後編
それからパトリック様は、ちょくちょく私のいる屋敷に顔を出すようになった。なんでも彼が隠居している屋敷は、この屋敷とそれほど遠くないところにあるらしい。
最初のころは午後にやってきて、できたての焼き菓子を食べながら私と一緒にお茶を楽しんでいた。彼は博識で話もうまく、気配り上手だった。さすがは元王といったところか。自分のことしか考えていないルーカスとは大違いだった。少しでも彼に喜んで欲しくて、私は彼の好みを取り入れた菓子を多く作るようになっていった。
そのうち彼は昼前に現れ、昼食を共にするようになった。「一人きりの食事は味気なくてね」とにこやかに言い訳をしながら。私も彼といるのは楽しかったので、断る理由はどこにもなかった。そして、彼と話す時間が増えたことを嬉しく思っている自分がいた。また明日も来てください、それがお決まりの別れの言葉になっていた。
気がつくと彼は午前中に顔を出すようになり、私と一緒にお菓子を作るようになった。王族がこんなことをしていていいのか、とも思ったけれど、私はもう隠居だから、と彼は言いはって楽しそうに生地をこねていた。二人で作る焼き菓子は、一人で作っていたものよりずっと美味になっていた。そして彼と過ごす時間は、驚くほど速く過ぎ去っていった。
この頃には、私たちは一緒に遠乗りに出かけるようになっていた。彼は隠居してからあちこち馬でめぐっていたらしく、静かで景色のいい湖や、森の奥にひっそりと咲く花畑など、素敵な場所をいくつも見つけていた。そこに案内してもらって、二人きりでゆっくりと過ごす。そんなひとときは、私にとって宝物のようなものになっていた。
そして逆に、私が彼の屋敷に招かれることも多くなっていた。食事を共にするだけのこともあるし、ゆっくりと泊まっていくこともある。彼の屋敷の使用人たちは私がまるで女主人であるかのように扱っていた。私たちの関係は、二つの屋敷の中ではもう公然のものとなっていた。
そうやって私たちは、国の動向とは切り離されたところで幸せに生きていた。ある日、王宮からの使者が私たちのもとを訪れるまでは。
「……君はこの命令をどう思う?」
すっかり習慣になってしまった午後のお茶の時間、パトリックは珍しく難しい顔をしながら一枚の紙をひらひらと振ってみせた。王の、すなわちルーカスの署名が入った命令書だ。
「こんな命令に従う気はありません」
私の手元にも同じような紙がある。その内容はあまりにふざけていて、思わず紙を引き裂いてしまいそうになったくらいだ。
『シャーロット・ベルン、君を王妃付きの女官に任命する。かつて私を守ってくれたように、彼女を守ってくれ』
パトリックはその内容を見て、はっきりと眉をひそめた。呆れたように深々とため息をついている。
「本当に、あの子はアデレイドのこととなると人が変わるんだな。こんな図々しいことを言う子だとは思っていなかったよ」
アデレイドはルーカスを捕まえておくことには成功したようだったが、その代わり彼を取り巻く悪意をまとめて引き受ける羽目になってしまったようだった。
無理もないだろう、軟弱な新王と、それを支えるだけの器量のない王妃。だったら、王妃を取り換えてしまえと考える者も出てくるだろうし、そんな思惑を抱えた海千山千の貴族たちと、真っ向から戦えるほど彼女は強くない。
だから私を引っ張り出して、彼女の代わりに戦わせようと思ったのだろうが、あいにくと私はそんなに甘くない。
「私の方には、『王の参謀として王宮に戻って欲しい』と書かれていたよ。おそらく、自分一人では政務がこなせなくなったんだろうね。アデレイドは使い物にならないだろうし。君を手放したことが、ルーカスの運の尽きだったという訳だ」
そう言って、パトリックは愛おしそうにこちらを見てくる。こちらの心をとろかすような、甘く優しい笑みを浮かべていた。
「……まあ、もう君を返してくれと言っても返さないけれどね」
「ええ、私もあなたのそばを離れたくはありません」
そうやって二人で見つめあっていると、ふとパトリックが何かをたくらんでいるような目つきになった。彼は私の倍近い年齢なのに、こうしていると同年代か、年下にさえ見えてしまう。そんなところも彼の魅力だ。
「私はこのまま命令を突っぱねてしまえばそれでいいけれど、君の場合そうもいかないだろう。堅物で知られた君の父上、ベルン公の方に話を持っていかれたら、拒否のしようがない」
「……ええ、そうですね」
父は王国に絶対の忠誠を捧げている人だから、王が強く命令すれば、それに背くなんて考えられないだろう。たとえそれが軟弱な王の出した、自分勝手極まりない命令だったとしても。
「だから、私に考えがある。これから一緒に、あの子のところに行こう」
彼が何を考えているのか、私には分からない。けれど彼に任せておけば大丈夫だ。そんな風に信頼できる相手がいることが、ただひたすらに嬉しかった。
それから数日後、私はパトリックに連れられて王宮の門をくぐった。久しぶりに見る王宮は、さほど懐かしいとは思えなかった。
二人とも正装に身を包み、ゆっくりと玉座の間に向かって足を進める。たまたま出くわした貴族や使用人が、みなぽかんと口を開けて立ち尽くし、私たちが通り過ぎていくのを見守っている。引退した筈の先王と婚約破棄された公爵令嬢が寄り添って歩いているというのは、それだけ不可解な事態だったのだろう。
