第8話 可哀想に、よほど気を張り詰めていたらしい
瞑想から覚めたリゼットは、すぐに森を出て帰宅した。 山猫は抱き上げられるのを嫌がったが、病み上がりで弱った体をリゼットに付け込まれ確保された。 弱ったモフモフを堪能しながら帰宅すると、玄関に2人の兵士。 一緒に森に行った兵士2人に食って掛かる。
「心配したぞ! どこへ行っていたっ!」「なぜ外出を許したッ!」
しかし口論は、次の発言ですぐに終わった。
「この女には指一本触れられないんだ。 許すしかないだろう?」
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4人の兵士は家の中には入ってこない。 リゼットは山猫を抱いて家に入った。 水に濡らしたタオルで山猫の血に汚れた顔と胸元を拭き終わると、もう夕食どきを過ぎている。 リゼットは家に残された乏しい食材で、粗末な夕食を作った。
リゼットの夕食は根菜と干し肉が入った麦粥。 山猫には干し肉のスープ。 切った干し肉を茹でただけの代物だ。 生鮮肉を買うおカネを、もはやリゼットは持っていない。
山猫はリゼットが食事をするテーブルの上で、干し肉のスープを食べている。 空腹だったらしく直ぐに食べ終えた。 リゼットの麦粥に目をつけ、器の縁に器用に爪をひっかけ自分のほうへ引き寄せる。
リゼットは慌てて器を自分のほうへ引き戻す。
「これはダメよ。 待ってて。 今お代わりを作ってあげる。 猫ちゃんに塩は毒だから」
山猫は2杯めの干し肉スープもペロリと平らげ、再びお代わりを要求。 しかし干し肉はもう無い。 干し肉を買うおカネも...... リゼットは食事の手を止め、山猫に告げる。
「ごめんね猫ちゃん、もう干し肉が無いの」
悲しそうなリゼットの横顔を、山猫は怜悧な瞳で見つめていた。
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翌朝、リゼットが目を覚ますと山猫が姿を消していた。 家中を探して見つからず、至高神エトゥワに尋ねようと瞑想して神の領域を訪れたがエトゥワは不在だった。
瞑想から覚めたリゼットの顔からは、血の気が完全に失せていた。
「エトゥワ様が神域にいない。 こんなことって――」
未曾有の事態である。 神の不在など話に聞いたことも無い。 世界がどうにかなる恐れもあるが、目下のリゼットの懸念は自分のこと。 山猫はどこに行ったのか? このままでは、三つ指を突いて悪代官イポリットに寵愛を乞うことになる。
「猫ちゃん、エトゥワ様...... どこに行ってしまったの?」
寒々と荒れ果てた部屋に、リゼットの嘆く声が響いた。
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追い詰められたリゼットは、起きている時間の大部分を瞑想に費やした。 トランス状態で神の領域に入り浸った。 しかし待てど暮らせど至高神エトゥワは戻らない。 そうこうするうちに、とうとう三日目の朝を迎えた。
悪代官イポリットがいつ来るかと思うと落ち着かない。 もはや瞑想も諦めた。 そわそわした気分で二階の窓から外を眺めていると、昼前になって立派な馬車がやって来た。 兵士の一団が馬車の前後を護衛している。
「......来たわね」
リゼットは椅子から立ち上がり、聖女時代の制服に着替え始めた。 白地に青のラインが入った絹のワンピースである。 凛々しく清楚な正装で、あの悪代官の下劣な心根を浄められれば。 そして財産を返してもらえれば。
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リゼットの思惑は外れた。 聖女の制服はイポリットを興奮させただけだった。 一階の店舗部分で出迎えた聖女姿のリゼットを見るなり、イポリットは喜色を満面に浮かべる。
「聖女の格好か! そそられてかなわんわ」
イポリットは好色な視線をリゼットの体に這わせ、鼻息を荒くする。
「よ~し。 では、そこに正座しろ。 三つ指を突いて、私の寵愛を乞うのだ」
リゼットは言下に拒絶。
「お断りです」
イポリットの目が驚きに見開かれる。
「なんだと? お前は分かっているのか? 私の妾にならねば、お前はこの村から動くことも出来ず飢え死にするんだぞ?」
リゼットは静かな口調で拒絶の言葉を述べる。
「あなたの妾になるくらいなら、私は死を選びます」
不気味な沈黙の後、イポリットはポツリと言う。
