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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
20/32

20.破局と変数

 審問官たちの包囲はますます狭まり、篝火の炎が彼らの武器に映り込み、冷たい金属の輝きを放っていた。俺は聖典をしっかりと握りしめ、指先で紙の感触を確かめながら、魔力の微細な流れを感じ取る。一方で、高鳴る鼓動を必死に抑えつつ、俺たちの弱点と敵の布陣を素早く計算する。


 杖を持つあの男……こいつが最も厄介な存在だ。


 攻撃系の聖術は、恐らくほとんど効果をなさない。あの杖を使えば、俺の術を直接解除することができる。拘束系の法術でさえ、ほんの数秒稼ぐのが限界だ。これでは突破するには不十分……だが、彼が完全に無敵というわけではない。


 先ほどの術式解除の方法……

 彼は無差別に術をかき消したのではなく、「術者の位置を特定した上で」解除を行っていた。つまり、彼には「目標の確認」が必要だ。ただ単に魔法を無にする能力ではない。


 俺は深く息を吸い込み、指先で聖典の表紙をなぞる。視線を走らせ、敵の布陣の隙を探る。


 ——ここが突破口だ。


「目を閉じろ、開けるな。」

 俺は声を潜めて言った。ちょうど ルティシア と少年にだけ聞こえる程度の声量に抑え、敵に悟られないようにする。


 ルティシアは一瞬驚いたようだったが、何も聞かずに微かに頷いた。そして、迷いなく手を伸ばし、少年の目をそっと覆う。その動きは流れるように自然で、無駄がない。彼女の体は少し強張っているが、手は震えていない。その意思は今もなお冷静で、確固たるものだった。


 敵はますます近づいてくる。篝火の影が鎧と外套に映り、歪んだ影を作り出す。夜風に煙が舞い上がり、この戦いが始まる前の序章のように感じられた。


 包囲の輪は、あとわずかで完全に閉じる。


 ——今だ!


 俺は聖典を勢いよく開き、指先で書の頁をなぞる。そして、静かに詠唱を紡いだ。


「神の光よ、ここに降り立ち、悪しきものを焼き尽くせ—— 耀目の裁き!」


 眩い聖光が、炸裂する!

 瞬間、天地は眩い純白に飲み込まれた。篝火の炎は一瞬にして霞み、空気を満たしていた燃え焦げた匂いと熱気さえも、この光の奔流によって押し流される。すべてが、神聖なる輝きに包まれた——!


 審問官たちは低く呻き、次の瞬間、その身を閃光に完全に飲み込まれる——


「ぐっ……!?」


「くそっ……!」


 金属が地面にぶつかる音が響き、誰かが慌てて腕を上げて光を遮ろうとする。甲冑が擦れる音が耳に刺さるように響き、包囲していた敵の動きが一瞬にして乱れ始めた。


「動揺するな!落ち着け!」

 誰かが必死に叫ぶが、その声にも迷いと混乱が滲んでいる。


 強烈な光が辺りを照らし出し、敵の視界を奪う。だが、彼らの目を眩ませるだけでは足りない。


 俺は素早く聖典をめくりながら、指先に魔力を集中させる。意識を研ぎ澄まし、即座に偽装魔法を発動。

 包囲網の内側に立っていた二人の審問官の姿を、ほんのわずかに歪める。


 ——彼らのシルエットを、ルティシアと俺の姿に。


 魔力の波動が空気をわずかに震わせ、闇に紛れた影が微かに揺れる。

 火光と眩い聖光が交錯し、視界の錯乱を引き起こす中で——

 髪の色、体格、マントのなびき方まで、俺たちと寸分違わぬ姿へと変化した。


 そして——

 視界を取り戻しつつあった審問官たちが、最初に目にしたものは——


 彼らが「俺たち」だと思った者たちだった。


 強烈な光が次第に薄れ、闇が再び戦場を支配した。


 審問官たちは視界を取り戻し始め、眩い聖光の余韻に目を瞬かせながら、わずかに頭を振る。

 篝火の炎が甲冑と法衣を照らし、その影を歪める。

 錯覚と混乱が絡み合い、一瞬の混沌がさらに不気味さを増していった。


 そして——

 彼らが目の前の光景を認識した瞬間、決定的な錯誤が生じた。


「異端はあっちへ逃げた!」


 一人の審問官が怒声を上げ、手にした武器を振り上げながら、**「ルティシア」と「俺」**の姿に向かって駆け出す。


 もう一人の審問官は困惑の表情を浮かべ、その場に一瞬立ち尽くした。

 まるで違和感を覚えたようだが、事実を見極めるには時間が足りなかった。


 ——成功だ!


