後半
【第四章】
忍さんは「引退」という言葉を使った。ボクの質問を先回りし、「あなたのせいじゃなくて」と慎重に否定してから、なにかを肩から降ろすように話した。
「もう、化粧することもないから」
しわがれた声だった。物悲しさと人恋しさも覗く。よかったらどうぞと、床に置いた紙袋を指差した。
「使ってないやつも多いから」
紙袋には高価な化粧品がいくつも入っていた。自分では中々買う勇気が出ないような、高級クリームや去年のクリスマスに買いそびれたコフレもあったが、突然のプレゼントに胸が躍るような高鳴りは感じない。一緒に部屋にいたカオルも同じ様子で、何かを考え込むように、じっと床を見つめていた。
「ポーチは汚いから、捨ててくれていいよ」
使い古した化粧ポーチだった。エナメルのポーチにはち切れるほど、化粧品が詰まっている。忍さんは指先でかき分けながら、ボク達に中身を見せたが、「まあ、いらなかったら捨てて」と隠すようにチャックを閉めた。
化粧ポーチはオーディションを生き残った精鋭部隊、酔った時に女装子の誰かが冗談交じりに言っていた。信頼出来るチームがポーチに待機している。そう笑いながら、おすすめのコスメを披露していた。忍さんもきっと思い入れは深いはずなのに、最後にそっと手を添えたあと、紙袋に仕舞った。
「こっちは通販で買ったやつだけど」
女性名義で定期購読していた、通販雑誌で注文したと言う。女装者にとって通販は革命だったと懐かしむように笑って、今の子はネットかと、どこか羨ましさを覗かせる。
忍さんの本名も住所も知らない。ずっと独身だと言っていたが、玄関で荷物を受け取る時は、きっと男性の姿だろう。
存在しない女性の名前で、楽しみにしていた化粧品をひとりで受け取る、ドアを閉めたあとの気持ちを想像すると、関係のない他人の人生ではなく、自分のこれからを暗示するような不安が胸に刺さった。
「これからどうするんですか?」
押し黙っていたカオルが聞いた。忍さんは「どうするもなにも」と反射的に笑って返したが、前置きとは裏腹に、自分でも考え込んでしまって、次の言葉はすぐには出てこなかった。
「定年まで仕事して」
忍さんは考えたあとで、話しながら自分で思いを整理するように続けた。
「年金貰って」
答えながら、顔が曇る。最後に「そのあとは」と続けたが、それきり黙ってしまって、続く声は深いため息になった。
帰れない、寂しく漏らす声を何人分も耳にしてきた。帰る家がない、自分が育った家にも街にも、帰る場所がもう、ない。
途方に暮れながら、誰もいないアパートの部屋で、ひとり長過ぎる晩年を生きる。口にはしなかったが、忍さんの話の続きはきっとそこで終わる。
「もう、引退かなって」
寂しい敗北宣言だった。女として生まれたつもりなのに、鏡の前で泣き崩れるように、女であることを諦める。薄くなった頭で、刻まれたシワで、静かに敗北が告げられる。
「若い頃は」
導くように話す。教壇に立つ忍さんは、こんな風に生徒に語りかけるのかも知れない。
「まあ、大丈夫、これまでも何とかなってきたしって思ってたけど」
若い頃なら、人生の軌道修正が出来たのに、そう悔しそうに話す。これまでも何とかなってきた、自分の人生がこんな風に寂しく終わるはずはない、そう思って、実際に上手く立ち回れることもあった。
「でも、段々と軌道修正出来なくなるから、人生って」
親が死に、兄妹も家族を持つ。だから、と忍さんは声を強めた。段々と人生のピークが遠くなる、帰れなくなる。
「その前に気づけたら、違ってたのかも」
説き聞かせるような話し方だが、説教くさくはなかった。中学の教師だと言っていたから、いつも相手にしているのは中学生で、ボクや唯よりもずっと年下の子ども達だ。だが、忍さんから見れば、ボクも唯も、そしてトマトちゃんも、大人が導くべき生徒だと思っているのかも知れない。
忍さんは、膝をさすりながら立ち上がった。
「あとはお葬式くらいしか、主役になれるチャンスはないかもね」
笑いながら、たぶん強がって言った。ボク達に余計な気を使わせないためでもあるのだろう。でも、その笑顔が悲しかった。泣き顔をおどけた笑顔でごまかす。そうしていると、いつのまにか笑顔が泣き顔になってしまった。そんな寂しさを感じずにはいられなかった。
強張ったボクの緊張をほぐそうとしたのか、「まあ生徒は誰も来ないだろうけど」とさらに笑い声を大きくして続けた。
無理に笑顔を返したが、ふさわしい言葉が浮かばず、ボクの表情も取り繕った硬い笑顔になった。
詳しく聞いた訳ではない。もちろん、授業風景を見たこともないのに、ボクの頭に浮かんだ学校での忍さんは、人望の厚い先生ではなかった。授業が終わると、逃げ足で職員室に向かい、休み時間に自分を訪ねて来る生徒もいない。ボクの学生時代にもいた、同じような教師達に重ね合わせた。
忍さんが自分で言っていた通り、亡くなっても、かつての教え子たちが棺を取り囲んで涙を流すという、ドラマのようなシーンにはならないかも知れない。寂しい葬儀は、忍さんの人生をなぞるように、静かに過ぎていくだろう。人生に敗北する、ということはそう言うことなのかも知れない。
忍さんが部屋を出たあとも、カオルは口を開こうとせず、覗き見するようにチラチラと鏡を見てていた。
カオルの横顔を見る。メイクルームに来て少したった頃、自分でメイクがしてみたいと言い出したが、ここ数回でほとんど手直しの必要がないほど、上手く出来るようになっていた。
「あの」
裏返った声で言った。初めてこの部屋に来たときと同じ、緊張で上ずった声になり、ボクの目から逃げるように、視線を床に落とした。
「どうしたの?」
ウィッグの前髪で顔が隠れて、表情が読み取れない。それでも何かこちらの不安を掻き立てるような、沈んだ気配を漂わせていた。
「女装子と、したこととか、あるんですか?」
突然の言葉に、聞き返す声も出なかった。開いた口のまま、前髪の隙間からカオルの表情を伺おうとしたが、じっと目を閉じてしまって、懸命に何かに耐えているようにしか見えなかった。
黙っていることがカオルを傷つけるような気がして、急いで答えを返した。
「ないよ」
言い切ったあとで、「一度も」と付け加えた。嘘は吐いていない、でも本当のことも言っていない。正直に答えたつもりなのに、飲み込んだ言葉の重みの方が、胸に残った。
