第十話 -意外な犯人- 老婆は一日にしてならず
第一話で「ロバ」からはじめて、第十話で「老婆」というのは、ちょっぴり計算した洒落である。
さて、お題は「意外な犯人」である。
犯人当て小説で意外と感じてしまう犯人像の筆頭は、やはり「子ども」であろう。すぐに思いつくエラリー・クィーンの作品や、国内でも土屋隆夫の作品などで、不朽の名作が数多く存在するので、このことに異論をはさむひとは少ないはずだ。
「子ども」は無邪気で何も考えていないという一般的な通念がある。が、しかしこれをそのまま反転させれば、「もっとも理解しづらいあかの他人」ということにもなる。「子ども」を犯人やトリックとして利用した作品とは、そのような逆意をついたものと捉えることができるかもしれない。
一方、その対極にある「老人」はどうだろうか? とくに「老婆」は?
もちろん、老婆が犯人である作品にも名作はあるのだが、意表をつくという点においては、「子ども」に劣ると言わざるを得ない。もっと言うと、老婆が犯人の場合、意外性は出せても、よほどうまく書けていないと、万人が承服する結末とはしづらいように思われる。というのも、ある意味で、女を卒業して静かに土に戻る日を待つ老境の静謐さと、殺人という人間臭い、欲に満ちた行為の間には、光年に及ぶ隔たりがあるのだから。
ということで、書き手にとって、もっとも難しい犯人像は「老婆」であり、さらにそうであるがゆえに読み手にとって、もっとも意外な犯人像は、実は「老婆」なのではなかろうか?
ゆえに、「老婆は一日にしてならず」なのである。老婆ものとは、「ミステリー作家が呻吟して、およそこの世のものとは思われぬ苦労の果てに到達できる神業」なのである。
そのように考えると、能の最高の秘曲が、老女ものと呼ばれる、百歳の小野小町が主人公の「関寺小町」であるのにも妙に納得がいったりする。関寺の鐘の音が無常に響いても、遠くなった耳には底の知れぬ静寂があるばかり。無心に踊る小町の舞は、およそ凡手のおよぶところではない。
十話になりましたので、いったん完結としますが、いずれ「ミステリー・フリーク2」を書きたいと思います。このエッセイでは、与太話を無理やりミステリーに結びつけました。次回作はこれとはガラリと変えた(あるいはひと味違った?)趣向にしたいと思います。