 今が唯一の突破の機会!


 俺は迷わずルティシアの手を掴み、もう片方の手で少年の腕をしっかりと引く。

 審問官たちがまだ誤認に気づく前に、俺たちは包囲の僅かな隙間へと猛然と駆け出した!


 突風が頬を切るように吹き抜け、荒れた大地を踏みしめる足音が乱れながらも鋭く響く。

 息が詰まるほどの緊張感の中、ルティシアも俺と同じ速度で駆け抜け、少年の手をしっかりと握りながら彼を守るように走る。


 篝火の光が背後で遠ざかっていく——


 だが——


 まだ動かない。


 ——あの杖を持つ男だけは。


 俺の視線が無意識に高台へ向いた。

 権杖を握る審問官は依然として微動だにせず、冷たい瞳で俺たちの動きを追っている。

 まるで突囲を試みる俺たちを、最初から結果の見えた茶番劇でも見るかのように、悠然と。


 ——何を待っている?


 背筋を冷たい悪寒が這い上がる。


 そして、わずか数秒の静寂の後——

 ついに、彼は権杖を掲げた。


「滑稽な茶番だ。」


 ——轟!!!


 権杖が微かに震えるとともに、黒く禍々しい魔力が奔流のごとく溢れ出し、見えない衝撃波が四方に広がる。

 篝火の炎が激しく揺らめき、周囲の魔力が異様に歪み始めた。


 そして——


 俺は直感的に理解する。


 これは——

 異端の術を根こそぎかき消すための魔力。


「……クソッ!」


 次の瞬間、胸の奥が一気に沈む感覚に襲われる——


 聖術も、偽装魔法も、一瞬で崩壊した。

 致盲效果が消え、視界を取り戻した審問官たちの瞳が縮み上がる。

 誤った標的が霧散し、その代わりに現れたのは——


 逃げる俺たち三人の姿、敵の視界に完全に晒された状態だった!


「異端はあそこだ!」


「捕えろ!」


 怒号が飛び交い、審問官たちは即座に隊列を立て直す。

 前方にいた数名の審問官が盾を構え、一切の逃走経路を塞ぎ、

 他の者たちはすでに武器を構え、直接こちらを迎え撃つ準備を整えていた。


「くそっ……!」

 俺は歯を食いしばり、ルティシアと少年の手を強く引きながら、さらに速度を上げる。


 しかし——


 高台の審問官が再び命令を下す。

 その声は淡々としているが、圧倒的な威圧感を纏っていた。


「飛鉤を投げろ——」


 ——飛鉤!?


 胸の奥に冷たい焦燥が走る。


 それは逃亡者や異端を捕えるための専用武器。

 一度でも命中すれば、鎖が瞬時に締め付けられ、

 獲物を強制的に引き戻すだけでなく、そのまま命を奪うことすら可能な捕縛具。


「気をつけて!」


 ルティシアの声が鋭く響く。

 彼女もすでに死の気配を察知していた。


 ——ヒュンッ!!


 次の瞬間、闇夜を切り裂く鋭い風音が響き渡る。

 数本の飛鉤が、高速で回転する鎖とともに放たれた。

 猛毒を持つ蛇が獲物に襲い掛かるように、一直線に俺たちを狙う——


 ——狙いはルティシアと少年!


 考える暇はない。


 身体が本能的に動いた——


 ——グサッ!!


