プロローグ 「崩壊と流出」
その日、社内は騒然としていた。
若手のエースと称され、29歳にして最年少役員となった専務・橘が、部下を引き連れて独立する――その旨を、ごく一部のメンバーに伝えたのだ。だが、その情報はすぐさま社内を駆け巡り、社員たちの間に大きな動揺を呼んだ。
橘が率いる事業部は、すでに会社全体の四割近い売上を担っていた。そこから主要メンバーのほとんどが一斉に去るとなれば、会社が傾くのは火を見るより明らかだった。どの部署の人間も、これは誰がどんなに頑張っても支えきれるものではない――そう感じていた。
動きの早い者たちは、水面下で橘の新会社への合流を模索し始めた。なんとかして、橘の会社に移れないかと。もちろん、全員がそうではない。橘に追随せず、あくまで独自の道を探る者もいた。諦めたように転職を考える者、そして、橘のやり方そのものに憤りを覚える者も。
特に、橘の直属ではなく距離のある他事業部の人間たちは、その感情をより強く抱いていた。
秋葉宗一も、その一人だった。
橘専務独立のニュースを聞き、腹立たしさを抱えながら会議室に籠もり一人仕事をしていた。ガラス張りの会議室である。秋葉が一人でノートパソコンに向かっている姿を見かけた佐伯和馬は、会議室に入り声をかけた。
「聞いたか?」
「聞いたよ」
秋葉は顔を上げず、キーを打つ手も止めずに短く返した。
「なぁ、お前も一緒に橘さんの会社、行かないか?一緒に仕事したことはなくてもお前のことは知っているだろうし、実力のあるコンサルタントなんだから、俺が橘さんに声をかけてメンバーに入れてもらうけど」
この会社では、上司も部下も「さん」付けで呼び合うのが通例だったが、秋葉と佐伯は特別な同期同士。互いに「俺」「お前」と自然に呼び合う気安い仲だった。だから秋葉も遠慮なく言った。
「橘さんが辞めるのは、別にいい。だけど部下を引き連れて出て行くってのは、どういうことだ? うちの会社は経営コンサルティング会社で、しかも上場してるんだぞ? 売上の四割以上を占める事業部を、ごっそり引き抜いて出ていくなんて、会社が無事で済むと思うのか? そんなこと上場企業の役員がやることか! 株主から訴えられてもおかしくないだろ!」
いつもは冷静沈着で、感情を表に出すことなどめったにない秋葉が、声を荒げる。佐伯は少し驚きながら、落ち着いた調子で答えた。
「そのへんは、ちゃんと手を打ってると思うぜ」
「あの専務のことだから、そうだろうよ」
普段なら「橘さん」と呼ぶはずの秋葉が、あえて「専務」と言っている。相当腹立たしく思っていることが伺えた。だが秋葉は、それ以上は言わなかった。これ以上言えば、橘と共に行くと決めた佐伯――同期であり、友人でもある男の選択を否定することになる。
「……で、お前はどうする? 会社に残るのか?」
「俺は俺でやる。社内の派閥だの、事業部間の壁だの、もうそういうのも面倒だしな」
こうして始まった会社の崩壊は、1年後、上場廃止が決まり、かつて一時代を築いたと言われた経営コンサルティング会社は、市場から静かに姿を消した。