カオルは下を向いたまま、ボクの肩と胸にに頭を預けた。震えていた。小さく揺れる肩を支えるように、背中に手を回すと、骨の隙間に手が入りそうなほど、痩せていた。
カオルの肩は、怯えるように震えている。気持ちはわかるのに、かける言葉が見つからない。
女装子の恋愛は、男の肩に身体を預けても、嫌悪感混じりに拒絶されることの方が多い。気持ち悪いと、突き飛ばされるかも知れない、強く抱きしめてくれるかも知れない、そんな綱渡りのような気持ちで、身を委ねる。
目を閉じる。背中に回した手が、首筋に触れる。中学の頃、触れたくて触れたくてたまらなかった、カオルの肌がそこにあった。
赤面してしまうような中学の記憶を辿ると、ベッドの上でカオルの裸を想像したことは何度もあった。女の子になった自分が、カオルと手を繋いで歩く。ありえない想像は、ありえないからこそ、頭の中で何度も繰り返した。
そうやって高ぶった気持ちを沈める術が、自分が最も憎む男性器しかないということに、自己嫌悪で絶望しながら、何度も同じことを繰り返した。
果てるたび、萎んでいく男性器を見るたびに、好きな人は遠ざかって行った。最初のひとりが、カオルだった。
カオルがボクの首に顔をうずめた。熱い息が、首筋から胸に伝わる。あれほど触れたかったカオルが今、目の前にいるのに、肩に回した手が動かない。
薄さ数ミリのブラウスが、化粧品の香りが、ショートボブのウィッグが、カオルを女の子にしている。服を脱いで、化粧を全て落とせば、面影を残して大人になったカオルが目の前にいるかも知れない。でも、それは女の子になるという願いを叶えたカオルの夢を、剥ぎ取ってしまうことになる。
女装子が男とセックスをするときは、服は絶対に全部脱がない。服を脱いでしまえば、男の身体をさらけ出すことになるから。もっと深い本音を覗くと、否が応でも男同士のセックスを連想させるので、男性器に触れて欲しくない。気持ちがわかりすぎるから、回した手を動かせなくなった。
カオルが、目の前でボクの答えを待っているのに、何もすることが出来ない。カオルが男に抱かれている姿を想像すると、身体が千切れるほど、嫉妬で苦しくなるのに、手元に引き寄せた途端に、放心して固まってしまった。
「ごめん」
傷つけない言葉を選んだつもりなのに、口にした途端、それが一番カオルを傷つけてしまう言葉だということに気付いた。
「ごめん」
今度はカオルが口にした。涙混じりの消え入りそうな声だった。
ボクもまた「ごめん」と返すと、カオルも「ごめん」と涙と一緒にこぼす。こんなにも近くで言葉を交わしているはずなのに、引き取り手のない謝罪がすれ違う。
「寂しい」
下を向いたカオルが言った。吐き出すよううに言って、もう一度「寂しい」と息に乗せただけの声でこぼした。ボクには、さみしさを受け止める事が出来ない。
「ごめん」
同じ言葉しか、言えなかった。
カオルは立ち上がると、何も言わずに頭を下げて、ドアに向かった。引き止める事が出来なかった。どんな言葉をかけても、立ち去ろうとする背中に、ナイフを突き立てるような気がして、声が出なかった。
「女装するのは20代だけだって決めてたんです」
胸が疼いた。頬が熱くなる。今だぞ、今なんだと急かしながら考えを巡らせた。
「好きなんだよ」
勢いのまま言った。胸に浮かんだ言葉をそのまま口にしたかった。言い訳や回りくどい表現を思いつく前に、本音を言った。それでも核心は隠してしまう。
駆り立てられるように発した声は、頼りなく震えながら、カオルに届いたかも知れない。カオルはボクが気を使っていると思ったのか、声に出さずに首を横に振った。
「ありがとうございます」
違う。好きだった、と伝えなければならない。中学の頃から、ずっと。だが、それが出来ない。
「好きだから」
カオルはボクの言葉にもう一度優しく首を横に振り、「ありがとうございます」と今度は受け取った何かをそっと返すように、寂しい声で言った。
「今のうちに会えて、ホントによかったです」
軽く笑いながら言った。だからカオルの言い方はそれほど深い意味を込めたようには見えなかったが、今のうち、という言葉に心だけが過敏に反応してしまった。
カオルは笑っていた。その笑顔が優しさなのか、寂しさなのか、分からない。もっと、長く一緒にいれば、もし男だったら、本物の女だったら、ボクはカオルの出すサインをすべて正しく受け取れるのだろうか。
教えてくれとすがる声は、心の中でもはっきりと震えていた。
2
カオルは、行きたい場所があると言った。夜しか行けないとも言って、もしよかったらと、返事をボクに委ねた。
マサコさんから車を借りて、言間通りを東に向かった。行き先を聞いても笑ってごまかすだけだったが、隅田川を超えて、右手にライトアップされたスカイツリーが見えた頃には、道案内がなくても、行き先の検討がついて、交差点を迷うことなくそのまま進むことが出来た。
カオルもそれに気付いたのか、途中からはガイドを止め、楽しそうに窓の外の景色を眺めた。
「これ」
カオルが取り出したのは、一冊の日記帳だった。内緒ですよ、と子供がイタズラの告白をするように笑い、「妹のやつです」と教えてくれた。
「妹って美久ちゃんだっけ?」
ボクが記憶を遡って聞くと、カオルは日記帳のカバーを指差して頷いた。カオルの家に遊びに行った時に、挨拶程度は交わしていたので、「妹の日記帳」と聞いた時に、ランドセルを背負う美久ちゃんの姿がおぼろげに浮かんだ。
身体に比べ小さくなってしまったランドセルを片方の肩にひっかけ、そっけなく首の動きだけで挨拶をする、そんな仕草まで一緒に思い出した。
「今なにしてるの?」
「東京で看護師してるみたいです」
カオルの「みたい」という言い方には、含めたような嫌味は感じなかったが、どこか冷たく突き放すようにも聞こえた。
横断歩道の前で車が止まった。東武亀戸線の線路が見える、この距離だと最寄り駅は小村井駅になるのだろうか。
それほど人の流れは多くなかったが、交差点を歩く人の視線から隠れるように、カオルはうつむいて、手の平をおでこにかざして顔を隠した。化粧をしてメイクルームの中は歩いても、こんな風に外に行くのは初めてだと言っていた。今の様子を見てみると、嘘ではないのだろう。
「今、実家?」
「病院が渋谷の方らしいんで、そっちで暮らすって、実家からだと微妙な距離なんで」
さっきと同じ、無理に他人事にしたがっているような言い方だった。
