第四話 うさぎ
大公は暗闇の中を引き寄せられるように落ちていた。
その先は大公の内なるイドだ。
先祖返りとしてイドを持つ大公であったが、それも漠然と器に満たされるイドを感じ取る程度だった。
それが今、はっきりとイドの在りかに向かっている。
一面が黒い世界。
暗いわけではない、視界は開けているのだが全てが黒いのだ。
自分の姿はっきりと見えるのに空間の果ては闇の中だ。
落下を続ける大公は闇に走馬灯を見ていた。
辺境で絵本作家を志していた青年。
その広大な地には祝福をもたらす獣が駆けまわっていた。
青年の絵本は子どもたちに人気を博した。
だがしかし、神々の謀略によって獣が狩られてしまう。
最初の変化は農作物の収穫量だった。
不作の年が増え、食糧難が起きた。
やがて出生率が落ち、老人が病で倒れだす。
青年は文官となった。
子どもたちに必要なのは絵本ではなく食べるものだった。
その奔走も虚しく辺境の平均寿命は30歳程度までに短くなっていた。
対応に忙殺されていた青年は、やがて宰相の地位に付き民を導いた。
青年は辺境の平均寿命を大きく超えてていた。そして青年は己のイドに気付く。
彼はペンを捨て、剣を手にした。
最盛期を過ぎ引退した一国の宰相が、一兵卒として軍に入隊した。
酔狂と嘲笑されながら人の一生分以上の時間をかけてイドを拡張しつづけた。
剣を捨て拳を振るうようになり、狂った獣のように闘いに明け暮れる日々を送った。
広大な辺境を徒で周り、己に従わないものは全て叩きのめした。
村や町、城塞都市や王城。
来訪の目的を問われれば征服と応えその中枢へ向かう。
邪魔をするものを打倒し、疲れたなら最も近い玉座で身を休めた。
幾日も繰り返すと、やがて眠りを妨げる者が居なくなり衛兵の槍は彼ではなく、彼の眠りを妨げる者に向けられるようになる。
彼は玉座を捨て、次の国へと向かう。
さらに月日は流れる。
荒野に陣を組むのは、彼が鍛え上げた軍勢だ。
それを見下ろす彼の後方には、ひざを折り家臣の礼を取る者たち。
彼等は皆一様に王冠を戴いていた。
荒れた辺境の地でよくぞここまでの兵を集めてくれた。
大公となった彼は王達を労う。
彼らの表情は一様に誇らしく満足気であった。
貧しい辺境でこの大軍勢による人界への行軍など不可能だ。
今日。
この軍勢は今日一日のためだけに鍛え上げられ集められた。
では、存分に戦おう。
お前たちの来世では必ず、この地が豊かであることを約束しよう。
大公は眼下の軍勢に対して鬨の声を上げた。
軍勢が応える。
大公はその全てを打倒し、辺境を後にした。
やがてイドの底とおぼしき所までたどり着くと、そこに器があった。
器は巨大で分厚いガラス製で、今はなみなみと赤黒い液体で満たされていた。
大公はその液体こそがイドだと感じた。
闘争によってこの器はイドで満たされる。
器の中から湧き出すのだ。
器いっぱいまで満たされると溢れる前に器そのものがジワジワと大きくなる。
それは本当に僅かな事で、ここまで大きな器にするために大公は長い年月をかけてきた。
しかし、このイドを力として使うことは勿論、放っておくと勝手に霧散して消えてしまう。
枯れた場合の渇望たるや、それはそれは苦しいもので現に大公が倒れたのはこのイドの枯渇からだった。辺境の地での最後の闘争以来、些細な闘争で器を満たす事は彼の地で散った彼らを冒涜しているように感じていた。
それでも枯渇により器の大きさが縮むことは無いので、また満たせばより多くのイドを貯めることが出来る。
その脇には扉があった。
壁はない、ただ扉だけが立っている。
あからさまな異物。
しかし、大公はその扉を開ける事に躊躇をしなかった。
扉の向こうから、子供の泣き声がしていたからだった。
開いた扉の僅かな隙間から水が流れ込んできた。
構わず開け放てば扉の向こうは一面を水が覆っていた。
くるぶし程の深さの湖から、こちらへ水が流れ込んでくる。
水と同じ赤黒い霧が辺りを包み込む。
霧の中、映し出されたのは少女の走馬灯だった。
移民の子だった。
母もまた移民の子だ。
父は聖職者だったと聞いた。
どういう訳か生まれたときに角の入れ墨は施されなかった。
聖職者が一族に迎え入れる為だったのか、あるいは隠したかっただけなのか。
鐘の鳴る教区での生活は辛いものだった。
大人はこの街に奴隷は居ないという。
では自分たち母子は何だろう。
助けと成ったのは皮肉にも女神への祈りだった。
