SS クロになった日
裏庭のドアから黒猫が訪れて、間もない頃のお話です。
これは遠野家に裏庭のドアと不思議な黒猫が現れて、まだ間もない頃。
魔獣がクロになった日の話である。
突然、現れた黒猫に頭を悩ませていた瑠璃子だが、持ち前の面倒見の良さもあり、世話をする日々を送っている。
庭に出してもいつの間にか、家の中に戻ってしまう。とうとう根負けした瑠璃子は今日、黒猫を動物病院まで連れていった。
もしや、なにか他の猫と違う奇妙な点が専門家にはわかるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてだ。
しかし、「健康的な猫ちゃんですね」そう言われ、ワクチンなどを打ってきただけである。
テーブルの上に肘をつき、瑠璃子はため息を溢した。
「ねこちゃん、これどうぞ」
「んみゃう」
恵真はというとすっかり黒猫を気に入った様子だ。
瑠璃子の記憶では虎が出てきたドアから、今度は黒猫が出てきた――その大きさに限らず、警戒するのは当然である。
けれど、周囲からすればただの猫のようで、動物病院でも迷い猫を拾ったと思われ、初めて猫を飼うにはと丁寧に教わって帰ってきたのだ。
ここまで来ては、もう飼うしかないと瑠璃子はすっかり諦めている。
「……恵真ちゃんに何かしたら承知しないわよ」
「ぶみゃ!」
そんなことはしない! というかのように鳴く黒猫。自分と恵真との態度の差に片眉を上げる瑠璃子だが、なぜかこの猫の言いたいことはわかるのだ。
それがかつての縁ゆえのものなのか、はたまた魔術か何かなのか、瑠璃子にはさっぱりわからない。
言いたいことがわかってしまうのは不思議であり、少々癪だ。
突如現れた裏庭のドアに黒猫、不可思議なことばかりなのだが、周囲にこの状況を説明するのも難しい。
近所の知人たちに相談したのだが、裏庭のドアは以前からあったと言われるし、黒猫は一人暮らしの良い刺激になると言われてしまった。
「本当にいったい何なのかしらねぇ……」
深い緑色の瞳でじっと恵真を見つめる黒猫は、確かに孫娘に危害を加える様子はない。日々起こること、すべての事象に説明がつくわけではないのだ。
嬉しそうに猫と戯れる孫娘の恵真、その姿に瑠璃子は渋々自分の想いを納得させようとしていた。
「で、恵真ちゃん。名前は決まったの?」
飼うと決まったら、名前が必要である。
動物病院で聞かれ、瑠璃子はその事実に初めて気が付いたのだ。
瑠璃子の問いかけに、恵真はこくりと頷く。
「うん! クロだよ!」
「みゃ!」
力強く宣言する恵真に同意するように黒猫も鳴く。
「……うーん、見たままね」
子どもだからなのか、恵真だからなのか、シンプルな名付け方である。
おそらく、三毛猫ならばミケ。白猫であればシロであっただろう。
だが、瑠璃子の記憶では子猫のうちは毛色が安定しないと聞いたことがある。
成長していくうちにその毛色や柄が変わることもあるというのだ。
「ねぇ、恵真ちゃん。名前はずっとのものでしょう? もう少し考えてみたらどうかしら?」
「……うーん、わかった!」
素直な恵真は再び、黒猫の名前を考え始める。
黒猫を抱き寄せ、すんすんと匂いを嗅ぐ。
「おひさまの匂いがする!」
「んみゃう!」
黒猫もご機嫌である。
「ふんわりしているけど、つやつや!」
「んみゃう!」
どうやら、恵真は黒猫の特徴からその名をつけようと考えているらしい。
子どもの恵真にどこを触られても、黒猫は文句をいうこともない。
「あらあら、私のときとは大違いだわ」
虎が現れたあの日の出来事は忘れられるものではない。
その後の母との会話は今も瑠璃子の記憶に残る優しい想い出であるが、当時はしばらくの間、あの部屋に近付くことも出来なかったのだ。
ずっと自分の記憶違いであったと思っていた不思議なドアが、再び瑠璃子の前に現れた。どうしたものかとまた考え出す瑠璃子の耳に、元気な声が届く。
「決めた!」
どうやら、恵真が黒猫の名前を決めたらしい。
「それで? どんなお名前にするの?」
瑠璃子の問いかけに、黒猫を抱きしめながら恵真が言う。
「やっぱり、クロにする!」
「みゃう!」
黒猫は嬉しそうに鳴き、しっぽをゆらゆらとさせる。
口を開こうとした瑠璃子より先に、恵真が名付けの理由を話しだした。
「だって、このあいだおばあちゃんが私の髪と目を褒めてくれたでしょう? こくよーせき、いいえ! 黒いダイヤモンドよ! って。この子も私とお揃いだもん!」
「んみゃうにゃ!」
恵真の言葉に再び嬉しそうに黒猫、いやクロが鳴く。
長きに渡り魔獣は魔獣であり、かつての人々は名をつけることはしなかった。
それは不可思議な存在への畏怖や敬意が含まれていたからであろう。
神さま、魔獣さまなどその存在を呼ぶ名こそあったが、個として名を付けられたのは恵真が初めてであった。
こちらの世界に現れるときの姿はその時々で異なる。そのとき、相手が思い浮かべた姿に変化する。
今回、魔獣の姿が愛らしい黒猫であったこと、そしてそれを思い浮かべた恵真がまだ幼いからこそ、名を付けるという発想になったのだ。
突如現れたドアから現れた存在を特別視しない――これは幼い恵真だからこその出来事なのだ。
「ま、いいわ。猫でまだよかったわ。恵真ちゃんも嬉しそうだしね」
恵真と黒猫クロが楽しそうに遊ぶ姿に、瑠璃子はくすっと笑いながら、肩を竦めるのだった。
不思議な裏庭のドアと黒猫が、恵真と異世界の縁を結ぶのはあと何年も先の話である。
不定期更新となっていますが、このように更新自体は続けていきます。
毎週〇曜日に、という形ではなくなる感覚ですね。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。




