半分のまま
スタジオの扉を開けたとき、ヒナタは一瞬だけ足を止めた。
機材の前に、小雪がいる。
ノートPCを開き、ヘッドホンを首にかけたまま、
先方と軽く挨拶を交わしている。
どうやら同じ案件らしい。
ヒナタは何も言わず、ミキサー卓の前に座る。
PCを立ち上げる。
波形を確認する。
テスト再生。
小雪は隣でテイク番号を読み上げる。
「二番、サビ前、ノイズ少しあります」
「うん」
ヒナタはEQを触る。
低域を少し削り、リバーブを抑える。
音が前に出る。
小雪は静かに頷き、ログに打ち込む。
余計な話はしない。
作業は順調に進む。
ヒナタは音にまっすぐだった。
迷いがない。
以前よりも、余白を残さない。
小雪は、横目でその手元を見る。
自分が気づかない細部を、
ヒナタは自然に整えていく。
音から逃げていない。
その姿を見て、小雪は思う。
ああ。
成長してる。
信頼、という言葉が浮かぶ。
でも口には出さない。
仕事だから。
*
予定より少し押して、作業は終わった。
最後の音を確認し、ヒナタはひとつ息をつく。
「OKです」
先方が満足げに頷く。
ヒナタはヘッドホンを外し、
ケーブルを丁寧に巻き始める。
無駄のない手つき。
その様子を、小雪は目で追う。
絡まった結び目は、
たしかにほどけている。
ぎこちなさはない。
視線も、言葉も、自然だ。
でも。
なにも、進んでいない。
ヒナタは最後のファイルを書き出し、
機材の電源を順に落とす。
小雪もPCを閉じる。
静かなクリック音。
「おつかれさま」
一拍。
「出れる?」
ヒナタはいつもの調子だった。
変わらない声。
小雪は、ほんの少しだけ間を置く。
「うん」
電気を落とす。
長い廊下を並んで歩く。
会話はない。
足音だけが、乾いた床に響く。
ヒナタが先に扉を押す。
次の瞬間。
雨の音が、押し寄せた。
予想よりも強い。
地面に弾く水しぶき。
小雪は思わず立ち止まる。
「……ひどいな」
ヒナタは一瞬だけ空を見上げる。
カバンを開け、
折りたたみ傘を一本取り出して、
「使う?」
声はいつも通り。
そのまま傘を開いて、小雪を見る。
二人で入るには、少しだけ狭い。
雨音が、傘に響く。
小雪は、隣のヒナタを見る。
ヒナタはスマホを取り出し、
画面を見て、眉をわずかに寄せる。
「……電車、止まってるって」
雨脚が強い。
小雪もスマホを確認する。
「ほんとだ」
一拍。
屋根のある場所まで走るか、
このまま待つか。
ヒナタは言わない。
小雪も言わない。
傘の中の距離だけが、近い。
「うち、近い」
ヒナタはそれだけ言った。
小雪は少しだけ迷う。
雨は強い。
タクシーは来ない。
屋根の下も、人でいっぱい。
「……歩ける?」
「五分くらい」
一拍。
「じゃあ、少しだけ」
ヒナタは頷く。
傘に雨音が跳ねる。
狭い。
二人で入るには、少しだけ。
雨は横殴り。
肩が触れそうで、触れない。
ヒナタは傘を少し小雪側に寄せる。
ヒナタの肩が濡れる。
小雪は気づく。
何も言わない。
歩く音と、雨音。
それだけ。
*
家に着くころには、二人ともずぶ濡れだった。
ヒナタは無言で鍵を差し込む。
水滴がコンクリートに落ちる。
扉が開く。
小雪は、ほんの少しだけ足を止める。
玄関の明かりが、内側からこぼれる。
ヒナタが振り向く。
「風邪引く。入って」
命令でもなく、誘いでもない。
ただの事実みたいな声。
小雪はヒナタを見る。
一拍。
「……おじゃまします」
小さな声のあと、
ドアを閉める音が、少し遅れて残る。
部屋は整っていた。
物が少ないわけではない。
けれど、どれも決まった場所に置かれている。
ギターケースは壁際。
テーブルの上には、飲みかけの水。
生活の匂いはあるのに、
どこか余白がある。
ヒナタらしい、と小雪は思う。
ヒナタは迷いなくタオルを取り出す。
「これ」
短い。
ドライヤーを差し、差し出す。
自分の髪から水滴が落ちていることには、気づいていない。
