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僕は初恋の男の子にメイクをする

 

【第1章】

 誰かが、外で待っている。


 真子さんは、少し心配した顔になって、ボクにそう伝えた。

「わたしが買い出しに行く前には、もう外にいたから、かなり経ってるんじゃない?」

「え? じゃあ二時間以上、外で待ってるんじゃないですか?」


 今日は、大阪で雪がちらつくような寒さで、風も目を開けていられないほど強い。凍えながら、途方に暮れたようにこの店を見上げている、そんな誰かの姿が目に浮かぶ。


「さすがに声かけた方が・・・」

 心配になって、そう言いかけたが、この店の性質上、むやみに声をかけるわけにもいかないと、すぐに思い直した。


 この店に入る時には、周囲を気にして、躊躇してしまう人も少なくない。

 一応、看板は控えめにしているが、それでも『女装サロン』と書かれた怪しげな雑居ビルの一室に入ることは、相当な勇気が必要なはずだ。


 メイクルームの窓から、ビルの前を覗いた。5階の高さから、路地を挟んだマンションが見える。

「あの子ですか?」


 真子さんの言うとおり、赤いキャップをかぶった、小柄な人影が見えた。

 諦めたような雰囲気で、植え込みに座り込んで、肩にかけたバッグを抱き抱えている。どこか寂しさを感じるその姿を見ると、迷子の子供を見つけたようで、胸がきしむ。


「これって今、店の前にいる子じゃないかな?」

 真子さんは、ボクにスマートフォンを向けて見せた。

 営業時間を告知する投稿に、『今日、メイクをお願いしたいです』と返信がある。


「イタズラって感じではないと思うけどね」

 真子さんは、確かめるように、アイコンを軽くタッチした。


 アカウントが表示される。

 名前は『カオル』、プロフィールには『トランスジェンダー・男の娘』と書かれていた。

「アイコンは初期設定のままですけど」

 ボクは画面をスクロールしながら、何か手掛かりがないか探ろうとした。


「迷惑かもしれないけど、さすがに声かけてあげよっか」

「まだ同一人物か分からないですけど、そうですね」

 迷いながら、そう返事をしたが、たった一枚だけ、ギャラリーに投稿されていた画像が目に止まった。


 真子さんは、ボクにスマートフォンを預け、外に出て行こうとした。

「じゃあ、わたし行ってくるから」

「あの・・・ちょっと待ってください!」

 突然、大声で呼び止めたことで、真子さんは驚いた顔を浮かべたが、ボクも何が起こったのか理解が追いつかず、半ばパニックになっていた。


 SNSのタイムラインを見ると、目元を隠した自撮り写真と共に、「メイク練習中」と投稿していた。

 だが、投稿には「0点」「きつい」など、中傷するようなメッセージが何件もある。それらすべてに、「コメントありがとうございます。メイク頑張ります」と返していた。


「あの・・・これ、ボクの中学の後輩です」

 確信を持てなかったので、「たぶん」と付け加えたが、心臓の鼓動が自分でも信じられないほど、早くなっている。


 真子さんは、「マジで?」とだけこぼして、ドアにかけていた手を引っ込めた。


 もう一度、窓から路地を覗き込む。気づいたときには、窓枠を掴む手が、震えていた。


 本人だと、確信した。

 そして、アカウントの「カオル」という名前は、偽名ではなく、本名だったと気づいた。

 柚木薫、中学のひとつ下の男の子だ。

「で、どうするの? この「カオル」って子も、中学の先輩にメイクしてもらうってなると、気まずいよね?」

 真子さんは困ったように、ボクに答えを委ねたが、ボクも曖昧に笑い返すことしかできなかった。


 ボクは、美容専門学校に通いながら、この女装専用サロンで、アルバイトをしていた。


 講師である真子さんの紹介で始めた仕事だ。

「ボクは大丈夫ですけど、向こうはバレたくないかもしれないですね」

「わたしがあの子にメイクするから、大河くんは裏で隠れてもらっててもいいよ」

 真子さんの提案を聞きながら、窓の外を見た。

 真子さんも、ボクの視線を追いかけるように、窓の外に目をやると、少し心配そうな顔を浮かべた。

 

 カオルはよろよろと危なっかしく立ち上がり、お尻についた砂を手で払った。

 ずっと外にいて、芯まで冷え切ってしまったのだろうか。寒さで固まった身体は動きも緩慢で、ぎこちなく見えた。

「あの子、帰っちゃうんじゃない?」


 カオルは一度、空を見上げるような仕草を浮かべたあと、駅の方へと歩いて行った。

 表情は見えないが、悲しそうな顔を想像するのが怖くなって、振り払うように、無理やり言葉を探した。

「でも、まだ覚悟ができてないなら・・・」


 カオルに限らず、何時間も迷った挙句、やはり店に入る勇気が出ず、帰ってしまう人も多い。

 去っていく背中を見て、疼くような記憶が蘇る。ボクがカオルに投げた無神経な言葉が、今になって自分自身の胸に返ってきた。


 真子さんも、仕方がないという顔に切り替えて、ドラッグストアの袋をメイクルームのテーブルに広げた。


 ボクはまだ、緊張が解けずにいた。深呼吸しようと思っても、小刻みに胸が震えるだけで、上手く息を吸い込んでくれない。


 真子さんは、買い出しの品を鏡台の前に並べながら、ふと思い出したように聞いた。

「あの子と仲は良かったの?」

「いや、学年も違うし。それにたぶん俺、嫌われてると思います」

「なんで?」

 真子さんは意外そうに聞く。

「気持ち悪いとか結構酷いこと言ったんで、だから・・・」

 咄嗟に答えた。嘘は吐いていない、でも本当のことも言っていない。正直に答えたつもりなのに、飲み込んだ言葉の重みの方が、胸に残った。


 真子さんも咎めるような目は向けず、「そう」とだけ言って、店の奥へと入って行った。

 ドアが勢いよく開いた。

 その音に、また心臓が跳ねる。


「またまた、トマトが来ましたよー」

 現れたのは、カオルではなく、常連の女装子、トマトちゃんだった。

「いらっしゃい」

 笑顔を作ったが、気が抜けたような声だと、自分でも分かった。

 まだ足元が宙に浮いているように、力が入らない。気を抜くと、そのまま、ガクッと膝から崩れそうだった。


 カオルに会いたかった、会いたくなかった、反対の言葉がはねのけ合う。逃げ切れたように安堵しながら、今すぐにでも背中を追いかけたい、どちらも本音だった。


 トマトちゃんは、いわゆる「病みメイク」が得意で、服装も地雷系が多い。道を歩いていても、まず男だとはバレない。

「この子。今、店の前にいたんだけどね。めっちゃ顔綺麗だし、細いから、絶対可愛くなると思うよ」

 トマトちゃんは、背後に向かって手招きをしながら、「こっち、こっち」と無邪気に笑いかけた。


 カオルが、そこに立っていた。

「あっ、あの・・・」

 カオルは途切れ途切れに何か言おうとしているが、目を伏せたまま、顔を上げない。

 ボクも、「あっ・・・」と発しかけた言葉が、息のままちぎれて、その先の言葉にならない。

 

