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無限の大地と黒いエイ  作者: きーち
無限の大地と竜の道
19/165

③ 水の進化

 上へ進むべきか下に進むべきか。

 その選択肢に関して、ミニセル達がどちらを選ぶかについては、分かり切ったものであった。

「どうせすぐ下は湖面です。そちらを確認してから、上の階へ進みましょう」

 カーリアはそう端的に言って来た。

 湖面に沈む街にボートへやってきて、湖面から出ている部分の窓から建物の中へと入ったミニセル達。当たり前だが、すぐ下は同じく湖から水が浸入しているはずである。

 カーリアのそんな言葉は、そんな当たり前の状況に対して、当たり前に結論を出して来たのである。

「ま、そりゃそうよね。それに、ただそこに水があるだけなんだから、気圧される必要だって無いもの。さっさと階を降りてみましょうか」

 ミニセルの言葉に対して反論は無かった。未知に怯えるよりも、その未知をさっさと晴らしてやろうという気持ちが、今は強いのだと思う。

 何度も考えてしまうが、やはりまだ自分達に危険は無いのだから。

 実際、予想した通り階段を半階分程進んだところで、建物を沈めている水にミニセル達はぶつかってしまった。

「水。湖の水。ただの水……よね?」

 足が濡れるか濡れないかくらいの位置で立ち止まり、後方、階段の段上で停止している他の船員達を見上げながら尋ねる。

「操舵士が一番近いのですから、操舵士の印象以上のものは出て来ませんよ」

「同じくです。外の水と何が違うのか……そういえば、こちらも随分と澄んでいますね?」

 船員の一人が指摘した通り、湖の水と同じく建物内のそれもかなり澄んでいて、薄暗い中でも、階段より下方が良く見えていた。

 景色としては同じだ。今、ミニセル達が立つ建物の骨格部分だけを残して、他の特徴的な物は無い。

「うーん。確かにここには変わったところも危険も無さそうだけど……案外、ここらが潮時かもしれないわね」

「何も新しい発見は無さそうだから……ですか?」

 一番後方のカーリアが尋ねて来る。その言葉には、さっきまで不安の中にあったであろうはずが、むしろ残念そうな感情が込められている……様にミニセルには思えた。

 だが、ミニセルは首を横に振った。

「ほら、水の向こうも、この階段に来るまでもそうだったけれど、気が付かなかった?」

「?」

 ミニセル以外の探索班は首を傾げている様子だが、それは今後の課題だと思う。冒険は危険が多い以上、危機感に対する感度は高める必要があるだろう。

「どの場所もそうだけど、やっぱり、建物以外何も無いでしょう? カーリアさんは街全体が洗い流されたみたいって言っていたけど、少なくともこの建物の中は事実そうよ」

 本当に何も無いのだ。机も椅子もタンスもロッカーも、その他細々としたものが、どこにも無い。澄んだ水の向こうにも。

 どこぞへ引っ越し中だったという可能性もあるだろうが、少なくとも建物全体が突如、荷物運びされたという方がまだ納得出来た。

「それは……発見ですし、目の前の危険でもあります……か?」

 カーリアのその返答に頷く。いったい何が、何時、どの様にして、この街を洗い流したかは分からない。

 分からない以上、それはこの瞬間に襲って来てもおかしくは無い危機であった。心配し過ぎという言葉に対しては、心配し過ぎてくれとの指示が今回は与えられている。

「一度、ブラックテイル号に帰還しましょう。この街の状況を伝えるだけ伝えれば、向こうでの検討材料には十分なるでしょう? 次の機会だってすぐ来るかもしれないしね」

 ミニセルの言葉には、やはり反論は無かった。皆、先ほどのミニセルの考えに不安を抱え始めているからだろう。

「カーリアさん。今度はあなたが先導してくれる? 進路はさっき通って来たのと一緒で、それでも始めて足を踏み入れた時と同じくらいに注意しながら進んで」

「は、はい。了解しました」

 こういう時でも、船員達の成長を促して行くというのも船内幹部の仕事だろう。危険が傍にあるかもしれない場所で、他の船員の心配をしつつ、前に進む経験。それらを積み、ミニセル以外にも、探索班の班長が出来る人材を確保していく。

