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Snow flakes

半分のまま

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/04/09


 スタジオの扉を開けたとき、ヒナタは一瞬だけ足を止めた。


 機材の前に、小雪がいる。


 ノートPCを開き、ヘッドホンを首にかけたまま、

 先方と軽く挨拶を交わしている。


 どうやら同じ案件らしい。


 ヒナタは何も言わず、ミキサー卓の前に座る。


 PCを立ち上げる。

 波形を確認する。

 テスト再生。


 小雪は隣でテイク番号を読み上げる。


「二番、サビ前、ノイズ少しあります」


「うん」


 ヒナタはEQを触る。

 低域を少し削り、リバーブを抑える。


 音が前に出る。


 小雪は静かに頷き、ログに打ち込む。


 余計な話はしない。


 作業は順調に進む。


 ヒナタは音にまっすぐだった。


 迷いがない。


 以前よりも、余白を残さない。


 小雪は、横目でその手元を見る。


 自分が気づかない細部を、

 ヒナタは自然に整えていく。


 音から逃げていない。


 その姿を見て、小雪は思う。


 ああ。


 成長してる。


 信頼、という言葉が浮かぶ。


 でも口には出さない。


 仕事だから。 



 予定より少し押して、作業は終わった。


 最後の音を確認し、ヒナタはひとつ息をつく。


「OKです」


 先方が満足げに頷く。


 ヒナタはヘッドホンを外し、

 ケーブルを丁寧に巻き始める。


 無駄のない手つき。


 その様子を、小雪は目で追う。


 絡まった結び目は、

 たしかにほどけている。


 ぎこちなさはない。


 視線も、言葉も、自然だ。


 でも。


 なにも、進んでいない。


 ヒナタは最後のファイルを書き出し、

 機材の電源を順に落とす。


 小雪もPCを閉じる。


 静かなクリック音。


「おつかれさま」


 一拍。


「出れる?」


 ヒナタはいつもの調子だった。


 変わらない声。


 小雪は、ほんの少しだけ間を置く。


「うん」


 電気を落とす。


 長い廊下を並んで歩く。


 会話はない。


 足音だけが、乾いた床に響く。


 ヒナタが先に扉を押す。


 次の瞬間。


 雨の音が、押し寄せた。


 予想よりも強い。


 地面に弾く水しぶき。


 小雪は思わず立ち止まる。


「……ひどいな」


 ヒナタは一瞬だけ空を見上げる。


 カバンを開け、

 折りたたみ傘を一本取り出して、


「使う?」


 声はいつも通り。


 そのまま傘を開いて、小雪を見る。

 二人で入るには、少しだけ狭い。


 雨音が、傘に響く。

 小雪は、隣のヒナタを見る。


 ヒナタはスマホを取り出し、

 画面を見て、眉をわずかに寄せる。


「……電車、止まってるって」


 雨脚が強い。


 小雪もスマホを確認する。


「ほんとだ」


 一拍。


 屋根のある場所まで走るか、

 このまま待つか。


 ヒナタは言わない。


 小雪も言わない。


 傘の中の距離だけが、近い。


「うち、近い」


 ヒナタはそれだけ言った。


 小雪は少しだけ迷う。


 雨は強い。


 タクシーは来ない。


 屋根の下も、人でいっぱい。


「……歩ける?」


「五分くらい」


 一拍。


「じゃあ、少しだけ」


 ヒナタは頷く。


 傘に雨音が跳ねる。


 狭い。


 二人で入るには、少しだけ。


 雨は横殴り。


 肩が触れそうで、触れない。


 ヒナタは傘を少し小雪側に寄せる。


 ヒナタの肩が濡れる。


 小雪は気づく。


 何も言わない。


 歩く音と、雨音。


 それだけ。



 家に着くころには、二人ともずぶ濡れだった。


 ヒナタは無言で鍵を差し込む。


 水滴がコンクリートに落ちる。


 扉が開く。


 小雪は、ほんの少しだけ足を止める。


 玄関の明かりが、内側からこぼれる。


 ヒナタが振り向く。


「風邪引く。入って」


 命令でもなく、誘いでもない。


 ただの事実みたいな声。


 小雪はヒナタを見る。


 一拍。


「……おじゃまします」


 小さな声のあと、

 ドアを閉める音が、少し遅れて残る。


 部屋は整っていた。


 物が少ないわけではない。

 けれど、どれも決まった場所に置かれている。


 ギターケースは壁際。

 テーブルの上には、飲みかけの水。


 生活の匂いはあるのに、

 どこか余白がある。


 ヒナタらしい、と小雪は思う。


 ヒナタは迷いなくタオルを取り出す。


「これ」


 短い。


 ドライヤーを差し、差し出す。