 鋭い痛みが左肩を貫く。


 冷たい金属の鉤爪が、俺の肩を貫通した。


 凄まじい衝撃に、身体が後方へ持っていかれそうになる。

 視界がぐらつき、肩口から鮮血が溢れ出す。

 傷口を赤く染める血が瞬く間に衣服へ広がる。

 鋭い痛みが電流のように四肢へ駆け巡り、左腕全体が痺れていく——


「ロイ!」


 ルティシアの声が焦燥に震える。隠しきれない驚愕と不安が滲み出し、その身を覆う呪いの気配が一瞬にして激しく揺らいだ。まるで、刺激を受けた傷口が開くように、制御できないほどの黒い波動が彼女の体内から溢れ出す。


「……くっ!」

 奥歯を噛みしめ、鋭い痛みを耐え忍ぶ。肩口から血が滴り落ちるのがわかるが、立ち止まる時間などない。


 飛鉤の鎖が急激に締まり、俺の体を強引に引き戻そうとする。だが——


「……ぐっ!」


 肩を揺らし、全身の力を振り絞って鎖を引き千切る!


 金属と肉が引き裂かれる感触に、視界が一瞬真っ白になった。脳を揺さぶる激痛が意識を刈り取ろうとする。だが、それすらも振り払い、足を踏み出す。失血による眩暈を力づくで押さえ込む。


「……クソッ!」


 左肩から燃え上がるような激痛が広がる。衣の奥にまで血が染み込み、腕を伝い、冷えた夜風に触れながらゆっくりと滴る。その熱さと生々しい鉄の匂いが、痛覚を鋭く研ぎ澄ませる。だが、今は傷のことなど構っていられない。


 ルティシアの息が浅くなる。銀白の瞳が揺らぎ、焦燥と抑圧された衝動が混ざり合う。彼女の魔素安定の護符が激しく明滅し、呪いの気配が荒れ狂うように渦を巻いた。指先に滲み出る黒い霧がゆっくりと空気を歪め、魔力の流れさえ狂わせていく。


 まずい、このままでは——彼女の呪いが暴走する!


「落ち着け、ルティシア!」

 歯を食いしばりながら叫び、足を踏ん張る。片手で左肩の傷を押さえ、凍り付くような痛みを封じ込める。もう片方の手はなおも聖典を離さず、力強く握りしめる。「俺はまだ立っている……今、お前が制御を失う時じゃない!」


 ルティシアは唇を噛み締め、震える指で護符を握りしめる。荒れ狂う魔力を必死に抑え込もうとしているのが見えた。微かに震える手、袖口の下に現れかけた黒い紋様——それらが、彼女の抑圧を破ろうと蠢くように光を帯びる。

 だが、彼女は……それを耐えた。


 深く息を吸い込み、呪いを無理やり体内へ押し戻す。黒霧がゆっくりと消え、空気が静寂を取り戻す。


「……策はあるの?」

 低く、感情を抑えた声でルティシアが問う。もはや焦りはない。鋭い冷静さが、その声色に宿っていた。


「ああ。」

 迷いなく答え、素早く聖典を開く。視線はまっすぐに、あの《杖を持つ審問官》を捉える。そして、口を開く。


「我、誓約を掲げ、聖光の寵召を請う——天律の降臨、誓約の鎖!」


 ——金色の鎖が虚空に爆ぜる。

 それは神聖の律法そのもの。光の法則が絡み合い、あらがうことを許さぬ威圧を携えながら、疾風のごとく審問官へと襲いかかる!


 今回の標的は、単なる実行部隊ではない。

 時間稼ぎの障害でもない。

 ——この裁きの執行者、その者ただ一人。


 審問官は軽く眉を上げた。しかし、彼の表情に焦りは微塵もない。避ける気もない。

 むしろ——彼は薄く冷笑し、まるで滑稽な戯れを見下すように、口元を歪めた。


「そのような低劣な手で、まだ抗うつもりか? くだらん。」


 杖をゆるりと持ち上げ、眼差しを氷のように冷たく細める。

 まるで、処刑台に立つ囚人を眺めるような、確信に満ちた声で囁く——


「聖都の裏切り者よ、お前はとうに神の庇護を失った。聖術で我に対抗しようなど、思い上がりも甚だしい。」


 俺は奴の嘲笑に反応せず、ただ聖典を握りしめ、静かに呟いた。


「もし、俺が神の庇護だけを頼りにしていたなら——もうとっくに、逃亡の途中で死んでいた。」


 ——鎖が、一気に締まる。

 審問官の身体を絡め取るべく、黄金の光が炸裂した!

