鳩羽
長い人生の中では一瞬であろう恋を抱きながら一生懸命に生きていく。
その恋の結末はわからない。
私はあなたが好き。それだけで意味がある。
美容室で開口一番。「黒く染めて下さい。」アシスタントさんが驚く。言葉を一気に出していく。「好きな人ができたんです。その人に会うために髪を黒くしたいんです。」中学校に入ってからずっと担当だったスタイリストさんがニンマリと笑う。「恋多き乙女だね。俺が真由ちゃんを一番綺麗にしてあげる。」秋冬用にボルドーが入った茶色の髪を黒くする。待ち時間に素子がルーズリーフにまとめてくれた茶道の客としてのマナーを読んでいく。今回の茶会は茶事七式という正式な茶会の一部分を独立させて簡略化した大寄せの茶会だ。素子は洋服でもいいと言った。しかし、素子が茶道を続けると言った時に祖父母が仕立てた上品なピンク地に愛らしく桜を飛ばした美しい付け下げ姿の素子と一緒の場にいる時に洋服では恥ずかしかった。それだったら母親のお古でもいいので着物を着たかった。母親の実家の和ダンスにピンクやブルーの着物があふれる中、凝った萌黄色のアラベスク調装飾模様の一枚があった。合わせたトルコタイル模様の唐織袋帯を見つけたときには思わず喜びの声を上げてしまった。タイマーが鳴る。アシスタントさんが染まり具合を確認する。シャンプーをしてドライヤーで乾かす頃には中学生の時には嫌だった黒い髪が私を大人の女性にみせた。「真由ちゃん。意外と黒髪のほうが大人っぽく見えるね。」アップスタイルにしやすいようにスタイリストさんが髪型を調節する。トリートメントも十分すぎるほど行う。半日かけて髪を整えた。後一週間で田子先生に会える。そう思うと心が弾んだ。
薄茶席の茶券を忘れないように最初に数寄屋袋に入れる。茶席に懐紙、菓子切、扇子、服紗、手ぬぐいを持ち込む。懐紙、服紗の順に輪を下に重ね服紗を奥にして懐中する。菓子切は懐紙の間に挟んでおく。てぬぐいは左の袂に入れる。会場の受付で茶券を出し、その後、控えの部屋で身支度を整える。待合があったので掛物と道具の箱書きを拝見する。慣れない着物の動作に四苦八苦する。お手伝いの素子が私を見つけて「真由、大丈夫だよ。」と小声で囁く。軽く口角を上げて会釈をする。亭主は田子だった。文化祭のときとは別人のような落ち着き払った紺色の御召に馬乗り型の茶席袴姿が凛々しかった。部長の吉永も大青で染めた軽く薄手ながら強い余呉紬地に、米沢紬の茶席袴姿だった。部員の友人である客の女子たちが色めき立つ。正客である茶道部顧問教師が睨みつける。薄茶に供される二種類の干菓子が載せられた菓子器が運ばれてくる。正客は煙草盆を上座によける。亭主である田子が「お菓子をどうぞ」と勧める。正客は次客に「お先に」の次令をする。そのやりとりだけで雰囲気が変わった。伝統ある茶席の場にふさわしいどこか凛とした雰囲気になった。正客は両手で菓子器をもっておしいただき、へり外に置く。膝前に懐紙を出し、左手を器に添え、奥の種類から先に取る。菓子に触れた指先を懐紙の端で軽く拭う。両手で菓子器を持ち、次客との間、へり外へ送る。次客である3年生の生徒が「お先に」の次令をして正客同様にいただく。次客、三客と続いて私の番がやってきた。素子が大丈夫だと言ってくれた。その言葉を信じて末客の前の私は次客の真似をする。末客である素子の学校の先生であろう初めて見る結び文の小紋に柔らかな花の丸帯をつけた女性の目が優しかった。無事に難関を1つクリアした。お茶をいただく前に田子の心入れを考えてお菓子をいただく。末客である女性がお菓子を頂いたら、残りのお菓子を座ったまま上座へ送っていく。次は薄茶だ。薄茶は和やかな雰囲気の中で愉しくいただく。薄茶席では主茶碗と替茶碗の二碗だけ席中で点てられる。替茶碗は正客の主茶碗と素材や柄の異なるものを用いていた。次客は正客の茶碗を拝見し、それを田子に返しながらお茶を点てられた替茶碗を取りに行く。あとは時間短縮のため水屋で点てて運んでくる。色鮮やかな着物を着た生徒達がきれいな所作でお茶を運んできた。素子も綺麗だった。一年前に違う高校に進学することにひどく怯えて、暗い表情でうつむいてばかりだった人物だとは到底思えなかった。薄茶器と茶杓を拝見する。最後に客一同は亭主である田子に挨拶をして退席をした。
茶室から出ると緊張の糸が切れた。思わず息を深く吐く。田子は末客だった女性と二人で私には見せたことがない笑顔で話をしていた。そんな中、正客だった女性教師が田子に挨拶を促す。田子が終わりの挨拶をする。「皆様、お忙しい中お集まりいただきありがとうございました。この場を借りて一つご報告させていただきます。この方が私の婚約者の斉藤文音さんです。」耳を疑う。『婚約者』その言葉を咀嚼するのに時間がかかった。「真由、大丈夫?顔が白いよ。」好きになった人が私のことを好きになってくれるとは限らない。どす黒い苦い想い。漆黒の渦が私の中に支配されていく。「髪を黒くしたから、明度対比で顔が白く見えているんだよ。」今更、強がっても無意味な事は分かっているけれども素子には弱い部分を隠す癖がついている。部長の吉永の茶道部の部員を呼ぶ声で素子は私から離れていった。泣くもんか。絶対泣かないんだから。あなたのために髪を染めて、慣れない着物で四苦八苦して、うんと背伸びをした。そんな、来るときも去る時も突然だった一つの恋が終わりを告げていった。それから先、田子先生以外の男性とも恋をしていった。一つの恋が終わる度にまた一つ女性として成長していく。一歩ずつゆっくりと歩んでいく。それが私の人生だった。「真由さん。お久しぶりです。吉永英二です。」素子の隣で丁寧に挨拶をするのは遠い昔に学生恋愛で始まり婚約という約束で固く結ばれた人だった。「吉永さんのお陰で素子は独り立ちできました。これからも素子のことを支えていって下さい。末永くお幸せに。」素子がはにかむ。英二が素子を見て微笑みを返す。式は秋だ。銀杏が今年も黄色く色づくだろう。まだ緑の銀杏を見て昔の結ばれなかった片思いを思い出す。田子先生は今頃はベテラン教師として教壇に立っているだろう。初心忘れるべからず。仕事のためパンツスーツに着替える。美術教師3年目の秋が私を待っている。FIN.
毎度のことですがなんとか着地できました。
物語の最後の方になると難産状態になるのがデフォルトになっております。
この物語、特に茶道部分を書くにあたり図書館の司書さんには大変お世話になりました。
この場を借りて御礼申しあげます。
この作品のタイトルのiはそのまま読むと愛ですが複素数も表しています。複素数は英訳だとcomplex numberです。complexの和訳と物語をリンクさせたかったですが力不足でした…。
サブタイトルは色彩でまとめてみました。
BGM:DEPAPEPE、元気ロケッツ
2017年9月22日
あんまんが美味しい秋雨の夜