「......そんなに私が嫌か?」
リゼットが無言で顔を背けると、イポリットは大きく息を吸った。 気持ちを鎮めるためだ。
「お前に反省を期待するのが間違っていた。 連れ帰って躾けるとしよう」
言うや否や、イポリットは大きな手でリゼットの腕を掴んだ。
「さあ来いリゼット。 お前は私の物だ」
「イヤっ!」
リゼットはイポリットの手を振りほどこうとするが振りほどけない。 イポリットに引きずられるようにして、むりやり店の外に連れ出された。
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店の外には野次馬が集まっており、引きずり出されてきたリゼットに同情の目を向ける。
「お代官様も、酷いことをなさる」
「可哀想にのう」
「なまじ綺麗なばかりに悪代官に目を付けられて......」
代官の悪行に憤る者も少なくない。
「クソっ、これじゃ拉致じゃないか」
「白昼堂々の凶行が咎められないなんて! この国はどうなっているッ!」
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野次馬の同情の視線と声にリゼットは気付かない。 泣き叫びながら、連れていかれまいと抗っている。
「いや! 離してっ!」
振り回した手が偶然イポリットの鼻に当たり、イポリットは顔をしかめる。
「痛っ!」
イポリットの鼻から一筋の血が垂れ、高価なドレスシャツの白い布地に血の跡を残す。 イポリットは片手でポケットからハンカチを取り出し鼻血を拭い、手近な兵士に命令する。
「仕置きが必要だな。 ロープを持って来い。 この娘を縛り上げる」
処刑台の忌まわしい記憶が脳裏に蘇り、リゼットは激しく暴れる。
「やめてっ! ロープは嫌っ!」
しかし抵抗は虚しかった。 屈強な兵士たちは赤子の手を捻るようにリゼットの両腕を後ろ手に固定した。 イポリットは兵士から渡されたロープで、リゼットの手首を縛り始める。
「お前が従順にしていれば、このような屈辱の姿を人前に晒すこともなかった。 これを良い薬にして、今後は素直になることだ」
清楚で可憐なリゼットが涙で頬を濡らし後ろ手に縛り上げられゆくのを見て、野次馬に混じる若者たちは怒りに拳を握りしめる。
「ぐぬぅっ、もう許せねえ」
「こうなったら......」
彼らは血気盛んな年頃。 代官の目に余る横暴ぶりに我慢ならず、代官に突撃する気になった。 しかし彼らは武器を持っていない。 10人近くもいる武装兵に返り討ちにされるは必定。『リゼット・ラングロワの神殿堂』の前の広場に血の雨が降るッ!
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――と、思われたそのとき、3頭の馬が広場に駆け入ってきた。 いずれの騎手もマントを羽織った身なりの良い男性。 帯剣しているが、鎧兜は着けていない。 先頭の白馬を駆る男性は特に身なりが立派。 マントの襟元をエルミンが縁取っている。 高位の貴族なのだ。
鼻息も荒くリゼットを後ろ手に縛りつつあった悪代官イポリットは、3頭の馬が立てる蹄の音に気づき顔を上げる。
「な、何故ここに.......」
イポリットは表情を凍りつかせ、ロープを縛る手を止めた。 目の前が真っ暗になり、破滅の音が頭の中を満たす。
貴族は不思議と既に状況を承知しているらしい。 広場をさっと視線で撫でるとカッカッと馬を進め、イポリットの前で止まった。 だがイポリットには目もくれない。 馬上の高みから、兵士に命令する。
「ルグロを捕縛しろ。 職権乱用の罪だ」
兵士たちは当然のように従う。
「「「承知いたしましたっ!」」」
「お、お前達......」
代官イポリットは形ばかりの抵抗を示すが、兵士たちは意に介さない。 つい先刻までの絶対的な上位者に群がり、あっという間に地面に押さえつけた。 何しろ馬上の男性はモランジュ侯爵。 モランジュ侯爵領の真の統治者である。 代官は侯爵の権力を借り受ける存在。 侯爵本人と代官どちらに兵士が従うかは明白だ。
侯爵は馬を降りてリゼットを縛るロープをほどき、イポリットを押さえつける兵士の1人に手渡した。
「このロープでルグロを縛り上げろ」
受け取ったロープで兵士たちは、てきぱきとイポリットを後ろ手に縛り上げてゆく。 イポリットは抵抗もせず、絶望の顔で項垂れる。
(ううっ、なぜ侯爵がこんな村に......? まるで、まるで私の悪事を暴き立てるために来たみたいじゃないか......)