 自分の髪から水滴が落ちていることには、気づいていない。


 小雪はそれを見る。


 ぽた、と床に落ちる。


「……あったまったほうがいいな」


 一拍。


「シャワー、浴びたほうが」


 言った瞬間、意味が遅れて届く。


 部屋の空気が、わずかに止まる。


 視線を逸らす。


 言い直さない。


 ヒナタは黙る。


 何もからかわない。


 何も広げない。


 ただ、目を一度だけ伏せて。


 ただ短く。


「着替え、貸す」


 クローゼットに向かう。


 背中が濡れている。


 小雪は、その背中を見る。


 ヒナタはクローゼットからスウェットを取り出す。


 一瞬だけ迷う。


 それから、振り向かずに言う。


「……先、シャワー使って」


 声は低い。


 続けて。


「風邪引く」


 それだけ。


 余計な言葉はない。


 小雪は、少しだけ間を置く。


「ヒナタは?」


「あとでいい」


 即答。


 嘘じゃない。


 優先順位が、ただはっきりしているだけ。


 小雪は頷く。


「借りるね」


 浴室の扉が閉まる。


 水の音が始まる。


 ヒナタはしばらく、その音を聞いている。


 視線を落とす。


 濡れたシャツが肌に張りついている。


 やっと、自分の服を脱ぐ。


 タオルで髪を拭く。


 遅れて、水滴が落ちる。


 静かな部屋に、シャワーの音だけが響く。


 事故みたいな雨だったな、と思う。


 さっきの現場を思い返す。


 小雪の横顔。


 音に向かう視線。


 逃げていない、と感じた。


 浴室の音が止まる。


 ヒナタは顔を上げる。


 視線を扉から逸らし、

 整えるみたいに、息をひとつ吐く。


 数秒後、ドアが開く。


 貸したスウェットは少し大きい。


 小雪はタオルで髪を押さえている。


「ありがとう」


 ヒナタは頷く。


「温かいの、飲む?」


 それだけ。


 キッチンに向かう。


 距離は保ったまま。


 湯気が立つ。


 マグカップを二つ置く。


 白い湯気が、同じ高さで揺れる。


 二人はテーブルを挟んで座る。


 沈黙は重くない。


 でも、静かだ。


 外ではまだ雨が降っている。


 何も起きない。


 何も越えない。


 それでも。


 この夜は、確かに何かを残している。



 ヒナタは何も言わずに乾燥機を回す。


 濡れた服が回り始める音。


「乾くかな」


 小雪がぽつりと言う。


「明日、午後から音出しだよね」


 ヒナタは頷く。


「うん」


 それだけ。


 小雪はカップを両手で包む。


 あたたかい。



 外の雨音はまだ続いている。


 一拍。


「なんか」


 小雪が小さく笑う。


「子どもの頃みたいだね」


 ヒナタは顔を上げる。


「安心する」


 静かな声。


 ヒナタは何も返さない。


 でも視線は逸らさない。


 小雪が少しだけ首を傾ける。


「音、聞く?」


 音楽は流さなかった。


 雨音と、洗濯機の低い振動。

 その奥で、冷蔵庫の小さな音が途切れずに続いている。 


 二人は黙っている。


 会話はない。


 小雪はマグカップを両手で包んだまま、

 窓の外を見る。


 ヒナタは少し離れた場所で、

 同じ方向を見ている。


 目は合わない。

 でも、視線は揃っている。


 ふと、シャンプーの匂いが混じる。


 湯気と、雨と、柔らかい甘さ。


 ヒナタは何も言わない。


 視線は窓の外だけ。


 雨粒が街灯に照らされて落ちていく。


 洗濯機の振動が、床を伝う。


 静かだ。


 でも、寒くはない。



 乾燥機の完了音が、小さく鳴った。


 同時に、雨脚が少しだけ弱まる。


 ヒナタは窓の外を見ている。


 小雪も、立ち上がる。


「……呼んでみるね」


 スマホを操作する。


 一度目はだめで、

 二度目でタクシーが捕まる。


「五分だって」


 ヒナタは頷く。


 玄関で、靴を履く。


 返されたスウェットは、きれいに畳まれている。


 ヒナタはそれを受け取り、何も言わない。


 扉を開けると、雨はまだ降っている。


 でも、さっきより静かだ。


 タクシーのライトが、角を曲がってくる。


 一拍。


 小雪が振り向く。


「今日は、ありがとう」


 ヒナタは短く。


「うん」


 それだけ。


 小雪はドアを閉める。


 タクシーが走り出す。


 ヒナタはしばらく、そのテールランプを見ている。


 やがて見えなくなる。


 部屋に戻る。


 さっきまでの温度が、まだ残っている。


 洗濯機の振動は止まり、

 雨音だけが続いている。



 ヒナタは立ったまま、少しだけ息を吐く。


 それから、ようやく浴室へ向かう。


 シャワーをひねる。


 水の音が広がる。


