第二十九話 澪の両親
澪は、父に腕を引っ張られリビングに入った。
テーブルの上に飲みかけのワイングラスがおいてある。
酔って気をまぎらせるような性格の父ではない。
澪は訝しげに感じ、何気なく応接室に目をやると、空のティーカップが三客残っていた。
(お客さまがいらしたの? だから今日は珍しく早く帰ったのね)
誰かが訪ねてくるという話は聞かされていなかった。
「澪さんは、伊藤さんとはお会いしたことないでしょ。
お父さまの研究室の博士課程で学んでらっしゃる方なのよ。
わざわざいらして、澪さんの帰りを十時ごろまで待ってらしたのに。
あなた、いつまでも帰ってこないから、残念そうだったわ」
母はそうぼやきながら、空いたカップをさげる。
「それなのにスマホに連絡しても、全然出ないで留守番電話に繋がるばかりだ。
いったい何をしていたんだ?」
何も答えずに傍らに立つ澪を、父はにらむように見上げる。
今夜は友人とライブハウスに行くと告げておいたのに、忘れていたのか。
「今の青年、あれでもうちの大学の学生か? あきれてものも言えん。
お前もその格好はなんだ。彼らと一緒にいるうちに、羞恥心を無くしたのか」
学部こそ違うが、澪の父親は祐司たちの大学で教授職についている。
自分が教える学生たちをそんな目で見ているとは思わなかった。
「お付き合いするなら、伊藤さんにしなさい。
感じのいい青年でしたよ」
(ああ、そういうことなのね)
澪はこのときになって、両親の行動を理解した。
祐司との付き合いをよく思っていない。
だからわざわざ祐司のライブの日を選んだのだろう。
素行不良な学生との付き合いを断たせるのが目的で、娘をライブ会場から呼び戻すつもりだったに違いない。
伊藤も祐司と同じ大学で学んでいる。
だが院生の伊藤は父が母校から引き抜いた人物なので、信頼度は確実に上だ。
つまりドクター就職難の時代に、今後の進路を教授に保証されている。
伊藤は、そのためなら教授の娘と結婚するのも良しとするような野心家なのかもしれない。
父もそれを理解した上で、自分の派閥作りに利用するつもりでいる。
母親にしても、娘の結婚相手が将来の教授候補となれば、それだけで箔がつく。
テレビによく出演する教育評論家としては、願ったり叶ったりだ。
(みんな揃って、いつの時代を生きているつもりなの?)
両親を見ていると情けなくなる。
(いつだってそうだ、両親は自分たちの都合ばかり押し付ける。
あたしはあたしという、ひとりの人間なのに……)
澪の気持ちなど、両親にはどうでもいい。
祐司のことも完全に誤解している。
見かけはバンドの関係で派手だが、中身は本当に誠実だ。
講義もサボることなく出席し、単位も取っている。
ライブの費用もアルバイトをして稼いでいる。
(お父さまもお母さまも、結局はあたしを自分たちの思う通りに育てたいのね)
数年前の苦い経験が、澪の心に浮かんだ。
中学受験を終えた澪は、ずっと憧れていたプラネタリウムに通い始めた。
そこで天文関係の仲間を見つける。
彼らに誘われて初めての観測会に出かけようとしたとき、夜の集まりという理由で許してもらえなかった。
同好会に入ることも、両親は反対した。
プラネタリウムの館長が会長を務め、老若男女問わず星好きが集まり、純粋に天文を学びたい人で構成されていた。
年に数回、週末の昼間には希望者向けに勉強会も開かれ、星空を見ているだけでは得られない知識も増やせる。
星好きだけで終わることのない、魅力的な同好会だ。
なのに両親は、夜の活動があるというだけで、詳細も聞かずパンフレットも読んでくれなかった。
そして挙げ句の果てに、澪は星空の観測すら禁止される。
本棚にあった天文関係の書物は、知らないうちに始末された。
(そう……いつもあたしの話なんて、聞く耳を持たない)
自分たちの意見を押し付けるだけの両親。
その両親の考え疑問を持たず従ってきた自分が悲しい。
昔の澪はそれを当たり前のように受け入れていた。
親の過干渉を庇護だと想い、信じて疑わなかった。
そこは楽園ではなく、地獄だった。
だが加織という芯の強い少女と出会ったのがきっかけで、自分の気持ちを口にしてもいいと知った。
教育という名のもとで、親に洗脳されている自分に気づいた。
(加織のように、あたしはあたしの気持ちに正直に生きたい)
もう親の言いなりになる自分とは別れを告げよう。
「あなたがおかしくなったのは、あの通り魔事件のあとだわ。
深夜のバイトをしているっていう男の子と知り合ってから、少しずつ変ってきたんですよ」
「聞くところによると、彼は学生じゃないらしいな。
流行りのフリーターらしいが、まともな職には就かないのか」
「勉強が嫌で、高校を中退したんじゃありません?