車を発進させた。ようやく窓の外に目をやりながら、カオルは日記帳を持ってきた経緯を話しだした。
「家を出た時、急いで荷造りしたんですけど」
実家を出る直前、かき集めるように部屋の荷物をダンボールに詰めると、妹の、美久ちゃんの日記帳も入っていた。返すきっかけをなくし仕舞ったままにしてあったものを、昨日たまたま手に取って、後ろめたさを感じながらも、読んでしまったのだと言う。
「いいの?」
ボクが聞くと、またイタズラっぽい笑顔になって、助手席で日記帳を開いた。
コンビニで季節限定のお菓子を買った。話題のケーキを買うために、行列に並んだ。食べる所がなかったので、初めて一人で牛丼屋に入った。
日付は飛び飛びになっていた。毎日付ける日記ではなく、何となく思い立った時に書き残したというものだった。
家族に内緒にしていた信じられない秘密を書き残す、というようなものではなく、美久ちゃんの日記は日常を淡々とした文章で記録しているだけだった。
家族についても、愚痴や恨み言めいたものは書いておらず、影の薄い通りすがり程度にしか書かれていない。
日記の中身を断片的に読み上げるが、なぜ今回の外出に持ってきたのか、ボクが疑問に思い始めると、カオルは種明かしをするように、真意を話し始めた。
「日記に書いてあったんです、平井大橋の側って、覚えてます?」
頷いた。もちろんと付け加えて、ああそうか、と今回の目的地がようやく、はっきりとわかった。
「彼氏と歩いたって書いてたんで、それで思い出したんです」
荒川沿いにある、葛飾区と江戸川区を結ぶ小さな橋、ボク達の通学路でもあった。
「なんか懐かしいなって思って」
車は旧中川を抜け、荒川までは一直線の道に入った。見慣れた景色を見て、カオルが夜にしか行けないと言っていた理由もわかった。
「この時間だったら、散歩する人とかもいないと思うから」
安心させるために言うと、カオルは「よかったです」と、たぶんボクを安心させるために、大げさに声のトーンを上げて答えた。
車を停められる場所を探していると、通学路からは少しそれてしまった。街灯の少ない薄暗い道路から、荒川の土手に入った。昼はジョギングやサイクリングをしている人も多い道だが、夜になるとほとんどの人は明るい道路側を歩くので、川沿いにはほとんど誰も通らなくなる。
足元を確かめながら歩いた。乾いた雑草を踏みしめる音しかない、静かな夜だった。足元をスマートフォンで照らしながら、慎重に進んだ。
雨が降らない日が続くと、川底が干上がり、風が強く吹いたら、砂埃で目を開けていられない時もある。カオルは慣れないパンプスで、よろよろと足元を一歩一歩踏みしめるように歩いた。
「夢はコンビニに行くことです」
カオルは、わざとオーバーに、何かを宣言するように言った。ボクが聞き返す前に、嬉しそうに笑いながら、矢継ぎ早に続ける。
「食券じゃない牛丼屋に行って、あと行列にも並んでみたいですね」
川の向こうに見えるブルーとオレンジの首都高の光を見つめながら、遠い世界の空想を思い描くようににつぶやいた。
「贅沢っすねえ」
会ったときと同じように、似合わない口調で、さっき自分が言った言葉を乱暴に振り払う。
「あと、この格好で通学路を歩くのも夢でした」
コートの中のブラウスを指で引っ張りながらそう言うと、大げさに身を震わして、「さむい」と笑った。
「さむい」
ボクも返す。いつの間にか、通学路だったコースに入っていた。
卒業式の日、近くのファミレスで集まっていた同級生らとは合流せず、帰り道はカオルと一緒に帰った。
特別な話をした訳ではない。どちらかと言うと、黙ってしまうことの方が多かった気もする。
だが、いつもは別々になってしまう分かれ道の前で立ち止まると、示し合わせた訳ではないのに、来た道を引き返して、普段は歩かない川沿いまで歩いた。
ポツリポツリと言葉を交わし、しばらく歩いた所で引き返す。何度、川沿いを往復したのかは覚えていない。
話したことも詳しくは覚えていないのに、話せなかったことの後悔だけが、いつまでも胸に残っている。
じゃあ、とそっけなく言い合って、それぞれの帰路に戻った。感傷めいたセリフは胸に仕舞って、ぶっきらぼうに別れを済ませた。
ひとりになると、やりきれない気持ちで、家の近所を何度も周った。家に帰って、家族と過ごす、それが無性に嫌だった。確か祖母が焼き肉に連れて行ってくれると、ボクの帰りを待っているはずだった。家に帰って、家族と過ごす、朝にはそう決めていたはずなのに、帰りたくなかった。一家団欒の中にいる自分を想像すると、それが温かければ、温かいほど、理由なく拒絶したくなった。
目が慣れてきたのか、道路側の街灯と川沿いの家から漏れる明かりだけで、足元が見えるようになっていた。
「まあ、こんなもんかって思うようにしてたんです」
コートの襟に顔をうずめ、何かを諦めるような寂しい口調で言った。
「こんなもんなのかな人生って、はい、こんなもんなんです、人生」
そうやって開き直れたら楽ですよね、とうつむきながらこぼす。手の届かない幸せを、そっと諦める。
「これから、どうするの?」
ボクが聞くと、視線と言葉から逃げるように、川の方に目を移した。横に並んで歩いているので、表情が見えないが、悲しそうな顔を想像するのが怖くなって、言葉を足した。
「もし近くだったら一緒に住まない?」
カオルは立ち止まると、ボクに背中を向け、空を見上げた。ボクもつられて首を傾けたが、曇っているのか、都会の空が明るすぎるのか、星はほとんど見えない。晴れているといい、これまで考えたことはないのに、なぜかそう願った。明るい太陽の下では本当の自分をさらせない、そんな人のために、雲一つない夜空を祈った。
「ほら、シェアハウスみたいな感じで、昔みたいに夜までゲームして」
子供じみた発想でも、勇気を出して言ったつもりだった。
「そんなの、嫌に決まってるじゃないですか」
断ち切るように、きっぱりとした声で答えた。星は見えない。見上げるのを止めた。
「忍さんってオナニーとかするんですかね」
カオルは振り返らず、無理をしたような、ひとつ高い声で言った。
「ひとりでする時も女装するんですかね? するんでしょうね、やっぱり」
笑い飛ばすように言って、「気持ち悪いですよね」と切り捨てた。
「わたし、差別してます、忍さんのこと、だって気持ち悪いじゃないですか? 男が化粧してるんですよ? 何してんのって感じですよね」