 未踏領域を探索していく上で、自分の役割の代わりを現地で作るというのも、大切な事なのだ。

(そうすれば、あたしだって楽が出来るわけだし? 安全だって増えて行く)

 ハラハラする危険やドキドキする冒険は好きだが、命を捨てるのは嫌いだ。だから、保険として他人を成長させていく。そういうのも大事だし、実際、カーリアの先導は、まだ拙い部分はあれど、将来は上手くやってくれそうという印象を与えてくれている。

「視界での確認っていうのは実はすごく大事。人間、ちょっとでも慣れると勘に頼りがちになるから、意識して、自分の目で現場の状況を確認する様に努めるのがおススメよ」

「分かりました。視界での確認の意識付け……ですね」

 とりあえずの助言はこの程度で良いか。後は当人達が勝手に成長してくれるだろう。そんな事を思い始めた瞬間、音が鳴った。

「ちょっと待って。今の何?」

 皆は聞こえたか? そんな視線を向けてみれば、全員が頷きを返して来た。

 確かに皆、音が聞こえたらしい。響く音では無い。張り詰めた線が切れた様な音。いや、それも違うが、感覚的にはそんな印象がある。

 大きな音では無かった様に思えたが、それでも全員がしっかり聞いたという事は、確かな音量でもあったという事。

 けれど、時間が経つにつれて、本当に自分は聞いたのか? 単なる耳鳴りではなかったかと不安になってくるタイプの……脳に直接聞こえたかの様な音。

「なんか不味ったのかもしれない。ボートまで急ぎましょう。多少、警戒が薄くなっても良いから」

 そのミニセルの言葉で、全員の足取りが早くなる。早歩きというよりは小走りで。危機が予想出来る場合は何よりも逃げの一手をという艦長の指示が、今はとても有難い。

 この音は何なのかという好奇心を容易く抑えてくれる。

(普段なら、むしろ調べに向かっていたかもしれないわね、あたし)

 ただ、それが良い方向に進むか悪い方向に進むかは分からない。まったく、分からない事だらけだこの建物は。

 探索を始めて、半日も経っていないというのに、もう異変が起こったという事は探索が順調という事だろうか。

(無事に、あたし達が帰還出来たらね!)

 建物への入り口にした窓まではやってきた。そこから身を乗り出し、外のボートへ全員が乗り込むまでは危険は無かった。その音が再び聞こえるまでは。

「また聞こえた! 各員、どこからか分かる!?」

 二名と三名。ここに来た状況と同じ様にボートで分かれながら、声を張り上げて全員に尋ねる。

 うち、二人は音がどこから聞こえたか分からないと首を横に振った。ミニセルも同様の状況だったので五名中三名が音は聞こえたけれど、どこで、どういう類の音が鳴ったのか。上手く説明する事が、残念ながら出来ない。