おまけに一人暮らしだなんて。家出でもしてるのかしら。
どんな育ちをしてきたのか、親の顔が見てみたいですわ」
両親の矛先が聖夜に移った途端、澪の胸に鋭いナイフで刺されたような痛みが走った。
通り魔に襲われたときの記憶がフラッシュバックする。
どういう神経をしたら、自分の娘を救ってくれた人物を悪く言えるのか。
あの場に聖夜がいなかったら、娘は死んでいたかもしれないのに。
「澪さんには江莉さんというお友達がいるでしょう。
それなのにあんな人たちとつきあうなら、明日から学校以外は外出禁止ですよ」
「どうなんだ? 約束できるのか?」
一方的な押しつけを約束とは呼ばない。
反論する言葉も見つからない。
(自分たちの都合の良いように従順に育てた娘が、自分の意思を持つのが嫌なんだわ)
「澪、どうするの? あなた、外出禁止の方がいいの?」
母親の声が、澪の神経を逆撫でする。
父親の発言が、澪の心を抉る。
(やめて、やめて、やめてっ!)
大切な恋人の祐司、心を許せる友達の加織と江莉、命の恩人でもある聖夜。
彼らの顔が澪の脳裏でぐるぐると回る。
みんなかけがえのない、そして澪の生き方を変えてくれた人たちだ。
(許さない……あたしの大切な人たちのことを悪く言うなんて許さない)
両親の理不尽な態度が、澪の心に嵐を呼び起こす。
あまりに横暴な態度に鼓動が高まる。
不意に、強い怒りがわき上がる。
今まで経験したことのない感情だ。
(怖い……こんな気持ちは初めてだわ。
あたしは自分が怖い。育ててくれた両親に、一体何を考えているの?)
澪は両親をリビングに残し階段をかけ上った。
父親の叱責が聞こえるがそれを無視して部屋に飛び込む。
澪は肩で息をしながら、誰も入ってこれないように鍵を閉めた。
しばらくの間ベッドの上で蹲り、頭を冷やすべく好きな音楽をかけた。
そのおかげで感情の起伏が少しずつ収まり、澪は今生まれた感情を振り返る。
(突然湧き上がったあの怒り……あれは一体なんだったの?)
あのままリビングで両親と一緒にいたら、自分を見失ってしまいそうだった。
今まで自分で抑えられてきた気持ちが突然爆発するのでは、と澪は自分の感情に脅威を覚えた。
(いけない、このままでは……)
小刻みに震える身体を、なんとかして落ち着けようとする。
胸の鼓動が鎮まるよう、強く強く願った。
両腕で強く膝を抱え込み、祐司の笑顔を思い出す。
それは、自分が自分でいるために、自分を押さえつけるために、澪ができるたったひとつの手段だった。
ちょっとした注意書き(言い訳?)です。
楽園を「パラダイス」、地獄を「ヘル」というふうにルビをふっています。
ヘルに対応するのはヘヴンかなとは思ったのですが、ざっと調べたところ、パラダイスに対する言葉もヘルになるようです。
ですのでタイトルとの関連で「パラダイス(楽園)」とした都合、バランスを取るために「地獄」にもルビをふりました。ご了承ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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