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その土地に残る作法には、だいたい理由がある  作者: トミカ


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帳簿の名残

祖母の家の土間の奥には、使っていない小部屋があった。三畳ほどの狭い部屋で、煤けた板戸がついていて、家の者はそこを「帳場」と呼んでいた。


私は子どものころから、あそこに入るなと言われて育った。理由を聞いても、祖母はいつも曖昧だった。


「あそこは、名前の残る場所だから」


意味はよく分からなかったが、祖母が本気で言っていることだけは分かった。


梅雨の長い年だった。夜になると畳まで湿気を吸って、家じゅうが少しずつ重たくなる。雨戸を閉めて回っていたとき、土間の奥の帳場の戸が、指一本ぶんだけ開いているのに気づいた。


普段は祖母がきっちり閉めている。気になって、私はそっと近づいた。


中は暗かった。ただ、机の上に細長い紙が何枚か並んでいるのだけは見えた。短冊のような紙だった。そのうちの一枚だけが、暗がりの中でやけに白く見えた。


そのとき、後ろから肩をつかまれた。


「閉めとけ」


祖母だった。


「見たの」


「……少しだけ」


祖母はしばらく私の顔を見ていたが、それ以上は何も言わず、戸を閉めた。


「今夜は早く寝ろ」


それだけ言って、祖母は帳場のことには触れなかった。



その夜、ガラスの鳴る音で目が覚めた。


かすかに、きゅ、きゅ、と鳴っていた。風で鳴る音にも似ていたが、一定すぎた。雨でもなさそうだった。


隣を見ると、祖母が同じ部屋で寝ていた。背を向けて横になっていたが、起きているのか寝ているのか分からなかった。


音は止まない。耳を澄ますと、家の外のどこか、窓ガラスのあたりで鳴っているようだった。


そのうち、声がした。


「――ゆうすけ」


私の名前だった。


喉が勝手に返事をしそうになる。そのとき、隣で寝ていた祖母が、わざとらしく大きく咳をした。


音が止んだ。


部屋はまた、雨の夜のしんとした暗さに戻った。私は朝までほとんど眠れなかった。



朝になって昨夜のことを話すと、祖母は味噌汁をよそいながら言った。


「夜の外の声なんぞ拾うな」


「でも、名前を呼ばれて」


祖母は少し黙って、それから言った。


「今夜から、呼ばれても返事するな」


それ以上は話さなかった。


その日、祖母はいつもより早く雨戸を閉めた。晩飯のあとも、やけに家の戸締まりを気にしていた。私は気になって何度か帳場のことを聞こうとしたが、祖母は答えなかった。


寝る前になって、祖母は急に言った。


「おまえ、小さいころ何て呼ばれてたか覚えてるか」


「え?」


「家の中だけで呼ぶやつだ」


私はしばらく考えてから、幼いころにだけ祖母が使っていた呼び名を口にした。今ではもう何年も聞いていない名だった。


祖母は一度だけうなずいた。


「よし。今夜はそれを忘れるな」


意味は分からなかった。



夜中、またガラスの音で目が覚めた。


昨夜より近かった。同じ部屋のどこかで鳴っているように思えるほどだった。


きゅ、きゅ、と鳴って、少し止む。それからまた鳴る。


祖母はもう起きていた。布団の中で目を開けたまま、天井を見ていた。


私は小声で言った。


「まただ」


祖母はうなずいたが、こちらを見なかった。


そのとき、外から声がした。


「――ゆうすけ」


祖母がすぐに言った。


「返すな」


声は昨夜と同じだった。男とも女ともつかない、妙に平たい声だった。


少し間をおいて、また呼ぶ。


「――ゆうすけ」


祖母が布団の中から手を伸ばし、私の手首をつかんだ。冷たい手だった。


「思え」


「何を」


「さっきの名をだ。今夜はそれだと思え」


私は意味も分からず、昼に言われた幼いころの呼び名を頭の中で繰り返した。


外では、また私の今の名前が呼ばれた。そのたびに、祖母は低い声で、昔の呼び名を口にした。私にも、声に出さずそれを思えと言うように、手首を強く握っていた。


不思議なことに、しばらくすると外の気配が少し遠のいた。完全にいなくなったわけではない。だが、さっきまで窓のすぐそばにあったものが、家の外周をゆっくり回り始めたような感じになった。


そのあいだも、ガラスの音だけは時々鳴った。



明け方近く、音がやんだ。


祖母はすぐには起き上がらなかった。鶏の声が遠くで聞こえるまで、じっとしていた。


やがて祖母は起きて、まず雨戸を細く開け、外を見た。それから土間へ行き、帳場の戸の前でしばらく立ち止まった。


私は後ろからついて行った。


「開けるの」


祖母は返事をしなかった。ゆっくり戸を開けた。


中は昨日と同じ、暗い小部屋だった。机の上には細長い紙が何枚も並んでいた。そして、その手前に、新しい短冊が一枚だけ増えていた。


そこに書かれていたのは、私の今の名前だった。


思わず声が出かかった。祖母が後ろ手で私を制した。


しばらく見ていると、その紙の端がわずかに湿って反り返っているのが分かった。墨も、他の紙より新しかった。


祖母は中へ入らなかった。ただ戸口から見たまま、ぽつりと言った。


「やっぱり来たか」


「どうするの」


祖母はしばらく黙っていた。


「どうもしねえ」


「でも、名前が」


「触るな」


言い方が強かった。私は口をつぐんだ。


祖母は戸を閉めた。それで終わりのようだった。



その日から、祖母は家の中で私を今の名前で呼ばなくなった。もともと滅多に呼んではいなかったが、それが徹底した。呼ぶときは、あの幼いころの名か、もっと曖昧な言い方しかしなかった。


私も、夜になると自分の今の名前を口にするのが何となく嫌になった。


それから何度か、梅雨どきの夜に、あのガラスの音を聞いた。毎回、祖母は同じことしかしなかった。起き上がりもせず、騒ぎもせず、ただ私の手首をつかんで、昔の呼び名を思い出させるだけだった。


帳場を壊そうともしなかったし、紙を捨てようともしなかった。見ない。触らない。朝までやり過ごす。祖母がしていたのは、それだけだった。



祖母が亡くなってから、家は空いたままだ。片づけのために何度か入ったが、土間の奥の帳場だけは、どうしても最後まで手をつけられずにいる。


あの板戸は、今でもちゃんと閉まっている。開けようと思えば開けられる。鍵もかかっていない。それなのに、前に立つと、祖母の「触るな」という声だけが妙にはっきり思い出される。


一度だけ、昼間に戸を開けたことがある。


机の上には、あの細長い紙が並んでいた。古いものばかりで、墨も褪せていた。けれど手前の一枚だけは、紙の白さがまだ新しかった。


自分の名前だった。


見間違いかと思って、もう一度見た。やはりそう読めた。


ただ、その下にもう一枚、半分だけ隠れるように紙がのぞいていた。湿気で少し反っていて、端しか見えなかった。そこにも何か名前が書いてあったが、最後の二文字しか読めなかった。


その呼び方を知っているのは、祖母だけだったはずだと思う。


気がつくと、私は戸を閉めていた。それ以来、二度と開けていない。


今でも梅雨に入るころ、夜中にふと目が覚めることがある。ガラスが、きゅ、と小さく鳴った気がして。


そういう夜は、しばらく自分の名前を思い出さないようにしている。


それがいいのか悪いのかも、もう分からない。


ただ、帳場の机のいちばん手前にある紙が、あれから増えたのかどうかだけは、まだ見ていないです。

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