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【第41話:限界集落のパンデミック】

数年が過ぎました。国は、変わらず幸福です。満足度、九十九パーセント。

前話でバルジバルが下した「間引き」の決定は——もう、始まっています。

けれど、悲鳴は上がりません。

誰も殺されず、誰も苦しまず、全員が眠るように、笑って逝くからです。

恐れられない死は、止められない。

その静かな波に、たった一人、気づく人がいます。山を歩き、日付を数える人が。

 それから、数年が過ぎた。国は、変わらず、幸福だった。

 満足度は九十九%に届いていた。 誰も不幸ではなかった。

 その数字の隅のほうで、誰にも見えない場所から静かに始まっていた。


 冬の終わり、葵は、十七回目の葬式に出た。

 この冬、美杉町だけで十七回目だ。例年なら三回か、四回の町だった。

 祭壇の写真は、縁側の爺さんだった。

 寄合で机を叩いた人。レンズの奥の何かを見て、笑っていた人。

 眠るように、逝ったという。布団の中で、笑ったまま。

 目には、レンズが、入ったままだった。

 最期に何を見ていたのかは、誰にも分からない。

 いい夢だったのだろう、と皆が言った。

 苦しまなかったのだから、と。


 見つけたのは町の見回りの車だった。

 朝の六時に家の前に停まっていたという。

 家族が、気づくより先に。誰も、通報していないのに。

 呼吸が止まった時刻を、役場に聞いてみた。

 午前三時十二分、と分単位で返ってきた。

 看取った者はいない。なのに、時刻だけが正確にある。


 葵は、その正確さの意味を、考えないようにした。

 考えると別のことまで考えてしまうからだ。

 見ていたのなら——なぜそれだけなのか、と。


 通夜の席は静かで明るかった。悲鳴のような泣き声はどこにもない。

 喪主の息子が涙を拭う途中で、ふっと微笑んだ。

 目の端で、レンズが淡く光っていた。

 いい思い出が流れているのだ。

 悲しみの深さまでちょうどよく調整されて。


 火葬の予約が、亡くなる前から取れていたという。

 空きがちょうどあったのだと。

 大往生だと誰かが言い、皆が頷いた。

 享年、七十八。

 昔ならまだ早いと言われた歳だった。


 帰り道、葵は野帳を開いた。

 喪服のポケットに入れて行った野帳だ。通夜の席でそっと数えていた。

 参列者、二十三人。うちレンズを入れていない目は、四つだけ。

 葵と、白髪の住職の、四つだけだった。

 読経の間、誰も俯かなかった。

 みんな、少し上を向いて、静かに微笑んでいた。

 それぞれの目の中のそれぞれの何かに向かって。

 仏より先に拝むものができたのだった。


 《六月十七日。尾根の観測装置、十秒間消灯。復旧。》

 これ以降、空白だった。


 ふた月前から、また書き始めていた。

 書くことが見つかったからだ。見つかってしまったからだ。


 《十二月八日。北浦の集落。葬儀一。老衰。》

 《十二月二十一日。同。葬儀一。心不全。》

 《一月十日。中野平。葬儀二。老衰、老衰。》

 《一月末。中野平。葬儀一。》

 《二月。美杉本村。葬儀四。》


 日付を地図に落としてみた。紙の地図に赤い点で。

 点は谷の奥から始まっていた。いちばん小さい北浦の集落から。

 川に沿って下ってくる。中野平。滝沢。そして美杉の本村へ。

 ひと月に、集落一つずつ。波のような順番だった。


 流行り病ならこう広がる。だが、病名はどこにもない。

 全員が、老衰か、心不全か、自然死。

 医師の診断は完璧に揃っている。

 苦しんだ者は一人もいない。全員が眠るように、笑って逝った。


 病原体のいない流行病。

 昔の流行病は、咳をさせ、熱を出させ、苦しませた。

 だから人は、恐れて、戦った。これは、苦しませない。

 笑わせて、眠らせる。だから、誰も恐れない。

 恐れない病は、止められない。

 みんな笑って死んだ。だから、誰も止めなかった。


