第一話
鏡の中に立つ女は、私の知っているラズィーヤではなかった。
深い夜の色を溶かし込んだような黒髪は、厳かに編み上げられ、額には一粒の大きなサファイアが揺れている。砂漠の乾いた風と太陽に焼かれた琥珀色の肌。それはかつて、父王が「我が国の最も美しい砂の色だ」と誇った色だ。
けれど、今の私にその言葉を反芻して微笑む余裕はない。
私は、私自身の輪郭をなぞるように、深紅のアバヤに腕を通した。
「……陛下、お時間でございます」
背後からかけられた声は、どこまでも低く無機質だった。
振り返らなくてもわかる。そこに立っているのは、父王がその「面構え」を面白がって直属の文官から引き上げた男、ハサンだ。彼は今、私の背後で影のように控えている。
「父上は、どうされている」
「お休みになられています。……薬が効いているのでしょう。静かにお眠りです」
その言葉に、胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みが走る。
ほんの一月前まで、父は獅子のような快活さで広間を歩いていた。だが、不意に訪れた脳漿の異変は、父から自由を奪い去った。一命は取り留めた。会話もできる。けれど、かつてのように玉座に座り、臣下の陳情を聞き、広大な砂漠の利権を捌く体力は、もう残っていない。
父の寿命を削ってまで、王冠を被り続けさせるわけにはいかない。
それは、娘としての愛であり、同時にこの国を統べる王族としての誇りでもあった。
「……あと五年、いえ、十年は先の話だと、誰もが思っていたでしょうね」
私は独り言のように呟いた。
本来なら、私はこれから数年をかけて、周辺諸国の王子たちとの縁談を吟味し、強固な後ろ盾を得た上で、ゆるやかに権力を譲り受けるはずだった。それが順当な継承であり、王家の安泰を約束する道だった。
「時期が早すぎると、長老衆は騒いでいるのだろう?」
「はい。婚姻も済まぬ小娘に何ができる、と。……もっとも、私の顔を一度見せれば、半分は黙り込みますが」
ハサンが淡々と言った。鏡越しに目を向けると、相変わらずの容貌が、感情を殺して私を見守っている。その鋭い眼光は、宮廷のどんな宝石よりも硬く、冷たい。
他者は彼を「毒蛇」と呼び、遠巻きにする。けれど、私は知っている。彼がどれほど誠実に、この準備不足の代替わりを支えようと血を吐く思いで奔走してきたかを。
私はゆっくりと立ち上がり、扉へと歩を進めた。
「父上がお前を笑い飛ばして使ったように、私もお前を使い倒す。不満はあるか?」
「……滅相もございません」
扉の向こうからは、私を品定めしようとする家臣たちの喧騒が聞こえてくる。
「早すぎる」「若すぎる」「この国は今後どうなるのか」。
無数の疑念と、欲望と、不安が渦巻く謁見の間。
私は、息を吸い込んだ。
誰に頼ることも、誰に媚びることも許されない、孤独な頂へ登るのだ。
恐怖はないと言えば嘘になる。だが、それ以上にこの血に流れる誇りが私を突き動かしていた。
「扉を開けよ」
私の命に、ハサンが音もなく動いた。
巨大な扉が、重々しい音を立てて開かれる。
眩いばかりの陽光が、広間に差し込む。
私は顎を引き、背筋を伸ばした。飾り立てる金の装飾が、陽光を受けて微かに鳴った。
今日、私は女王として君臨する。




