第26話 勝利の日
「ベルさん!」
呆然とするテオの横をすり抜けるようにして、リリスが、彼に駆け寄る。
回復魔法をかけるが、悪魔であるベルに、神の加護は効かない。
それならばとリリスは迷い無く自分の服のすそを破って止血しようとする。
それでも、ベルの腹からあふれる血は止まらない。ベルの目は虚ろになって、ぼんやりと空を見つめている。
いつの間にか、闇が晴れて青空が広がっていた。初めて見る空の青さに、ベルはわずかに目を細めている。
「ベルさん、しっかりしてください!!」
テオはしばし呆然としていた。
この一年の間に、何が起きたのか。
テオにはまったくわからない。だが。
(リリス……一年前より、顔色がよくなった。身なりも、整っている)
今やこの悪魔とリリスが、お互いになくてはならない存在になっている、ということだけはわかった。
「――リリス」
テオはリリスの隣に屈み込んだ。
「君を悲しませてしまったのなら、すまない……だが、少しだけ話を聞いてくれ」
リリスがベルの止血をするのを、テオは止めない。だが、悪魔を助けることに加担もできず、淡々とリリスに言う。
「君は、この悪魔を差し出せば、人々を救った悪魔討伐の功労者として教会に戻れる」
テオの言葉にリリスの手が一瞬止まった。
ばっとテオに振り返る。その瞳は涙に濡れながらも、しっかりとテオを見据えていた。
「ベルさんを差し出せとおっしゃるんですか?」
唇が小さく震えている。
しかし、驚くほどはっきりとした声だった。
「……そう言うべきなんだろう。本来なら」
テオは言い淀んでいた。
聖騎士団長としては、問答無用でベルを引っ立てて、リリスを悪魔討伐の功労者として迎え入れるべきだ。
――逆に、悪魔の眷属に堕ちたのならば首を刎ねるべきだ。
しかし、どちらもやりたくない、と思ったのだ。
「――君は、どうしたい?」
テオの言葉に、リリスは眼を見開いた。
テオを見、それから自分のそばで荒い息をついているベルを見た。
「私は、ベルさんを……」
リリスが言いかけたその時。
突然、礼拝堂の扉が、外から開いた。
「殿下! ご無事ですか!」
現れたのは聖騎士団だった。
彼らの視線は、一瞬で室内を把握する。
気絶している民。
血に濡れた悪魔。
剣を握る王子。
その傍らに立つ、聖女。
「――殿下が悪魔を討伐してくださったぞ!!」
副団長が快哉を叫ぶ。
「それに、そこにいるのは……先代聖女のリリス様!」
「リリス様も、恐ろしい悪魔を討伐してくださったのですね!」
疑いの余地はない、という声音だった。
血に濡れた現場も、倒れている悪魔も――すべてがその結論に都合よく収まっていく。
彼らにとって重要なのは、“何が起きたか”ではなく、“どうあるべきか”だった。
そして、その“あるべき姿”に最も適合する解釈が、ただちに選び取られる。
――王太子が悪魔を討ち、聖女がそれを助けた。
それが最も正しく、最も美しい。
「違います、この人は――」
リリスは思わず首を振った。
だが、その言葉は最後まで届かなかった
「……ふふ、あははははは!」
リリスの言葉を遮るように、いきなりベルが声を上げて笑い出したのだ。
リリスは驚いて言葉を失う。
「……ああ、惜しかったですねえ」
瀕死の身体を無理に軋ませるように、ベルは嗤う。
「先代聖女の魂、もう少しで喰えるところだったのですが……残念です」
わざと意地悪そうに顔を歪めて、ベルは吐き捨てるように言った。
「あなた、あんなに弱そうに見えたのに。本当に聖女だったんですね」
「え……」
他人のようなベルの態度にリリスは絶句する。
「嘘です、そんなの……」
リリスが彼に伸ばした手を、ベルは払いのけた。
(え……)
何が起きたのかわからなかった。
リリスは、払われた自分の手を呆然として見つめる。
そこに、ちょうど礼拝堂で倒れていた人々が意識を取り戻して目覚め始めた。
「怪我は無いか?」
聖騎士の救護班が駆け寄る。
人々は、きょろきょろと辺りを見回し、リリスを見て笑顔になった。
「おれたち、リリス様のおかげで助かったんです!」
「ええ、意識は朦朧としていたけれど、リリス様が優しく声をかけてくださっているのは、わかりました」
「悪魔から助けてくださり、ありがとうございます!」
「聖女様!」
「聖女様!」
飛び交う村人たちの感謝の言葉に、リリスは、泣きそうな眼で小さく首を振っている。
「やめて、違う……違うの、私は……」
テオは何も言えずに黙っていた。
――言葉が、見つからないのではない。
口にしてしまえば、引き返せなくなるとわかっていた。
わずかに視線を伏せる。
それから、決断を“なぞる”ように、重々しくベルを指さした。
「……その悪魔を、拘束しろ」
短い命令だった。
それ以上、何も付け加えなかった。
続けてリリスへ振り返るが、視線は合わない。
彼女の少し手前を見たまま、形式通りに言い切る。
「先代聖女リリスは……悪魔討伐の功労者だ」
リリスは赤ん坊のようにいやいやと激しく首を振る。
「やだ、ベルさん……!」
ベルは、一瞬、リリスにだけふっと笑った。まるで、泣くな、とでも言うように。
その笑顔を見て、リリスの顔からさあっと血の気が引いた。彼は、ここから逃げ出すつもりがない。
テオは聖騎士団に粛々と指示を出した。
「リリスは、大変消耗している」
淡々とした声で告げる。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「錯乱もするだろうが、丁重に扱え」
ベルは銀の鎖で拘束される。抵抗はしない。
聖騎士たちは恐怖に顔をひきつらせながらベルを睨んだ。
「油断するな、こいつは高位の悪魔だ。どんな隠し球をもっているかわからんぞ!」
副団長の怒号に、聖騎士団は、恐怖を押し殺しながら、ベルの体に銀の剣を突き刺していく。
血塗れになって、銀の鎖で引っ張られる。
彼の頭が、がくん、と力を失ったようにうなだれた。
「……いやああああああああ! ベルさん! ベルさん!」
しかし、彼女の声は、聖騎士団の勝ち鬨にかき消されて誰にも聞こえない。
空は澄み渡った青空で、人々は聖騎士団の勝利に歓喜している。
聖騎士団の勝利をたたえて人々が花を撒く。
子どもたちが、歓声をあげて聖騎士団にめいいっぱい手を振る。
震えるリリスを抱きかかえるテオだけが、彼女の慟哭を聞いた。
「どうして! どうして! うう、ううう……!」
自らの髪をかきむしろうとするリリスの腕ごと、テオは抱え込む。
(……こんな風に、泣く人だったのか)
テオが知るリリスは、つらいことがあっても一人静かに耐え忍んで、涙をこらえる女性だった。
自分一人の哀しみなど、多くの人々の嘆きに比べれば、大したことなどない、とでも言わんばかりに。
それが、今――あの悪魔一人のために、こんなにも壊れそうになって泣いている。
そんな彼女の嘆きを、世界は知らない。
「悪しきドラゴンが退治された!」
「聖騎士団の皆様、ありがとうございます!!」
「王太子殿下!!」
「リリス様!」
セントティアラ王国のすべての人々が歓喜に沸く中、リリスただ一人だけが、絶望の底にいた。




