追手
——もう、こんなところにはいられない。
そう強く思ったのと、優が跪いたのが同時だった。
「あの塀を越えて行こう。この背にのれ、桜子」
「行かせると思うかい」
桜子は構わず優の背に乗った。
直後、優は懐から鉤縄を放り投げた。
桜子を抱えたまま、敏捷な動きで檜皮葺の屋根へ跳び上がる。そのまま東の対屋へ続く渡殿の上を駆け抜け、同じ入母屋造の屋根から跳躍し、侍所の屋根に飛び移ると、築地塀はもう目の前だった。
そばの庭木を足がかりに登る——と、土塀に鋭く何かが突き刺さる。優は足場を取られ均衡を崩したが、転落することだけは免れた。ガキン! と刺さったのはクナイだった。素早く身を伏せた優は、桜子を背後にかばったまま言った。
「先に行け、桜子。こいつの相手をしたら俺も行く」
後ろを振り向いている余裕などはなかった。
月明かりを頼りに目測でおよその距離を推し量ると、桜子はすべるように塀から落下した。
受け身を取ったが強かに背中を打ち、その衝撃を受けて転がると、剣戟の刃音に混ざり叱咤する声がした。
「すぐ裏手に小高い山がある。行くんだ」
それ以外、言葉を交わす暇はなかった。
ここでつかまったら、もう二度と外に出られなくなるかもしれない。それを直感し、桜子はもてる限りの力を使って走った。
邸の塀から離れれば離れるほど、深くたちこめた霧が晴れるように、頭のなかが澄んでいくような気がした。
——あそこにいると、私は私自身ではいられなくなってしまう。そうなるように仕向けられていた。
もう少しで、誰かに利用されるだけの存在になるところだった。相手がたとえ皇と呼ばれる者でも、籠に棲む鳥のように飼われて生きていくのは嫌だった。
それでは自分自身を失うのと等しい。それがいくら栄誉であろうとも、伊織が言ったのはそういうことなのだ。




