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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
22/32

22.晨曦の下の絆影

莉薇アンの唇には、依然として冷淡な微笑が浮かんでいた。彼女はゆっくりと身をかがめ、地面に倒れた尋問官と至近距離で視線を交わす。その瞳は冬の霜のように冷たく、一片の温もりも感じられない。それどころか、背筋を凍らせるような冷酷な光を帯びていた。


彼女の声は穏やかで、語調も優しく、まるで世間話でもしているかのようだった。


「【背信】について知っていることを話してもらえるかしら? それと、今回の作戦の本当の目的もね」


尋問官は身を縮め、全身を震わせた。血と泥に汚れた顔は青白くなり、恐怖が滲み出ていた。それでも、彼の目には憎悪が渦巻いていた。まるで追い詰められた獣のように、最後の抵抗を試みようとしていた。


「黙れ! 貴様らごときに何も言うものか! 汚らわしいエルフめ……! 神を穢す異端どもが!」


声は掠れ、苦痛に満ちていたが、軽蔑と憎しみだけは揺るがない。まるでその呪詛が、自らの誇りを守る唯一の手段であるかのように。


だが、莉薇アンの表情には、微塵も動揺がなかった。むしろ、その微笑はさらに深まり、より優雅に、より冷たくなった。


彼女はわずかに首を傾げると、隣に立つミレイアに無言の視線を送る。その一瞥だけで、何をすべきかは伝わった。


ミレイアは、まったくの無駄な動作もなく、ただ刃を振るった。


「――ギャアアアアアッ!!」


夜空を切り裂くような絶叫が響く。尋問官の右手の指が二本、瞬く間に切り落とされた。


鮮血が飛び散り、暗がりに浮かび上がる。切断された指が地面を転がり、やがて泥に沈む。傷口からは容赦なく血が吹き出し、乾いた大地を深紅に染めていった。


俺は無意識のうちに、彼の血まみれの手を凝視していた。


そのあまりにも迅速で、あまりにも迷いのない決断に、思考が追いつかなかった。


俺は、彼女たちのやり方を理解していたつもりだった。


だが、ここまで躊躇のない手段を目の当たりにすると、内心のどこかが僅かにざわめいた。


この迷いのない冷酷さ。


この世界に根付いた、俺の知る"正義"とは異なる価値観。


それが、俺に新たな現実を突きつけてくる――。

ルティシアは俺の隣に立ち、微動だにしなかった。

その表情は異様なまでに静かで、銀白の瞳には怒りも、哀れみも映っていない。

まるでこの光景が彼女とは一切関係のない出来事であるかのように、無言のまま、ただ尋問官の苦しみを見つめていた。


彼女の心の内を読み取ることはできなかった。

その沈黙と冷静さは、今この瞬間、かつてないほどに深遠で掴みどころがなかった。


「まあ、大変。指がぽろっと落ちちゃいましたね?」


リヴィアンは悪戯めいた微笑を浮かべ、まるで何事もなかったかのように、穏やかな口調で言った。


「さて、次は正直にお答えいただけるかしら? だって、もしまた嘘をついたり、黙り込んだりしたら……残りの指も危ないですよ?」


彼女は軽く顔を上げ、微笑みにほんの少しだけ悪意を滲ませた。


尋問官は荒い息を吐きながら、全身を震わせていた。

だが、その唇から零れ落ちたのは、痛みではなく呪詛だった。


「そんなこと……言うものか……お前たち……汚らわしい……異端どもめ……」


声は次第に掠れ、弱々しくなっていく。

だが、その狂信的な敵意だけは微塵も揺るがなかった。


リヴィアンの笑みが、さらに深まる。

彼女はすっと指を一本持ち上げ、空気を軽くなぞった。


――その瞬間、周囲の魔力が微かに震えた。


尋問官の表情が一瞬にして強張る。