 温かい。


 濡れた髪を指でとかす。


 今日のことを思い返す。


 現場。


 雨。


 傘。


 マグカップ。


「安心する」


 言葉が、遅れて胸に落ちる。


 ヒナタは目を閉じる。


 守るだけで、よかったのか。


 答えは出ない。


 水が肩を流れていく。


 雨音と、同じ速さで。


 踏み込まなかった。


 でも。


 嫌ではなかった。


 静かな夜だった。



「じゃあ、自己紹介から!」


 明るい声。


 三人、同時に一拍遅れる。


 ヒナタは、まだ状況に追いついていなかった。


 ハヤテは案件だから、と申し訳なさそうな顔をして、

 コウタは少し困ったような顔をして、

 自分は、流されるままにここにいる。


 向かいの笑顔が近い。

 声が早い。

 反応が軽い。


「……バンド、やってます」


 短い。


 そのあとが続かない。


 コウタが補足する。

 ハヤテが自然に場を回す。


 二人は上手い。


 冗談も挟むし、空気も読む。


 ヒナタだけが、少し遅れている。


 質問は来る。

 答えは出せる。


 でも、噛み合わない。


 笑うタイミング。

 話題の跳ね方。

 興味の向き。


 ほんの少しだけズレている。


「かっこいいね」


 そう言われる。


 ヒナタは頷く。


 胸の奥に手応えがない。


 音は鳴っていない。


 三人でいるのに、

 ヒナタだけ、どこか一歩外にいる。


 息が浅くなる。


 あの雨の夜が、ふと浮かぶ。


 洗濯機の低い音。

 窓を打つ雨。


「安心する」


 その言葉だけが、残る。


「ヒナタさんって、どういう人なんですか?」


 不意に振られる。


 笑顔は明るい。

 悪意はない。


 ヒナタは、一瞬だけ言葉を探す。


「……どういう、って」


 時間を稼ぐ。


 ハヤテが横から笑う。


「こいつ、真面目」


 コウタが補足する。


「音に関しては、特に」


 ヒナタは小さく頷く。


 それで済ませる。


「えー、もっとなんかあるでしょ」


 身を乗り出される。


 ヒナタは口を開く。


 言える。


 好きなもの。

 休日の過ごし方。

 趣味。


 言える。


 でも、選ばない。


「……別に」


 短い。


 空気が一瞬だけ止まる。


 ハヤテがすぐ拾う。


「こいつ、説明苦手なんですよ」


 笑いが起きる。


 成立している。


 でも、触れていない。


 そのとき、不意に耳に入る。


「……これ、修行だな」


 ハヤテが、グラスを口元に運んだまま言う。


「高難度」


 コウタが視線だけで返す。


「終わったら、チュロス」


 ヒナタの耳には、その言葉だけがはっきりと届いた。


 笑い声よりも、

 向かいの質問よりも、

 強く。


 小さく頷く。


 三人の呼吸が揃う。


 ズレは消えていない。


 それでも。


 三人の音が合う。


 半分でいい。



 店を出ると、夜風が少し冷たかった。


 照明の明るさから離れて、

 ようやく目が楽になる。


「営業としては成功だな」


 ハヤテが言う。


「一応な」


 コウタが肩をすくめる。


 ヒナタは、遅れて息を吐いた。


 駅前の屋台は、まだ灯りがついている。


 ハヤテが指さす。


「約束」


 三本のチュロスが紙袋に入る。


 それぞれ手に取る。


 一口。


「……甘」


 ヒナタが小さく言う。


「今日ずっとそれ」


 ハヤテが笑う。


 コウタが、少しだけ真面目な声で言う。


「選ばなかったな」


 ヒナタは、チュロスを見たまま止まる。


 否定しない。


「……選ぶ気、なかった」


 嘘でも強がりでもない。


 ただ、その通りだった。


 ハヤテは軽く言う。


「まあ、あれはあれでな」


 コウタも頷く。


「悪くはなかった」


 悪くはなかった。


 それは本当だ。


 でも。


 音は、合わなかった。


 ヒナタは気づく。


 選ばなかったのではなく、

 選ばないまま、守っている。


 半分。


 まだ、半分。


 チュロスをもう一口かじる。


 甘さが、はっきりする。


 駅前で三人は別れる。



 ヒナタは一人、夜道を歩く。


 夜は少し乾いている。


 甘さが、まだ口に残っている。


 ポケットの中のスマホには触れない。


 通知も確認しない。


 何も、動かさない。


 部屋に戻る。


 灯りをつける。


 いつもの机。

 いつものギター。


 触れない。


 ジャケットを椅子にかけて、

 そのままソファーに沈む。


 静かだ。


 さっきまでの声も、

 笑いも、もうない。


 雨の夜が、少しだけ浮かぶ。


 洗濯機の低い音。


 雨。

  