玉座の間に着くと、相変わらず頼りなさそうに視線をさまよわせているルーカスと、不機嫌そうにいらいらしているアデレイドの二人に出迎えられた。二人とも、豪華な玉座が全く似合っていない。
「父上、やっと来てくださったのですか。それに、シャーロットも」
ほっとした表情でルーカスが前のめりになる。彼は気づいていない、私が臣下の礼をとっていないことに。私とパトリックが、親しげに手を取り合っていることに。
そして、そんなルーカスにパトリックが厳しく言い放った。
「いや、私はお前の参謀を務めるつもりはないよ。そしてシャーロットも、女官になどさせない」
「そんな、私たちを見捨てるつもりですの、お義父様!」
日々貴族たちから様々な圧力をかけられているのだろう、いい加減苛立ちが限界にきていたアデレイドがヒステリックに叫ぶ。これが王国の頂点に立つ王妃だなんて、恥さらしにも程がある。
「シャーロット、君だけでも王宮に来てくれ。これは王としての命令だ」
今まではあんなに頼りないところしか見せてこなかったくせに、突然ふんぞり返ってルーカスが私に命令した。彼に振り回されてきた七年間の記憶がよみがえり、怒りに手が震える。
けれどそんな私の手を、パトリックがそっと包み込む。それだけで怒りが嘘のように消え去っていった。そっと彼の方を見ると、大丈夫、と言っているかのように小さくうなずいてくれた。
そしてパトリックは玉座の二人を真っすぐに見据えると、朗々とした声ではっきりと言った。
「ルーカス、アデレイド。今日はお前たちに宣言しに来た。私は彼女を、シャーロット・ベルンを後妻として迎えると」
「な、何をいっておられるのです、父上!」
ルーカスは驚きのあまり玉座から立ち上がった。驚くのも無理はないと思うけれど、それを態度に出しているようでは王としてはまだまだだ。隣のアデレイドは、目と口を真ん丸にして硬直している。少々、いやかなりはしたない姿だ。
けれど私も二人のことを笑ってはいられない。パトリックの宣言に、胸の高鳴りを抑えられずにいるのだから。今日ここで彼がこのことを公にすると、前もって聞かされてはいる。けれど実際に彼が宣言するのを聞いてしまうと、嬉しさにいても立ってもいられなくなってしまう。
そんな私たちとは裏腹に、パトリックは一人堂々と立っていた。その姿は今なお王者としての風格に満ちていて、私はこの人の妻として選ばれたことが何より誇らしく思えた。
「お前はシャーロットを手放し、私を退位させた。今頃私たちの力を借りようなどと言えた立場ではないだろう」
「そんな……それでは私は、どうすればいいのですか」
「お前には真実の愛を誓った妻であるアデレイドがいるだろう。これからは、二人で手を取って乗り越えていけばいい」
どこか突き放したようにパトリックが言うと、いったん黙っていたアデレイドがまた叫んだ。私に向かって。
「シャーロット、あなたの差し金ね!? ルーカス様を取られたからって、こんな仕打ちをするなんて」
「私はルーカス様に未練はありません。王妃の座にも。むしろあなたがルーカス様を奪ってくれて、いっそせいせいしました」
それは掛け値のない本音だったのだが、哀れなルーカスにとどめを刺すには十分だったらしい。さっきまで立ち上がってパトリックと話していた彼は、真っ青になって玉座に力なく座りこんだ。その目はここではないどこかを虚ろに見つめている。
しかしアデレイドの叫びは止まることがない。それどころか、どんどん勢いを増していた。
「口ではどうとでも言えるわよね、だいたいお義父様をたらしこむなんて、いい根性してるじゃないの。お義父様もお義父様よ、半分の年の女にひっかかるなんて」
私を侮辱するのは構わないけれど、パトリックを悪く言うのは許せない。どうにか言い返せないかと血の上った頭で必死に考えていると、パトリックがそっと私の肩に触れ、そのまま抱き寄せてきた。その瞬間、アデレイドのことが頭から消し飛び、また幸せな高鳴りで胸が満たされる。
「口を慎め、アデレイド。彼女はこれから王太后に、君の『義母』になる。相応の敬意をもって接してもらいたい」
今まで聞いたことのないような冷たい声でパトリックが釘を刺すと、さすがのアデレイドも迫力負けしたのか、手で口を塞ぎへたり込んだ。その肩が小刻みに震えている。
そしてパトリックは今までとは打って変わった優しい声で、今度は私に呼び掛けた。
「さあ、帰ろうかシャーロット。いつものように、君の作ったお菓子でお茶にしたいな」
私ももう玉座の二人には目もくれず、愛しい彼だけを見つめて答えた。私を支えてくれ、守ってくれる最愛の人。
「ええ、帰りましょうパトリック。明日はまた、一緒にお菓子を作りませんか」
「そうだね。……愛しているよ、シャーロット」
「私もあなたのことを愛しています、パトリック。……婚約を破棄されて、本当に良かった」
そうして私たちは手を取り、晴れ晴れとした笑みを浮かべながら玉座の間を後にした。
それから数年後、パトリックは王として、私は王妃として王宮に戻ることになった。王宮に戻ってからも、私たち二人のお菓子作りは続けられ、王宮には毎日のように甘い香りが漂っていた。私たち二人を結んでくれた、甘い幸せの香りが。
これで完結です。
楽しんでいただけましたら幸いです。