 ——その瞬間。


 審問官の足元が突如、眩い黄金の光に包まれた!


 ——《聖釘》、発動!


「……なっ——?!」


 ついに、彼の表情に初めての綻びが生じた。

 あの余裕に満ちた眼差しが、驚愕と混乱に塗り替えられる。まるで自分が罠に嵌められることなど、夢にも思っていなかったかのように——


 ——そうだ、お前はまったく気づいていなかった。


 俺がこの《聖釘》を仕掛けたのは、先ほど《耀目の裁き》を放った瞬間——

 すべての視線が聖光に奪われた、その一瞬の隙を突いて、審問官の足元に忍ばせたのだ!


 あの閃光は、単なる目くらましではない。

 審問官は最初から最後まで、俺の聖術に意識を集中させ、俺の"本命"がどこにあるのかを見抜けなかった。


 ——だが、本当の一撃は、闇に潜んでいた罠にあった。


 黄金の鎖が地面から瞬時に飛び出す。

 それはまるで意思を持つかのように絡みつき、彼の両脚を、腕を、そして身体を一瞬で絡め取り——神聖なる枷が、審問官を完全に拘束した!


「貴様ァ……!」


 審問官は声を震わせながら怒りに満ちた呻きを上げる。

 彼は反射的に腕を振り上げようとした。

 だが——


 ——動けない。


 腕が、足が、まるで鋼の枷で縛られたようにピクリとも動かない。

 審問官は肩を震わせ、何が起こったのか理解できないという顔を浮かべる。


 その手から——


 ——"権杖"が滑り落ちた。


 カランッ——


 乾いた金属音が響き、地面に転がる。

 あの強大な力を宿す権杖が、彼の手を離れたのだ。


「バカな……!」


 彼は激しく歯を食いしばり、両腕の筋が張り詰めるほどの力で拘束を振り解こうとする。

 だが、どれほど力を込めても、黄金の鎖は一切揺るがない。


 先ほどまで俺の聖術をいとも容易く打ち消していた彼が——

 今度は、自らが術の対象となったことで、どうにもできずにもがいている。


 これは、単なる《光鎖誡律》ではない。


 ——これは、《聖釘》による束縛。


 彼がどれだけ強大な術を振るおうと、

 どれだけ魔力に精通していようと、

 この"鎖"は、ただ一つの"絶対の掟"に従う——


 "捕えた者を決して逃がさぬ"こと。


「……異端め……!」


 審問官は声を震わせ、鋭い憎悪の視線をこちらへ向ける。

 憤怒、驚愕、そして理解不能な混乱。

 あらゆる感情が彼の表情に混じり、歯ぎしりが夜の静寂を切り裂く。


 ——だがもう遅い。


 俺は彼の苦しげにもがく姿を見下ろし、静かに息を整えた。


「どうやら……お前は、この裁きを完全に掌握できていたわけじゃなかったようだな。」


 静かに、そして確信を持って告げる。


 審問官の身体が、光の鎖に囚われたまま小さく震える。

 転がる権杖が、まだ夜の冷たい大地の上に転がったまま、審判の終わりを告げるように沈黙していた。


 ——そう、俺の計算通りだ。


 どれだけ強大な力を振るう者でも、

 どれだけ術を操ろうと、

 "自身がその力を振るえない状況"ならば、何の意味もない。


 ——審問官、お前は無敵ではない。


 どれだけ権杖の力を誇ろうと、

 どれだけ俺の聖術を軽んじようと、


 ——その権杖がなければ、お前はただの人間だ。


 そして今、お前は——