「安心する」


 息を吐く。


 今日も、越えていない。


 でも、崩れてもいない。


 ヒナタは、そのまま目を閉じる。


 音は出さない。


 何も決めない。


 ただ、半分のまま、夜を終える。



「この前さ、スノフレと合コンしたんだよね」


 昼休み。


 何気ない声で、職場の先輩が言う。


 小雪は、ペンを持つ手を止めない。


「へえ」


 軽く返す。


「前から気になっててさ。

 プロデューサーにお願いして」


 悪びれない笑顔。


 悪意もない。


「……どうでした?」


 自分の声が、少しだけ静かだと気づく。


「盛り上がったよー。今、全員フリーだって!」


 フリー。


 一瞬だけ、視線が落ちる。


「ドラムの人が面白くて、ベースの人がしっかりしてて」


 小雪は、頷く。


 想像できる。


「……ボーカルは?」


 自然に出た。


「どうだっけ? あんまり喋らなかったかも」


 小雪は、少しだけ笑った。


 そうだろうな、と思う。


 無理はしない。


 選ばないときは、徹底して選ばない。


 目の前の人を傷つけない程度に、

 でも踏み込まない。


「ちゃんと見てないと、分からない人ですよ」


「え?」


 小雪はそれ以上言わない。


 ペンを持ち直す。


 胸はざわついていない。


 ただ、少しだけ確かめたくなる。


 あの夜は、勘違いではなかったのか。


 ヒナタは、何も選んでいないのか。


 それとも。


 選ばないまま、守っているのか。


 小雪は静かに思う。


 自分は、どうする。



 数日後。


 スタジオ仕事の帰り。


 エレベーターを待つ間、小雪が言う。


「この前の話」


 ヒナタは視線を上げる。


「合コン」


 短い。


 逃げ道はある。


「……営業」


 ヒナタは、いつもの調子。


 小雪は頷く。


「うん」


 そこで終わらせてもいい。


 でも、終わらせない。


「ヒナタ、選ばなかったんだね」


 ヒナタの肩が、ほんの少しだけ止まる。


 責めていない。


 確認しているだけ。


 「……選ぶ必要、なかった」


 少し遅れて返す。


 小雪は、まっすぐ見る。


「必要ないときは、いいと思う」


 一拍。


「でも」


 エレベーターの到着音が鳴る。


 ヒナタは視線を逸らす。


「ずっと、必要ないまま?」


 扉が開く。


 ヒナタは答えない。


 小雪も追わない。


 扉が閉まる。



 部屋に戻る。


 灯りをつける。


 ギターは、いつもの場所にある。


 視線だけ向ける。


 触れない。


 ジャケットを脱ぎ、椅子にかける。


 水を飲む。


 座る。


 静かだ。


「ずっと、必要ないまま?」


 言葉だけが、残る。


 否定はできる。


 理屈もある。


 でも、胸の奥がわずかに騒ぐ。


 ヒナタは、動かない。


 音も出さない。


 夜が、ゆっくり過ぎていく。



 三人。

 リトルスノーのリハ。


 イントロ。


 音が、わずかに前に出る。


 ハヤテが目を上げる。


 コウタも、すぐに合わせる。


 一周回ったあと。


 ハヤテが言う。


 「……今の、悪くない」


 ヒナタは肩をすくめる。


 「そう?」


 コウタが短く。


 「一歩、出たな」


 ヒナタは何も言わない。


 自分では、はっきり分からない。


 でも、守るだけの形ではない。


 次の入りが、ほんの少し速い。


*


 ライブが終わる。


 照明が落ちて、汗が冷える。


 楽屋に戻ると、まだ少し耳鳴りが残っている。


 「今日、リトルスノーよかったです」


 スタッフが言う。


 水を飲んでいたヒナタの手が、少し止まる。


 「アレンジが変わって、輪郭はっきりしましたよね」


 何気ない声。


 分析でもなく、賞賛でもなく、事実みたいに。


 ハヤテが、にやりとする。


 コウタはタオルで首を拭きながら、


 「だってさ」


 とだけ言う。


 ヒナタは、少し遅れて笑う。


 「そう?」


 理由は言わない。


 きっかけも言わない。


 耳鳴りの奥で、三人の音がまだ揺れている。


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