 カオルはメイクを依頼したのが、ボクだと分かっていたのか。それとも、偶然にもボクのもとへメイクの依頼をしたのか。

 答えの出ない問いかけを整理するために、カオルの顔を、改めて確認した。


 カオルの顔は驚いてはいなかった。

 予想すらしていなかった中学の先輩が、目の前に現れたという顔ではなく、ずっと探し続けていた相手が、ようやく姿を見せたというような、安堵の表情を浮かべていた。


「お久しぶりです」

 カオルはそう言って、頭を下げた。短い言葉なのに、声は震えていた。やはり、カオルはボクがここで働いていると知っていた。


 言葉が出て来ない。思いがけず狼狽える情けないボクの姿を見て、カオルの顔に申し訳無さが浮かんで見えた。

 急いで心を正した。黙っている事が、カオルを責める事になる。

 そう気付いて、急いで間を埋める言葉を探すが、空気を軽くするような、冗談一つ言えない。


「すみません、突然押しかけて」

 ボクが返す言葉を選んでいると、カオルは長い前髪を人差し指でかき分けながら、もう一度「すみません」と繰り返した。手の先の震えは、きっと寒さだけではない。


 ボクは余計にかける言葉を見失ってしまったが、これ以上黙っていると、途端に泣き出してしまうようにも見えて、「久しぶり」と、結局は最初に思いついた言葉を口にした。


 久しぶり、心の中でもう一度繰り返した。中学時代を思い出していたせいか、心の中の声もずっと幼い響きになった。


 ボクの初恋の男の子が、4年ぶりに、目の前に現れた。


(2)

「夢っていうか、強いて言うなら、コンビニとか行ってみたいです」

 カオルは緊張しているのか、裏返った声で話した。

 部屋に入っても、長い前髪で目元を隠し、ほとんど目を合わせない。でも、目を合わせないことで、逃げているのは、きっとカオルだけではなかった。

「あとは?」

「あと、散歩とか普通にしてみたいし、牛丼屋とかでいいんで、ご飯も行ってみたいし」

 唇の震えが、そのまま声に乗ったような、ぎこちない喋り方だったが、ボクは下を向いているカオルにもわかるように、はっきりと声に出して相槌を重ねた。


「まあ、贅沢っすよねえ」

 カオルは冗談ですよと、防御線を張るように、似合わない口調で笑い飛ばした。


 だが、傷つかないように、いつも先回りして、本音から逃げていたのはボクも同じだ。


 中学の頃、カオルと何気なく話しているときにも、言葉の一字一句を漏らすまいと聞き入りながら、自分の胸にナイフのような言葉が刺さることを強く警戒している、そんな風に日々を過ごしていた。

 カオルと話ができることが何より楽しかった。それなのに、好きな女の子ができた、付き合うことになった、自分が一番聞きたくない話をカオルの口から聞いてしまうことが、怖くてたまらなかったのだ。


「まあ、見た目がギリセーフって感じになれば、コンビニで買い物したいですね」

 カオルはそう言いながら、ボクに紙袋を手渡した。視線を泳がせながら、店内を見渡すが、決してボクの目は見ない。


「これは?」

 カオルの返事を待つ前に、紙袋の隙間から赤色が見えた。カオルは紙袋の中身がボクにバレたと悟り、恥ずかしそうに、また顔を伏せる。


「じゃあ、これは最後でいい?」

 カオルがこれ以上、恥ずかしい思いをしないように、中身には触れず、できるだけ濁して伝えた。

 カオルも、それで安心したのか、オーバーな身振りで、「どうぞ」とボクに紙袋を委ねた。

 笑顔を浮かべてから、ちらりとカオルの胸のあたりを見た。最初は、トレーナーの厚みで気付かなかったが、よく見ると胸にわずかな膨らみがある。


「じゃあ、こっち座って」

 カオルは椅子に座り、真っ直ぐに前を見据えた。鏡に向かって、笑顔と真剣な顔を交互に浮かべながら、最後は覚悟を決めたように唇を強く閉じた。

 

「ずっと、女の子になりたかったんです」

 芯のある声ではっきりと言った。言い終えたあとに、ふと言葉の重みに気づいたように、急に我に返り、顔を赤くして急ぎ足で続けた。

「すみません、気持ち悪いですよね、ぐえーって感じで」

 無理に笑いながら、火照った顔を恥ずかしそうに手で扇ぐ。


 息をするたびに肩が揺れている。カオルの肩にそっと手を置いた。少し汗で湿った服の上から、体温がはっきりと伝わる。


「なんで・・・」

 言葉の続きに迷ったが、結局、ボクという言葉を使った。男になろうと決めた時、自分に強いていた言葉だった。

「なんで、ボクの所に?」

「SNSで繋がってる女装子さんが、リツイートしてたんです」

 カオルは、ポケットからスマートフォンを取り出した。少し操作すると、画面にはSNSに投稿された画像が表示され、ここでメイクをするボクの姿が表示された。


「知らない人にメイクをしてもらうのは無理だなって諦めてたんですけど、先輩なら」

 カオルは迷ったように黙り込んだが、「お願いします」と早口で言葉を締め括った。


 そっか、と笑って頷いた。

 自然に笑えたという手応えがあったのに、自分の姿を鏡で見ることが怖かった。


 何も期待していなかったはずなのに、自分が欲しかった言葉がカオルの口から出なかったことに、勝手にショックを受けて、勝手に落ち込んでいる。

 何か、もっと特別な何か、ボクに会いにきた理由が聞けるはずだと、カオルの言葉を欲していたのだと、今の胸のざわつきで気がついた。

「実は、メイクを、お願いしたかったのは」

 カオルは目を閉じて、一言一言、単語を区切るように、強調しながら言った。

 ドクンと、また胸が深く沈む。

「何?」

 

「好きな人がいるからなんです」

 カオルは、目を閉じたまま、つぶやいた。


(3)

「目が覚めたときに、ああ、今まで見てたのって全部夢だったのかって、ゆっくりと気づくことってないですか?」

 メイク道具を選んでいると、カオルは沈黙の間を埋めるためなのか、唐突に話を始めた。

「それで、夢に出てきた登場人物のことが忘れられなくて。楽しくて幸せで、でも夢だってことも分かってるから、あと数分で記憶からも消えることも分かっちゃって」

 その瞬間がたまらないほど苦しいと、誰かのことを思う顔になって、言葉を閉じた。

「そういう夢を見るときって、いつも中学の思い出なんです」

 中学、という言葉をカオルの口から聞いて、また嫉妬なのか、ボクの中で名前のない感情が生まれ、心が乱される。


 カオルとは中学を卒業して以来、一度も会うこともなかった。ボクが先に卒業したあと、そして高校時代も、知らないことばかりなのだと、当たり前のことに、不意に途方もない寂しさを感じてしまう。


「じゃあ、メイク始めるよ」

 胸のざらつきを打ち消したくて、早足でメイクを始めた。

 カオルの方を見ると、一瞬、笑顔を浮かべたあと、すぐに笑ってしまった自分を罰するように、また沈んだ顔に戻った。


 笑顔を消す所作が、身についているのだろう。中学の頃、カオルの姿を校内で見かけると、一瞬、ボクの方に笑顔を浮かべたあと、すぐにそれを打ち消すように、顔を曇らせた。自分の笑顔が他人を不快にさせるかもしれない、そうやって自分を呪っている人の仕草だと、今さらになって気付いた。

 