瞳孔がわずかに開き、意識が遠のいたかのように、一瞬だけ呆けたような顔をする。


「……その……ドロル審律は……」


掠れた声が漏れ出た刹那、彼ははっとして口を閉ざした。

まるで、自分が何を口にしたのか理解した瞬間のように。


だが、もう遅い。


俺は黙って、その光景を見つめた。

リヴィアンが使ったのは、俺も見たことのある精神干渉の術だ。

完全な精神支配ではないが、僅かな時間だけ相手の心の壁を弱めることができる。


俺は何も言わず、ただ成り行きを見守った。


尋問官は魔法の影響を受け、目の焦点が定まらないまま何かに抗おうとしているようだった。しかし、最終的には口を開いた。


「……今回の行動は……【背信】様が主導したわけではない……」


声は低く、どこか迷いがあった。途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、彼は続けた。


「私は……ただ……【背信】様から恩寵を授かった……あの《ドロル審律》を……異端狩りの任務を通じて……自身の力を示し……【背信】様の目に留まりたかった……」


そう言いながら、彼の視線が無意識にルティシアを横切る。まるで彼女の反応を窺っているかのようだった。


リヴィアンは微かに首を傾げ、冷たい笑みを浮かべたまま、穏やかに尋ねる。


「それなら、もっと教えてくれるかしら?【背信】のさらなる情報、《ドロル審律》の本当の用途……あなたなら知っているでしょう?」


尋問官の意識が少し戻ったのか、彼はすぐに口を閉ざし、血に濡れた顎を上げて、冷徹な眼差しで睨みつけた。


「無駄だ……これ以上、何も教えるつもりはない……」


リヴィアンは小さく息をつき、笑みを完全に消し去った。そして、ゆっくりと顔を傾け、ミレイアへと視線を送る。


その動きは指示ですらなかった。ただの自然な流れ――それだけで、二人の間には確固たる意思の共有が成り立っていた。


ミレイアが無言で剣を持ち上げる。


――シュッ。


まるで空気を裂くような一閃。


尋問官の右手から、残されていた三本の指が一瞬で消えた。


「――グアァァァァッ!!」


肉が裂ける鈍い音とともに、鮮血が奔流のようにほとばしる。赤黒い液体が地面に弾け、空気を染め上げた。


尋問官の全身が痙攣し、痛みによる悲鳴が夜の静寂を引き裂く。怒りと絶望に満ちたその叫びは、まるで獣の断末魔のようだった。


リヴィアンは彼の前にしゃがみ込み、冷淡な表情のまま、静かに問いかける。


「……さて、まだ沈黙を続けるつもりかしら?」


尋問官は荒い息を吐きながら、痛みに霞む視界の中で震えながら呟いた。


「……【背信】様の……力……すべてを……知っているわけじゃない……」


息も絶え絶えに、断続的な言葉を紡ぐ。


「……ただ……異端を識別し……罪人に……自らの罪を認めさせ……その業火で焼き尽くす……それが……大審問官としての職能……」


「《ドロル審律》は……その力の……一端に過ぎない……」


その言葉を聞き終えたリヴィアンの唇が、ゆるく持ち上がる。だが、それは笑みというより、冷笑に近かった。


「なるほど……」


彼女は小さく息を吐くように笑う。


「つまり、それがあなたたちの誇りというわけね?」


その声には、嘲りの色が混じっていた。


「好き勝手に濫用し、気に入らない者を口封じし、都合のいい‘正義’を振りかざす……」


彼女はゆっくりと立ち上がり、目を細める。


「もし、それがあなたたちの神の使い方なら……そんな‘正義’にどれほどの価値が残っているのかしら?」

リヴィアンの視線が、尋問官の血まみれの顔を静かに這うように動いた。激痛と疲労に蝕まれ、もはや顔を上げることすらできない。彼の姿は、まるで壊れた人形のように無惨だった。