 では残り二名は? 三人乗ったボートの方に一人と、さらにミニセルの前でカーリアが頭を抱えていた。

「カーリアさん!? 大丈夫!? どこか打った!?」

「怪我……怪我じゃありません……」

「じゃあ、さっきの音が原因ね。人に寄ると思うんだけど、人体に悪影響を与える音みたいなものなのかも。すぐにここから撤退を―――

「違います!」

「違いますって、どう考えても苦しそうよ、あなた」

「違う……違うんです。音じゃあない。これは音じゃなくって……」

 ミニセルはカーリアの言葉を聞きつつ、一方のボートにここから離れる様にジャスチャーで促した。

 向こうも一名、船員が苦しんでいる様子であるが、残り二名が無事であるのだから、ボートの推進器を起動させるくらいは出来るだろう。

 その間も、カーリアは呟き続ける。

「これは……これは何? これは何か……いえ、誰か……?」

 カーリアの呟きの中、それでもボートは街から離れて行く。逃げる様な洗濯かもしれないが、事実逃げている。

 むしろこの状況が、ボートに乗る前に起こらなくて幸いだった。とりあえず、当初の予定通り、危険に触れた瞬間に、そのまま帰還する事を選べたのだから。

「苦しいかもしれないけれど、ちょっと待っていなさい。今からこの街を離れるから。その苦しみの原因だって、ここから一旦は離れれば―――

「離れて……いません! これは、この音は、この声は! 街から聞こえてるんじゃあ無かった! 聞こえませんか? まだ、まだ聞こえている。ここから、ずっと」

「ここって……」

「この湖……全体からです!」

 そのカーリアの叫びに反応する様に、何かが揺れる。

 地響きでは無く、もっと大きく、ゆっくりとした揺れ。今、ここは湖の上だ。

 だとしたらそれは……。

「波?」

 静けさだけが特徴だった湖全体から、波の音が聞こえ始めた。それは街の建物にぶつかり、しぶきを立てる。

 新たなる変化。苦しむ船員。今、起こっているこの現象が良いものだとは思えない。

「何が起ころうとしているの……?」

 ミニセルの呟きをかき消す様に、波の音が激しくなっていく。それはこの湖が、未踏領域らしく、未知の変化を始めた事を意味していた。




「波はどうなっている? 湖面全体に発生している様だが、ここから原因は観測出来ているか?」

 湖がそうである様に、ブラックテイル号のメインブリッジも騒音を取り戻していた。

 ばたばたと船員達が出入りし、小走りに作業や艦長であるディンスレイの指示を受けるなどを繰り返す。

 それもこれも、突然に始まった湖と、さらにそれ以外の変化にある。

「艦長、被害の規模が出ました。船内の船員の十分の一程が謎の頭痛に苦しんでいる様で、それ以外の船員は今のところ無事です」

 慌ただしい中でも副長の声は良く聞こえた。彼は医務室で忙しくしているアンスィからの報告をまとめていたところであり、艦内の危機的状況を端的に要約してくれた。

「撤退を判断するくらいの被害は出ているという事か……。いや、安易に動くというのも考えものだが……」

 変化は今、この瞬間も発生している。

 突然、艦内に頭痛を訴える者が増えて、医務室が一杯になったのが始まりで、その次には湖が波立ち始めたのである。

 そうして今、目の前にある奇妙な事は、波は立っているのに風は無いままだと言う事。

「艦長、観測士から報告です。波に……方向性がある様に見えます」

 観測士のテリアンからも新たな報告が入る。正直、入って来る情報で頭がパンクしそうであったが、表情には出さない。今、こういう状況で艦長が真っ先に混乱すれば、それはブラックテイル号の崩壊を意味する。

「観測士。波の方向性については、さらに情報を集めてくれ。どこに向かっているかに、何か意味があるはずだ。副長。船員への被害は増えているかな? 現状の人数であれば、まだ十分に艦を動かせる」

「増加の傾向にはありませんな。ですが、この後どうなるかを断言する事は……」

「出来んな。私も出来ん。が、何をするかは考えなければ」

 何もしないは何かをして失敗したに劣るという言葉もあるが、出来れば何かをして、良い結果に繋げたいのが実際のところだ。

「探索班の方は無事であれば良いが……見たところ、湖の水が引いている様に見えるが、その理由についても判明させたい。水はどこに向かっている?」

 ブラックテイル号のメインブリッジから見て、湖の範囲は目に見えて狭くなっていた。

 湖としての輪郭を崩しているという程では無いが、波が立つ度に、湖岸線がどこかへ引いている。そんな風に見えた。

「観測士からは、ま、まだ何とも」

 ブリッジの観測機器を用いて必死に湖の状況を観測している観測士のテリアンを、これ以上邪魔する事も出来ないだろう。

 ちらりと副長の方を見るも、彼とて何か答えが出せるわけも無い。

「ふぅむ。水が引いているというのは、抜けているという事でもありますかな?」

 何がしか、新しい発想でもあれば。そんな考えからか、副長は突拍子も無い様な案を出して来る。

 だが、その突拍子の無さも未踏領域では重要だった。

「規模的に、それ程の事が起こってる可能性はあるな。湖の底に穴があって、蓋が外れて、水が流れ込み始めた。これは十分に有り得る一案だ。が、それであればむしろ有難い方の案ではある」

