第24章「本当のこと」
カメラの赤い光がまだ、彼女を映していた。
だが、澪の目には、もう、それは映っていなかった。ただ、ひとりの男だけが見えていた。
彼女は七瀬のもとへ、歩み寄った。
ひと足ごとに、仮面が剥がれ落ちていく気がした。三十七の名前が、足元にぱらぱらと散っていった。最後に残ったのは、名前のない、ただのひとりの女だった。
七瀬の前で、彼女は立ち止まった。
「あなたを、騙していました」
澪は言った。声が震えた。震えを、隠さなかった。
「近づいたのは仕事でした。優しくしたのも、最初は全部、計算でした。あなたの帳面を、奪うために、ここへ来ました。本当です」
七瀬は黙って、聞いていた。膨らむのを待つときの、あの目で。
「でも」
澪の喉がつかえた。言葉が出てこなかった。本当のことを言うのが、これほど難しいとは知らなかった。彼女は嘘なら、いくらでも、滑らかに言えた。本当のことだけが、言えなかった。
「でも、浜辺であなたの焼いたパンを食べたとき。わたし、本当に、笑っていました。あれだけは、嘘じゃ、なかった」
涙がこぼれた。
今度は、隠さなかった。
「わたしの名前は、朝倉澪じゃない。本当の名前は……ずっと、誰にも、言ったことがない。仕事では、グレイと呼ばれてました。灰色の、消える人という意味です。でも」
彼女は息を吸った。生まれて初めて、口にする言葉だった。
「本当の名前は、光。ひかりです」
光。
影に生きてきた女の本当の名前は、光だった。皮肉な名前だった。けれど、今、その名前を、口にできた。
七瀬の目が、わずかに見開かれた。
光、と名乗ったあと、澪は、自分の声が震えているのに気づいた。
その名前を口にしたのは、生まれて初めてだった。誰にも言わず、自分でも忘れかけていた、本当の名前。影に生きてきた女の名が、光だというのは、皮肉だった。けれど今、その皮肉ごと、彼女はこの男に差し出していた。隠すものは、もう何もなかった。剥き出しのまま、彼女は、七瀬の答えを待った。
彼は長いあいだ、彼女を見ていた。それから、ゆっくりと、口を開いた。
「ひかりさん」
初めて、本当の名で、呼ばれた。
その響きが、彼女の固く閉じた何かを、内側から、ほどいた。
「俺、たぶん、最初から、知ってました」
七瀬は静かに言った。
「ひかりさんが、嘘ばっかりついてるの。でも、嘘の隙間から、たまに本当のひかりさんがこぼれてて。俺は、そっちを、見てました。枯れる花が好きだって言った、あのひかりさんを」
彼は火傷の痕のある手を、差し出した。
「だから、いいです。嘘、ついてても。本当のあなたを、知ってるから」
澪は――いや、ひかりはその手を、見た。
握れば、もう戻れない。影にも、嘘にも。剥き出しの、ひとりの人間として、この男の前に、立つことになる。
彼女はその手を、握った。
あたたかかった。窯の火に触れ続けた、長い時間の温度だった。
その瞬間、広間のカメラが、ふっと切れた。
羽鳥の最後の合図か、あるいは放送が、ただ終わっただけなのか。それは、わからなかった。
カメラが切れた瞬間、屋敷の喧騒が、すっと遠のいた気がした。
あれだけ彼女を苛んだ、二十四時間のレンズ。眠る間も、泣く間も、嘘をつく間も、休みなく彼女を追っていた、あの無数の眼。それが今、一斉に目を閉じた。撮られていない時間が、何週間ぶりかに訪れた。
ただ、世界がふたりだけになった。
光の中で、ひかりは笑った。
演技でも計算でもない。これまでで、いちばん本当の笑顔だった。
そして、それを読める人が、目の前にひとり、いた。
終章「読まれる笑み」
季節がひとつ巡った。
あの夜の生放送は、思いがけない大きさで広がった。常世ホールディングスは、古い情報網をめぐる不正を問われ、深い傷を負った。番組は打ち切られた。羽鳥は表舞台から消えた。鵜飼が誰の依頼で動いていたのか、ひかりは結局、知らないままだった。知る必要ももうなかった。
機関はひかりを切り捨てた。正体を全国に晒した運営担当官に、戻る場所はない。彼女は焼かれた。影の住人としては死んだも同然だった。
けれどひかりは生きていた。
本土の小さな町。古いパン屋の片隅で彼女は花を活けていた。
店は、七瀬結が父の店を継ぐかたちで開いたものだった。朝になると窯から香ばしい匂いが立つ。小麦と酵母と本物の火の匂い。電気仕掛けの揺れる影だけの偽物ではない。客が来てパンを買い笑って帰る。ただそれだけの店だった。
ひかりはその店先に毎朝花を活けた。
もう合図のためではなかった。本数にも向きにも意味はなかった。ただきれいだから活けた。枯れていく花を最後まで見届けるために。
「ひかりさん」
窯のほうから結が呼んだ。粉のついた手で焼きたてを半分に割って、差し出した。
ひかりは受け取った。指先が熱かった。ひと口かじると、外は香ばしく、中はやわらかかった。塩気と小麦の甘み。素朴で飾りのない味だった。
彼女は笑った。
その笑顔を結が見て目を細めた。
「いい顔」
店には常連が何人もできた。
毎朝決まった時間に来る老夫婦。学校帰りに菓子パンを買っていく子どもたち。みな、ひかりの活ける花を見て、ひとこと声をかけていく。きょうの花は元気がいいねと。
ひかりはそのたびに微笑んだ。
名前も過去も知らないまま。ただ花を活ける女として。それでも人は彼女に声をかけてくれた。
かつて彼女は、誰にも読めない笑顔を持っていた。完璧で無害で空っぽな笑み。何百人もがその笑顔に騙された。誰ひとりその奥を読めなかった。
今彼女の笑顔はたったひとりに読まれていた。
それで十分だった。
窓の外で風が吹いた。店先の花が揺れた。茎がまっすぐ空を向いていた。中止でも順調でもない。誰の指示でもない。ただ生きているという合図だった。
ひかりは思った。
長いあいだ嘘をついて生きてきた。三十七の名前。消えた女。誰にも見せなかった顔。守るために築いた壁の中でずっと寒かった。
最後に、たったひとつ、本物に変えたかった嘘があった。
彼女はもう誰の名前も演じていなかった。
朝倉澪も、グレイも、三十七の他人も、すべて、海の向こうに置いてきた。ここにいるのはただのひかりだった。名前のとおり、光の中で生きる、ひとりの女だった。守るために嘘をつく必要は、もう、どこにもなかった。守りたい人はすぐ隣にいた。
演じるはずだった恋。
その嘘だけはばれてよかった。
窯の火が低く燃えていた。
あたたかかった。