「メイクしたいって、思ったきっかけとかあるの?」

 黙っていることに、今度はボクが耐えられなくなって、いつも他の女装子たちにもしている質問を投げかけた。

 カオルは少し迷った顔を浮かべたあとは、溜め込んでいた思いを吐き出したいというように、一息に話し始めた。

「SNSとか見てると、『ありのままでいいんだよ』とか、自撮りと一緒に投稿してる綺麗な人、いるじゃないですか?」

「まあ、ありがちだけど」

「わたしも自己肯定感爆上げしたくて、そういう投稿ばっかり見てたんですけど、でも違うなって思って・・・」

「違う?」

「ありのままの自分が美しいとか、等身大の自分に自信を持ってとか、正しい言葉だけど、いや、でもこれじゃないんだって。いやこれ、わたしじゃないんですって」

 カオルは早口で言い終え、「なんで、こんな風に生まれたんだろうなあ」と、続く言葉は深いため息と一緒にこぼした。

 カオルの耳元に添えていたボクの手にも、横顔から漏れ出た熱い吐息が触れる。


「自分でメイクしたことは?」

 すると、カオルは指を3本立てて「3回だけ」と答えた。申し訳なさそうな顔になったあと、立てた指を微妙に折り曲げる。

「なんでメイクなんてしてるんだろうって、失敗した顔を見て、泣きながら思ってました」

 分かるよと、言葉にはせず、ただ頷いてメイクを進めた。


 ベースメイクを終え、アイホール全体にコーラルピンクのアイシャドウを乗せる。途中から、カオルはメイクの完成を待つように、じっと目を閉じて待っていた。


 元々小柄で、身体のラインも細い。顔立ちも中性的で、骨格の張りも少ない。まだ19歳と若く、肌もキメ細かい。

 いわゆる女装で、「化ける」顔だった。


 黒のジェルアイライナーで、ラインを引く。顔に合わせて、キャットラインも書き足した。目尻が跳ね上がるように、くっきりとした線を描くと、少しタレ目な目元も引き締まり、顔の余白が狭く見える。


「できたよ」

 メイクの完成を告げても、カオルは目を開けようとしなかった。

「あの・・・服とか全部着たあとで見てもいいですか」

 もちろん、と答えた。カオル以外の他の人たちも、メイクをしたあとで、男の格好のまま鏡を見たくないという人は多い。


 カオルは鏡を見ないように、目を床に落とし、持参した紙袋を持って、更衣室に入っていった。


 メイク道具を片付けながら、頭はぐちゃぐちゃにかき乱されたままだった。

 鏡に自分の姿が映る。

 元々、筋肉が付きやすい体質だったが、高校に入ってからは、特にがっしりと肩幅が広くなった。身長も止まらず、180センチを超えた。

 選ばれたかった、そのままの自分を誰かに愛して欲しかった、ずっと忘れようとしていたことなのに、カオルの言葉で、また思い出してしまった。

 鏡を見て、ワンピースを着た姿、ブラウスを着た姿を想像する。こんなボクが、綺麗な女性用の服を着ても、哀れな「化け物」にしかならないということは誰よりも分かっていた。


 更衣室のドアが開いた。

 チャコールのワンピースを着た、カオルが出てきた。

 黒のボブウィッグをかぶり、胸にわずかな膨らみがある。

 紙袋に入っていた下着も、おそらく着けているのだろう。ワンピースのシルエットは、完璧な女性そのものだった。


「気持ち悪かったら、言ってくださいね」

 カオルはきっと、冗談で緊張を紛らせようとしたはずなのに、声が震えてしまって、余計に足がすくんでしまったようだった。


「大丈夫だから、鏡の前で見てみなよ」

 一度深く頷いたあと、カオルは、店で一番大きな姿見の前に立った。

 立ち尽くして、呆然と鏡に映った自分を見た。

「あっ・・・あの」

 口を開いても、息が漏れるだけで、声が言葉にならない。自分を見て、どう受け止めていいのか分からなないのだろう。

「いいんですかね、わたしが、その・・・」

 カオルはきっと、自嘲して卑下して、そんなフィルターでしか、自分を見てこなかった。だから、自分で自分のことを褒めてもいいと、許すことができない、そんな気持ちが、痛いほど分かった。


「いいんだって、それで」

 ボクの言葉に、カオルは一瞬、キョトンとした顔を浮かべ、鏡の中のボクを見た。

 ボクも鏡に映ったカオルに向かって話す。


「死ぬほど勇気出してこの店まで来て、自分でメイクも頑張ろうとして、それでこんなに可愛くなれたんだから、何もしないことだけが、ありのままじゃないだろ」

 感情のまま、言葉に言葉を重ねてしまったが、途中で思いが溢れて、止まらなかった。

「だから、可愛くなれたことを、自分が頑張ったおかげだって、褒めていいんだよ」

 言い切ったあとで、初めて気が付いた。

 カオルが鏡を見ながら、涙を流していた。


 カオルは涙を指の先で拭うと、突然ハッと気付いたように「せっかくメイクしてくれたのにすみません」と謝った。

 ウォータープルーフのマスカラを使ったので、目元はそれほど崩れていなかったが、すっと頬をつたうように、涙の線が光っていた。


「別に嫌だから泣いたんじゃなくて、その嬉し・・・」

 声に詰まったカオルを助けたくて、必死に続く言葉を探った。

「嬉し泣き?」

 カオルが言いかけた言葉を引き取ってボクの方から付け加えた。さっき、気恥ずかしいことを言ってしまったことを隠すために、わざと冗談に紛れさせたくて、笑って言った。


 だがカオルは、泣きながら首をかしげ、自分でも自分の気持ちがよく分からないと、困惑したように続けた。

「たぶん、たぶんなんですけど、順番が違うんです」

「順番?」

「たぶん、嬉しくて泣いたんじゃなくて、自分のことで、泣けたから、嬉しくなったんだと思います」


 この店で再会して、初めて本当の笑顔を見た気がした。そして、カオルは泣き笑いの顔のまま続けた。

「さっきの夢の話なんですけど」

 鏡の中にではなく、ボクの方を向き直って、カオルは話した。

「先輩と一緒にいたときの夢ばっかり見てました」


(4)

 布団の中から、声が聞こえてきた。

 くぐもった声ではっきりとは聞こえなかったが、「何かあったんだな」と、機嫌が悪いことだけはすぐに分かった。


「もう帰ってたの?」

 中にも聞こえるように、少し声を大きくして聞いた。


 彼女は布団を頭からかぶり、かまくらの中に閉じこもるように、ベッドの上に座っていた。中から、炭酸が弾ける音が聞こえる。中の様子を想像すると、三角座りをしながら、酒でも飲んでいるのだろう。


「今日飲み会で、帰りが遅くなるって言ってなかったっけ?」

 続けて質問すると、布団の中から腕だけが出てきた。そして、指を二本立て、「嫌になって、20分で帰ってきた」と、ぶっきらぼうに答えて、また引っ込んだ。


 テーブルには、空になったチューハイの缶が散乱している。ゼミの飲み会から早々に退出し、ボクの部屋で何時間も一人で飲んでいたのか。


「何か嫌なことでもあった?」

 ボクが尋ねると、水面から飛び出すように、「ぷはっ」と大袈裟に息を吸い込みながら、彼女、ツカサが顔を出した。

「別に何にもないけど。まあ暇だったら話とかする?」

 どっちでもいいけど、と投げやりに言って、テーブルのお菓子の袋に手を突っ込んだ。


 ツカサが動いて、髪が揺れるたび、甘い香りが解き放れて空気中に広がる。

 香水を使うような性格ではないし、高価なシャンプーをこだわって使うようなこともしない。だが、身体に一度取り込んで発酵させたようなその匂いは、香料と汗が混じり、独特の酸味を帯びた香りになっていた。

この人の香りだ。


「ねえ」 

 ツカサが天井に向かって、言葉を投げかけるようにこばした。

 まだ手付かずだったチューハイの一本を手に取って、ベッドの脇に座った。

「聞いてるよ」

 声に出さずに言って、チューハイを喉に流した。喉がきゅっと締め付けられるような酸味で気付いた。無造作に置かれた缶の中で、二つだけ手付かずだったこのチューハイは、以前ボクが好きだと言っていたものだった。