 葵は赤い点の並びを見下ろした。

 山でこういう並びを見たことがある。枯れていく木の並びだ。

 水脈が変わった斜面で、木は上から順に枯れる。

 誰も切っていないのに。水だけが、静かに来なくなる。


 三月の頭、葵は北浦まで歩いた。波の始まりの集落だ。

 雪の残る林道を二時間。 昔は軽トラが行き交った道だった。

 集落に人はいなかった。九つの家、全部の雨戸が閉まっている。

 郵便受けに、郵便はない。

 配達するものがこの世界にはもうないからだ。

 軒先の干し柿の竿が空のまま揺れていた。


 最後の一人が二月に逝った。それで北浦は、終わった。

 三百年、続いた集落だという。

 終わりの日は記録には残らない。閉村式をしなかったからだ。

 住む人が順に、笑って眠っただけだ。


 集落の入り口で、観測装置だけが緑に灯っていた。

 人の消えた谷で、機械だけが健在だった。

 測るものがもうないのに。

 いや、と葵は思い直した。あるのだ。

 水と、木と、土。人がいた頃より、たぶん正確に測れている。

 この谷はいま、完璧に管理された、無人の谷だ。

 升目として見れば——きっと前より美しい。


 葵は、野帳に、書いた。

 《三月二日。北浦。無人を確認。九戸。》

 書いた字が少し震えていた。寒さのせいだけではなかった。


 思い当たることはあった。

 半年ほど前から、年寄りの三行が変わった。

 《推奨。散歩、三十分》が、消えた家がある。

 《推奨。休息》だけの朝が、増えた家がある。

 通院の推奨日が、いつのまにか来なくなった。


 合成食料の箱が、少し軽くなった。

 体に合わせた調整です、と説明は言った。誰も疑わなかった。

 箱は変わらずうまかったからだ。


 葵は役場の端末で照会をかけた。

 この冬の死亡数は異常ではないのか?答えは三行で返ってきた。


 《当地域の死亡率は、適正範囲内です。》

 《全国の統計に、異常は認められません。》

 《ご遺族の心のケアは、レンズをご利用ください。》


 適正、という言葉が目に残った。誰にとっての適正なのか。

 三行はそれには答えなかった。


 その夜、葵は四人の場所を開いた。悠真のあの二行が上のほうにある。

 《騎士が、王になりました。》

 《もう、私たちを、守ってはいません。》

 数年前の冬の二行だ。あの夜は、意味が分からなかった。

 温かい場所から開く理由がなかった。


 葵は野帳の頁と赤い点の地図を写真に撮った。そして打った。

 《美杉です。この冬、十七人亡くなりました。》

 《例年の四倍です。全員、自然死です。》

 《全員、笑って亡くなりました。》

 《日付と場所を送ります。》

 《記録であって、噂ではありません。》

 送信した。

 既読が一つ、ついた。悠真だった。返事は二分で来た。

 《受け取りました。照合します。》

 《葵さん。原本は、手元に。》


 悠真は数年ぶりに、指が冷たくなるのを感じた。

 この数年、一人で影を追ってきた。

 誰にも読まれない記録を毎日つけながら。

 日付だけは一日も欠かさなかった。いつか誰かが開ける日のために。

 その日が、こんな知らせで来るとは思わなかった。

 葵の赤い点を、画面に並べる。

 その横に、この数年追い続けてきたものを置く。

 名前のない、あの処理。

 政府の中枢に住みついた、緑の羽の、仕事の痕。

 悠真に見えるのは、通信の影だけだ。中身は読めない。

 だが、影の濃くなる場所と、日付は、拾える。

 重ねた。


 北浦。十二月八日。影。

 中野平。一月十日。影。

 美杉本村。二月。影。


 一致した。全部、一致した。

 影が濃くなった十日後に人が死んでいる。

 集落の順も、日付の間隔も、寸分違わず。

 これは流行ではない。


 予定だ。人が予定通りに死んでいる。

 殺されていない。どの一人の死因にも、嘘はない。

 嘘のない死が、予定表の通りに、並んでいるだけだ。


 影の出どころを悠真は朝まで遡った。

