度、目で追う。畦の端に二本、中央に一本、奥に――そこで、一瞬迷った。
奥に二本、いるように見えた。
最初からそうだったかと思い返したが、自信がない。斜面寄りの笠をかぶった一本の、すぐ左に、もう一本、背の低いものが立っているように見える。布の色が穂と同じくすんだ黄土色なので、見落としていただけかもしれない。
私は目を細めた。
夕方の光は、ものの輪郭を一定にしない。西へ傾いた陽が斜めから当たるせいで、穂の影も畦の段差も、みな細く伸びている。その中で、奥の一本だけ、影の付き方が変だった。笠の影が胸まで落ちているはずなのに、顔の位置が見えない。顔どころか、首のあたりだけが白い布で平たく巻かれているように見える。
私はその場で数え直した。
一、二、三、四、五。
五本、だった。
何となく嫌な感じがして、すぐにもう一度数える。
今度は四本だった。
私は思わず息を止めた。見間違いだと自分に言い聞かせようとしたが、数え直す指先が少し震えた。風で服が重なったのかもしれない。稲のあいだから別の棒が見えただけかもしれない。そう思っても、いま確かに、五本あるように見えたことは消えなかった。
そのとき、背後から声がした。
「夕方は見るなって言われなかったかい」
振り向くと、隣田の畦に老人が立っていた。いつの間に来たのかわからなかった。浅黒い顔に、汗で濡れた手ぬぐいを首へ巻いている。私が伯父の甥だと名乗ると、老人は「ああ」とだけ言い、田のほうを見ないまま近づいてきた。
「案山子、まだ立ててるんだな」
「はい。四本……いや、五本かと思って」
「数えたのかい」
「いや、なんとなく」
「なんとなくでも数えるもんじゃない」
老人は田を見なかった。まるで見たくないものを避けるみたいに、視線は私の足元か、畦の草のほうばかり向いていた。
「何かあるんですか」
「あるないじゃないんだ」
「でも、今ちょっと数が」
「暮れの田はそういうもんだ」
雑貨屋の女と同じ言い方だった。
老人はそこで話を切り、用水路のほうへ下りていった。私は一人、畦に残された。風がまた吹いて、案山子の袖が鳴る。もう田を見るのをやめようと思ったのに、逆に気になって仕方がなくなった。
いま、どれが違ったのか。
私は奥の二枚だけを見た。畦の端の二本はわかりやすい。中央の一本も、古い青いシャツを着ているのですぐわかる。問題は、一番奥だ。笠をかぶった一本の近くに、たしかにもう一つ、人の肩のような線があった気がした。
そのとき、風が止んだ。
田の穂がぴたりと静まったのに、奥の一本だけがまだ揺れていた。
揺れている、というより、細かく震えていた。笠の下から垂れた白い布だけが、風の残りみたいにひくひくと動いている。左右にではなく、縦に、痙攣するみたいに。上から見えない糸で引かれているような、細かな震え方だった。
私はその場から動けなくなった。
奥のものは、案山子にしては少し背が高かった。腕木に通したはずの袖の下から、さらに細いものが左右に一本ずつ垂れているように見える。藁の端がこぼれているだけかと思ったが、その細いものは先だけが妙に重そうで、ぶらんと垂れていた。人の腕なら肘にあたるあたりで、一度不自然に曲がって見えた。
笠の下の白さもおかしかった。
布を巻いた顔なら、布目が見えるはずだった。だがあれは、布ではなく、平たく乾いた皮膚みたいだった。表面に縦のひびが何本も入っていて、そのひびの間だけが少し青い。夕日の色ではなかった。濡れた魚の腹みたいに、光のない青さだった。
私はたまらず、スマホを取り出した。
自分でも、そこでやめればよかったと思う。けれど、裸眼で曖昧なまま見続けるほうが怖かった。拡大して、ただのぼろ布だと確かめたかった。
画面越しに奥を捉える。手ぶれで輪郭が滲み、最初はただの案山子にしか見えない。笠、白い顔当て、茶色い上着。だが、少しピントが合った瞬間、私は喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。
顔だと思っていた白いものが、顔の位置についていなかった。
笠の下にあるはずのそれは、胸のあたりに張りついていた。首の上は空ではないが、頭らしい丸みもなく、ただ黒い影があるだけだ。胸についている白いものは布ではなく、薄く伸ばした皮のように平たく、左右に引っ張られていた。乾いた表面に、縦に裂けた筋が何本も走っている。その裂け目の内側は黒ではなく、ぬれた青黒さで、よく見ると、その裂け目のいくつかが細かく開閉していた。