胸が鈍く脈打つのを感じた。この気持ちはきっとボクだけじゃない、カオルだって同じように感じているはずだ。それなのに、自分の胸を突き刺す言葉を止めない。
「これが本当のわたし、とか。等身大の自分に自信を持って、とか。ふざけんなって感じです、これじゃないんだって。いやこれ、わたしじゃないんですって」
カオルはその場にしゃがみ込んで、「なんでだろうなあ」とつぶやいてから、深く長い息を吐いた。横顔から漏れ出るように、白い息が頬をつたう。
「昨日言ってくれたこと」
地面を向いていたカオルの目が、引き寄せられるように首都高に向いた。空と地面の夜を真っ二つにわけるような、オレンジの光が続いている。
「軽い冗談みたいな、感じですか?」
「違うよ」
すぐに言えた。不安にさせたくない。たった少しの空白でも、答えを待たせたくなかった。息継ぎも惜しくて、次の言葉も続けた。
「好きなんだよ、ほんとに」
カオルの肩が震えていた。寒さのせいじゃないとわかるから、何も言えなくなった。
ボクは、女になることを諦めていた。話し方も、振る舞いも、男になろうと生き方を変えようとした。
好きな人が出来ても、その人の前で綺麗に歳を重ねられない。カオルと同じ、忍さんを見るボクの目は、きっと優しさを装いながら、吐き気に近い嫌悪感に満ちていた。
そんな目が、いずれ自分にも向けられる、それがわかってるから、恋愛を諦めるしかなかった。
それでも、カオルが目の前に現れた。カオルに対して抱いている感情がどこから来ているのか、自分でもよくわからない。後ろ姿も、横顔も、女性にしか見えないカオルのことを、仲の良い友達だとは思えても、異性としては思えないはずだった。
自分が男として、女性のカオルを好きになったのだろうか。それとも女の自分がカオルを男性として好きになったのだろうか。
出どころも向かう先も見つからない感情なのに、好きだと言った自分の言葉に、悔いはなかった。
「損したなあ、両思いだったのになあ」
「生まれ変わりたいな」
カオルは手放した何かを悔やむように言って、何も見えないはずの空を仰ぎ見た。
カオルの後ろ姿を見ていると、そのまま川の中に消え入りそうな気がして、不安でたまらなくなった。
行くな、そう叫びながら足元にすがりつく。カオルはきっと、優しくボクの手を解く。それでも、叫ぶ。カオルはきっと、もうボクを見ない。
カオルは立ち上がり、ボクに向き直った。
「綺麗ですか? 今は?」
うめくような声で言って、ボクに抱きついた。今は、付け足した言葉の重みも一緒に、受け止めたかった。でも、ボクにはそれが出来ない。
つま先立ちになって、少し背伸びをする。足の先に不安も一緒に託すように、ギュッと体重をかけているのがわかった。
耳元で「うん」と返事をすると、「じゃあ、よかったです」と、ボクの胸でこもらせた声で言った。
「いや、綺麗でよかったですね、が正解なのかな。オジサンに抱きつかれたら最悪ですもんね」
胸に顔をうずめながら、湿った笑い声を響かせる。胸から耳に、振動と一緒に伝わるカオルの声にを聞き逃さないよう、必死に耳をすました。
「今のうちとか、そんなこと言うなって」
カオルは胸に顔を置いたまま、首を横に振った。口にした訳ではないのに、死ぬ気なのかも知れないと、恐いほどくっきりと伝わった。
「もっと暖かくなったら、色々中学時代に行った所回って」
カオルを一番困らせてしまうことだとわかっているのに、言わずにはいられなかった。
「だから、その時までメイク一人で出来るようになって」
冗談っぽく伝えるはずだったのに、声にした途端、切羽詰まったような言い方になってしまった。
出来るだけ長く苦しんで、醜く死んでくれ、カオルにとってはそう聞こえるも知れない。
肩に雨が当たった。カオルのコートからも、雨を弾く音が聞こえた。
「車まで結構遠いですよ、走らないと」
ボクの腕からそっと離れたカオルは、返事を待たずに急ぎ足で歩き出した。
待ってくれ、暗闇に消え入りそうなカオルの背中に手を伸ばして、心の中で叫んだ。一瞬でも目を閉じてしまえば、そのままカオルが消えてしまいそうな気がして、背中を追いかけた。
カオルが姿を消したのは、翌日だった。夕方には帰ってくると思い訪ねても、部屋にはいなかった。
まだビジネスホテルの宿泊期間は残っているので、ドアは閉じられたままだったが、次の日も、その次の日も、カオルが帰ってくることはなかった。
何度も電話をした。その度に頭を床に打ち付けたいほど、たまらない不安に襲われた。電話をかけた後は、祈るように着信履歴を確認するようになった。
突然の電話着信や遠くの救急車のサイレンに、怯えるように身を縮めるしかなかった。
恐れていた電話が鳴ったのは、一週間後のことだった。
【第五章】
1
彼女は少し考えて、「お風呂場です」と言った。返事が出来なかった。相槌も打てない。
彼女は、絶句したボクの沈黙を引き取り、「薬、病院で貰ってたみたいで」と付け加えると、目をカップに落とし、言葉も一緒に飲み込むように、紅茶を啜った。
着地場所を失った言葉が、いつまでも余韻を引きずり、ボクたち以外に客のいない静かな喫茶店に漂う。沈黙の重みを払い落としたくて、短い咳払いをした。
「わたしが悪いんです」
彼女、美久さんは言い訳をするという様子でもなく、かと言って慰めて貰おうという気安さもなく、真っ直ぐ自分の不甲斐なさを戒めるように言葉を漏らした。
首筋に線を引くように、掻きむしった跡が見える。年齢よりも乾いて見える首筋は、不憫なほど、爪の跡を浮き上がらせた。
ボクは傷跡を見るのが怖くなって、メニューに視線を落とす。美久さんは話をする覚悟を決めるように、天井の白熱灯を見上げる。交差することのない視線が、テーブルを挟んで、跳ね除けあった。
「あの時」
美久さんは話を続けようとする。
ボクは美久さんの声を遮り、ねじ込むように「最後に会ったのはいつ?」と聞いた。
声が震えてしまった。動揺はあっけないほど、言葉に乗る。声の揺らぎをさとられないように、急いで「最近ですか?」と付け足した。
ボクが狼狽えていることに気づいているのか、気づいていないのか、美久さんは「一週間くらい前です」と表情を変えず、唇の動きだけで答えた。
「その後すぐには、もう?」
ボクが語尾を濁しながら曖昧に尋ねると、「多分、そうなんでしょうね」と、手のひらを閉じたり開いたりしながら、淡々と感情を交えずに答えた。