 ありがとう、また声に出さずにつぶやいて、天井を見上げた。

「女の人生めんどくせーとか、冗談で言ったら怒る?」

「別に」

 笑って受け流せた。

 差別したり、否定したり、バカにすることは絶対にしない。それがわかっているから、冗談で聞き流せた。


 ツカサには、高校時代にすべて話してあった。すべて、自分の性別に違和感を感じていたこと、友達として始まった関係が先に進む前に、ボクから切り出した。

 知ってた、ツカサは笑いながらそう言って、これまでと同じ関わり方を崩すことなく、今も頻繁にこうして会っている。


「さっきラインしてくれた中学の後輩ってさ、わたしの知ってる人?」

 首を横に振った。高校で出会ったツカサには、カオルのことは一度も話したことはなかった。

「ねえ」

 さっきと同じ言葉なのに、ツカサの声はどこか、寂しげに聞こえた。

「前から聞こうと思ってたんだけど」

 ツカサは柄にもなく回りくどく言葉を選びながら言って、少しだけためらったように間を置いて続けた。


「大河ってさ、女の子のアソコとか、見たことあるの?」

「はあ?」

 唐突過ぎる質問に、思わず声が漏れてしまった。 

 からかうだけで、すぐに笑い飛ばして話を終えると思っていたのに、ツカサはボクが質問に答えるまで待つと覚悟を決めたように、無言でチューハイを飲み始めた。


「ネットでとか、なら」

 ごまかしても、混ぜっ返してきそうだったので、正直に答えた。


 少しの沈黙のあと、ツカサは横になったまま、火照った身体を冷ますように襟元を引っ張り、バタバタと動かしながら服の中の空気を入れ替えた。

「中学の頃なんだけど」

 中学二年の冬、スマホで画像を調べた。

 どんな言葉で検索をしたのか忘れたが、出て来るサイトはアダルトサイトばかりで、海外のものが多かった、と覚えている。

 思春期なりに嫌悪感を感じながらも、食い入るように覗き込んだ。自分の身体には存在しない、本物の女性を見たかった。

 そして心のどこかでは、他の男子がきっとそうだったように、女性の裸を見て性への衝動が湧き上がることを期待していた。


 何かのスイッチが入って、違和感なく男であることを受け入れられる。そう思って、広告だらけの重いサイトをスクロールしたが、淡い憧れが胸に浮かぶだけで、期待していた性衝動が湧き上がることはなかった。


「実物も見たことないの?」

「そうだけど」

 真剣に答えるのが恥ずかしくなって、わざと、不貞腐れた声で答えた。

 胃と食道からアルコールがこみ上げ、口の中で弾ける。それも一緒に飲み込みたくて、底にわずかに残ったチューハイを逆さにして飲み干した。


「見せてあげよっか?」

 冗談だよ、そう言ってすぐに撤回すると思っていたのに、ツカサはゴロンとベッドに仰向けになって、黙ってしまった。

 ボクもどう返事をすればいいか分からなくなって、缶に唇を押し付けて、飲んでいるフリをすることしかできなかった。


「ゼミの飲み会だっけ? 何か嫌なやつでもいた?」

 ボクは座ったまま、ツカサの方を見ないようにして、話を変えようとした。早口になって、動揺していることは、あっけないほど簡単にバレたはずだ。


 ツカサも、ボクが無理に話題を変えようとしていると気付いているはずだが、普通の会話のように、素直に質問に答え始めた。

「だってさ、普通に別のテーブルでしてるような、授業の話とか就職の話とか、漫画の話とかしたいのに」

 ツカサの通う学部は、ほとんど男子学生ばかりで、飲み会などがあると、彼女が唯一の女性になってしまうと、何度か愚痴を言っていた。

「ちょっと仲良くなったら、このあと二人で飲みに行こうよとか、急に男と女の関係にして、性欲向けてくるのマジで気持ち悪い」


 ツカサはそう話しながら、ベッドの上で、身体を揺らしてジーンズを下ろし始めた。

 ボクは余計に、ツカサの方を見れなくなって、逃げるようにチューハイをもう一缶手に取った。


 プルタブを開けると、膝の上に脱いだばかりのジーンズが飛んできた。中にこもった熱気が裾からこぼれ、生々しい体温が伝わる。


「一応恥ずかしいから、何か話して」

 もう一度身体をくねらせる振動がベッドに伝わった。下着を脱いでいるのかも知れない。そう気付くと、ますます目を向けられなくなった。


 ボクが話しのきっかけを見つける前に、ツカサの方から、会話を切り出した。

「今日、お店に来た子ってさ、どんな人だったの?」


 カオルを思い浮かべた。さっきまで顔を見ていたはずなのに、頭の中のカオルは、メイクで女性になった姿ではなく、学生服のままだった。

「中学の一つ下の後輩なんだけど」

 ただの後輩、メイクサロンの客、カオルとの関係を表す言葉はいくつもあったが、声に出して言いたいと心に浮かんだのは、結局、本音の言葉だった。


「初めて好きになった人」

 ボクが答えると、小さく「そっか」と声にして、寝返りを打って、背中をボクに向けた気配が伝わった。


「一応聞くけど、男の子だよね?」

 壁に向かって話しているから、ツカサの声は跳ね返ってボクに届く。

 ツカサの足に布団をかけながら、「うん」とだけ曖昧に言葉を返した。

「来週、頼み事をしたいって言われて、ずっと迷ってるんだけど」

 ツカサは、「へー」と気のない返事をしたあと、すぐ「なにを?」と続きを促した。


(5)トマトちゃんと忍さん

 店内に響いた怒声に、反射的にビクッと肩が震えてしまった。

 他の客たちも、時が止まったように、会話を止め、声の主の方へ視線を遠慮がちに注いでいる。


「喧嘩?」

 店に遊びに来ていたツカサも、声を潜めて、何事かと様子を伺っていた。

 

 メイクサロンに併設された談話室は、週末ということもあって、ほとんどの座席が埋まっていた。

 元々、喫茶店だった場所をそのまま使っているが、その名残りで流しているジャズのBGMだけが、静まり返った店内に響いていた。


「これ、あなたが書いたの?」

 怒鳴り声をあげていたのは、忍という50代の女装子だった。

 店の一番奥、カウンター席に座っていた忍さんだが、入り口に近いソファー席に座っていたボクらにもはっきりと聞こえるほど、大きな声で怒鳴りつけていた。


 顔の下半分を覆い隠すマスクを付けているが、小さな隙間からでも、忍さんの老いと怒りの表情は、遠目にもはっきりとわかる。

 忍さんは、怒りで震えながら、スマートフォンの画面をかざし、ソファーに座る誰かを睨みつけていた。

「はい? なに言ってるか分かんないんですけど」


 忍さんが、怒りを向けていたのは、トマトちゃんという若い女装子だった。

 ソファー席で寝転がって漫画を読んでいたトマトちゃんは、そのままの姿勢で忍さんに返事を返す。

「で、何が言いたいんですかあ?」

 トマトちゃん間伸びした話し方で、いかにも相手にしていないという態度に聞こえた。

「だって、こっち見て笑ってたでしょ? 証拠が無かったら、何してもバレないって思ってる?」

 忍さんは、子どもを教え諭すような話し方で伝えるが、それでも言葉の奥にある苛立ちは隠せていなかった。


 バキバキとファンデーションがひび割れた眉間、どんよりと二重三重に重なる目元のたるみが、いつにも増して物悲しく見えた。


 様子を伺っていたツカサは、ハッと何かに気付いたようにスマートフォンを操作し、ボクに画面を見せてきた。

「これってさ・・・」

 