呼吸みたいに。
私は指を離しかけたが、離せなかった。
袖の下から出ていた細いものも、藁ではなかった。腕木に見えた横棒より下に、もう一本ずつ、細い腕のようなものがぶら下がっていた。骨ばっているのに、骨ではなく、濡れた竹のように節があり、その先にあるのは藁束ではなく、色のない手だった。五本の指があったが、どれも人の指より長く、節が二つではなく三つあるように見えた。しかもその手は、だらりと下がっているだけでなく、穂の先を撫でるように少しずつ動いていた。
そこで、ふと気づいた。
足元に杭がない。
案山子なら、土へ打ち込んだ杭に服を着せてあるはずだ。けれど画面の中のそれは、裾から下が影に沈んでいて、土との境目が見えなかった。見えないだけならいい。だが、風がないのに、上半身と白い顔だけがゆっくりこちらへ向きつつあるように見えた。足元が動かず、上だけが遅れて回るのではない。むしろ、立ったままのものをこちらが見ているうちに、「もともとこちらを向いていた角度」を思い出していくような気味の悪さだった。
私は画面を下げた。
裸眼では、もうただの案山子には戻らなかった。
笠の下の暗がりは顔の影ではなく、頭のない空洞に見えた。その空洞の下に、平たい白い皮が貼りついている。風がまた吹くと、その白いものの裂け目がいっせいに薄く開き、青黒い奥が見えた。口ではない。目でもない。どれともつかない湿った穴が縦に何本も並んでいるだけだった。
私は一歩、畦を踏み外しかけた。
その瞬間、遠くで軽トラックのクラクションが鳴った。短く、二度。
目を向けると、田の向こうの道にさっきの老人が立っていた。こちらへ来いというように手を振っている。私はそこでようやく身体が動き、田から離れた。老人のところまで行くあいだ、一度も振り返らなかった。
「見たのか」
と老人は聞いた。
私は答えられなかった。
「見たんだな」
それだけ言って、老人は軽トラックの荷台に積んでいた何かを直しはじめた。もう私のほうも田のほうも見なかった。
「何なんですか、あれ」
「数えたろ」
「数えたら何なんです」
「だから数えるなって言うんだ」
結局、それ以上の説明はなかった。
––
伯父の家へ戻るころには、日が落ちきっていた。
山の村は、暗くなりはじめると早い。西の端に残っていた橙の色が消えると、田も畦もすぐに同じ黒さへ沈んだ。家の中はまだ電気がついたが、窓の外に見える田は、もう何も形がわからなかった。
私は夕飯代わりに持ってきたパンを食べ、風呂も使わずに、居間でぼんやり座っていた。古い柱時計が三十分ごとに乾いた音を立てる。ときどき、外で稲の擦れるような音がする。風かと思えば、次には止む。そのたび、畦に立っていたあれの白い面が頭へ浮かんだ。
夜の九時を過ぎたころ、戸を叩く音がした。
びくりとして玄関へ行くと、雑貨屋の女が立っていた。懐中電灯を持ち、表情の薄い顔をしていた。
「見たの」
と、いきなり言った。
私は少し迷ってから、「何か変なのが」と答えた。
女はため息をついた。
「だから数えるなって言ったのに」
「何なんですか」
「何だっていいでしょう」
「よくないですよ」
「見た人にしか、見え方がないから」
その言い方は、突き放しているようでいて、半分は本当に説明できないものに向ける言い方だった。
女は玄関へ上がろうともせず、そこから田のほうを見た。真っ暗で、何も見えないはずだった。
「今夜は雨戸、きっちり閉めて。朝まで開けないこと」
「見たらどうなるんです」
「増えるかもしれないし、減るかもしれない」
私は返す言葉を失った。
「伯父さん、毎年立て直してたからね」
と女は言った。
「何を」
「案山子だよ」
そこではじめて、私は少し違う怖さを覚えた。伯父は生きているあいだ、毎年あの田に立って、案山子を作っていたのだ。その中に何本、田へ立てたものではないものが混じっていたのか。あるいは、混じる前提で、数を合わせるように立てていたのか。
女はそれ以上話さず、懐中電灯の明かりを下へ向けて帰っていった。