「有難い事でしょうか? 探索班の方々にとっては危機でしょう」

「かもしれん。だが、我々はつまり探索班の心配をするだけで良いとも言える。しかし起こっている事はそれ以上の可能性だってあるだろう」

 船内で頭痛を訴えている船員達を見れば、事は湖だけで発生している自然現象とは言い難いのだ。

 もっと別の、広範囲で手酷い何かが起こっているのではないか? そんな予感が頭から去ってくれない。

「観測士から報告! 波は……特定のどこか一点に直接向かっているのでは無く、湖全体で渦を巻いています!」

「漸く新しい報告に感謝したいところだが、考えなければならない事が増えた……観測士、引き続き仕事を続けてくれ。副長、どう思う?」

「渦を巻くというのは、まさに穴が開いているという事では?」

「水槽の栓を抜いた様にか? だが、やはりそうで無かった時が怖い……」

 水が抜けるのでは無く、渦を巻きながら、何かの形を成そうとしているとしたらどうだろうか?

(水面上に渦が出来るというのは、そこにある種のエネルギーが流入し続けるからだと聞く。この湖そのものに何か力が集まっているのではないか? そのエネルギーに、頭痛を感じた船員達が反応している可能性も……)

 だとしたら、いっそ自分自身がその対象になってみたいとすら思えてくる。痛みの状況や感じ方で、何か新しい事が分かるかもしれない。

 藁にも縋りたい気分とはこの事か。平穏無事な状況から一転、急に過激な変化が発生し始めた現状。有難いかと言えるか問われれば、そんな事は無いと厚顔無恥に返してしまう。そんな現況。

「とりあえず、出来る事から始めよう。機関室。そちらの状況は?」

『こちら機関室、整備班長ガニ・ゼイン! ああ、こっちは何時でもいける状況だ! もうそんな時か!? 探索に出てる連中は帰って来たのか!?』

「いいやまだだ。出来れば彼らの帰還の後に、一旦この場から離れたいところだが……どうも状況はそう悠長では無いらしい」

 湖の波はより強くなって行っている様に感じる。波の動きがさらに激しさを増して行くから、それはやはり渦巻いているのだと見ただけで分かり始めて来ていた。

「艦長! あれを!」

 もはや正規の発言方法では無く、叫びに近い観測士からの言葉に、ディンスレイの外の光景に視線を奪われる。

「やはり……湖に空いた穴が原因では無かったらしいな……」

 悪い方にばかり予感は当たるものだ。

 湖は、波と共に湖岸線が引いた分だけ、渦の中心から盛り上がり始めていたから。




 頭痛に苦しみ、何かの声が、感情が聞こえてくると船員二名が訴えかけている中、それでも彼らを率いながら、ミニセル・マニアルはボートを湖面上で動かし続けていた。

(と言っても、ブラックテイル号への帰還ルートを進めてなきゃ何の意味も無いのだけれど!)

 心中で愚痴を零しながら、今の自分の状況を整理する。

 時分を含めて探索班五名の内、船員二名は未だ頭痛を訴えて十分に行動出来ない状態。

 湖全体から聞こえるという音は、今や確かにミニセルの耳にも聞こえ始めた。ミニセル自身が頭痛に悩まされる可能性も、この後十分にあり得るだろう。

 さらに湖は波立ち始めていた。これが一番いけない。その波は激しさを増し、さらには渦巻いており、ボートの進行が阻害されてしまったからである。

(しかも……あれ何?)