 ツカサが見ていたのは、掲示板の書き込みだった。メイクをして女性の姿になったあと、男性や友達と待ち合わせをする、そのために使われる掲示板だ。


「この忍って人が、あの人だよね?」

 ツカサは店内に声が響かないように声をひそめ、画面をスクロールしていく。何かを察したように「これ」と、掲示板に書かれた「忍」という文字を指さした。


 掲示板には、「一番奥の席にいます、お話できる人待ってます」と書き込みがあり、最後には忍さんの自撮りが添付されていた。

 少しずつ事情を理解した様子のツカサだが、それに伴って、怒りの矛先も、だんだんとトマトちゃんへ向かっているように見えた。


「じゃあ、ソファーにいる、ピンクのブラウスの子が、この返信を書いて・・・」

 ツカサは考えを整理するように、言葉を細かく区切りながら話し続ける。

「それで、忍さんっていう人が、待ちぼうけしてるのを、笑いながらずっと見てたってこと?」

 スクロールすると、忍さんの投稿の返信には「お綺麗ですね、ぜひ会いたいので席で待っててください」と、匿名の返信が残されていた。

 ツカサの顔には、忍さんへの同情と、トマトちゃんへの苛立ちが混じっているように見える。


「まあ元々、掲示板にはいたずらとか、冷やかしも多いけど」

 ボクも全てを知っている訳ではないので、曖昧に返事をしながら、忍さんの方を見た。


 その姿を見て、少し前に忍さんと交わした会話を思い出した。普段は中学校の教師をしていると、ボクにだけこっそり教えてくれたのだ。

 学校でも同じように生意気な生徒はいるはずなのに、忍さんは怒りをこらえるだけで、何も言い返せない様子だった。

 もちろん男の格好だけど、そう笑って付け加えた笑顔を見るのが辛くなって、目をそらしてしまったことも、一緒に思い出した。

 

 トマトちゃんに相手にされなかった忍さんは、諦めたようにカウンター席に戻り、スマートフォンを操作していた。

 学校で生徒を叱りつける時も、こんな風に声を荒げるのだろうか。そして、こんな風にあしらわれて、軽んじられているのだろうか。

「ぜんぜん気にしてないので、謝ったりとかは、大丈夫でーす」

 トマトちゃんは、漫画を開いたまま、忍さんの背中に投げつけるように言い放つ。

 スマートフォンを見ていた忍さんの背中が、黙ったまま、ピクッと動いたのが見えた。


 ツカサは何か言いたげな様子で、今にも立ち上がって、二人の間に乱入していきそうだった。

「何、あの子」

 不機嫌そうに漏らしたが、席を立つ前に、何かに気付いて座り直した。


 ソファーにいたトマトちゃんがボクを見つけると、笑顔で手を振って駆け寄ってきたのだ。

 ツカサもそれに気づいて、身構えるように居住いを正した。


「あの、ちょっと聞きたいんですけど、今って大丈夫ですか?」

 トマトちゃんは、語尾を伸ばして、いかにも子どもっぽい口調で話しかけてきた。元々高く細い声は、何も知らない人が聞けば、本物の女性と聞き分けられないほど、自然な響きに聞こえるだろう。


「大丈夫、こっち座って」

 ボクは少し無理をして笑顔を作りながら、隣の席に座るよう促した。

 トマトちゃんは短いスカートを手で押さえながら、白く長い足をソファーに滑り込ませる。

「こんにちは」


 まずいなと思いながらツカサの方を見ると、案の定、挨拶すらしたくないという態度を隠さず、スマートフォンの漫画アプリを開いていた。


 だが、トマトちゃんは歓迎されていないムードを気にする様子もなく、笑顔のままハンドバックから、涙袋用のアイライナーを取り出した。

「涙袋メイクって言うんですか? 上手く出来なくて」

 トマトちゃんの言葉に頷きながら、アイライナーを受け取った。

 SNSで流行った、若い女の子向けのシリーズだった。目の下にぷっくらと自然な涙袋が描けると人気だが、独特な使い心地なので、初めてだとなかなか上手くいかない。

「結構難しいんだよ、なあ?」

 ツカサに同意を求めたが、「知らない」と言ってそっぽを向き、漫画にまた目を戻す。

 だがトマトちゃんは、気後れせず、ツカサの画面を覗き込んだ。

「結構古い漫画も読むんですね。それに少年漫画ですよね?」

 

 ツカサも無視することに疲れたという様子 で、大きなため息のあとに言葉を続けた。

「ねえ、一つ聞いていい?」

 ツカサの口調は刺々しく、尖って聞こえたはずだが、トマトちゃんは、返事を返してくれたことだけでも嬉しいという様子で、「はい、どうぞ」と弾むように答えた。


「忍さんのことバカにしてる?」

 ツカサは、忍さんや他の客には聞こえないように、押し殺した声でトマトちゃんに詰め寄った。


「バカにしてますよ、当たり前じゃないですか」 

 不意打ちのような質問のはずなのに、トマトちゃんは驚いた顔も見せず、あっけらかんとした様子で答えた。

「なんで?」

「だって、見てられないじゃないですか、あんな歳になるまで女装して」

「あんただって、歳取るんだから」

 ツカサは呆れたように返す。だが、そう言ったあと、定型文のような言い方しかできない自分を悔やむように苦い顔になって、「説教くさいけどごめんね」と、負け惜しみのように付け足した。


「大丈夫ですよ、わたし25になる前に死ぬんで」

「いるよね。歳取ったら死ぬって宣言する奴」


「本気ですよ、わたし」

 トマトちゃんは、きっぱりとした口調で言った。さっきまでの、おどけた声色と違って、迷いもためらいもない強い決意に、ツカサも言葉を失ったようだった。


「それでも・・・」

 ツカサが言いかけたとき、店の扉が開き、一人の中年のサラリーマン風の男が入ってきた。

 店内を軽く見回したあと、一直線に忍さんの方へ向かった。

「掲示板に書き込んだ者です。遅くなってすみません」

 何度も頭を下げながら、忍さんの隣に座った。


 ボクとツカサは、黙って顔を見合わせた。




(6)

「すみません、こんな格好で」

 ボクの姿を確認するなり、カオルは申し訳なさそうに謝った。街灯を手で遮り、眩しそうに目を細めながら、人通りの少ない夜の道を見渡した。

「せっかく教えてもらったのに、メイクとか服とか、やってみた方が良かったですよね」


 カオルとは、買い物に同行するために、駅前で待ち合わせをしていた。


 わざわざ店の外で合流したいと言ってきた時には、メイクを仕上げてから外で待ち合わせたいのかと思ったが、現れたカオルは、ジーンズにピーコート、男物の服を着ていた。


「別に、無理しなくていいって」

 ボクがそう言っても、カオルはボクと目を合わせようとせず、ドラッグストアまでの道を早足で進んだ。


「メイクまだ自信なかったら、店でしようか?」

 追いかけながら言うと、カオルは歩くペースを崩さずに、迷いながらボクの質問に答えた。

「直前まで悩んだんですけど」

 そう前置きして、駅の方角を指差し

た。

「でも、明るい所で女装した」

 カオルは「お」の形に口を開けたまま、少し固まってしまい、ためらいながらも、観念したように言った。

「女装した男と一緒に歩かせる方が嫌かなって、それで」

 そんなことないよ、と急いで否定したが、カオルは顔を伏せ、目的地までそのままの格好で歩き続けた。

 

 深夜営業をしているドラッグストアの化粧品コーナーに入った。夕方にはOLや女子高生で賑わう大手チェーンのドラッグストアだが、深夜0時、終電近くなると客足はまばらになる。

 今夜も急ぎ足でカップラーメンや冷凍食品を買って帰るサラリーマンの姿はチラホラ見えるが、化粧品コーナーには客は一人もいなかった。

 この時間を狙って化粧品を買いに来た。慣れたとは言え、明るい内に女子高生に混じって化粧品を選ぶ勇気はない。カオルもきっと周囲の目を気にしてしまうから、深夜に誘い出したのだ。