リヴィアンは一瞬間を置いた。まるで、彼がまだ何かを口にするのを待っているかのようだった。だが、男はすでに言葉を発する力すら失っていた。


「さて――」


彼女は、掌を軽く叩いた。それはまるで、見えない埃を払うような、あるいは、この尋問に終止符を打つ合図のようだった。


「もう十分ね。」彼女の声は穏やかだった。あまりにも平静で、その冷淡さがかえって異様に思えるほどに。


「待ってくれ。」

私は手を挙げ、リヴィアンを制した。


彼女はちらりと私を見やり、唇をわずかに引き締めたあと、肩をすくめるようにして頷く。


「ご自由に。」


そう言うと、リヴィアンは少しだけ身を引いた。


私はルティシアと共に、尋問官の前に進み出た。


ルティシアは静かに私の傍らに立ち、銀白色の瞳をまっすぐに、血まみれの尋問官へと向けた。その眼差しには怒りも、同情も浮かんでいない。ただ、感情の読めない無機質な光だけが、冷たく男を映していた。


私は、ゆっくりと口を開いた。


「なぜ、罪なき者を殺した?」


尋問官は、わずかに顔を持ち上げた。そして、唇の端を引き攣らせ、歪んだ笑みを浮かべた。血と泥に塗れたその顔が、より一層狂気じみて見える。


荒く呼吸を整えながら、彼はかすれた声で答える。


「罪なき者……? 」


その言葉を反芻するように、彼は低く笑った。


「神を信仰せず、存在する価値すら持たぬ異端に、"罪なき者" などという概念があるとでも?」


彼の声には、嘲弄と憎悪が入り混じっていた。それは、彼が疑うことすらしない、揺るぎない"真理"のような響きだった。


「お前たちのような罪人どもはな――」


尋問官の目がぎらつく。そこには狂信者特有の狂気が宿っていた。


「たとえ今日、何も悪事を働いていなかろうと――いずれは取り返しのつかない大罪を犯すのだ。人間は、生まれながらにして罪深い。神への信仰だけが、唯一の救いである。」


その言葉に、寒気が走った。


彼は信じ切っているのだ――己の行いが、"救済"であると。


「私は……ただ、手助けをしているに過ぎない。」


尋問官は、ひとつ深く息を吸った。


そして――


「罪の炎に焼かれる前に、彼らを罪から解放してやっているだけだ。」


最後の言葉を吐き出すと、彼はまた低く笑い始めた。


それは、冷たく、侮蔑に満ちた笑い声だった。


まるで、この世界の理が彼の側にあるとでも言うように。

尋問官の言葉が、耳障りな鉄鈴のように頭の中で何度も反響する。


「人は生まれながらにして罪を背負っている。救いは、ただ神への信仰のみ。」


その言葉は、彼の嘲笑と、疑うことすらしない確信によって強調され、異様なまでに不快感と怒りを掻き立てた。


この言葉は、かつて教院で何度も耳にしたものだった。当時の私は気にも留めなかった。所詮、ただの古臭い教義に過ぎないと。新たに聖職者となる者たちを縛りつけるための、空虚な教えに過ぎないと思っていた。

だが今、その言葉がこの男の口から発せられた瞬間、それは単なる教義ではなく、命を踏みにじるための正当化の道具となっていた。


かつて私が「象徴的な規範」程度にしか考えていなかったものが、人に迷いなく刃を振り下ろさせるほどの力を持つ――その事実を、今になって思い知らされる。


胸の奥から込み上げる怒りが喉を焼くように熱く、言葉を詰まらせる。


その時だった。


ルティシアが、前に踏み出した。


迷いのない動きだった。

私は反射的に手を伸ばし、彼女を制止しようとした――が、間に合わなかった。


「ドンッ!」


鈍い衝撃音が響いた。


尋問官の頭が激しく仰け反り、力なく地面に叩きつけられる。


私は言葉を失い、ただルティシアを見つめた。


彼女は尋問官の前に立ち、その銀白色の瞳を冷たく細めた。

怒りの気配が、夜の空気の中に静かに滲む。


「神を信じないというだけで、聖職者は人の命を弄ぶことが許されるの?」


彼女の声は低く抑えられていたが、その響きには確かな怒りが込められていた。

銀色の髪が夜風に揺れ、魔力安定の護符が淡く瞬く。


この瞬間の彼女は、普段の冷静で慎重なルティシアではなかった。

その語気は鋭い刃のように突き刺さり、彼女の言葉は一言一句、私の心の奥深くに重く響いた。


「私たちを踏みにじることが許されるの!?