 権杖すら握れぬまま、鎖に囚われた敗者にすぎない。

「……貴様……卑劣な裏切り者め……!」


 審問官が怒声を上げる。

 怒りに歪んだその顔には、激しい憎悪が滲み出ていた。

 まるで俺を火刑台に括りつけ、その身を業火で焼き尽くしたいかのような狂気を孕んだ眼光——。


「ただ、お前より賢いだけだ。」


 俺は冷たく言い放ち、聖典を強く握りしめる。

 今が唯一の隙。

 この瞬間を逃せば、俺たちに逃げ道はなくなる。


 俺は素早く聖典を開き、指先で書頁に触れ、低く詠唱を始めた。


「——罪、既に定まりしものなり。よって、審判を下す。」


 空気が震え、魔力が潮のように俺の手のひらへと収束していく。

 灼熱の聖なる光が形を成す。


 浮かび上がるのは三本の裁罰の槍。


 槍身に刻まれた紋様が神聖な輝きを放ち、槍そのものが霊光を帯びている。

 黄金に輝く槍が静かに宙に浮かび、俺の一声を待つように狙いを定めた。


「——聖光よ、槍と成れ。闇を貫け!」


 ——《裁罰の槍》!!


 三本の槍が空間を裂き、閃光の流星となって飛翔する。

 聖なる力をその身に宿し、狙いはただ一つ——


 審問官の心臓を穿つ!


 ——だが、その瞬間。


「——ガンッ!!!」


 鋭い金属の衝突音が響いた。


 俺の槍が審問官へ到達する寸前、突如として漆黒の影が飛び出した!


 翻る黒きマント。

 燃え盛る炎を背に、突き出されたのは——


 巨大な大剣を構える、審問官!


 彼は退かない。防御もしない。

 そのまま、槍へ向かって一直線に突撃した——!


 ——ズバァァンッ!!


 金色の閃光が炸裂し、聖槍の一撃が審問官の肉体を貫通する。

 周囲の大地が震え、石畳が砕け、爆風が戦場を包み込む。

 審問官の肉体は聖光に貫かれた。

 鮮血が鎧の隙間から溢れ、火光に照らされたその姿は、まるで業火に焼かれる異端者のように歪で凄惨な影を落とした。


 ——だが、倒れない。


 致命傷を負いながらも、彼は崩れ落ちることなく、わずかにふらつきながら数歩後退する。

 その手はなおも大剣を離さずに握りしめていた。

 剣身が揺れ、血と炎の光が交錯するなか、審問官の目は冷たい光を宿していた。


 恐怖はない。躊躇もない。

 まるで、すべてが計算のうちであったかのように——。


 そして、彼は笑った。


 口元から血を滴らせながら、微かに唇を歪める。

 その表情は、哀れな殉教者のそれか、それとも——狂信者の誇りか。


「……神は、我が犠牲を無駄にはしない。」


 静かに、しかし確信に満ちた声で言い放つ。


 そして——


 彼は前へと倒れ込んだ。


 だが、それは決して絶望の崩れ落ちる姿ではない。

 鮮血を引き摺るその腕が、確実に目標へと伸びていた——!


「……くそっ——!!」


 俺は叫び、即座に一歩踏み出した。

 だが、間に合わない——!


「——ガチンッ!!」


 彼の指が、聖釘の外縁を掴む。

 指先に力が込められ、血塗れの指節がきしむほどに強張る。


 そして——


 彼は、躊躇なく、力の限り、それを引き抜いた。


 ——鎖の光が、一瞬にして砕け散る!!

 黄金の鎖は崩れ落ちる聖光の如く、一筋また一筋と夜闇に溶けて消えていった。

 聖釘が抜かれた瞬間、すべての束縛が瓦解する——!