祈りを捧げると、酷いことをされなくなった。
聖徒の住民はみな敬虔な信徒だからなのだろう。
祈っていれば殴られることは無くなった。
だから、吐くほど祈った。
やがて、暴力はべつのモノに変わる。
男たちからの視線が変わった。
優しい言葉をかけてくる者もいた。
怖かった。
だから祈った。
あるとき、どこかの司教の三男から妻になれと言われた。
神殿騎士に攫われどこかの屋敷に妻として閉じ込められた。
祈った。
祈りが通じたのか、数日後には父親である司教がやってきた。
司教は娘を見るとなるほどと言ったが、お前を息子の妻にはしておけないと言った。
聖徒ではその教義によって離婚は出来ない。
夫婦の愛は永遠のものと女神に誓っているからだ。
だから、自分の意思で修道院へ行けと言われた。
感謝のために祈った、吐いた。
祈りの際にはバケツが欠かせなかった。
その吐瀉物は赤黒かったが、赤い霧の走馬灯だったので大公には分からなかった。
「閉めて」
扉の向こう、赤黒い湖にたたずむ幼子が大公に言った。
大公は扉を閉める。
「出て行って、私のことが嫌いなのでしょ?」
大公は中に入ってから扉を締めてしまった。
そして、幼子の傍らで濡れる事に構わず片膝をついた。
「私は君を嫌ったりはしないよ」
なぜなら黒髪の幼子のその頭には角が生えて、彼は大公だから。
「どうして泣いていたんだい?」
幼子は手に持っていた小さなコップを天に掲げた。
それはヒビが入っており所々欠けていた。
「喉が渇いたの」
幼子が持っているその小さなコップは淫魔のイドの器だった。
喉の乾き、根源への渇望、イドの渇望か?
しかし、ここはイドで満ち満ちている。
大公はイドを手ですくって見せた。
「それは、飲めないの。溺れちゃうから」
幼子が再び天を仰ぎ見ると、やがて雨が降り出した。
大公は驚いた。
あの小さなコップからどうやってこれほどのイドを満たせるのかと考えていたが、まさか降り注ぐとは思いもしなかった。
幼子は降りしきる雨のかなただ天を見つめる。
幼子の持つ小さな割れたコップの底には僅かにイドが溜まっていた。
幼子はそれを半分だけ飲んでから大公を見つめた。
「私の喉は渇いていないよ」
残りを飲もうした幼子がふらつく。
疲れているのか眠たいのか。
「休んだらどうだい?」
「こんなところで休んだら溺れちゃう」
大公はしばし考えを巡らせた。
「抱っこしてあげるから休んでいいよ」
大公が手を伸ばすが、幼子は動かなかった。
そこで大公は。
「それ!」
「あっ」
強引に幼子を抱え上げてしまった。
イドの雨が止む。
「もうこれで眠っても溺れることはないよ」
最初は驚いていた幼子だったが、眠気に勝てず大公にしがみつく為に邪魔なコップを大公に差し出した。
「これは大事なものだから、もっていなさい」
しかし、無理矢理に大公に押し付けるとやがて幼子は寝息をたてはじめた。
大公は改めて周囲を見渡す。
赤黒い水平線と黒い空だけが広がる世界。
割れたコップで足元のイドを汲み取ってみる。
ほとんどこぼれてしまった。
大公はイドを操りコップの穴を塞いだ。
軽くて丈夫にし、取っ手は子供用に二個つけた。
動物をあしらい見た目も少しばかり子供らしくした。
良い出来だと思った。
再びイドを操り今度は椅子とテーブルを作ると、幼子を椅子に座らせ、テーブルには小さなコップを乗せる。
同じ動物をあしらった傘も添えた。
さて、用意は出来た。
「いや、覚悟と言うべきか」
自嘲しながら大公は扉を開ける。
隙間から大公の器の周りにイドが流れ拡がってゆく。
このような小さな扉ではこの際限無く広がる一面の湖面からイドを抜くのに時間がかかるだろう。
幼子が目を覚ましたときに世界が変わっている程度の見栄は張りたいと思った。
大公はドア枠を掴み力を込める。
境界を失った二人のイドは激流となり大公を飲み込んだ。
大公の精神は三度暗転した。
「ウサギさんだ」
港で膝の上の大公を眺めていた淫魔が嬉しそうにつぶやく。
その膝で大公は子供のように咽び泣いていた。
もはや、彼は自分が存在する価値が分からなかった。
彼から闘争は永遠に失われてしまったから。
先祖返りとして魔族の本質を得た。
闘争を糧としてイドを蓄え続けた。
だが、もう誰とも争う事は出来ない。
あの戦いの高揚を永遠に失ってしまった。
神に挑む。
もう無理だ、挑めなどしない。
神々程度の塵芥ではもはや彼と闘争するに値しない。
これから気まぐれに神界に赴き神を殺そうか?