 カオルの相談に乗りながら、各メーカーのコスメを順番に紹介した。カオルは丁寧にパッケージの裏を読み込んだり、色を光に透かしながら、カゴに商品を積み上げていく。 

 店のBGMが三周した頃、後ろに人の気配がした。チークのテスターを手の甲に乗せたままボクが振り向くと、そこにはツカサが立っていた。


「それ、発色悪いよ」

 ボクの持っていたチークを指差して言った。カゴにはお菓子やカップラーメンが入れられていたが、ここはカオルの大学の最寄り駅でも、家の近所でもない。きっとバイト終わりにボクの所に来ようとして寄ったんだろう。

 カオルは、ボクとツカサの顔を交互に見ながら、探るように「初めまして」と頭を下げた。ツカサも同じ言葉を返し、浅く頭を下げる。

「中学の後輩の子?」

 唯は最後まで言わずに、語尾をぼやけさせた。ボクも聞き返さず、「うん」とだけ頷く。中学の後輩、それだけで伝わったはずだ。


「それ好きなの?」

 唯はカオルが買おうとしていた濃いめのアイライナーを指差した。同じシリーズの色違い、一本はかなり使い方を選ぶカラーたが、迷った末に3つともカゴに入れていた。

「いえ、嫌いじゃないんですけど」

 恥ずかしそうに言った。そして、どこか申し訳なさそうに語尾を落とす。他の女装子らと同じ、コスメの可愛いパッケージやキラキラとしたキャッチコピーを前にたじろいでしまう。

 自分が使っていいのか、自信がなくなって、シュンとうつむく話し方になる。ボクも、そしてメイクルームに、出入りするようになって、何人分も同じ光景を見てきたはずだ。

「嫌いじゃないなら、好きでいいじゃん」

 ツカサが返した。相変わらずそっけない言い方だが、それも含めて優しさだった。

「それ」

 ツカサはカゴに入ったアイライナーを指差したあとで、自分の目元を同じように指で示した。切れ長な目をさらに強調するように、濃いブラックのアイラインを引いているので、ツカサの性格も相まって、初対面の人にはきつい印象を持たれやすい。

 だが、くっきりと輪郭を強調出来るので、メイク方法を他の女装子らから尋ねられることも多い。

「これと同じやつ、結構書きやすいから」

「ほんとですか?」 

 カオルも声を弾ませて返した。

 照れくさいのか、テスターのリキッドファンデーションを指に付けながら、ついでのように言い足した。

「あと」

 一呼吸置いて続けた。

「あと、一応そういうのじゃないから」

 ツカサはボクに指を向けながら、「付き合ってるとか」と曖昧に言葉を濁しながらも、誤解を生まないようにきっぱりと言った。

「友達って言うか、同級生。高校の時」

 別に聞かれた訳ではないのに、早足で説明すると、「そう言うことだから」と言葉を締めくくった。

 

 もう一つと、何か付け加えようとしていたツカサだが、入り口の方を見て、一瞬、固まってしまった。

「どうしたの?」

 ボクが尋ねると、ツカサはどこか心配したような顔になって、目配せをして、小声で続けた。

「あれ、店で会ったトマトって子じゃない?」

 トマトちゃんの頬には、痛々しい青アザが出来ていた。


(7)

「これ」

 メイクルームを訪れたトマトちゃんは、まだじんわりと残る青い痣を恨めしく指指しながら、「目立たないようにメイクとか出来ませんか?」と聞いた。

 大丈夫、すぐに答えることが出来た。実を言うと、トマトちゃんがやって来る気がして、メイクの準備を終えていた。

 内緒にしてくれと頼まれたので、トマトちゃんには話さないが、既に傷跡や白斑をカバー出来るコンシーラーを借りていた。

 ついさっき、ツカサがドラッグストアのレジ袋を持って、ボクに手渡したのだ。


「大丈夫なの?」

 ソファーに座っていた忍さんが聞いた。昨日のやり取りを引きずっている様子はなく、本心から心配しているように見える。昨日、教師だと言うことを聞いたからか、その口調はボクの耳には教え子を心配するように柔らかく響いた。


「大丈夫かって、それこっちのセリフじゃないですか?」

 忍さんの質問に、同じく質問で返したトマトちゃんは、「前から聞きたかったんですけど」と、語尾を伸ばしながら言って続けた。

「なんでそんな汚い姿で外歩けるんですか?」

 いつもの皮肉や回りくどさもない、まっすぐに忍さんを攻撃する言葉だった。

「メイクして、ワンピースも着て、準備万端で外を歩いて、はい誰も振り向きません。え? 何やってんのって思いません?」

 勢いのままに続けたトマトちゃんは、同意を求めるようにメイクルームを見渡したが、誰も目を合わせようとはしなかった。


「何があったのか、知らないけど」

 メイクルームに来ていた、ツカサが口を開いた。

「みんな好きでやってるの。なんであなたにそんなこと言われないとダメなの?」

「好きでやってるって、ただのコスプレですよね? 自己実現ですか? 自分探しですか? 教えてあげます、迷惑になるんです。そういうの外でやっちゃうと」

 ツカサは呆れたように「だから」と、ため息と一緒に言って、「なんでそれをあなたに言われないといけないの?」とさっきの言葉を繰り返した。

 トマトちゃんは短いスカートの端を指の先で引っ張り、白く細い太ももを今だけは恥じるように手で押さえながら、ようやく怒りの理由を話した。

「彼氏が・・・」

 トマトちゃんは「彼氏」と言いかけたあと、「好きだった人」と言い換えて続けた。

「好きだった人がここで忍さんのこと見て、化け物みたいでゾッとしたって」

 ボクの耳にも、鋭く刺さった。忍さんはじっと言葉を受け止めるように、目を閉じ、喉が鳴るほど大きく息を飲む。

 別れ話になった時、突然冷めてしまった理由を問いただすと、そう答えたと話した。目が覚めたとも言って、もう目も合わせてくれなかった。

 そして、もう新しい彼女、本物の女性と付き合うことになったからと、一方的に別れを告げた。

「わたしがその人と話したいって言ったら、『俺が変態だって思われるから絶対に近寄るな』って、首つかまれて」

 笑って言う。まだ痛々しさの消えない痣をそっと撫でながら、「でも」と改めて笑顔を作った。

「でも、壁に突き飛ばしたあと二秒で謝ってくれたんです、二秒ですよ、二秒」

 ぎこちない笑顔をごまかすようにボクらに背中を向け、メイクルームに備え付けてある自動販売機の前に立った。

「最速記録です」と明るく言って、ジュースを端から端まで眺めた。

 強がった態度とは裏腹に、手が止まる。小銭を入れたあとも選ぶ飲み物が見つからないのか、じっと自動販売機の前で立ちすくんだが、背後に感じる視線から逃げるように、宙に漂わせていた右手から一番近いホットミルクティーのボタンを押した。

 

「昨日はゴメンって、さっき彼氏からラインが来たんです」

 そう言うと、トマトちゃんはスマートフォンの画面をボクに見せた。呼び方も、彼氏に戻っていた。画面にはトマトちゃんの言うように「昨日はゴメン」というメッセージが表示されていたが、片目を閉じてウインクをするキャラクターのスタンプの方が、文字の何倍も大きい。