 縛られていた審問官は、自らの両手をゆっくりと見下ろした。

 消え去った鎖の感触を確かめるように、指を軽く動かす。


 そして、ゆるやかに口元を歪め、勝者の微笑を浮かべた。


 彼はすぐには動かない。

 焦ることなく、静かに身を屈め、地に落ちた権杖を拾い上げる。

 指がその杖をしっかりと握りしめると、彼の目は再び俺を射抜いた。


 ——冷たい殺意を宿した、神の代行者の眼差しで。


「愚か者が……」


 声は低く、冷え切っていた。

 嘲笑と殺意が入り混じった声は、焰の揺らめきに溶け込みながら響く。


「貴様のような取るに足らぬ策で、神の審判が止まるとでも思ったか?」


 ——この瞬間、俺の優位は完全に失われた。


 その場の空気が、一瞬にして凍りついた。


 権杖を握る審問官は静かに立ち上がり、口元に薄く笑みを浮かべた。

 彼の目は冷酷に俺を捕らえ、その視線はまるで、逃げ場を失った獲物の最後の足掻きを見届ける捕食者のようだった。


「滑稽な抵抗だ……」


 低く冷徹な声が夜の静寂を貫く。

 彼はゆっくりと指先を権杖の表面に滑らせながら、心底見下したような口調で続けた。


「聖釘?異端が見せる、無意味な悪あがきに過ぎん。」


 そして、彼は視線を傍らの倒れ伏す審問官に向けた。


「神は、お前の犠牲に意味を与えられるだろう。」


 地に伏した審問官の唇から血の泡がこぼれ、すでに意識は薄れかけていた。

 だが、その言葉を聞いた瞬間、彼の表情に宿るのは、深い安寧。


 ——神の審判のために死ぬことこそが、最上の栄誉なのだと。


 ……狂っている。


 だが、今はそんな信仰の狂気に構っている余裕はない。


 俺は汗ばむ手で聖典を握りしめ、頭の中で次の一手を模索する。

 戦況は、完全に逆転された。


 ——奴に、再び術を使わせるわけにはいかない!


 俺は残る魔力をかき集め、聖光を強引に収束させる。

 掌に光が集まり、わずかでもいい、何かを打ち出す——


「……もう、貴様に機会はない。」


 審問官の冷ややかな声が、戦場の空気を切り裂いた。


 次の瞬間——


 権杖が地面に突き立てられた!


 ——轟ッ!!


 周囲の空間が歪んだ。


 地面から放たれた異様な衝撃波が、場に広がる。

 まるで世界そのものが押し潰されるような強烈な魔力の波動。


 ——魔力が、崩れる!


 俺の手元で輝いていた聖光が、瞬時にして弾け飛び、霧散した。

 体内の魔力の流れが断たれた。

 何度試しても、まるで術を発動するための「鍵」を奪われたように、聖術を行使することができない。


 ——これは、単なる術の解除ではない。

 聖光そのものを、この空間から抹消する力——!


「異端に、聖光を使う資格はない。」


 審問官はゆっくりと歩を進めながら、冷酷な笑みを浮かべた。


「貴様はすでに放逐された身。神の恩寵を穢すことなど、許されるはずもない。」


 魔力を奪われた俺の身体が、わずかに震える。

 魔力の流れだけでなく、気息すらも支配されるかのような、異様な圧迫感。


 まるでこの場そのものが、俺を締めつけているようだった——!