そこで終わりだ。
その先にはもう・・・何もない。
あの辺境での戦いは無駄だったのだろうか。
そもそも、このイドは何であろうか?
貸し与えられた神の力か?
神にその力を振るおうとしたならば、淫魔は俺からこの力を奪うのか?
辺境で生を受けて後300年、神に獣を奪われた後の200年。
闘争に闘争を重ねて、蓄えた力。
しかし、今この身に宿る力はその比ではない。
これから千年の闘争を繰り返そうとも絶対に届かぬ高み。
あれほど信じていた矜持など微塵も残っては居ない。
闘争の高揚感を味わいたい。
この力を失いたくはない。
いや、そもそもこれが自分の力なのかもわからない。
大公は体を動かすことが怖かった。
彼をその膝に抱く淫魔の娘。
この馬鹿げた力で不用意に動けば、この淫魔はいとも簡単に消し飛ぶだろう。
大公はいまだ淫魔との間にイドが繋がっているのを感じていた。
向こう側を覗き見れば、その光景は淫魔に何の力も残っていないことを大公に知らせた。
もし今、この娘を消し飛ばせば、この力は永遠に己のものと成るだろうか?
それとも霧散してしまうのだろうか?
いや、そう行動しようとした刹那には取り上げられてしまうかもしれない。
頬をなでる淫魔の冷たい手が恐ろしい。
何も出来ない、何を考えてよいか分からない。
「ありがとうございます大公様」
見上げると栗色の髪をした純朴そうな女が大公を心配そうに見ていた。
「これで終わりました。コップ、大事にしますね」
何が終わったというのか?
この戦いは人界の勝利なのか?
私は負けたのか?
そう思っていると、遠くで鐘の音が鳴った。
正午に向けた1番目の鐘が鳴ったのだった。
修道女は大公の肩に両の手を添えて上半身を起こそうと力を込める。
本来、これほどの体格差では、大公が自ら体を起こさなければ動くはずもない。
そして、当然あるべき体格の差でぴくりともしなかった。
「起きてください」
しかし、大公は嗚咽を漏らすだけ。
修道女は大公の顔を覗き見た。
「本当に泣いてる」
自分が泣かせたという事が少し嬉しい。
「じゃあ、こうしましょう。私のイドがまた貯まったらですね、誰でも大公様の選んだ人に力をあげます。そうしたら同じくらいの力を持った人が出来ますよ」
ピクリと大公が動いた。
「誰でもいいです。大公様の好きな人でも、大嫌いな人でも、大公様を憎んでいる人でも、賢い人でも、愚かしい人でも。大人も子供も・・・神様でも」
淫魔のイドで小さなコップに波紋が揺れた。
神に力を与えると言った。
今、大公の中に満ちているイドは、大公自身の物と寸分違わず混ざり合っていた。
その力は純粋な魔族のものだ。
「お前は何が目的だ?」
「それに意味はありません。大公様に渡したものだけが私の全てです、私の目的なんてもう私にはどうしようもありません。全部大公様次第です」
さぁ、起きてと再び大公を促すと、上半身を起こした大公の涙をハンカチで拭った。
それから、持っていた小さなカバンを開き、裁縫道具を取り出す。
大公が抵抗しないのを良いことに、その眉を切りそろえた。
「もう、立派なお爺さん眉は似合わないですから」
何のことだと思いを巡らせる間もなく、風と共に2つ目の鐘が鳴った。
中央塔を見上げた修道女のフードを風がひるがえす。
慌てて抑えようとしたものの間に合わず、頭を陽光のもとに晒した。
短かく切られた坊主頭。
栗色の髪から角は生えていなかった。
入れ墨もしてないので普通の修道服を着た町娘だ。
大公は一つだけ、今できることを思いついた。
手を伸ばし娘の頭に触れる、片手でも問題はなかったのだが丁寧に扱わなくては行けない気がしたので両の手を伸ばした。聖女は父親に髪を洗ってもらう幼子のようにギュッと目を閉じた。
あの幼子とそっくりだと思った。
すぐに変化が現れ、肩ほどまで髪が伸びた。
それで娘は自分の髪の色が黒から栗色に変わっていたことに気づいた。
自分の栗色の髪と大公の黒髪を見比べる。
「あの、髪を」
「・・・髪?」
「髪の色だけ黒に戻してもらえませんか?」
大公に繋がったままの淫魔のイドは枯渇していた。
全能かとすら思われた聖女は、いまや自分の髪の色すら変えられない。
再び大公が娘に触れる。
手が離れたので恐る恐る目を開けると髪は黒に戻っていた。
淫魔は毛先を摘み大公の髪色と同じ黒髪を嬉しそうに眺めた。
そこで鳴った3つ目の鐘にハッとする。
「鐘、私行かないと」
淫魔が立ち上がる。
「10の鐘が鳴るまでに、中央塔に向かわなくてはいけないんです」
大公には腑に落ちないことばかりだ。
「女神のもとに行くのなら、なぜ私にイドを与えた?」
「大公様は希望です。いつか海を越えて助けに来てくれると、ずっと夢見ていました」
「私はここにいる」
「はい、助けてください」
助けを求めるならなぜ塔に向かうのか。
「誰をだ?お前とあの幼子か?」
「いえ、私以外の全てを」
「お前を助ける事は出来ないのか?」
「・・・私は、大公様みたいに、あの飢えに耐えられません」
飢え!本質への渇望!