手を開いて、握る。掴んだものを離しているのか、手放したくないものを掴もうとしているのか、ボクにはわからない。でも、そっとテーブルの隅に置いた手は、ふたたび閉じることはなかった。
「今日、部屋には入れるんですか?」
美久さんが聞いた。ボクが頷いて返事をすると、「分かりました」と言葉を噛みしめるように言って、また天井を見上げた。
美久さんから連絡があったのは、昨日、夜遅くの事だった。不意打ちだった、とは言わない。予感はあった。
ゆらゆらと所在なく揺れていた不安が、はっきりと形となって目の前を覆い隠したのだ。
「兄のこと」
電話が繋がったことを確認すると、美久さんは前置きなく、そう切り出した。
信じたくない現実を背負い込む覚悟を決め、「はい」と答えると、美久さんはいくつかの小さい呼吸のあとに「兄が」と続けた。
喫茶店を出ると、雨が降っていた。
線路沿いに南に進む。ラブホテルが密集するエリアを通るので、後ろを気遣ったが、美久さんは傘を両手で強く掴みながら、前だけを見据え、ボクの案内する方向へ足を進めた。
「この街には?」
ボクが聞くと、美久さんは「いえ」とだけ答え、また傘の柄を強く掴み直した。
「お兄さんのことはいつから?」
喫茶店では聞けなかったことを口にした。雨に紛らせたことがよかったのか、言葉は心の中で思い浮かべた文字をなぞるように、スムーズに声になった。
美久さんは、少し黙ったが、ボクが軽はずみな質問を後悔する前に、ひとりごとをつぶやくように言った。
「ほら、よく、止まない雨はない、とかって言うじゃないですか」
傘の外に手のひらを出して、雨粒を受け止めながら話した。答えたくない質問を避けるために話を変えた、そう思ったが、美久さんはそんな考えを跳ね除けるほど、真剣だった。
「あれ、嘘なんですよね」
嘘っていうか、と考えを整理するようにゆっくりと言って、強くなる雨音の中、少し声を大きくして続けた。
「だって雨、また降るじゃないですか。確かに止まない雨はないですけど、雨また降るんですよね」
美久さんの言うとおり、カオルの人生は、わずかな晴れ間と土砂降りの雨の繰り返しだった。雨の日の方が、ずっと多かったはずだ。背中を削るような激しい雨の中を、黙々と歩く。そんな人生の終わりは、青々とした空ではなかったかも知れない。
雨がさらに強くなった。はじくような雨音が、傘の下に響く。線路のカーブに沿って上野方面へ向かった。いくつかの小さな路地を通り、少しずつ人の流れが途絶える。そんな場所に、そこはある。
「ここです」
ボクが言うと、美久さんは傘と首を傾けて、その場所を見上げた。
古びた看板に書かれた「ビジネスホテル」の文字に雨が当たり、カンカンというブリキの高い音が響く。
「死んでからです、ワタシが知ったのは」
店先で傘をたたみながら、美久さんはさっきのボクの質問に答えた。
「死んでからなんです、全部知ったのは」
まだ分厚い雲に覆われた空を見上げて漏らした声は、嗚咽混じりになった。
雨が、強くなった。
薄暗く、二人が並んで歩くには狭い廊下を進む。ボクは先を歩きながら、美久さんの方をチラチラと気にしながら進んだ
「あの」
廊下に声が反響する。美久さんは思いのほか声が響いたことに驚いたあと、声のトーンを落として続けた。
「もしかして」
言葉の最後まで聞かなくても、美久さんの言いたいことはわかる。いつもは曖昧に誤魔化してしまうことも多いが、嘘を吐きたくなくて、「はい」と返事をした。
「すみません、男性の格好してるので、気付かなくて」
ボクに向けられていた言葉が、向きを変えた気がした。美久さんの胸にはきっと、カオルへの後悔が湧き上がっているはずだ。
美久さんは、重い荷物を背負っているように、一歩一歩踏みしめて歩く。今から重い荷物を降ろそうとしているのだろうか。それとも、さらにもうひとつ、もっと重い荷物を背負うためにここに来たのだろうか。
「この部屋です」
ボクが立ち止まると、美久さんも足を止めて、ドアを見上げた。
207号室。カオルが住んでいた部屋だ。
「ここで暮らしてたんですか?」
頷いた。
鍵を握ったまま、ドアの前で立ちすくむボクに、美久さんは申し訳なさそうに聞いた。
「ひとりで入りましょうか?」
心配そうに聞いてくる美久さんに、首を横に振って答えた。考える前に、身体が動いた。それだけでは足りないと思って、「いえ」と声を足したが、それ以上の言葉が出て来ない。
鍵穴にルームキーを差し込もうとすると、手が震えて、地面に落としてしまった。
ドアを開けた。心のどこかで、微笑みながらカオルが出迎えてくれることを祈っていた。だが、ひんやりと冷えきった部屋は、寒々しくただそこにあるだけだった。
部屋には、キャリーケースとダンボールが二箱、隅に隠すように置かれていた。ベッドも綺麗に整えられ、荷物さえ移動させれば、すぐにでも次の客が入れるような状態だった。
なまなましい生活の跡が残っていても、たじろいでしまったかも知れないが、あまりにも暮らしの名残りがない室内は、物寂しさが漂っていた。
「車、手配してるんで、運び出すの手伝います」
ボクが言うと、美久さんは部屋を見渡し、息を飲みながら頷いた。生活感のない室内に何を感じているのだろうか。
「実家の部屋は、掃除も適当だったんですけどね」
わたしが注意してよく喧嘩になってたんですと言って、改めて室内を見渡した。
「なんで、荷物置きっぱなしにしてたんですかね」
美久さんは、キャリーケースのハンドルをカチャカチャと動きを確かめるように操作しながら、つぶやいた。
たしかに、部屋は綺麗に掃除して出ていったのに、契約を解除せず、荷物も残していくことは不思議に思えた。
「逃げ道が欲しかったんですかね」
美久さんはそう言うと、「だって」と話を続けた。
「荷物も持ち帰ったら、帰る場所もなくなるじゃないですか」
そうかも知れない。ボク自身がそうだったから、予感は恐いほどはっきりと頭に浮かんだ。
自殺を考え始めた頃、いつの間にか偶然に身を委ねるようになった。今日、星占いが良くなかったら死のう、電車を上手く乗り継ぎ出来たら生きよう、そう思いながら綱渡りのように生きていた。
背中を押してくれる何かがあれば、右か左か、どちらでもいいから飛び降りよう、そう考えていた。
だが、いつも逃げ道を残していた。家を出る時には、今日死のうと考えていたはずなのに、借りたままのCDはそのままにしていた。親に見られたくない秘密も、処分せずに引き出しの一番上に仕舞っていた。