 俺は男を睨みつけた。

 胸の奥を圧迫するような重圧が走る。


 ——この能力、想像以上に厄介だ。


 聖術が封じられた状態では、俺の戦闘手段は大幅に制限される。

 このままでは、勝機は限りなく低くなる……


 ——状況は、予想していたよりもさらに最悪だ。


「ロイ!」


 突然、ルティシアの声が響いた。

 俺が振り向くと、彼女は両手で護符を強く握りしめ、その銀白色の瞳に決意の光を宿していた。

 彼女の身体は微かに震え、呪いの影響が完全に消えていないことは明らかだったが、それでも歯を食いしばり、魔力を引き出そうとしていた。


「……あなたは耐えて……私が……」


 俺はすぐさま眉をひそめ、低い声で言った。


「ダメだ、少年を連れてすぐに逃げろ!」


 ルティシアの足が一瞬止まり、呼吸が浅くなった。


 彼女は自分の状態を理解している。

 今の彼女は、強力な魔法を行使するにはあまりにも消耗しすぎている。

 それでも——退くつもりはない。


 彼女の指先に、淡い月光を帯びた魔法陣が描かれた。

 その光は微かでありながら、異様なほど鮮明だった。

 今すぐにでも術を発動できる——そう思わせるほどの明確な魔力の流れがそこにあった。


 だが、彼女の魔力の動きは滑らかではない。

 ——単なる呪いの影響ではない。体力が、すでに限界なのだ。


「……無理をするな。」


 俺は声を落とし、静かだが、強い意志を込めて言った。


 ルティシアの手はまだ護符を握りしめたまま。

 その銀白色の瞳が僅かに揺れ、眉がわずかに寄せられる。

 撤退を拒む、強い意思の現れだった。


「……何もしないなんて、しない。」


 静かに、しかし確固たる口調で彼女は言った。


 魔法の詠唱を続けることはなかったが、それでも完全に引くつもりはない。


 彼女は少年を守るようにその身を傍に寄せ、一歩前へと踏み出した。

 まるで、自分が戦えなくても、少なくとも少年を守る壁になるつもりかのように。

 ——だが、その瞬間だった。


「——だが、その瞬間だった。


「飛鉤を投げろ——」


 審問官の鋭い命令とともに、冷たい金属の鎖が夜の闇を切り裂きながら、ルティシアと少年に向かって猛然と飛来する!


「……!」


 ルティシアはほぼ本能的に少年を突き飛ばし、自らは身を捻って回避体勢に入る!

 しかし、その動きは明らかに不完全だった——このままでは、完全には避けられない!


 ——考える暇はない。俺の身体が先に動いた。


 だが、まさにその時——


 闇を切り裂くような鋭い風切り音が響く!


「——ッ!!」


「ドンッ——!」


 夜空を貫くように放たれた一本の銀色の矢が、飛鉤へと一直線に飛び込む。

 鋭い矢じりは狙い違わず飛鉤を弾き、その軌道を大きく逸らせた!

 本来ならルティシアを捉えるはずだったそれは、地面へと叩きつけられ、鈍い衝撃音を響かせる。


 ルティシアの身体が一瞬だけ硬直し、反射的に矢の飛んできた方向へと鋭く視線を向ける。

 審問官たちもまた、思わず動きを止め、闇の奥へと目を向けた。


「……何だと?」


 息を整える間もなく、俺もまた、矢が飛来した方向を注視する。


 ——闇の中、誰かがいた。


 漆黒の夜に溶け込むようなシルエット。

 弓を手にし、なおも射撃姿勢を保っている影——


 張り詰めた弓弦が微かに震え、つい先ほど矢が放たれたばかりであることを示していた。


 敵か、それとも——?


「……何者だ?」


 手に権杖を握る審問官が、低く、鋭く問いかける。

 その目には動揺の色が滲み始めていた。」


 審問官の鋭い命令とともに、冷たい金属の鎖が夜の闇を切り裂きながら、ルティシアと少年に向かって猛然と飛来する!


「……!」


 ルティシアはほぼ本能的に少年を突き飛ばし、自らは身を捻って回避体勢に入る!

 しかし、その動きは明らかに不完全だった——このままでは、完全には避けられない!


 ——考える暇はない。俺の身体が先に動いた。


 だが、まさにその時——


 闇を切り裂くような鋭い風切り音が響く!


「——ッ!!」


「ドンッ——!」


 夜空を貫くように放たれた一本の銀色の矢が、飛鉤へと一直線に飛び込む。

 鋭い矢じりは狙い違わず飛鉤を弾き、その軌道を大きく逸らせた!

 本来ならルティシアを捉えるはずだったそれは、地面へと叩きつけられ、鈍い衝撃音を響かせる。


 ルティシアの身体が一瞬だけ硬直し、反射的に矢の飛んできた方向へと鋭く視線を向ける。

 審問官たちもまた、思わず動きを止め、闇の奥へと目を向けた。


「……何だと?」


 息を整える間もなく、俺もまた、矢が飛来した方向を注視する。


 ——闇の中、誰かがいた。


 漆黒の夜に溶け込むようなシルエット。

 弓を手にし、なおも射撃姿勢を保っている影——


 張り詰めた弓弦が微かに震え、つい先ほど矢が放たれたばかりであることを示していた。


 敵か、それとも——?


「……何者だ?」


 手に権杖を握る審問官が、低く、鋭く問いかける。

 その目には動揺の色が滲み始めていた。

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