①
「はぁ……っ、はぁ、はぁ……っ」
息が、うまく吸えない。
吐くたびに白く砕け、次の空気が、喉の奥でひっかかる。
真冬。星ひとつない、漆黒の夜。
空と地の境界すら曖昧で、世界はただ白く、荒れ狂っていた。
吹雪は視界も音も奪い、耳に届くのは、自分の荒い呼吸と——心臓が軋む音だけ。
その中を、ひとり。
少年が、走っている。
「はぁ……っ、う……っ」
足が雪に取られる。
踏み出すたびに沈み、引き抜くたびに体力が削られる。
指先の感覚は、とっくに消えていた。
頬も、唇も、どこまでが自分の身体なのか分からない。
それでも。
止まれなかった。
止まった瞬間、
自分が“何もなくなる”気がしたから。
けれど——
次の一歩で、膝が折れる。
力が抜け、
糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
大木の根元。
雪は深く、音を吸い込むように静かだった。
背中が沈む。
柔らかいはずの雪が、
骨の芯まで冷たくて、痛い。
遅れて、風が来る。
横殴りの暴風が、容赦なく頬を打ち、濡れた髪を凍らせていく。
まつ毛に張り付いた雪が、瞬きのたびにざらついた。
「……お母様……」
かすれた声は、風にすぐ攫われた。
それでも——
確かに、自分の中からこぼれた言葉だった。
瞼を閉じる。
暗闇の奥に、ひとつだけ、やわらかな光が灯る。
——あの人だ。
薄く笑う唇。
自分の名を呼ぶ声。
額に触れた、あたたかな手のひら。
(……会いたい)
その願いは、あまりにも単純で。
だからこそ、叶わないことがよく分かった。
(もう一度だけでいい)
(声が、聞きたい)
喉が震える。
(……違う)
(そんなの、嘘だ)
息が詰まる。
(本当は——)
言葉が、出てこない。
(ずっと、そばにいてほしかった)
その瞬間。
胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
今まで、押し込めていたもの。
見ないふりをしてきたもの。
それが、音もなく崩れていく。
でも。
どうやって泣けばいいのか、分からない。
声の出し方も、
涙の止め方も。
教えてくれる人は、もういなかった。
小さな手を、胸の上で重ねる。
指は冷たく、思うように動かない。
それでも、ぎゅっと力を込める。
思い出すのは——
母と、妹と、笑っていた日々。
食卓の匂い。
やわらかな光。
何気ない会話。
あの頃は。
こんなふうに、ひとりで終わるなんて——
思ってもいなかった。
(……ここで、終わりなんだ)
不思議と、怖くはない。
ただ。
ただ、ひとつだけ。
(……さみしい)
その言葉が、胸に落ちた瞬間。
呼吸が乱れた。
空気がうまく入らない。
胸が締めつけられる。
遅れてくる感情に、身体が追いつかない。
——ああ。
これが、最後なんだ。
どこかで、静かに理解した。
⸻
「……ねぇ! ねぇってば!!」
肩を強く揺さぶられる。
沈みかけていた意識が、無理やり水面へ引き上げられる。
重たい瞼を、わずかに開けると——
白い世界の中に、色があった。
赤くなった頬。
震える唇。
必死にこちらを覗き込む、少女の顔。
「起きて……お願い、起きて!」
声がかすれている。
泣きそうで、でも泣かない声。
どうして。
どうして、そんな顔をするんだろう。
「……いいんだ……」
やっと出た声は、驚くほど軽かった。
雪に沈むみたいに、静かで。
「よくない!!」
叩きつけるような声。
びくりと、意識が揺れる。
「死んじゃうよ!!」
少女は迷いなく、自分の毛布を広げる。
ためらいなんて、ひとつもなかった。
その温もりが、肩に落ちる。
「近くに家があるの。一緒に来て」
「僕は……もう……」
「ダメ!!」
重ねるように、強く言う。
「ダメに決まってるでしょ……!」
息が、止まる。
その瞳が、あまりにも真っ直ぐで。
逃げることが、できなかった。
「ほら、立って……!」
細い腕が、身体を引き起こす。
頼りないはずなのに。
どうしてか——
離したくない、と思った。
過去作を大幅に改稿しました。
また新しい気持ちで連載しようと思います。
よろしくお願いします!




