追憶
桂木と口論した経緯もあり、桜子は日が落ちる間際に稽古場へ足を踏み入れるようになった。
合図の目印がないのを確認する。陽が大分長くなったため、通う人がいなくなった後も、一人で稽古をする時間はあった。木刀を片手にゆっくり呼吸しながら、桜子は基本である型の動きを忠実に体でなぞった。
腕からの距離が長くなる分、初めは重心がつかみにくかったが、それに慣れてしまうと寧ろ木刀を手にしている時の方が躍動のある大きな動きになる。先端まで意識を集中させると、木刀は腕の一部のようだった。手足が長くなるような感覚だ。
桜子は転換して半身になり、木太刀の切っ先を閃かせながら、一連の動きを何度も繰り返す。よどみなくなめらかに、次の型へ移行できるように。
そうしていると、扇を手に舞う母の姿が浮かんだ。
母も神楽舞をする時は、他の一切を顧みず、その動きだけに集中したのだろう。
ただ無心に。無欲に。
そうすることで、水脈の大蛇を司る剣の守り手になるなんて、思いもしなかったに違いない。
母もその力を、もとある場所に還したかったのではないか。ふと、そんな気がした。母はそれができなかったから、その願いを薫に託したのだ。
そう考えると、薫が母の言葉——もしくは撫子自身のことを、尊重する姿勢にも合点がいく。薫が守りたいと言ったのが口先だけのことではないにしろ、それは撫子がそう言い残したからだ。
薫が守りたいのは、それを望んだ母の言葉なのだ。桜子自身も知らない、ずっと昔の遠い約束として。
ひと通りの動きを終えた後、おもむろに桜子は木刀を斜にかまえた。静止したのは、視線を感じたからだ。誰かにまるで、監視されているような——
かまえた姿勢のまま上を見た桜子は、夕日に照らされた影にギョッとした。稽古場の柱の梁に腰掛ける者がいたのだ。
見覚えのある天狗の面をつけているが、それが薫でないことは、その身長差で明らかだった。どちらかというと細身の薫に比べ、面をつけた人物はがっしりと逞しく見える。桜子が木刀を大上段に対峙すると、その人物は音もなくするりと梁の上から地に降り立った。
「しばらく見ない間に、ずいぶん足捌きが様になってきたね」
やわらかい物言いを聞いても、桜子はその人物が誰か分からなかった。
 