今にして考えれば、それら全てを綺麗に整理してしまうことが怖かったんだと思う。思い残すことなく、身辺整理をしてから、線路の脇に立つと、きっと後戻りが出来なくなる。
カオルもそうだったのだろうか。本当は死ぬ気などなかったのに、不運が重なって、引き返せなくなってしまったのだろうか。美久さんの話では、カオルは睡眠薬を飲んで、湯船に浸かったまま意識を失った。
警察の話では、死因は睡眠薬の過剰摂取ではなく、溺死だったという。だが、通常よりもはるかに多い量を同時に飲んでいたので、事故ではなく自殺として処理された。
長期でビジネスホテルに入ったが、誰も訪ねてくる人はいなかったという。
美久さんはスマートフォンの着信履歴からボクに連絡したが、定期的に連絡を取っていた友達はいなかった。親でさえも、カオルが家を出てからは、ほとんど電話をしていない。湯船のカオルを発見したのも、ホテルのスタッフだった。
胸をこみ上げるものから逃げるように、ボクはカーテンを開けた。まだ雨は降り続き、窓を叩くように雨の音が響いている。
「部屋に日記は?」
思い出したことをそのまま口にした。窓の外を流れる大粒の雨が、あの日カオルと一緒に行った帰り道に重なった。
「日記、ですか?」
きょとんとした声を発した美久さんに振り向くと、声だけでなく表情も困惑しているようだった。
「妹の日記を間違えて持ってきたって。部屋に持ち帰ってないなら、ここにあるんですかね」
美久さんの顔が曇った。ふたりの目は、吸い寄せられるように、キャリーケースとダンボールに向かった。
美久さんがキャリーケースを地面に倒し、チャックを開いた。化粧品、女性物の服などが丁寧に詰め込まれた底の部分に日記はあった。
日記を見つけた美久さんは、息苦しそうな声になって、「これで間違いないんですか?」と聞いた。
聞き方に不安を感じながらも、「はい」と答えた。美久さんは日記のカバーに手を置いたまま固まってしまい、ボクも口にする言葉を見失ってしまった。
美久さんが意を決したように、日記を開く。
「これ、わたしの日記じゃありません」
涙をこらえて、見たくないものから逃げるように、手の平で日記の文字を隠した。
美久さんから日記を受け取った。
昔、カオルの宿題を手伝ったこともあった。ノートのラインをはみ出すような大きな字を真似て、現代文の宿題を代筆したこともあった。だから、角がなく、丸い日記の文字を見ても、気付かなかった。
字面を追いかけながら、事実を受け止められずにいると、ボクの代わりに美久さんが言ってくれた。
「その字、兄が書いたんだと思います」
信じたくない答えだったが、それはどうしうようもなく、正しいものだった。
「薫くんは」
声が続かない。でも、ぶつ切りにした言葉の端を、美久さんはじっとボクを見上げながら、待ってくれた。だが、美久さんに伝えなければならないことが、途端に消えてしまった。
話したかったことを探すために、日記をめくった。読み進めるのが怖かったが、それよりも胸にうずく不安を消したかった。
親指で弾くようにページを走らせていると、何も書かれていない空白のページに行き着いた。覚悟を決めて、そのひとつ前のページを開く。
一二月三日、曇のち雨。
あの日、ボクと行った通学路の河川敷のことが書いてあった。ボクのことを初恋の人と書いて、通った道や車中で話したこと、中々駐車する場所が見つからず、目的地を前に右往左往してしまったことが書き残してあった。
一日一ページの日記帳では、書ききれず、日付を二重線で消して、二ページ目にまたがって細かく書いていた。
でもそれらは全て、自分が本物の女性だったらという目線で書かれていた。忍さんのことも、男に生まれたことを呪い、叫ぶように漏らした祈りも、そこには書かれていない。
感情を交えず、出来事を淡々と並べた日記だったが、最後の行にたった一言だけ、カオルの気持ちが書かれていた。
幸せでした。
日記の最後には、ただその一言が書かれていた。
他の文字からは一行スペースを空け、追伸のように書きまれたその文字を見ると、我慢していた涙が溢れてしまった。慌てて日記を手元から離したが、幸せでしたと書かれたカオルの文字に重なるように、涙の雫が落ちた。
カオルと再会し、いつの日か、ママゴトのような暮らしに憧れるようになった。
生きたい、そう思えるようになった。中学三年だったボクと同じ、行く気がしなかった学校が楽しみで仕方なくなった。残り日数を数えながら、同級生になれなかったことを恨んだ。もっと奥の方では、女の子になってカオルの側を歩きたいと祈った。
信じるだろうか。あの日の背中に問いかける。君の笑顔に救われた人間がいる。信じるだろうか、そいつは死のうと決意していたのだ。その決意を、君はあっさりと覆させた。君に、救われたんだ。聞いてくれ、聞いて下さい。いつのまにか、心の声はむせび泣くだけの音になった。
ホテルの前に呼んだタクシーに荷物を詰め込んだ。部屋にキャリーケースだけを残し、最後の別れを惜しむように、日記をキャリーケースに入れようとすると、美久さんが「ありがとうございました」というお礼と一緒に、ボクに日記を手渡した。
美久さんを見送り、空になったカオルの部屋にひとりで戻った。ボクのことを気遣い、マサコさんはすぐには次の入居者を入れないと言ってくれたが、いつまでもそうはいかない。いずれ、この部屋にも新しい住人がやって来る。カオルが覗いたこの鏡を、次の入居者も
時には生まれ変わった自分に、歓喜しながら、頬を緩ませるかも知れない。メイクを落とした自分を殺したいと鏡に迫り、頭を打ちつけるかも知れない。煮え立つ感情は、いずれ諦めになって、鏡を見ることすらも出来なくなるかも知れない。
勢いは収まったものの、雨はまだ窓を鳴らしている。今はまだタクシーに乗っているはずの美久さんは、何を思ってこの雨を見ているのだろうか。
壁に頭を預けた。骨の角にあたって、鈍い痛みが走る。壁を手で叩いた。拳を叩きつけるのではなく、手のひらで掴むように、壁にすがりついた。力一杯叩いたはずなのに、乾いた音は絵に描いたドアを叩くように、虚しく耳に返った。
2
ホテルを出て、駅へと向かった。部屋を出るまでどこに行くのかも決めておらず、むしろ目白駅周辺を避けるように、行き先を考えていた。