この淫魔の渇望が祈りであるなら、淫魔は祈らねばあの飢えに苦しむ事になる。
神などに祈るな、耐えろとは・・・とても言えない。
あの飢えの苦しみは、おそらく淫魔と大公の二人しか知らない。
立ちさろうとする淫魔の背を見送るしかなかった。
やがてくる運命に振り回される事となっても・・・
などと、大公は悠長でも未熟では無かった。
いつまでも、嘆いてなどいない。
今、己の手に余ると投げだしても、未来へ希望を求めるような若さなど持ってはいない。
大公は大人だった。
さぁ、ここからだ。
ガシと再び聖女の頭を掴んだ。
ひぃと淫魔が声を上げる。
取り敢えず逃がすつもりは無いので拘束してから考えた。
「・・・間に合うのか?」
港から中央党までには幾つもの区画に隔たれ高低差もある。
「今から向かっって間に合うのか?塔のどこだ?」
視線を離そうとする聖女の頭を抑えつつ、さらに腰を落として目線を合わせた。
怯える修道女とヤンキー座りをする巨漢である。
「いや、どこでしょう?行けば分かるかと思ってまひた」
大公の大きな手では頬まで抱えるものだから話しづらかった。
鐘が鳴る。
「幾つ目の鐘だ?」
大公は他に気を取られて鐘を数えてはいなかった。
顔を抑えられたまま聖女は頭を横に振ったので首ではなく体がふるふると揺れた。
「そこの人、いま鐘は幾つ目かね!?」
しっかり淫魔を掴んだま行き交う人に声をかける、問われた男から8つ目でさぁと帰ってきたのでありがとうと礼を言う。
「今日、初めへ行くんへふ」
大公は大層酷い目に合わされた意趣返しとしてはこのへんで十分だろうと、ようやく頭を離す。
その間も淫魔のイドを注意深く探っていたが大きな変化はない。
淫魔の中の小さなイドの泉は、事あるごとに波紋を広げはするものの増えでもなく、もどかしい状態だった。
ふむ、この程度の意趣返しでは力を取り上げる気は無い様だと確認した大公は淫魔から手を離す。
淫魔がようやく開放されたと安心したのも束の間、今度はヒョイと片手で横抱きに抱え上げられてしまった。
2メートルを超える大公と同じ視線の高さに、聖女は再びひぃと声を上げる。
「送ってやろう」
そう言うと大公は塔に向かって跳躍した。
一度の跳躍で数百メートル程度は移動しただろう。
着地の際には魔力で足元を固めたので足場にした建物は無事で、次の跳躍でも瓦の一枚も割れることはない。
聖女はぎゅっと目を閉じて大公の頭にしがみついている。
「怖いのか?」
返事がない。
大公の言葉を聴いている余裕もないのだ。
「これほどのイドを持っていたのだ。空を飛ぶ事すら可能であっただろう、飛んだりはしなかったのか?」
返事の代わりにふるふると首を横に振った。
大公はこの娘のイドはどこから来るのだろうと考えていた。
頭を拘束しても、恐怖を与えてもイドに変化は無い。
祈りで力を増していたようではあるが、女神に繋がるモノが感じられない。
跳躍をする。
「今の俺は神より力を持っている。俺に祈ってみろ」
「大公様!降りてるときのぞわーっとするのを止めてください」
なんとかしてやろうかと空いていた左の手を淫魔のへその下辺りに伸ばしたが、
ぺしぺしとその手を叩いて妨げるものだから手を止めた。
やがて上昇から落下に転じるとひぃと声を上げる。
イドに変化は無い。
9つ目の鐘が鳴った。
淫魔のイドの湖面がゾワリと膨らみイドが湧き出す。
淫魔の腹に触れようとしていた手を中央塔最上階の巨大な鐘に伸ばす。
「要は10回目の鐘が鳴るまでに間に合えば良いのだろう」
大公が開いていた手を握りしめる。
長く響いていた9回目の鐘の音。
その余韻がピタリと止まる。
それに合わせて、イドもまたピタリと止まった。
初めて書いたにしても、なんか普通でない気がします。