 まだずっしりと鈍い痛みが残っているはずのトマトちゃんを見ていると、謝罪の深刻さが釣り合っていないようにも思えた。


「で、それでいいんだ?」

 ツカサもボクと同じことを感じたのか、メッセージ画面を横目で見たあと、冷ややかな口調で言った。

 トマトちゃんはすぐには言い返さず、じっと何かに耐えるように、鏡の前で目を閉じて、ボクのメイクを待った。


「ツカサさんってモテないですよね? 見た目とか普通に綺麗なのに、でもモテないですよね?」

 目を閉じたまま言った。唯は呆れて、口だけで「ガキ」と呟いたあと、「勝手にしろ」とさっきよりも冷たく言い放った。

「どうやったらモテるか教えてあげましょうか?」

 ツカサはもう返事すらしなかったが、トマトちゃんは気にせず、大きなひとり言を話すように言った。

「ネットニュースの知識をドヤ顔で話されても、一オクターブ高い声で驚きましょう」

 不機嫌な顔を浮かべているツカサに気付いているはずなのに、トマトちゃんは鏡に向かって、何かを宣誓するように続けた。

「そういうの男ウケ悪いよって言われても、そうなんですか、気をつけますねって笑いましょう」

「そうまでして男に好かれたいの?」

 ツカサの声は、冷ややかさすら消えて、もう相手にしたくないと突き放すように聞こえる。

「わたしだって」

 トマトちゃんは鏡の前で背筋を伸ばし、居住まいを正して言った。

「男なんて嫌いです」

 ツカサは、何かを言おうと言葉を探しているように見えたが、さっきまでのように突き放す言葉ではなく、困惑しているようにも見えた。

「でも、女の子も嫌いなんですよね」

 初めて、トマトちゃんの声が曇った。

「女の子がわたしを見たら言うことわかります? すごーい女の子みたいって言うんです。わたしなんかより全然綺麗って、女子力たけーって手を叩いて笑うんです、でも、本物の女の子には、そんなこと言わないじゃないですか」

 声は沈んではいないのに、なぜかトマトちゃんの話し方は、内側に涙を湛えているように寂しく聞こえた。

「褒めてるんじゃないの?」

 ツカサの口調は相変わらずそっけないものだったが、さっきまでとは違う、気遣いながら、回り道をするように響いた。

「男も嫌い、でも女も嫌い、だけど寂しい、どうしたらいいんですかね」 

 トマトちゃんは、寂しく笑いながら言った。ツカサはさっきまで黙っていても舌打ちが聞こえそうなほど、苦々しく顔を歪めていたのに、敵意や嫌悪感めいたものは消えていた。

「女の子は、がに股で座っても、ズボンに手を突っ込んでお尻をかいても、女の子なのに下品ねって言われるんです。でもわたしが同じことしたら、やっぱり男だなってなるんです」

 寂しさだけではなく、声には諦めも混じった。負ける、どれだけ化粧をしても、どれだけ可愛い服を来ても、勝てない。勝ち負けではない、と言われると言い返す権利すら失ってしまう。

「女装子は負けなんです、誰にも相手にされなかったら。スカート短くして、肩出して、こっち見てもらわないとダメなんです」

 一人でいると、惨めさが際限なく増幅する。他人の目を気にせずにはいられない。トマトちゃんの、そして全ての女装子の叫びだった。

 舞台メイクにも使われるコンシーラーで青痣を隠す。厚塗り感が出ないように丁寧に馴染ませると、近くで見てもわからないほど、違和感なく綺麗に痣は隠れた。

「これで大丈夫だから」

 そう言ってヘアピンを外し、前髪を降ろすと、トマトちゃんも鏡に向き直って、いつもの微笑みを取り戻していた。


 これできっと、怪我をさせた男も痛々しい痣の跡には気付かない。ラインの態度から想像すると、トマトちゃんに会っても小さな罪悪感すら抱かないかも知れない。それが良いことかどうかは考えないようにして、隠した痣の上にオレンジのチークを重ねた。


 トマトちゃんは立ち上がり、丁寧にボクにお辞儀をしたあと、カバンからコンビニのスイーツをいくつか取り出して鏡台に並べた。

「ツカサさん、こう言うの好きそうですよね」

 トマトちゃんはシンプルなチーズケーキを指差して言った。彼女がツカサの好みを知るはずもないのに、ケーキの種類だけでなく、お気に入りのコンビニまで一緒だった。

 ツカサはケーキを見たが、「いらない」とつっぱねて、顔の向きを変えた。

「わたし何もしてないし、友達でもないから貰う理由もないし」

 トマトちゃんはツカサの反応に戸惑うことなく、むしろ嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「わたし、ツカサさんのこと好きですよ」

 そう言ったあと、笑いながら「異性としてじゃないですよ」と付け足した。

「憧れちゃってます、勝手に」


 からかっているようにも、皮肉を込めているようにも聞こえない。ツカサもそれを感じたのか、もう敵意のこもった反論はしなかった。

 スマートフォンが鳴った。

「痣は大丈夫だから」

 鏡の前から動かないトマトちゃんに言った。でもトマトちゃんは、痣を気にして鏡から目を離せないという様子ではなく、迷子になった子供が人混みで途方に暮れているように、不安な気持ちを隠しきれていなかった。

「ラインは昨日の人?」

 ボクが聞くとトマトちゃんはもう一度スマートフォンを見て、小さく頷いた。

「今、ソファーのところにいるって」

 そう言って、メイクルームに併設された喫茶スペースの方を指さす。

 トマトちゃんは部屋を出ることも、メッセージを返す様子もなく、鏡の自分に向かい合った。

 別れたらどう、そんな風に気軽には言えない。恋愛中に、他人が何か言っても、聞き入れる耳は持たないだろう。それがわかっているから、昨日も、そして今日も何も言わなかった。いつか恋が終わった時、話し相手になって側にいることが、優しさだと思っていた。それなのに、余計なおせっかいが口から溢れそうになる。


「ツカサさんみたいに生まれたかったな」

 ぽつりと言った。すぐ近くにいるツカサに訴えるのではなく、まっすぐ願いを込めるようににこぼした。

「ツカサさんだったらどうします?」

 スマートフォンを握りながら聞いた。

 ツカサは起き上がらず、「さあ」と受け流したが、トマトちゃんはそれが聞きたかった答えだと納得したように、「ありがとうございます」と、ボクと唯にお辞儀をして部屋を出た。


(8)


 ツカサとボク、ふたりで喫茶スペースに出ると、ソファー席で、トマトちゃんが男と話していた。

「ねえ、あれってさ」

 ツカサがボクにこっそり耳打ちをした。

「あの子が言ってた男だよね?」 

 トマトちゃんを突き飛ばしたという男は、スーツ姿で落ち着いた雰囲気だった。付き合っている彼女に暴力を振るう粗暴な男ではなく、むしろ人に危害など到底加えられないような、真面目そうな、どちらかと言えば気が弱そうな男に見える。