小雪はそれを見る。
ぽた、と床に落ちる。
「……あったまったほうがいいな」
一拍。
「シャワー、浴びたほうが」
言った瞬間、意味が遅れて届く。
部屋の空気が、わずかに止まる。
視線を逸らす。
言い直さない。
ヒナタは黙る。
何もからかわない。
何も広げない。
ただ、目を一度だけ伏せて。
ただ短く。
「着替え、貸す」
クローゼットに向かう。
背中が濡れている。
小雪は、その背中を見る。
ヒナタはクローゼットからスウェットを取り出す。
一瞬だけ迷う。
それから、振り向かずに言う。
「……先、シャワー使って」
声は低い。
続けて。
「風邪引く」
それだけ。
余計な言葉はない。
小雪は、少しだけ間を置く。
「ヒナタは?」
「あとでいい」
即答。
嘘じゃない。
優先順位が、ただはっきりしているだけ。
小雪は頷く。
「借りるね」
浴室の扉が閉まる。
水の音が始まる。
ヒナタはしばらく、その音を聞いている。
視線を落とす。
濡れたシャツが肌に張りついている。
やっと、自分の服を脱ぐ。
タオルで髪を拭く。
遅れて、水滴が落ちる。
静かな部屋に、シャワーの音だけが響く。
事故みたいな雨だったな、と思う。
さっきの現場を思い返す。
小雪の横顔。
音に向かう視線。
逃げていない、と感じた。
浴室の音が止まる。
ヒナタは顔を上げる。
視線を扉から逸らし、
整えるみたいに、息をひとつ吐く。
数秒後、ドアが開く。
貸したスウェットは少し大きい。
小雪はタオルで髪を押さえている。
「ありがとう」
ヒナタは頷く。
「温かいの、飲む?」
それだけ。
キッチンに向かう。
距離は保ったまま。
湯気が立つ。
マグカップを二つ置く。
白い湯気が、同じ高さで揺れる。
二人はテーブルを挟んで座る。
沈黙は重くない。
でも、静かだ。
外ではまだ雨が降っている。
何も起きない。
何も越えない。
それでも。
この夜は、確かに何かを残している。
*
ヒナタは何も言わずに乾燥機を回す。
濡れた服が回り始める音。
「乾くかな」
小雪がぽつりと言う。
「明日、午後から音出しだよね」
ヒナタは頷く。
「うん」
それだけ。
小雪はカップを両手で包む。
あたたかい。
*
外の雨音はまだ続いている。
一拍。
「なんか」
小雪が小さく笑う。
「子どもの頃みたいだね」
ヒナタは顔を上げる。
「安心する」
静かな声。
ヒナタは何も返さない。
でも視線は逸らさない。
小雪が少しだけ首を傾ける。
「音、聞く?」
音楽は流さなかった。
雨音と、洗濯機の低い振動。
その奥で、冷蔵庫の小さな音が途切れずに続いている。
二人は黙っている。
会話はない。
小雪はマグカップを両手で包んだまま、
窓の外を見る。
ヒナタは少し離れた場所で、
同じ方向を見ている。
目は合わない。
でも、視線は揃っている。
ふと、シャンプーの匂いが混じる。
湯気と、雨と、柔らかい甘さ。
ヒナタは何も言わない。
視線は窓の外だけ。
雨粒が街灯に照らされて落ちていく。
洗濯機の振動が、床を伝う。
静かだ。
でも、寒くはない。
*
乾燥機の完了音が、小さく鳴った。
同時に、雨脚が少しだけ弱まる。
ヒナタは窓の外を見ている。
小雪も、立ち上がる。
「……呼んでみるね」
スマホを操作する。
一度目はだめで、
二度目でタクシーが捕まる。
「五分だって」
ヒナタは頷く。
玄関で、靴を履く。
返されたスウェットは、きれいに畳まれている。
ヒナタはそれを受け取り、何も言わない。
扉を開けると、雨はまだ降っている。
でも、さっきより静かだ。
タクシーのライトが、角を曲がってくる。
一拍。
小雪が振り向く。
「今日は、ありがとう」
ヒナタは短く。
「うん」
それだけ。
小雪はドアを閉める。
タクシーが走り出す。
ヒナタはしばらく、そのテールランプを見ている。
やがて見えなくなる。
部屋に戻る。
さっきまでの温度が、まだ残っている。
洗濯機の振動は止まり、
雨音だけが続いている。
