第三話 転ぶ先には
* * *
私は首にかけていた、外出用の耳当てを付け直した。
「せ、せーががぁ! せーがが、せーがぁ!」
両腕を前に突き出したまま泣きじゃくる芳香は、なんとも奇妙なものだった。
芳香は鼻水を垂らしながら、延々と泣き喚く。
時折やってくる神霊の言葉に耳を傾けながら瞑想に耽っていた。
そんな時だった。突然、芳香が書斎の扉を突き破り入ってきたのは。
はっきり言って、訳が分からない。
私は再び芳香に尋ねた。
「芳香、どうしたの? ちゃんと説明してくれないと分からないわ」
相手に説明を求めるなんていつ振りだろう。
普段ならば、十の欲を同時に聞ける私はそんなこと必要ないのだけれども……。
『せーが!』
この子の声はそれが大きすぎて、その他の欲が上手く聞こえない。
芳香が現れた時には思わず耳を塞いでしまったほどだ。
私の言葉に少し落ち着きを取り戻したのか、芳香は不器用に鼻水を袖で拭って、話を続ける。
「……あ、あのね。き、気付いたら、れーびょーにいて、れ、れーびょーから帰ったら……。
せーがが、せーががぁ!」
それから芳香はまたわんわんと泣き出す。
あぁ、もう。要領を得ないわね。
一体どうしたものかと溜息を吐く。
すると芳香に肩をガシッと掴まれる。
そして、芳香はその怪力を以って、私の体を揺さぶってくる。
「み、みこさまぁ! わだしどーじたらぁ!」
「あ、あばばばばば! ゆ、揺らさらないで! く、首が! 首がもげる!」
その後、なんとか芳香を落ち着かせて、話を伺ってみて分かったのは――。
「……なるほど、近頃青娥さんに避けられている、と」
「そ、そうなのだ」
うぇ……、と再び泣きそうになった芳香を慌ててあやす。
確かに、言われてみればここ数日の青娥さんの様子はおかしかった。
お食事の場には姿を現さなくなったし、たまに見かけてもあの胡散臭い笑みを浮かべていることはなかったように思う。
それに欲を読まれるのが嫌なのか、私自身も避けられているような節もあったし……。
元々仙人は食事など摂らなくても生きていける。
それに青娥さんが姿を見せなくなるなんて、しょっちゅうある事だから。
そんな事を思って放置していたが……。
こうやって相談されたら黙ってるわけにもいなかいわねぇ。
そう思って芳香を見る。すると、ある事に気付いた。
「あら? 芳香、ちょっといい?」
「ぐす……んん?」
芳香の顔に何枚か重ねて貼ってあるお札の、一番上をぺリと剥がす。
このお札。どうやら“思考停止”の札のようだ。
「ふむ」
――芳香のような、自分で考えることのできる“作品”は、中々に重宝される。
その理由は単純。モノに思考能力を付加するのがとても難しいからだ。
それは、人形の自律を長年研究している、あの魔法使いを見ればわかることだろう。
芳香の生前の記憶の助けがあったとしても、それを成し遂げた青娥さんの技術力には目を見張るものがある。
しかしながら、その思考力が時に術者の邪魔になってしまう事がある。
そんな時に使用するのがこの札だ。
この札を張り付けている間、その対象(使役者から貼られたときに限る)は瞬く間に“自分”を失い、命令にただ従う機械となる。
そんなお札なんだけど……。
「綻びがあるわね」
霊力を使った即席の書き込みで作られたようだが、力の循環が上手く出来ていない。
これでは数時間で自壊してしまったことだろう。
初歩的な、ものすごく初歩的なミスだ。
普段の青娥さんがこんな不手際をするとは考えにくい。
「……わかったわ、芳香。青娥さんのところに行くわよ!」
私は勢いよく立ち上がり、芳香を連れて青娥さんの部屋へと出向いた。
「……おっふ」
青娥さんの部屋に着いた私は、思わずそう口にした。
この部屋には、結界が張ってあったのだ。それも結構強固な。
「芳香、これが張ってあったのはいつから?」
「き、昨日からだ」
うぅむ、これほどの結界を私に気付かれず張るとは……。
破れないことはないが、それでは根本的な解決にはならないだろう。
私は青娥さんに語りかけるように声を出した。
「青娥さん! どうしたんですか!? 私でよかったら話を聞きますよ!」
『……』
やはりというか、反応はない。
結界越しだからなのか欲もあまり聞こえないし。
芳香は不安げに私と扉を交互に見る。
「み、みこさま」
……しょうがないわね。
私は溜息を吐いて、耳当てを外した。
う……、芳香の欲がうるさい。
なんとか芳香の声を頭の隅に追いやって、霊力を高める。
こうすると髪が今以上に逆立って、色々と残念な髪形になってしまうので倦厭しているが、それも今回ばかりは致し方ない。
芳香は、高まった私の気に目を丸くして言った。
「みこさま。それ、スーパーサイ」
「芳香、それ以上はいけないわ」
芳香を窘めて、霊力を十分に高める。
意識を集中すると、青娥さんの欲も聞こえてくる。
「……なるほど」
どうやら、今回の騒動。私にも責任の一端があるらしい。
私は耳当てを付け直した。それから髪も整え直す。
芳香が隣にいたからだろう。少々耳が痛い(物理的に)。
「芳香、君も来なさい」
「?」
芳香は首を傾げた。
私は芳香の頭に手を置く。
「青娥さんに会わせてあげる」
「ほんと!?」
目を輝かせる芳香に、私は頷いて答える。
「えぇ、でもその前にする事があるわ。ついてきて頂戴」
「わ、わかった!」
元気を取り戻した芳香を連れて、私達は仙界を飛び出した。
* * *
『青娥さん! どうしたんですか!? 私でよかったら話を聞きますよ!』
「……」
……うっさいわね。
膝を抱えて蹲っていた私は、鬱々とした気分で扉を見る。
すぐ近くに芳香の気も感じる。
差し詰め、結界を張られてどうしようもなくなって神子に頼ったのだろう。
その後、神子の霊力が高まったかと思うと、すぐに収まった。
結界を解こうとして諦めたのだろうか。いや、これくらいの結界も破れない神子ではないか。
それから神子と芳香は何か話しているようだったが、二人が遠くに行くのを感じた。
私は、何をやっているのだろうか。
こんなところに引き籠って、芳香に酷い事言って、遠ざけて、結界まで張って。その上神子にまで……。
「……」
分からなく、なった。
芳香が自分の子だと言われて、分からなくなった。
芳香にどう接すればいいのか、どう接するべきなのか。そして、どう接していたのか。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
親って、何? 私は一体どうすればいいの? 芳香に何をしてあげればいいの?
神子の言葉が私を支配する。私の頭を行き来する。私の脳をむちゃくちゃにする。
その言葉が左に流れて、今度は右に流れていく。周りをぐるりと回ったかと思うとその数は増している。
ぐるぐるぐるぐる、増え続け回り続ける“それ”に私は包囲されていく。
……分からなく、なった。