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モランジュ侯爵はリゼットに向き直り、心配そうに尋ねる。
「お嬢さん、お怪我はありませんか?」
リゼットが首を横に振ると、侯爵は品の良い笑みを浮かべる。
「私はテオバルト・モランジュ。 この侯爵領の領主です。 私の不徳ゆえにルグロのごとき小悪党をのさばらせ、貴方に酷い迷惑をかけてしまった。 誠に申し訳ない。 しかしご安心を、ルグロが貴女の前に姿を現すことは二度とありません」
間近で見る侯爵は、かなりの男前だった。 年齢は30才前後。 整った顔立ち、優しげな眼差し、そして気品のある栗色の口髭。 頭髪も、瞳の色も栗色だ。
リゼットの頬は、まだ涙に濡れている。 頭髪の乱れも痛々しい。
「でも私、財産が――」
「ご心配なく。 貴女の財産は全てお返しします。 返還は、そうですね...... 明後日になるでしょう。 それまでは、そうだな、フルシュトの町に滞在してもらいましょう。 費用のご心配はなさらずに。 フルシュトの小代官の館に滞在するとしましょう」
どうやら自分は助かったらしい。 そう安堵した途端、リゼットの意識は遠のいた。 張り詰めていた糸が切れ、空腹と疲労が限界を超えたのだ。
ふらり。 地面を目指して倒れ込むリゼットの華奢な体を、モランジュ侯爵は軽々と受け止める。
「おっと。 可哀想に、よほど気を張り詰めていたらしい」
侯爵はリゼットの体を抱き上げ、イポリットが乗って来た馬車へ運び込んだ。 この豪華な馬車も、もはやイポリットの物ではない。 職権を乱用したイポリットは資産没収のうえ死ぬまで強制労働だ。
侯爵は、同行してきた騎士の1人を招き寄せる。
「アルベール、帰りは馬車だ。 お嬢さんに付き添っててくれ」
「承知しました」
侯爵は騎乗して、集まった野次馬に告げる。
「騒がせて済まなかった。 1週間以内に新しい代官を任命するつもりだ。 ルグロに不当に扱われた者は、新しい代官に申し出て欲しい」
その言葉を最後に、侯爵は立ち去った。 侯爵が乗る白馬を先頭に、アルベールの愛馬を引く騎士が続く。 その後ろにリゼットを乗せる馬車と、イポリットが連れてきた兵士たち。 イポリットは後ろ手に縛られ腰縄を付けられ、兵士に引っ立てられている。 横柄な代官の面影は消え去り、力なく頭を垂れている。
侯爵一行いっこうを見送る野次馬の1人が叫びだす。
「モランジュ侯爵ばんざーい!」
即座に同調する者が現れる。
「「「ばんざーい! ばんざーい!」」」
群衆は侯爵一行の姿が見えなくなるまで喝采を送り続けた。 悪代官を断罪し、手折られかけた可憐な花を救ったモランジュ侯爵。 彼の鮮やかな手際は、胸がすくような爽快感をもたらしてくれた。
それにしても、と野次馬たちは思う。 侯爵はなぜ、見計らったように良いタイミングで蛮行の現場に現れたのか? 貴族は領地の経営を代官に任せきりにするもの。 こんな辺境の村に直々に姿を現すなど普通ではなかった。