 湖に沈んだ街。そこから何とか出た地点で、ボートまともに進めなくなっていたが、今やそれも些末事になっている。

 街から少し離れた、恐らく湖の中心と思われる場所の湖面が、盛り上がり始めていたからだ。

 ミニセルの視線から見れば、渦巻く水は、すべてがそこへ集まろうとしていた。その現象自体が既に驚異的だが、厄介な事に今は波に乗せられ、ミニセル達のボートもまた、湖の中心に引かれる様になっていた。

「み、ミニセル操舵士……今……どうなって……」

「あまり知らない方が良いわね、カーリアさん。今はその頭痛……苦しんでる状態? そこから回復する事に努めてくれると助かるかしら」

 正直なところ、カーリアは足手纏いになっている。それを切り捨てる程の状況でも残酷でも無かったが、それでも現況を逐一説明する程の余裕も無い。

 なんとか彼女が回復したとして、事態が良くなる展望も無いのだ。

(むしろ悪くなって来てる。波が強い。このボートの推進器より勢いが強くなったら、もうそこで終わりよっ)

 もはや自分達が助かる方法は無い様に思える。そう思えたので、ミニセルはさっさとその思考を捨てる。待って居ればやってくる不幸を思ったところで仕方ない。

 どんな危機的状況でも、助かる方法を考えるのが生きている人間の在り方だろう。でなければ、奇跡みたいなか細い糸だって手元に引き込めない。

(でしょう? 艦長!)

 そんなふてぶてしい思考は、ブラックテイル号の艦長に当てられた結果かもしれない。今はそれを、良い影響と思う事にする。

「ミニセル操舵士……話を……聞いてください」

「……何かしら? こっちの手を動かしながらでも良い?」

 カーリアを放って置かなかったのは、別に彼女への心配からでは無い。今にも気絶しそうな顔をしている彼女の顔に、何かしらの使命感が見えたからだ。

 何か、建設的な事を言おうとしているのだ。

「はい。大丈夫……です。この……頭痛……声……? が、分かり始めて来たん……です」

「なんですって……?」

 話は聞いてみるものだ。にっちもさっちも行かない状況で、新しい情報が入って来るのだから。

 それが良いか悪いかはともかくとして。

「多分……退いてって……そう言っている様な……」

「退けって、どこへよ……?」

 もはや、ボート周辺は渦巻く波によって湖面が白く染まっている。湖全体がかき混ぜられているのであろうあの驚く程透き通っていた湖が砂や泥で濁り出してもいた。

 何か、湖の中から生まれそうな、そんな予感がしてくる光景に、恐怖とどうしようも無さが心を染めていく。

「他に、他に何か、声は言ってないの? 今のところ、他に何かあれば是非とも知りたいところだわね」

 むしろそこにしか事態の打開方法が無いとも言える。

 今、文字通り巻き込まれている事態と同じタイミングで起こったカーリアの頭痛。そこに繋がりがあると信じて、さらに探る。

「声は……声は多分……こっちの―――

 肝心の話の瞬間、ボートが大きく揺れた。もはや波は嵐の如く。そうなるのも仕方ない。むしろそれだけならまだマシだった。

 最悪だったのは波だ。高くなった波はボートを襲って来て、咄嗟にボートを掴めなかったカーリアを攫ってしまったのである。

「なっ……」

 目の前で起こった事に、ミニセルの感情が爆発しそうになる。

 なんで!? 嘘っ。最悪。船員が湖に攫われた!? 船員の命が……失われた……?

 それら数多くの感情が溢れ出し、そのどれかに収束する……その前に、ミニセルのすべての感情は急速に、それこそ瞬時に抑えつけられていく。

 感情など抱いている時間すら惜しい。むしろ思考する時間も最小限に押し留めたい。だから出した結論は直感から来るもの。

「みんな! 波に乗って先に進んで!」

 それだけを、もう一方のボートに向けて叫んでいた。

 それ以上の説明は出来ない。だからこちらの意図を察してくれると嬉しい。ミニセルのこれからの行動と共に。

 これからの行動……それは、ミニセルもまた湖中へ身を投げる事。

(死にたがってるわけじゃないからね!)