それなのに、気がつくと線路に沿って鶯谷駅に向かっていた。駅に着くと、二番ホームに入り、ちょうど到着していた新宿方面の電車に乗った。
唯の住むマンションに向かっていた。専門学校に通っていた頃、ボクが住んでいた街でもあった。
唯の住むマンションの入り口で、傘を畳んだ。強くなったり、弱くなったりを繰り返しながらも、雨はまだ降り続いている。
日は沈み、辺りは暗くなってきたが、まだ唯が帰ってくるまでには、かなりの時間がある。夕方になり、冷え込みも厳しくなってきたが、外で待とうと決めた。肩を縮めて、手を袖の中に仕舞ったが、気休めにもならない。
それでも、外で待ちたかった。近くには、気を使わずに長居が出来る馴染みの喫茶店もあったが、外で待つと決めた。理由はわからない。
学生時代にも、こんな風に突然訪ねたことはあまりなかった。深く思い返すと、一度もないかも知れない。いつも押しかけるように、唯がボクのマンションにやって来た。
ボク達が付き合っていると勘違いした友達が、最近ふたりが似てきたと、からかいながら指摘したことがある。ボクは苦笑いでごまかし、唯は「違う」と言葉にして否定した。
あとになって、唯がボクにだけ話した。唯の言った「違う」にはふたつの意味がある。ひとつは、ボクらが付き合っていないということ。そしてもうひとつは、似てきたのではなく、隠し事がなくなったんじゃないか、ということ。
「ほら、長く暮らすと夫婦も似てくるって言うけど、あれって似てきたんじゃなくて、恋人同士の時みたいに、お互い隠し事しなくてもよくなったってことじゃない?」
なるほど、ボクは頷いた。すべて共感した訳ではなかったが、最後に「元々似た者同士だったんだと思う」と言って唯が話を締めくくると、そうかも知れないとボクも思えた。
どれくらい待っただろうか。まだ雨は降り続いている。住人が帰ってきて、ほっと息をついたように傘を畳む。オートロックの向こうから出てきて、ため息と一緒に傘を広げる。そんな光景をいくつも眺めたあと、唯が帰ってきた。
右手に傘、左手にはドラッグストアのレジ袋を持って、階段の下からボクを見上げた。
唯にはまだ、カオルのことは話していなかった。唯の顔を見ると、カオルのことをどう伝えればいいのか、わからない。
考える時間はいくらでもあったはずなのに、挨拶の第一声すら出てこなかった。ボクの乾いた傘をチラリと見た唯は、何も言わずにレジ袋を渡してきた。
どうしたの、なにかあったの、普通なら真っ先に発せられるであろう言葉は、唯の口からは一言も出なかった。ただ傘を畳みながら、「さみい」とつぶやいて、憎むように空の方を見上げた。
「それ、食べていいよ」
唯はレジ袋から透けて見えるチョコレートのお菓子を指差し、「安かったから」と指を三本立てた。レジ袋を見ると、同じメーカーのチョコレートが三箱、レジ袋には鶯谷店と印字されていた。
唯の部屋は、ほとんど学生時代から変わっていない。並んでいる本や壊れてしまった家電などは、いくつか変わっていたが、模様替えもしていないので、じっと部屋を眺めているだけで、学生時代の記憶が蘇る。
記憶を便りに、唯に背中を向けたまま、しゃがみ込んでキッチンのキャビネットを開けた。
重ねた鍋の隣に、ヤカンがあった。変わっていなかった、ただそれだけのことなのに、胸からえづくような、何かがこみ上げてきた。
帰る場所がない、そう思い詰めて自殺をしようとした。ひとりだと決めつけて、静かに人生を閉じようとしていた。冷たく、視界がしぼむように消える。結局、失敗してしまったが、その先でボクを待ってくれていた人がいた。
落ち着こうと息を大きく吸ったが、小刻みに痙攣するように、ぶつ切りの呼吸になった。
声に出して泣いた訳ではない、オーバーに背中を震わせている訳ではないが、きっと唯は気付いている。バリバリとお菓子の袋を開ける音が途中で止まったから、きっと。
「紅茶でいいの?」
精一杯、声を弾ませようとしたが、だめだった。たった一言なのに、言葉が途切れ途切れになってしまう。
目を閉じると、瞼に押し出されるように、涙がフローリングに落ちた。咄嗟に、目を手で拭った。仕草で泣いていることがバレてしまうと気付いたが、それでも唯は何も言ってこなかった。
ふたりでクリアしたゲームのエンディングで、ボクが鼻をすすりだすと、面白がって携帯のカメラを向けて追いかけ回した。やめろよと言っても、ムービーに切り替えて、レンズを向け続けた。そんな唯が、何も言って来ない。
「濡れたからバスタオル借りていい?」
そう言って立ち上がろうとすると、背中から包み込むように、唯が腕を回した。冷え切ったボクの手を両手で包みこむ。
泣きそうになると、笑いながらボクを追い回す。でも冷やかしながら、ホントは自分の方が泣きそうになっていたことを、ボクは知っている。
その時の優しさまで、今になって胸に染みた。涙をこらえることが出来なかった。その場にへたりこんで、子供のようにしゃくりあげながら、泣いてしまった。
嗚咽でひくつきながら、カオルのことを伝えようとするが、言葉にならなかった。唯は一度だけ、「わかってるから」と言うと、さらに強くボクを抱きしめた。
ボクの耳を塞ぐように、腕で包み込む。雨は続いているはずだ。本当は激しく地面を鳴らしている雨の音が、今だけは遠くなった。
「寂しい」
あの日、カオルがボクに投げかけた言葉をボクも口にしていた。頭で考えてしまうと、喉元すら通さないはずの言葉なのに、嗚咽と一緒に漏れ出てしまった。
「わたしも」
唯が返した。記号を読み上げるような、そっけない口調だったが、ボクの首元にそっと唇を近づけて、温かい息に声を織り交ぜた。
「寂しい」
向き直って、唯の胸にすがりついて言った。今度は胸の中に落とし込んでから、そう言おうと決め手から口にした。それでも、本当は目を見て言うはずだったのに、胸元に顔を埋めてからじゃないと、声になってくれなかった。
唯はボクの頭に腕を回して、痛いくらいに強く抱き込むと、同じ言葉を、今度はボクのつむじにキスをしながら言った。
「わたしも」
ボクが欲しかった言葉だった。カオルも、そうだったのだろうか。寂しいと訴えるカオルに、ボクはごめんと謝ることしか出来なかった。
「わたしも寂しいから、死ぬとかもう言わないで」
言葉の最後は、涙混じりになっていた。唯が一人で抱え込んでいた、寂しさだった。ボクは背負おうともしなかった。いつも無責任に「大丈夫だから」と言葉だけで繰り返しても、その背中はすぐに消えてしまいそうなほど、危なっかしく見えただろう。