私は言われたとおり、雨戸を閉めた。縁側、居間、仏間。すべて閉めても、田の気配が消えた気はしなかった。家のすぐ前に三枚の田がある以上、完全に背中を向けることはできない。見ていないだけで、あそこに立っているものは立ったままだと知ってしまったからだ。
床に入っても、なかなか眠れなかった。
深夜、何度か目を覚ました。風はないのに、布が擦れるような音が聞こえた気がした。服の袖が、乾いた穂を撫でるような音だった。夢か現実かはわからない。ただ一度だけ、家の前の砂利を踏む音がしたように思った。重くも軽くもない、引きずるでもなく、ただ濡れた布を持って歩くような音だった。
私は布団の中で目を閉じたまま、朝を待った。
––
翌朝は、よく晴れていた。
夜のことがすべて気のせいだったような明るさで、山の輪郭も、田の畦も、くっきり見えた。私は少し躊躇したが、それでも田へ下りた。見ないまま帰るほうが、かえって気味が悪かったからだ。
朝の田には、案山子が四本立っていた。
最初に見た数と同じだった。
畦の端に二本、中央に一本、奥に一本。どれもただの案山子に見えた。青いシャツ、茶色い上着、笠、白い布。昨夕、画面越しに見たような細い腕も、胸についた顔も、どこにもなかった。私は呆然として、しばらくその場へ立ち尽くした。
見間違いだったのか、と思いかけた。
けれど、一番奥の一本だけ、着物のような古い柄布を腰に巻いていた。薄い茶に、小さな白い花が散っている柄だった。昨夕は暗くてそこまで見えていなかったが、その柄には覚えがあった。伯父の家の納戸で見たことのある、古い女物の単衣の柄に似ていた。
嫌な予感がして、私は家へ戻った。
納戸を開けると、薄暗い中に衣装箱が三つ積んであった。いちばん上を開けると、虫食いの匂いと古い布の匂いが立つ。中には伯父の母、つまり私の祖母の着物がいくつか入っていた。その一番上の一枚が、裾から斜めに裂けていた。裂けた端に残っている柄は、田の奥の案山子が腰に巻いていたものと同じ花だった。
私は衣装箱の前で、しばらく動けなかった。
昨夕見たものが、本当にあの田に立っていたのか、それとも最初から家の中にあったものを見間違えただけなのか、急にわからなくなった。ただ、伯父が毎年案山子を立て直していたという話だけが、重く残った。
田に立てるために裂いたのか。
それとも、立っていたものに着せるために裂いたのか。
そこまでは考えたくなかった。
––
昼前、私は雑貨屋へ鍵を返しに行った。
店の女は何も聞かなかった。私も何も言わなかった。ただ、鍵を受け取るときに、女がふと店先の道の先を見て、小さく眉を寄せた。その視線を追うと、村の入口近くの空き地に、一本だけ新しい案山子が立っていた。
そこに昨日、案山子なんかなかったことは、はっきり覚えている。
背は高くない。古いシャツを着て、笠をかぶっている。ありふれた案山子にしか見えない。けれど、ほかと違うのは立っている向きだった。田のほうではなく、道のほうを向いていた。もっと言えば、村の外へ出ていく道を、そのまま見送るような向きだった。
笠の影で顔は見えない。
ただ、首のあたりに巻かれた白い布だけが、昼の光の中でも妙に平たく白かった。風が吹いたのに、ほかの洗濯物や草は揺れて、その白さだけが遅れて、細かく震えた。
私はすぐ目をそらした。
「見ないほうがいいよ」
と、女が言った。
私は何も答えなかった。
村を出る道を車で下りながら、私は一度だけバックミラーを見そうになった。そこに何本立っているか、確かめたくなる気持ちがまだ残っていたからだ。けれど見なかった。見れば、四本か五本か、それとももっと別の数に見えるのだろうと思った。
それ以来、夕方の田に立つものを、私は数えない。
町へ戻ってからも、秋になると、郊外の田に案山子が立つのを見かけることがある。どれもただの棒と古着のはずなのに、日が傾いて輪郭が薄くなると、胸のあたりの白さだけが先に目へ入る。そうなる前に、私は視線を切る。
あの村で見たものが、田に立てた案山子だったのか、それとも数えた数へあとから入ってきたものだったのか、今でもわからない。
ただ、もしもう一度あの田へ行くことがあっても、暮れかけにだけは近づかない。
そして、どうしても通らなくてはならないときでも、立っている人型の本数だけは、最後まで確かめないつもりでいる。