*
ヒナタは立ったまま、少しだけ息を吐く。
それから、ようやく浴室へ向かう。
シャワーをひねる。
水の音が広がる。
温かい。
濡れた髪を指でとかす。
今日のことを思い返す。
現場。
雨。
傘。
マグカップ。
「安心する」
言葉が、遅れて胸に落ちる。
ヒナタは目を閉じる。
守るだけで、よかったのか。
答えは出ない。
水が肩を流れていく。
雨音と、同じ速さで。
踏み込まなかった。
でも。
嫌ではなかった。
静かな夜だった。
*
「じゃあ、自己紹介から!」
明るい声。
三人、同時に一拍遅れる。
ヒナタは、まだ状況に追いついていなかった。
ハヤテは案件だから、と申し訳なさそうな顔をして、
コウタは少し困ったような顔をして、
自分は、流されるままにここにいる。
向かいの笑顔が近い。
声が早い。
反応が軽い。
「……バンド、やってます」
短い。
そのあとが続かない。
コウタが補足する。
ハヤテが自然に場を回す。
二人は上手い。
冗談も挟むし、空気も読む。
ヒナタだけが、少し遅れている。
質問は来る。
答えは出せる。
でも、噛み合わない。
笑うタイミング。
話題の跳ね方。
興味の向き。
ほんの少しだけズレている。
「かっこいいね」
そう言われる。
ヒナタは頷く。
胸の奥に手応えがない。
音は鳴っていない。
三人でいるのに、
ヒナタだけ、どこか一歩外にいる。
息が浅くなる。
あの雨の夜が、ふと浮かぶ。
洗濯機の低い音。
窓を打つ雨。
「安心する」
その言葉だけが、残る。
「ヒナタさんって、どういう人なんですか?」
不意に振られる。
笑顔は明るい。
悪意はない。
ヒナタは、一瞬だけ言葉を探す。
「……どういう、って」
時間を稼ぐ。
ハヤテが横から笑う。
「こいつ、真面目」
コウタが補足する。
「音に関しては、特に」
ヒナタは小さく頷く。
それで済ませる。
「えー、もっとなんかあるでしょ」
身を乗り出される。
ヒナタは口を開く。
言える。
好きなもの。
休日の過ごし方。
趣味。
言える。
でも、選ばない。
「……別に」
短い。
空気が一瞬だけ止まる。
ハヤテがすぐ拾う。
「こいつ、説明苦手なんですよ」
笑いが起きる。
成立している。
でも、触れていない。
そのとき、不意に耳に入る。
「……これ、修行だな」
ハヤテが、グラスを口元に運んだまま言う。
「高難度」
コウタが視線だけで返す。
「終わったら、チュロス」
ヒナタの耳には、その言葉だけがはっきりと届いた。
笑い声よりも、
向かいの質問よりも、
強く。
小さく頷く。
三人の呼吸が揃う。
ズレは消えていない。
それでも。
三人の音が合う。
半分でいい。
*
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
照明の明るさから離れて、
ようやく目が楽になる。
「営業としては成功だな」
ハヤテが言う。
「一応な」
コウタが肩をすくめる。
ヒナタは、遅れて息を吐いた。
駅前の屋台は、まだ灯りがついている。
ハヤテが指さす。
「約束」
三本のチュロスが紙袋に入る。
それぞれ手に取る。
一口。
「……甘」
ヒナタが小さく言う。
「今日ずっとそれ」
ハヤテが笑う。
コウタが、少しだけ真面目な声で言う。
「選ばなかったな」
ヒナタは、チュロスを見たまま止まる。
否定しない。
「……選ぶ気、なかった」
嘘でも強がりでもない。
ただ、その通りだった。
ハヤテは軽く言う。
「まあ、あれはあれでな」
コウタも頷く。
「悪くはなかった」
悪くはなかった。
それは本当だ。
でも。
音は、合わなかった。
ヒナタは気づく。
選ばなかったのではなく、
選ばないまま、守っている。
半分。
まだ、半分。
チュロスをもう一口かじる。
甘さが、はっきりする。
駅前で三人は別れる。
*
ヒナタは一人、夜道を歩く。
夜は少し乾いている。
甘さが、まだ口に残っている。
ポケットの中のスマホには触れない。
