5 何かがいる
やがて檻の中から鈴木が姿を現した。こちらから声をかけるまでもなく鈴木は小さく首を振る。戸部は見つからなかったようだ。
「入り口に戻るか。事情説明してスタッフにも探すの手伝ってもらおう」
鈴木の提案に遥は頷いたが、汐里は驚いたようなリアクションをした。
「え」
「えっ、て何」
「いや、これぐらいのことで? イベントやめてまで? あの、もしかしたら戸部君が私をびっくりさせるために隠れているだけかもよ」
「……」
汐里の言ってる事は間違っていない。何事もなくここまで来ていたらおそらく遥たちもそう思っていた。
しかし過剰すぎると思われる演出の数々や、動物の死骸などを考えると明らかにこのイベントはおかしい。
「汐里はここに来るまでにちょっと変だなって思うものは見たりしなかった。演出にしてはちょっとおかしいなって思うような」
「え、ううん。例えば?」
「カラスとかタヌキが変な死に方してたりとか」
「なにそれ、そんなの見てない」
内心そうだろうなと思う。そんなものを見ていたら汐里はもっと怯えているはずだし、戸部とはぐれてしまった時点でパニックになっているはずだ。ある程度落ち着いているのなら今のところはただの肝試しなのだ。
汐里に詳細を話そうとすると鈴木がふと何かに気づいたように檻の中からある一点を見つめていた。
「何かある」
檻の中を明かりで照らし、目を凝らして何かを見ているようだ。
「何があるの」
「壁に何か文字みたいのが見えるんだけど、字が汚すぎてよくわからん」
遥も檻の中に行こうと歩き始めたのを見た汐里が慌てて遥の後に続く。
「怖いなら無理に来なくてもいいけど」
「一人残ってる方が怖いよ」
「それもそうか」
「遥は、怖くないの?」
「……今のところはね」
怖いというよりは気味が悪いと言ったほうが正しい。
檻を回り込み、飼育員用の出入り口を見つけて入ると、なんとなく思い立ちてきとうにブロック塀を見つけて運ぶ。
「何してるの?」
「私たちが中に入った途端いきなり閉められたらヤじゃん。入り口が閉まらないように支えておく」
遥の言葉に汐里は「え」と言った。
「さっきの笑い声といい、私達の近くに誰かはいるでしょ、スタッフとか。驚かせるポイントとしていきなり閉めてきそうだから」
「笑い声?」
二人の会話を聞いていた鈴木が不審そうに聞いてきたので先程の出来事を説明した。ブロックで入り口を固定して、簡単には閉められないようにすると遥は鈴木のいる所に近寄る。
そこには確かに何か文字のようなものが見える。どこかで見た形のような気もするが、ぱっと見ではわからない。
もう少し何かないかと辺りを見ると、子供の落書きのような文字で「おりの中に入った バカ」と書かれていた。
「バカって」
汐里は苦笑だ。ひっかけのトラップだと思ったようだ。しかし遥は真剣にその文字を見ている。
「バカ。檻の中のに入ったバカ」
ぶつぶつ呟くように少しの間考えていたが、はっと何か気づきよくわからない暗号のようなものを必死に見つめる。
「何かわかったのか」
「たぶんここにいたのカバだと思う。わざわざ塗りつぶしてあったでしょ名前。カバを逆さにバカ、って書いてあるんだからこの文字も多分逆さまに見るんだよ」
遥の説明に二人が納得したように文字を見つめる。口で言うのは簡単だが、スマホがないので写真を撮って逆さまに見ることができない。それでも全てひらがなで書いてあるので一つずつ確認していく。
「お、り、の、な、か、の、き、ぶ、ん、は、ど、う、だ……檻の中の気分はどうだ、か」
そこまでつぶやくと強烈な視線のようなものを感じて遥は勢いよく入り口の方を振り返った。
ガシャンと大きな音を立てて何かが勢いよく入り口から飛びのいていくのが見えた。入り口を支えていたブロックは弾き飛ばされ、扉が大きくバウンドする。閉められたのかと思い入り口の方に駆け寄って力任せに扉を引っ張ると入り口は開いた。
遥が扉を開けた瞬間鈴木は外に飛び出していく。それほど時間が経たずすぐに鈴木が戻ってきた。汐里はぽかんとしているだけだ。
「だめだ、逃げられた」
「えっと、今の何?」
状況が理解できないらしい汐里に遥は説明する。
「ブロックで固定してなかったらほんとに閉じ込められてたと思う。鈴木がすぐに追いかけてくれたけど逃げられたみたい」
それを聞いて汐里はぶるりと大きく体を震わせる。長居は無用とばかりに三人は檻から外に出た。
檻の出入り口から外はひらけた場所になっている。逃げやすいが隠れる場所などない。それほどタイムラグがなかったはずだ。それなのに見失ってしまい相手の姿はどこにもなかった。
「……普通できると思う?」
「無理じゃね?」
遥と鈴木にはわかっている。普通の人間がやるには不可能に近い。スタッフだけが知っている隠し通路のようなものがなければ見失うなどありえない構造だ。しかしこの檻にそんな通路があるとは思えない。
「どこ行っちゃったんだろうね」
不可解な出来事であることをあまり理解していない汐里は肝試しのイベントだと思いそれほど危機感はなさそうだ。
熊の檻の中のから見た影。あれくらいの速さならあのわずかな時間で逃げ切る事は可能だと思う。果たしてそれは人間なのだろうか。
明かりで檻の中の床を照らした遥はあの毛が落ちていないか探した。何も見つからなかったので出よう、と鈴木と汐里が出て行くとき足元に白い何かを見つけた。拾い上げて観察し、その正体に気づき背筋がぞくりとする。
それは、人の爪だ。わずかに血がついていて剥がれたというのがわかる。
「遥、行くよ」
「ああ、うん」
汐里に声をかけられ、咄嗟に爪をポケットにしまう。人の生爪を見つけたなど言ったら汐里が怯えるだろうと思い、後でタイミングを見て言おうと思った。言う必要がないのなら、不必要に怖がらせるようなことは今は言わなくていい。