 それだけは分かって欲しいが、それを伝える時間すら惜しい。

 波に攫われたカーリアは、まだある程度透明度を残している湖の中からすぐ見つけ出す事が出来た。

 カーリアがボートから落ちてから、続いてすぐミニセルが飛び込んだのだから距離も離れていない。

 波の流れに上手く身体の動きを合わせ、もむくちゃにされているカーリアへ追いつき、彼女の身体を掴んだ。

 ここまでは良い。

(問題は……ここから!)

 息を止めながら、次の行動を開始する。

 と言っても、ミニセルの身体では湖の勢いに逆らう事は出来まい。むしろ、やはりまた波の動きに乗るのだ。

(うっ……ぐっ)

 波の動きに乗ると言っても、その勢いはやはり人間一人には酷だった。

 いっそ意識を飛ばしたら楽になるのではという思考もまた洗い流して、広大な湖の中の塵の一つみたいにミニセル達を押し流す……その前に、ミニセルはぶつかる様にそれを掴んだ。

「ミニセル操舵士!」

 もう一方のボートに乗った船員達が、ボートを掴んだミニセル引き上げてくれる。

「よ……良かった。意図は……伝わったみたい……ね」

 船員達に掴まれた腕とは反対側の腕に抱えたカーリアもまた、船員に引き上げて貰う様に促す。

 息も絶え絶えだ。もう数秒、タイミングが遅ければ湖の藻屑になっていたか、溺れて死んでいた事だろう。

 ミニセルの指示はただ、もう一方のボートが流れの先に位置するよう先に進んでくれというもののみ。

 あとはミニセルも同時に流され、カーリアを拾い、先に進んだボートに救出して貰うという奇跡的な行程を踏む事で成功できる。

 そんな状況だったが、奇跡は起こってくれたらしかった。

(けど、これで運を使い果たしてたら最悪……)

 今のままであれば、多少寿命を先延ばしにしたに過ぎない。根本的な、湖に発生している波に飲まれれば、そこで奇跡も台無しだった。

「そっちは……どう?」

 全身びしょ濡れになりながらも、未だ諦めには程遠い精神性を抱えながら、ミニセルは視線を、自分を引き上げた船員に向ける。

「どうって、そりゃあ大変ですよ! もうこっちだって頭が痛いって奴が居て、ボートが波に攫われない様に必死な状況で、操舵士はボートをさらに前に進めろなんて言い始めて―――

「そうじゃなくって! 頭痛になってる人! 何か! 言って……無い!?」

 まだ息が整っていない状況で、カーリアともう一方のボートでも一人居た、頭痛に苦しむ者達を見る。

 カーリアの方はまだ息がある様だが、頭痛と波に攫われた衝撃からか、半ば気を失ってしまっている様子。

 もう一人の船員にしたところで、頭を抱え、ガタガタと震えており、まともに話が出来る状況では無さそうだ。

「いや、あいつは……何か、話そうとしているってさっきから偶に呟くばかりで」

「話そうと?」

 何かの意思を、やはり伝えられているのか? だから頭痛を感じている? その声が……人間にとって過剰な物だから。

(勘とか、感覚とか、そういうの。もしかしたらこの二人の方があるのかもしれない。何かを感じ取って……そういえばカーリアさんは海軍出身だしね? 関係あるか分からないけれど)

 想像すら超えて妄想すら抱える状況の考察など、ミニセルが得意とするものでは無い。こういうのは艦長の仕事だろう。

 彼がここに居れば、突拍子も無い発想の一つや二つ導き出せていた事だろうが、ミニセルにはかなり難しい。

「話をするって……何と、どうやってよ? するにしても……そういう状況を作りなさいってのっ」

 頭で考えるだけで無く、つい言葉にもしてしまう。

 それも仕方ない事だろう。目の前、波が流れる先の光景が、また変わったからだ。

 いや、変わったというより、行き着いたと表現すべきだろう。湖の水は渦を巻きながら中心へと流れ込み、湖面の盛り上がりとなっていた。

 それが続けば、それは山となり、湖面を覗き込むのでは無く見上げる程の高さとなる。

 実際、ミニセルの視線はそれを見上げていた。湖の中央でさらにせり上がる、水の山を。


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