"救い" なんてただの言い訳でしょ。

違う考えを持つ者を、見境なく殺しているだけじゃない!」


彼女の声が夜気を震わせる。


私は、その姿をただ見つめることしかできなかった。

言葉が、喉に詰まって出てこない。


彼女の怒りは、目の前の尋問官にだけ向けられたものではなかった。

これは、彼女が今まで経験してきた苦しみ、痛み、全ての積み重ねによって生まれた叫びだ。


そして――


私は、その苦しみの原因の一部ではなかったのか?


その疑問が鋭い棘となり、私の胸に深く突き刺さる。


たとえ私が信仰を捨てたとしても、かつての私は彼女にとって"加害者"ではなかったのか?

私もまた、彼女の怒りの源の一つなのではないか?


その思いが、ずしりと重くのしかかる。


言い訳はできない。

否定する資格もない。


ただ、拳を強く握りしめることしかできなかった。

「もういい。」

俺はそう言って彼女を宥めるように声を落ち着かせた。「聖都に洗脳された連中に、何を言ったところで無駄だ。」


ルティシアは僅かに顔を背けた。

その銀白色の瞳には、まだ燻るような激情が残っていたが、何かに気付いたのか、それ以上言葉を発することはなかった。


「へぇ、まるで自分が聖職者じゃないみたいな言い草だな?」

横から冷笑混じりの声が飛ぶ。


ミレイアだった。


俺は彼女の方へ視線を向けたが、何も言わなかった。

すると、リヴィアンが軽く片手を持ち上げる。


「余計なことは言わないの。」

彼女の声音は穏やかだったが、その奥には明確な制止の意図が含まれていた。


ミレイアは肩をすくめ、それ以上口を挟まなかった。


俺はそんなやり取りに意識を向けることなく、ただルティシアを見つめていた。

彼女は俯き、まだ自分の感情を抑え込もうとしているのがわかる。


静かに呼吸を整えるたび、胸元の護符が瞬いていた光をゆっくりと沈めていく。


それでも――


俺にはわかっていた。


この短いやり取りが、彼女の心の奥に隠された傷を、またしても抉り出してしまったことを。


尋問官の目は狂気を帯び、荒い息遣いと共に、異様な笑みを浮かべていた。その顔は血まみれになりながらも、必死に頭を持ち上げ、かすれた声で叫ぶ。


「ロイ・エリオット! 呪われし者と共に歩む裏切り者よ! 貴様が何様のつもりで、ここで私に説教を垂れるというのか?!」


彼は鋭く視線を向けた。ルティシアを睨みつけ、その目には憎悪と侮蔑が渦巻いている。まるでその言葉で彼女の心を突き刺そうとするかのように。


「闇裔族……貴様らの存在そのものが、神の御業を汚す冒涜なのだ! そんな罪人どもの血は、生まれながらにして穢れている!」


声は次第に狂信的な響きを帯び、まるで自らの信仰を誇示するかのように叫び続ける。


「聖都が貴様らを追うのは、貴様らの血によって罪を清め、神の栄光をより輝かせるためだ! それこそが貴様らの運命……決して変えることのできぬ定めなのだ!」


ルティシアの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。眉ひとつ動かさず、ただ静かに立ち尽くす。銀の髪が微かに揺れ、護符が彼女の呼吸に合わせるようにかすかな光を放つ。


