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第8話 「鷹と小鳥」

 実のところ柚木三鷹は何ひとつ有効な手を打てずにいた。


 どう動けばよいのか、それがまるで見えてこなかった。諦めているわけではないが、途方に暮れている状態である。しかし、やはり三十五億円という金額は、若い経営者である三鷹には途方もないものだった。考えれば考えるほど、改めて父・誠司と経営者の大きさが違うことを自覚させられていた。

 そんな鬱屈とした時間を無為に過ごしていたある日、YUZUNOKIの社員から思いもよらぬ話を聞かされた。


 二晴が、大手銀行から三十五億の融資を取り付けた――と。

 それを聞いた時、三鷹は内心低く呻った。


 (おぉ…う~ん……まさか二晴が……)


 YUZUNOKIの社員の手前、狼狽した姿を見せないようにしていたが、少なからず狼狽していたことは事実である。兄・一誠が資金を調達してくることは予想していた。

 だが、二晴が、それも兄を上回る好条件で資金を引き出すなどまったく想定していなかった。このまま二晴が跡を継ぐことになれば、ますます図にのるのは火を見るよりも明らかだった。経営者としての才覚が負けているとは全く思っていなかったが、いかんせんYUZUNOKIと会社の規模が違い過ぎる。

 それをあの男は、自分の力で築き上げたかのように会社を語り、誠司の遺産を思い通りに操るに違いない。そして、二晴が上から目線で自分を見下すに違いなかった。それは三鷹には決して受け入れられないことであった。


**********************


 「だいぶ悩んでいるようですね」


 スタッフが帰って静まりかえったオフィスで、椅子の背もたれに身を預け、宙を見つめている三鷹に小鳥遊舞花が声をかけた。彼女は、三鷹が飲食店を立ち上げた際にスカウトした女性だった。当時は専業主婦で「時間があるなら働いてみない?」という軽い一言がきっかけだったが、今では多店舗展開した飲食部門のみならず美容室部門もマネジメントする立場になっていた。三鷹に最も近い幹部だった。


 「ニ~三億でもきついのに、三十五億はさすがに厳しい」


 三鷹はぽつりと弱音を吐いた。彼女は三鷹が社内で唯一弱音を見せられる相手だった。小鳥遊は隣の椅子に腰かけ、微笑みながら言葉を続けた。


 「社長なら、なにかしら手を打つんじゃないんですか?」

 「うーん……」


 三鷹はそう呟くと、肘を机につき、顎を手に乗せて黙りこんだ。その横で、小鳥遊はスマホを取り出し指先でつつき始める。彼女はこうして三鷹の隣に座って黙って待つことが多かった。

 そんな二人の姿がたびたび目撃されたことで、一時期「社長と小鳥遊さんって、不倫してるんじゃ?」という噂が社内に流れたことがあった。その噂を耳にした時、小鳥遊は即座に言い切った。


 「ありえんありえん。社長と不倫なんて、あるわけないじゃん」


 普段から、三鷹の文句を言ったり悪態をついていた彼女のその返答に、スタッフたちも「それはそうだよね~」と妙に納得した。

 一方の三鷹もある日、二十歳になったばかりの天然のアルバイトの女の子にこんなことを言われた。


 「社長って、小鳥遊さんと浮気してるんですかぁ?」

 「おまっおまえ、いつかタッキーを彼女にしてやろうと常々考えているのになんてことを言うんだ。手すら握ったことがないんだぞ?」


 ――と言ったそばから、

 

 「あ、でも……一回だけ手を握ったことがある」と言い直した。


 「えっ、いつですか……?」

 アルバイトの子が怪訝そうに問い返すと、三鷹は言った。


 「握手したことがある」

 「……社長、それは“手を握った”とは言いません。単なる握手です」

 「握手なのに、手を握ったとは、言わない……だと……?」


 そんなやり取りをオープンにしていたせいか不倫疑惑はすぐに立ち消えた。


 しかし、スタッフたちは二人の関係を今もどこか不思議に思っている。小鳥遊は堂々と三鷹に悪態をつき、好き放題に文句を言う。それでも三鷹はそれを咎めず、むしろ彼女を頼りにしている。その様子がスタッフたちにはどうにも理解できなかった。


 あるとき、スタッフの一人が思いきって小鳥遊に訊いた。

 「小鳥遊さん、社長のことどう思ってるんですか?」


 「ん~~と、……社長?」

 小鳥遊は首をかしげて、それっきりだった。


 同じ質問を三鷹にぶつけると、彼は少し考えてからこう言った。


 「仕事では驚くほど素直に言うことを聞く女だが、プライベートでは一切言うことを聞かない女だ」


 上司と部下の関係だが、ため口で話をすることも多い。プライベートでの付き合いはないが、それなりに私生活の話はする。最終的には社長である三鷹の指示には従うが、意見が対立することもあり、三鷹に黙って勝手に仕事を進めていることも多々ある。そして、それを後々三鷹が知っても、特に咎めない。


 お互い信頼している――ということではあったが、それだけではおさまらない妙な関係であった。


 三鷹は、横でスマホをつついている彼女を見ながら思った。


 (悪態はつきながらも、俺が言い出したことを実によく形にしてきてくれた)


 飲食店部門と美容室部門も、ここまで多店舗展開できたのは彼女の力によるところが大きい。対して自分はどうか。決断と実行を信条としてやってきたつもりだが、それは何もないところから思いついたことを進めてきただけで、今回のように無理難題に挑んできたわけではなかった。


 「そう言えば……最初の店を立ち上げた時、こんな風に困ったことがあったよね?」

 「ありましたね~。最初、売上あがらないのにアルバイトばっかり増やして……社長どうするつもりよって思ってましたもん」


 小鳥遊はスマホから目を離さず軽い口調で返した。小鳥遊からすると、今回の件は社外のことであり自分が関わる部門とは直接関係のない話だった。三鷹が困っているのはわかっている。相談に乗る気もある。だが、基本的なスタンスは「それは私の仕事じゃない」だった。

 三鷹は昔のことを思い出しながら、ぽつりぽつりとこぼした。


 「で、結局……このままじゃ駄目だってことで……なんとかしなきゃ…と………出会ったのが……」

 「秋葉さん?」


 彼女の口方その名前が出された瞬間、三鷹は思わず彼女の方を振り返った。目が合った彼女は「ん?」という顔をしていた。


 秋葉宗一


 三鷹はその名を思い出し、ほんのわずかだが、胸の奥に詰まっていた重石が少しだけ動いたような気がした。

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