 男の笑い声が響く。男がすっと右手を上げると、トマトちゃんが身をすくめるように、身体を強張らせたのが遠くからでもわかった。

 男はまた一段高い笑い声を上げたあと、トマトちゃんの頭を撫でた。ボクと同じ向きを見ていたツカサは、その光景に嫌悪感が溢れたように顔を歪めた。


「気持ち悪いから、なんか食べる」

 ツカサはぶっきらぼうにそう言うと、カウンター席に座った。

 ボクもメニューに視線を落とすと、パチンと何かを弾くような音が聞こえた。振り返ると、トマトちゃんが男の手を払いのけていた。

「なに? 急に」

 男が焦ったように声を漏らしていた。

 短い言葉の中でも、男の声はトマトちゃんをあからさまに見下すような、嘲笑を溶かし込んだように聞こえた。

「要約すると」

 トマトちゃんは、たぶん、ボクたちに聞こえるように声を大きくして言った。

「彼女とはこれからも付き合う、でもわたしが会いたいなら、これからも時々会ってやるってこと?」

 店内に響くほど大きな声で叫んだトマトちゃんは、たじろぐ男に向かって、。

「男なのに女みたいで可愛いですか? スカート履いてるのに、チンチンあってエロいですか?」

 まくし立てるように言うと、「じゃあ」と頭を傾けて、男に別れを告げた。

「すみません大きな声出して」

 トマトちゃんは心配そうに見守る他の客らにそう謝りながらも、スッキリと晴れ晴れとした表情をしていた。

 残された男は呆然としながらも、周囲の目から逃げるように席を立ち、わざと踏み鳴らすような大きな音を立てて、店から出て行った。


「何食べるんですか?」

 トマトちゃんはボクとツカサの席までやってきて、笑顔で聞いた。ツカサはトマトちゃんの言葉を薙ぎ払うように、「別に」と返した。

 だが、ニコニコと顔を覗き込むトマトちゃんのしつこさに観念し、ツカサも「ラーメン」とぶつけるように言った。


「この前も、その前の時もラーメンでしたよね? ツカサさんって、食べ物ラーメンしか知らないんですか?」

 ボクが笑ってしまうと、ツカサはボクにもしかめ面を浮かべてから、「放っとけ」と言って、またメニューを上の方から指でなぞり始めた。

「ちょっと待っててくれます?」

 トマトちゃんはそう言うと、ツカサの返事を待たず、カバンから何かを取り出した。

「ここ、持ち込みOKなんで、よかったらどうですか?」

 トマトちゃんが取り出したのは、ピンク色の弁当箱だった。肩がつくほど唯の近くに座ると、弁当箱を開けながら挑発するように言った。

「卵焼きって知ってます、なんと卵を焼くん

ですよ、ツカサさんは食べたことあります?」

 弁当箱には卵焼きをはじめ、ハンバーグやグリーンピースの炒め物など、色とりどりの食材が詰め込まれていた。

「めんどくせぇ、こいつ」

 ツカサはまた吐き捨てて、弁当箱から目をそらした。嫌味を込めた言い方には聞こえない、それもトマトちゃんには伝わっているはずだ。

「そうなんですよわたし、よく言われます。お前、逆ギレしながら泣くからめんどくさいとか」

 トマトちゃんは、めげずにそう言いながら、「何食べたいですか?」とツカサに尋ねた。

「なんで?」

 ツカサはそう言いながら、トマトちゃんの強引さに呆れてしまったように、ため息をこぼしたが、強引に肩を寄せてくるトマトちゃんを振り払うこともなく、ソファーから立ち上がることもしなかった。

「今日、大学で食べる時間なくて忘れたんです、夜食べようと思ってたんですけど、食べたいなら食べたいって言えばいいんですよ」

「そうじゃなくてさ、なんでさっきの男、追い返したの?」

 トマトちゃんは、卵焼きを切り分けながら、笑顔のままつぶやいた。

「化け物みたいだって、忍さんのこと、でもそれわたしも同じなんですよね、だからその」

 自虐するようにそう言って、最後は「同じだから」と、諦めたように笑った。ツカサも、さっきまでの邪険にするような態度ではなく、労わるような目で黙ってトマトちゃんを見つめていた。

「でもあんな風に言い返せたの、初めてです」

 そう手柄を誇るように言って、箸でつまんだ卵焼きをツカサの口の前まで持っていった。

「ラーメン以外も食べましょう、これが卵を焼いた料理です」 

 トマトちゃんは諭すように言って、鼻先をかすめる距離で、卵焼きを揺らした。ツカサは手で掴み取ってから、トマトちゃんの方は見ずに、口に投げ入れた。

「うめえ」

「うめえでしょう、そりゃ」

 トマトちゃんは嬉しそうに言って、弁当箱を膝に置いたあと、スマートフォンを取り出した。

「思い出全部スマホです。私、走馬灯もスライドショー形式かも知んないですね」

 画面にはさっきの男とトマトちゃんがふたりで撮った写真が表示された。写真は何枚もあったが、そのどれもこの店や男の部屋で撮ったものばかりだった。

 普通のカップルのような、観光地やレストランなど、他の人の目に触れるような場所で撮ったような、デートと呼べるような写真はなかった。

「クラウドも消したら?」

 ツカサが指摘した。トマトちゃんは「忘れてました」と楽しそうに言って、オンラインに残るデータも一緒に開いた。

「なんかクラウドって生まれ変わりみたいですよね、本体がダメになっても、またデータが新しいスマホに飛んでくるみたいな」

 リンネテンショウって言うんでしたっけ、たどたどしくカタカナの言葉を読み上げるようにつぶやいた。

「もし生まれ変わりとかあったら、クラウドとかに再ログイン出来ないかなとか思いません? 死んですぐ生まれ変わって、パスワード覚えてたら、アカウント再開出来たりして。それまでアイクラウドってあるんですかね」

 その頃には、きっと生まれ変わった自分になれる、そう願いをこめるように、スマートフォンを操作した。

「良い思い出だけ残ってたら、いいですよね」

 トマトちゃんはためらうことなく、画像のフォルダを一括で削除した。

 話を終えると、すっきりした顔になって、ボクにも弁当の卵焼きを勧めた。かなり甘めの味付けだったが、口に入れた瞬間、糸がほどけるように繊維が崩れ、舌の上に広がる。ツカサが「うめえ」と漏らした声は、気遣いではなく本音だったとわかった。


 トマトちゃんは道路側の窓から空を見上げた。ボクも隙間から外を見上げたが、明る過ぎるこの街では、夜になっても星が見えることは少ない。今夜もそうだった。


「ハンバーグ食べます?」

 トマトちゃんがツカサに向かって言ったが、ツカサは首を横に振るだけだった。


 トマトちゃんは悔しそうに、それでも嬉しそうに小さなハンバーグを口いっぱいに頬張って、席を立って、窓からまた外を眺めた。

「死ぬほど美味いですよ」と、むせ返りそうになりながら、挑発するように言葉を投げかける。


「美味すぎて死ぬなよ」

 ツカサはトマトちゃんの背中に向かっていった。

 わざとそのタイミングを見計らっていたのか、道路を行き交う車の音にツカサの声はかき消されてしまった。ツカサの声は、トマトちゃんの位置からは聞こえなかったかも知れない。


「何か言いました?」

 車が通り過ぎる。大型のトラックが通り過ぎると、振動まで一緒に伝わってきそうなほど、大きな音が店中に流れ込んだ。それを確かめてから、唯はもう一度真剣な顔になって、つぶやいた。

「死ぬとか言うなよ」

 ボクには聞こえた。ボクにも伝えたかったのかも知れない、勝手にそう決めて、大切に胸に仕舞った。


 トマトちゃんはそれ以上、聞き返すことはせず、また席に戻ると、丁寧にハンバーグを箸で切り分けた。優しい微笑みでハンバーグを分けるトマトちゃんを見てわかった。伝わってるから、ツカサの背中に心の声で言った。


 トマトちゃんはツカサの口元にハンバーグを運んだ。

「自分で作ったの?」

「女子力たけーですから」

 ツカサは自分の手ではなく、直接トマトちゃんのお箸からハンバーグを口に入れ、噛み締めながら「女子力」と唸るようにつぶやいた。

「女子が一人で生き抜く力です」

「なにそれ」

「女子力を戦闘力に換算したら、私フリーザ倒せますから」

「ドラゴンボールとか読むんだ」

「読みますよ、そういう話がしたいなら、すればいいじゃないですか」


 ボクは二人のやり取りを眺めながら、カウンターの向こうの真子さんに、飲み物を3人分注文した。


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