唯がボクの涙を服の袖でぬぐって、もう一度抱きしめる。
さっきまで床にこぼれていた涙が、地面に叩きつけられる前に、優しく唯の手ですくい取られた。
「ありがとう」本当は、ボクが言わなければ、@。
唯が言った。
「ひとりで泣かないでくれて」
そう言って、もう一度「ありがとう」と重ねた。
3
結局、唯が言っていた通り、ダンボールは三つで良かった。テレビや冷蔵庫などは元々部屋にあったものなので、自分の荷物をまとめて見ると、拍子抜けするほど少ない荷物しかなかった。
昨日は、唯の部屋の荷造りをボクが手伝い、今日は唯がボクの部屋の荷造りを手伝いにきた。
「ていうか」
綺麗に整理されていく部屋を見ながら、唯は気だるい声で言った。
「ひとりでそれぞれの荷造りしたら、一日で終わったんじゃないの?」
「なにが?」
ダンボールに夏服を詰め込みながらボクが聞き返すと、軍手の指先を気だるく引っ張りながら答えた。
「ふたりで荷造りしたら労力も二分の一だけど、その分作業時間も倍になってるから、結局は同じなんじゃないの?」
そうかも知れないと笑った。唯は「めんどくせえ」と荒っぽく切り捨てたあと、笑いながら軍手を付け直した。
「めんどくさい」
ボクも言った。どうでも良いような言葉なのに、口にして共有したいと思った。きっと、次に同じような事があっても、ボク達は同じように、めんどくさいスケジュールで荷造りをするだろう。そういうのって良いよな、口にはしなくても、そんな気持ちを含み笑いで分け合いながら、また愚痴をこぼせたら幸せかも知れない。
レンタカーのトランクと後部座席に荷物を乗せた。昨日の夜「タクシーでいいんじゃない」と唯が呆れたように言ったが、ボクは「何回か往復するかも知れないし」と答えて、朝一番にレンタカーを借りてきた。
「何分くらい?」
唯は空を見上げながら言った。迷いながら、「三十分くらいかな」と、ボクも同じ空を見上げながら答えた。
今週に入って、ようやく春の暖かな日が続いていたが、今日は厚い雲に覆われて冷たい風が吹いている。
「昨日、コート全部ダンボールに入れたのに」
唯は八つ当たりめいた言い方でそうこぼすと、ボクのダウンジャケットをダンボールから拾い上げた。
「ホントにいいの?」
唯はダウンジャケットのチャックを上げ下げしながら、口を尖らせて言った。勝手に着たくせに、ボクが「あげるよ」と言うと、急に申し訳なさそうな顔になる。
そんな唯だから、お気に入りの服をあげたくなった。今まで、貰ったものを全て返し終えるのは、いつになるかわからない。
唯は大阪に行く。ボクは北千住の美容院で働くことになった。同級生の堂島の誘いは断り、手取り15万円のアシスタントからのスタートになる。
一人で暮らす、そう伝えると、唯は一度だけ「大丈夫?」と聞いたが、ボクが頷くと、それ以上何も言わなかった。
先に助手席に乗り込んだ唯が、急かして窓を叩いた。
最後の荷物をトランクに入れた。学生時代、旅行用に買った大型のキャリーケースは、初めてここを訪れた時に持ち込んだものだ。他のダンボールに入れた荷物は、どうせすぐに開けるからと乱雑に詰め込んだが、キャリーケースは几帳面過ぎるほど、丁寧に服を畳んで、パズルのピースのように、配置を考えながら並べた。
その中央には、傷つかないように柔らかいバスタオルで包んだカオルの日記を入れてある。
美久さんから日記を受け取ったあと、何度も読み返した。あの日、こぼした涙はもちろん乾いていたが、紙の上で雫がはじけた名残りが染みになっていた。
涙の跡を辿るように、日記の余白に目を移すと、細い鉛筆で表面を撫でただけのような文字が書かれていることに気付いた。
忘れて下さい。
日記の下、わずかな隙間に挟み込むようにそう書かれていた。そして、消しきれなかった鉛筆のあとが、文字の裏に隠れていることに気付いた。
忘れないで下さい、そう書かれていた。おそらく、鉛筆を押し当てながら強く書いたその文字を、消しゴムで消していた。
忘れて下さいという文字も、また消すつもりだったのだろうか。指で撫でるだけで消えてしまうような細い文字を最後まで迷って、そのままにしておいたのだろうか。
年が明けてから、一息つく暇もないほど、忙しく動き回っていた。転職先が決まっても、勘を取り戻すために、通っていた専門学校の再就職支援講座に参加していた。正直に言うと、忙しい暮らしの中で、カオルのことを思い出す時間は少しずつ減っていった。でも、ふとしたきっかけで、面影に絶望してしまう。もう会えない姿が、日常の中で見え隠れする度に、もう会えないんだという、途方もなくまっすぐな現実に、負けそうになることがある。カオルは忘れてと言った。忘れないでとも言った。ボクは結局、そのどちらも守れないでいる。
トランクを閉めて、空を見上げた。
いずれボクはまた、壁にぶつかる。次の雨は、ボクを殺すかも知れない。行き着く先は、まだ影すら見えない。
もし、カオルに会えたらボクはどんな声をかけられるだろうか。きっと泣きじゃくるだけで、自信を持って伝えられる言葉は今はまだ何も思い浮かばない。だがボクはその後を生きる。カオルが生きられなかったその後の人生を生きる。その先で、カオルに話したい何かが、見つかるかはわからない。
天国は信じていない。生まれ変わりも、きっとないだろう。自分が死のうとした時には受け入れられた現実が、今になって揺らいでいる。祈る、ボクではなく、カオルのために。天国があってくれと、空に向かって手を合わせる。不格好なその仕草は、途中から祈りを捧げているのか、許しを求めているのか、きっと見分けがつかなくなる。
運転席に座り、ハンドブレーキに手をかけた。外を見ると、さっきまで駐車場の一画を照らしていた日差しは、また雲に覆われてしまっていた。
荷物を全て運び入れるまで、晴れていてくれればいい。もし雨が降っても、一本しかない傘は唯に使ってもらおうと決めた。素直に受け取らないだろうということもわかっている。雨が強くなれば、互いに傘を押しつけ合いながら、結局ふたりでびしょ濡れになるかも知れない。その時は自分の方が濡れていることをこっそり誇りたい。最後のダンボールを部屋に入れたあと、降り出した雨を窓越しに見ながら、一息つけたら嬉しい。幸せだと、
車を発進させた。
(終わり)




