第1話
暗闇、ただひたすらに深い暗闇だった。
意識が浮上した瞬間、俺――甲斐拓海の耳に飛び込んできたのは、妙に耳に心地よい、しかしどこか機械的な女性の声だった。
『――条件が確定しました。固有能力『定時退社』を付与。魂の転生プロセスを開始します』
「え? ていじ……たいしゃ?」
その言葉の響きに、俺の脳細胞が過剰に反応する。
前世の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
そうだ、俺は死んだのだ。データアナリストとして、月の残業時間が余裕で三桁を超えるブラック企業で、連日の徹夜の果てに、デスクの上で意識を失った。あのとき、薄れゆく意識の中で俺が最後に願ったことは、ただ一つ。
(……もう、働きたくない。寝かせてくれ、定時で、帰らせてくれ……!)
どうやら、その執念が奇跡を起こしたらしい。
次に目を開けたとき、俺は中世ヨーロッパ風の、しかし明らかにファンタジーな意匠が凝らされた大理石の広場に立っていた。手には、なぜか錆びついた短剣が一振り。
「おい、ボーッとするな新人! 死にたいのか!」
怒号に鼓膜を震わされ、我に返る。
視界に飛び込んできたのは、ひび割れた革鎧を着て、恐怖に顔を歪ませている少年冒険者だった。
ここは、ジメジメとした暗い洞窟の中。苔の臭いと、獣のような生臭い風が肌を刺す。
「ひ、ひぃっ……! なんで、なんでこんなところに『ジェネラル・ゴブリン』がいるんだよぉッ!」
少年の視線の先を見る。
そこには、体長二メートルを優に超え、禍々しい大剣を肩に担いだ、緑色の巨漢が立っていた。周囲には、その部下とおぼしき十数匹のゴブリンが、よだれを垂らしながら俺たちを包囲している。
「おいおい……話が違うぞ……」
俺は思わず頭を抱えた。
転生後、俺は「カイ」という名で生きることを決め、まずは路銀を稼ぐために街の『冒険者ギルド』へ向かった。提示されたのは、初心者向けの『ゴブリンの巣の間引き。推奨レベル5』という案件。
日給もそこそこ良く、残業もなさそうだからと軽い気持ちで引き受けた。同行者は、同じく今日登録したばかりの見るからに頼りない新人冒険者が三人。
だが、現れたのはどう見てもボス級の魔物だ。
「おい、あいつのステータス、鑑定魔法で見えたぞ……! レベル100、推奨討伐規模・選りすぐりの銀級パーティーだと……!? こんなの、俺たちみたいな鉄級が勝てるわけない!」
「おい、ギルドの受付! 完全に案件の仕様書(クエスト概要)のバグじゃねえか!」
前世の癖で、心の中で思いきり悪態をつく。事前のリスクヘッジが全く機能していない。この世界のギルドも、俺がいた前世の会社に負けず劣らずのブラック組織のようだ。
「ギギィッ!」
「ギャハハハ!」
ジェネラル・ゴブリンがニヤリと醜悪な笑みを浮かべ、大剣を振り上げる。その風圧だけで、新人冒険者の一人が腰を抜かして泣き叫んだ。
逃げ道はない。背後は岩で塞がれている。万事休す。完全に詰み(デッドロック)だ。
じわりと、嫌な汗が背中を伝う。
また、死ぬのか? 今度は過労死じゃなくて、魔物に惨殺されるのか?
そんなの、冗談じゃない。俺は今世こそ、健やかに寝て過ごすと決めたんだ。
その時、俺の視界の右隅に、前世で見慣れたデジタル表示の『時計』が、半透明のホログラムのように浮かび上がった。
【現在時刻:16時55分】
――そして、俺の脳内に、あの澄んだ機械音声が冷徹に響き渡る。
『アナウンス。定時(17時00分)まで、残り5分です。現在、業務時間(稼働時間)内のため、固有能力『定時退社』の副効果――『業務効率化』が使用可能です』
(業務……効率化……?)
その瞬間、俺の脳が、異常なほどの冴えを見せ始めた。
視界がセピア色に染まり、目の前のジェネラル・ゴブリンの動きが、まるでスローモーションのようになる。それだけではない。自分の体内に流れるかすかなエネルギー――『魔力』の回路が、まるで複雑なプログラムのソースコードのように、視覚化されて目の前に展開されたのだ。
「なんだ、これは……」
支給された初心者用魔導書で覚えた、唯一の攻撃魔法『ライトニング・ボルト』の構成式が、頭の中で引き出される。
だが、そのコードを見た瞬間、俺のデータアナリストとしての魂が猛烈に拒絶反応を起こした。
「……汚い。なんだこの無駄な詠唱(構文)の長さは。魔力の循環効率も最悪、無駄なリソースを消費しすぎだ。こんなの、スパゲッティコード(クソプログラム)じゃないか……!」
前世の深夜残業中、他人が書いたバグだらけのコードを修正させられていた時のイライラが蘇る。
直したい。今すぐ、綺麗に、最適化したい――!
「おい、カイ!? 何ブツブツ言ってるんだ! あいつが来るぞッ!」
仲間の静止の声など、もう耳に入らなかった。
俺は錆びついた短剣を放り捨て、右手を前に突き出す。
脳内で、超高速のデバッグ作業が始まった。
不要な詠唱をすべて削除。魔力の伝達経路を最短ルートに書き換え。威力の出力リミッターを「効率最大値」まで解放――。
「グオオオオオッッ!!」
ジェネラル・ゴブリンが地響きを立てて突進してくる。大剣が、俺の脳が平然と認識しているスローモーションの世界の中で、ゆっくりと俺の頭上へ振り下ろされていく。
【現在時刻:16時59分30秒】
脳内の時計が、終わりの時間を刻んでいく。
俺は、深く、長いため息をついた。
「……あと、30秒か。これ以上長引くと、完全にサービス残業になるな。仕事は定時までに終わらせるのが、プロの鉄則だ」
俺の右手から、バチバチと、およそ初級魔法とは思えないほどの、漆黒を帯びた青白い電光が爆発的に溢れ出した。洞窟全体が、昼間のような輝きに照らされる。
「おい……なんだよ、その魔力……ッ!?」
「カイ、お前、一体何者なんだ……!?」
腰を抜かした仲間たちが、驚愕の目で見上げてくる。
ジェネラル・ゴブリンの顔からも、肉食獣の余裕が消え、本能的な恐怖の色が浮かんでいた。だが、そいつの巨体は、慣性の法則に従ってもう止まれない。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
俺が、最適化された一撃を放とうと、指先を突き出した、その瞬間――。