通知も確認しない。
何も、動かさない。
部屋に戻る。
灯りをつける。
いつもの机。
いつものギター。
触れない。
ジャケットを椅子にかけて、
そのままソファーに沈む。
静かだ。
さっきまでの声も、
笑いも、もうない。
雨の夜が、少しだけ浮かぶ。
洗濯機の低い音。
雨。
「安心する」
息を吐く。
今日も、越えていない。
でも、崩れてもいない。
ヒナタは、そのまま目を閉じる。
音は出さない。
何も決めない。
ただ、半分のまま、夜を終える。
*
「この前さ、スノフレと合コンしたんだよね」
昼休み。
何気ない声で、職場の先輩が言う。
小雪は、ペンを持つ手を止めない。
「へえ」
軽く返す。
「前から気になっててさ。
プロデューサーにお願いして」
悪びれない笑顔。
悪意もない。
「……どうでした?」
自分の声が、少しだけ静かだと気づく。
「盛り上がったよー。今、全員フリーだって!」
フリー。
一瞬だけ、視線が落ちる。
「ドラムの人が面白くて、ベースの人がしっかりしてて」
小雪は、頷く。
想像できる。
「……ボーカルは?」
自然に出た。
「どうだっけ? あんまり喋らなかったかも」
小雪は、少しだけ笑った。
そうだろうな、と思う。
無理はしない。
選ばないときは、徹底して選ばない。
目の前の人を傷つけない程度に、
でも踏み込まない。
「ちゃんと見てないと、分からない人ですよ」
「え?」
小雪はそれ以上言わない。
ペンを持ち直す。
胸はざわついていない。
ただ、少しだけ確かめたくなる。
あの夜は、勘違いではなかったのか。
ヒナタは、何も選んでいないのか。
それとも。
選ばないまま、守っているのか。
小雪は静かに思う。
自分は、どうする。
*
数日後。
スタジオ仕事の帰り。
エレベーターを待つ間、小雪が言う。
「この前の話」
ヒナタは視線を上げる。
「合コン」
短い。
逃げ道はある。
「……営業」
ヒナタは、いつもの調子。
小雪は頷く。
「うん」
そこで終わらせてもいい。
でも、終わらせない。
「ヒナタ、選ばなかったんだね」
ヒナタの肩が、ほんの少しだけ止まる。
責めていない。
確認しているだけ。
「……選ぶ必要、なかった」
少し遅れて返す。
小雪は、まっすぐ見る。
「必要ないときは、いいと思う」
一拍。
「でも」
エレベーターの到着音が鳴る。
ヒナタは視線を逸らす。
「ずっと、必要ないまま?」
扉が開く。
ヒナタは答えない。
小雪も追わない。
扉が閉まる。
*
部屋に戻る。
灯りをつける。
ギターは、いつもの場所にある。
視線だけ向ける。
触れない。
ジャケットを脱ぎ、椅子にかける。
水を飲む。
座る。
静かだ。
「ずっと、必要ないまま?」
言葉だけが、残る。
否定はできる。
理屈もある。
でも、胸の奥がわずかに騒ぐ。
ヒナタは、動かない。
音も出さない。
夜が、ゆっくり過ぎていく。
*
三人。
リトルスノーのリハ。
イントロ。
音が、わずかに前に出る。
ハヤテが目を上げる。
コウタも、すぐに合わせる。
一周回ったあと。
ハヤテが言う。
「……今の、悪くない」
ヒナタは肩をすくめる。
「そう?」
コウタが短く。
「一歩、出たな」
ヒナタは何も言わない。
自分では、はっきり分からない。
でも、守るだけの形ではない。
次の入りが、ほんの少し速い。
*
ライブが終わる。
照明が落ちて、汗が冷える。
楽屋に戻ると、まだ少し耳鳴りが残っている。
「今日、リトルスノーよかったです」
スタッフが言う。
水を飲んでいたヒナタの手が、少し止まる。
「アレンジが変わって、輪郭はっきりしましたよね」
何気ない声。
分析でもなく、賞賛でもなく、事実みたいに。
ハヤテが、にやりとする。
コウタはタオルで首を拭きながら、
「だってさ」
とだけ言う。
ヒナタは、少し遅れて笑う。
「そう?」
理由は言わない。
きっかけも言わない。
耳鳴りの奥で、三人の音がまだ揺れている。