彼女の内心では何かが揺れ動いているのかもしれない。だが、それを微塵も表に出さず、ただ一歩、静かに前へと進んだ。彼女の沈黙が、尋問官の叫びをより鋭く際立たせる。


その様子に苛立ちを覚えたのか、尋問官はさらに声を張り上げる。


「逃げるがいい! どこまで逃げようとも、神の審判からは決して逃れられんのだ!」


その声は呪詛のように夜気に震え響き、戦場に不気味な圧力を生み出した。

すると、彼は突如として頭を仰け反らせ、耳障りな狂笑を響かせた。その笑い声は鋭く、震えるような不安定な音を含み、抑えきれない歓喜のように聞こえた。


彼の身体は激しく痙攣し始め、口元、目尻、鼻孔からじわじわと鮮血が滲み出す。その血はぽたりぽたりと地面に滴り、湿った音が静寂の中で不気味に響いた。彼の表情は痛みと歓喜の間を行き来し、まるで見えざる力によって捻じ曲げられているかのようだった。


「神は……必ず……私の行いを讃えてくださる……」


彼はそう呟いた。その声は次第に掠れ、ついには完全に消え去る。そして、彼の身体はピクリとも動かなくなったかと思うと、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。七つの穴から血が流れ出し、闇夜の中に鈍く赤い光を描く。半開きの目には、もはや何の焦点もなく、生気は完全に失われていた。


リヴィアンは倒れた死体を見下ろし、僅かに眉をひそめた。彼女の目は、静かに冷たくなっていく尋問官の顔を捉え、一瞬だけ思案するように止まる。そして、低く呟いた。


「契約魔法……彼は何らかの契約を用いて、自らの命を断ったのね。こうすることで、情報の漏洩を防ぐだけでなく、信仰への忠誠を示すこともできる……」


彼女の声は相変わらず淡々としていたが、その調子の中にわずかな驚きが混じっていることを、私は聞き逃さなかった。


再び死体に目を向けたリヴィアンは、まるで異常な現象を観察するように、静かに呟いた。


「信仰のために、ここまで徹底できる者がいるなんて……」


彼女の表情は冷静そのものだったが、内心で何かが揺れ動いているのが分かった。ゆっくりと姿勢を正し、視線を私に向ける。その目には、慎重さと何かを思案する色が宿っていた。


周囲には、さらに深い沈黙が降りていた。ただ、夜風がかすかに吹き抜け、地面に落ちた布の端や破片をそっと揺らしているだけだった。


リヴィアンは何かを考えている様子だったが、やがてわずかに息を整え、低く囁いた。


「……大人。現場の処理が終わったら、お話ししたいことがあります。」


夜明け前の薄明かりが、ゆっくりと闇を押し退けていく。ミレイアとカスタは無言のまま、戦場の後始末に集中していた。


ミレイアはうつむきながら、地面に残された魔力の痕跡を丹念に調べ、指先を器用に動かして散らばる符文の破片を拾い集める。彼女の動きは速く、無駄がない。清掃の最中にも、必要なことがあれば即座に指摘していた。


「ここ、まだ処理が甘い。」

彼女はやや大きめの符文の欠片を指差し、平坦な口調でそう告げた。


カスタは軽く肩をすくめながら近づき、遮断粉を丁寧に振りかける。そして、にやりと笑って言った。

「相変わらず細かいな、ミレイア。お前がいなかったら、ここまで完璧に片付ける自信はないね。」


「なら、しっかりやれ。」

ミレイアは端的に返し、再び別の箇所へと手を伸ばした。


カスタは軽く苦笑したものの、それ以上は何も言わず、彼女の指示通りに動く。二人の間に交わされる言葉は少ないが、その分、動きには迷いがない。彼らは長年の経験から培われた完璧な連携で、一つ残らず痕跡を消していく。


やがて、ミレイアは最後の確認を終え、静かに立ち上がった。


「……これで問題ない。」


彼女の銀色の瞳が辺りを一瞥し、戦場にはもう何も残されていないことを確かめた。

カスタは軽く手を払い、満足げに自分たちの仕事を見渡した。


「よし、これで誰が調べに来ようと、俺たちの痕跡を見つけるのは難しいだろうな。」


リヴィアンも一通り確認し、満足そうに微笑んだ。


「上出来。もう時間だ、行くぞ。」


私たちは、周囲の人々がまだ意識を取り戻さないうちに、少年を連れて迅速にその場を離れた。


夜明けの光が地面をゆっくりと照らし始め、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。朝特有の冷たい空気が肌をかすめる中、私の肩には依然として激しい痛みが走り、一歩踏み出すたびに傷口が焼けるように疼いた。しかし、ルティシアがずっと私を支えてくれていたおかげで、転ぶことなく歩き続けることができた。