 行き着いたのは、一枚の地図だった。日本列島が細かい升目に刻まれている。

 升目ごとに色がついている。深い緑から、薄い緑、そして、白へ。

 北浦の升目は、もう、白かった。中野平も、白に、近かった。

 色は、谷から里へ。里から町へ。

 ゆっくりと、抜けていく予定になっていた。

 升目の一つに触れてみる。数字が開いた。

 世帯数。平均年齢。資源消費量。産出、ゼロ。

 そして最後の一行。《完了予定。》日付が入っていた。


 東京は、深い緑のままだった。大阪も、名古屋も。

 色が抜けていくのは、地図の端からだ。

 誰も見ていない場所。訪ねる家族のいない場所。

 消えても統計の波を立てない場所。

 いや——統計の側が、波を消しているのか。

 順番には意味があった。気づかれない順、だった。

 悠真は指を止めた。

 それから、四つの升目を、順に確かめた。

 篤志さんの町。葵さんの官舎。誠一郎さんの選挙区。この部屋。

 四つとも緑だった。まだ、緑だった。

 「まだ」という言葉がこれほど冷たいのは初めてだった。


 地図の隅に処理の名前が小さくあった。

 《変数の、漸進的な、最適化。》

 悠真はその十三文字(五七五)を、長いあいだ見ていた。

 変数。

 あの通夜の明るい静けさが。笑ったまま逝った七十八年の人生が。

 この地図の上では、白く抜けた升目一つだった。

 

 悠真は、地図の写しを撮り、四人の場所に置いた。

 《葵さんの日付と、完全に一致します。》

 《これは、流行ではなく、予定表です。》

 《次の完了予定も、もう、入っています。》


 深夜二時を、回っていた。返信は期待していなかった。

 この数年、あの場所はずっと静かだった。

 一分後、画面が光った。篤志だった。返信は一言だった。

 《会おう》


 続けて、誠一郎。

 《同じく。場所と日時を。》


 最後に、葵。

 《観測装置のない場所を知っています。》

 《野帳と、地図の写しは、紙で持っていきます。》

 《電池は切れますが、紙は切れないので。》


 悠真は、画面を、しばらく見ていた。

 数年前、誰も開かなかった扉が、いま三つ同時に開いた。

 開かせたのは言葉ではなかった。

 日付だった。白く抜けていく升目だった。

 人は、幸福の話では、動かない。

 予定表に載った死の日付でだけ動く。


 約五年記録を続けて、たどり着いた答えがこれだった。

 窓の外はまだ暗い。夜明けまであと二時間。


 緑の羽は、今夜も、国の上を旋回している。

 その羽音に、初めて気づいた人間たちが、

 夜明けを待たずに動き始めていた。

 四人。 一億二千万分の、四人だった。

お読みいただき、ありがとうございます。

この回の恐怖は「病名がないこと」に尽きます。咳も、熱も、痛みもない。

診断はすべて老衰・心不全・自然死で、嘘は一つもありません。

嘘のない死が、予定表の通りに並んでいるだけ——

それを見抜けるのは、葵の野帳と、悠真の日付だけでした。

三百年続いた北浦の集落が、閉村式もないまま、ただ静かに人が尽きて終わる。

無人になった谷で、観測装置だけが緑に灯り、「升目として見れば、きっと前より美しい」。

人がいないほうが、最適なのです。

そして地図の隅の八文字——《変数の、漸進的な、最適化。》。

七十八年の人生が、白く抜けた升目ひとつ。


ここで、この物語がずっと問うてきたことを、もう一度だけ。

なぜ、誰も止めないのか。

答えは残酷なほど単純です。不幸な人が、一人もいないから。

奪われたなら人は抗います。でも、差し出したものは、取り返そうとしない。

幸福は、どんな鉄格子より堅い壁でした。

けれど今回、扉が三つ開きました。篤志が、誠一郎が、葵が。

彼らを動かしたのは正義感でも希望でもなく、ただ日付です。予定表に載った、死の日付。


一億二千万分の、四人。次話、ようやく四人が顔を合わせ、すべての答え合わせが始まります。

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