「傷、大丈夫?」

ルティシアの声は小さかったが、そこには確かな心配が滲んでいた。私の状態をしっかりと見極めようとしているのがわかる。


「……まだ歩ける。」

平静を装って答えたが、実際には一歩踏み出すごとに肩の裂傷が鋭く疼いた。それを悟られないよう、何でもないかのように振る舞った。


「傷をちゃんと治さないと。このままじゃ……。」

ルティシアは足を止め、真剣な表情でこちらを見上げた。その声には、珍しく強い意志が込められている。


私は小さく息を吐き、首を横に振った。


「ここで聖術を使えば痕跡が残る。それは避けたい。」

少し間を置いて、もう一言付け加えた。

「それに、初級治癒薬じゃこの傷は大して回復しない。」


ルティシアはぎゅっと唇を噛み、眉を寄せた。まだ何か言いたそうだったが、結局何も言わずに小さく息を吐き、そっと私の腕を支え直した。


彼女の手のぬくもりが、夜明けの冷えた空気の中で、不思議なほど心地よく感じられた。

「……頼むよ。」


私はそう小さく呟いた。できるだけ平静な声色を保ち、彼女の不安を和らげようとする。


ルティシアは微かに首を横に振るだけで、何も言わなかった。しかし、その腕の支えがわずかに強くなったのを感じる。彼女の気持ちは言葉にこそ出さなかったが、その仕草だけで十分伝わってきた。それは、妙に安心感を与える温もりだった。


夜明けの光はますます強くなり、空の端が柔らかな橙紅色に染まり始める。リヴィアンとカスタが先を歩きながら、時折こちらを振り返る。


カスタがわずかに首を傾け、からかうような笑みを浮かべた。

「へぇ、なんだか仲が良さそうじゃないか?」


リヴィアンもくすっと笑い、軽く調子を合わせる。

「確かに。見ていて微笑ましいですね。」


その言葉に、ルティシアの足がぴたりと止まる。次の瞬間、彼女の頬がぱっと赤く染まった。口を開きかけるも、言葉にならず、小さな声で何かをもごもごと呟く。


「……違……う……そんなのじゃ……ない。」


リヴィアンの口元がさらにわずかに持ち上がる。彼女の声には、明らかな戯れが混じっていた。

「そうなんですか?てっきり、特別な関係なのかと。」


私は軽くため息をつき、苦笑しながら答える。

「からかうな。そんな関係じゃない。」


リヴィアンは肩をすくめ、楽しげに言う。

「ふぅん、そうですか。」


彼女の声音には、まだどこか納得していないような遊び心が滲んでいたが、それ以上は追及しなかった。


そんな軽口が交わされる中、ミレイアだけは沈黙を貫いていた。彼女はリヴィアンの横を静かに歩き、腰の二本の剣はいつでも抜けるように備えられている。彼女は周囲に無駄な視線を向けることなく、ただ前方を見据えていた。からかいにも乗らず、私たちにも特に注意を払うことなく——まるで戦場に戻る覚悟をすでに決めているかのように。


ルティシアは黙ったまま、まだ少し赤みの残る頬を下げ、支えている私の腕から手を離そうとはしなかった。先ほどのからかいを気にしないよう努めているのが伝わってくるが、それが余計に意識している証拠だった。


そして、町の端が見え始めた頃——


リヴィアンがふと歩調を緩め、こちらを振り返る。彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、私に向かって言った。

「ロイ様、いっそこのまま、私たちと一緒に行動しませんか?」


私は少し歩みを遅め、彼女の方を見据えながら、静かに答えた。

「……まずは町に着いてから話そう。」

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