20:薬を……
身体が痛い、身体が熱い。
どろどろの熱源が身体の中で逃げ口を求めるように巡り、足が、手が、指先が、細かに震える。
呼吸のために口を開けても喉から掠れた声が漏れるだけで、肺すらも今は熱い。
意識がぐにゃりと歪む。視界が眩しく弾け、小さな明かりでさえもまるで太陽を間近に見ているかのように強く、耐えられないと目を瞑った。瞼の裏さえも今は眩しく熱い。
「ふっ、うぅ……」
声を上げるわけにはいかずくぐもった呻き声を漏らし、掴んだシーツを引っ張った。
身体の中が渦巻いている。手を放せば渦に巻き込まれて身体がバラバラになってしまいそうで、今はただ必死にそれを止めるようにシーツにしがみつく事だけしか出来ない。
「たすけ……」
助けて、と出かけた言葉が掠れて消える。歯を食いしばり、近くにあったクッションを手繰りよせて顔を埋めた。
痛みに呻く反面、渦巻く意識の奥底にいる酷く冷静な自分が「なにを馬鹿な」と笑っている気がする。
自分で選んだくせに。
自分で打ったんだろう。
その薬を。
己を責める己の声を聞き、ステラはゆっくりと顔を上げて枕元に視線をやった。
小型の注射器が転がっている。中に薬品は入っていない。……つい数分前、ステラが自らに投薬したのだ。
視界に映るのも嫌だと注射器を手で払いのければカランと音を立てて床に落ちていった。割れたかどうかは分からない。確認する気も無く、ただこの時間が一秒でも早く過ぎ去っていくのを願いながら枕に顔を埋めて必死に呼吸をするだけだ。
苦悶の時間はしばらく続いた。時間を計る余裕等なく、体感では永遠とさえ感じられるほどに長い。
だがようやく終わりが見え、痛みと熱が薄れて荒れていた呼吸も楽になってきた。
ゆっくりとクッションから顔を上げる。汗を掻いていたのか額に触れればぬると指が滑り、着ていたシャツの胸元が汗で湿気ている。汗ばんだ肌にシャツが張り付くのは気持ちが悪いが、先程までの苦痛よりはマシだ。
「……何回やっても慣れないな」
掠れた声で呟き、まだ整いきっていない呼吸をなんとか落ち着かせてベッドから降りる。
もっとも、動けるようになったとはいえ全快したわけではない。動くたびに関節はまるで錆びついた骨を動かしているかのように軋み、胸元にも鋭い痛みが走る。『痛みと熱が収まった』というよりは『辛うじて動ける程度になった』といったところだ。
視界にいたっては碌に戻っておらず、部屋を見回しても殆どが白んで何も見えやしない。
そんな状態でも、ふらつく足取りでドレッサーへと向かった。つい一時間程前、薄っすらと紫色を覗かせていたステラの髪を映した鏡面。それを覗き込み目を凝らした。
鏡面が白くぼやけている。映っている自分の顔も見えない。もちろん黒髪も。
だけど、とステラは鏡に映る己へとそっと手を伸ばした。指先がコツンと鏡面に触れる。ぼやけた視界の中で髪のあたりをゆっくりとなぞる。
紫色など一切覗かせない黒髪になっているはずだ。
「これで大丈夫……」
ぼやけた視界で安堵の言葉を呟く。
意識の奥底にいた自分が「何が大丈夫なの?」と尋ねてきたが、それは無視しておいた。
◆◆◆
『もしも何か変化があれば直ぐに薬を投与しろ』
その言葉と共に渡された五本の薬品。
聖女アマネと入れ替わった後、ステラが聖女として居続けるために必要なものだ。
見た目を、声を、すべてアマネと同じ状態に戻す薬。そしてステラの体内に、本来あるべきのない魔力をも宿させる。
薬の副作用は強く、一度投薬すれば体中を激痛が襲い、とりわけ視界はしばらくぼやけて見えなくなる。
だがそんな状況でも周囲にばれずに居られるよう、日常生活はもちろん王宮内での行動も自然に振る舞えるように叩き込まれている。
そうして体に残る気怠さと朧げな視界で身形を整え、部屋を出る。
だが扉を開けるや目の前に何かが迫り、思わずびくりと体を震わせてしまった。何か、大きな、これは……。
「あ、えっと……」
ぼんやりとした視界ながらに目の前に立つ人物を見つめれば、頭上から「大丈夫か?」と覚えのある声が聞こえてきた。
薬の副反応で視覚は奪われるが聴覚には支障はない。むしろ視覚を奪われた分、聴覚が鋭くなる。
レナードの声だと判断した瞬間、ステラの脳裏に彼の姿が浮かび上がった。
「おい、かなり顔色が悪いぞ。医者に診てもらった方が良いんじゃないか?」
「……大丈夫。それより、どうしたの?」
「どうしたって、メイドが部屋から呻き声が聞こえるって言って来たんだ。何度かノックしたらしいが返事が無いって」
「ノック……。そうか、気付かなかった」
投薬で苦しんでいた時だろうか、もしくはその後に気でも失っていたか。扉をノックされた記憶は無い。
もちろんそれを正直に話すわけにはいかず、寝ていただけだと誤魔化しておく。医者からの薬を貰っているのだからきっとこの話を信じてくれるだろう。
そう考えたのだが、なぜかレナードはしばらく黙っており、かと思えば深刻な声色でステラを呼んできた。
次の瞬間、ステラの肩が強く掴まれた。ガクンと大きく体が揺れ、レナードの顔が間近に迫ったのがぼやけた視界で分かった。
「ステラ、お前、なにした!」
「な、なにって……」
「見えてないんだろ、目。それに髪も黒に戻ってる。顔色が悪いのはそのせいか!? 何をしたんだ!」
レナードの声には怒りとさえ言える勢いがあり、ステラの心臓が跳ね上がった。
揺らいだままの視界では彼がどんな顔をしているのかは分からない。だけど声から責められていると分かり、想像の中でレナードの顔が怒りで歪んでいく。
……怒りで歪み、そして別の男の顔へと変わっていった。
鋭い眼光、険しい顔付き、開かれた唇からは容赦の無い言葉が発せられる。時には殴打すらも……。
生々しい叱責の場面が脳裏に蘇り、ステラの体が強張った。
だが次の瞬間ステラに向けられたのは、容赦の無い言葉でも無く、殴打すらでもなかった。
強い抱擁。レナードの腕がステラの背に回され、自分の胸元に押し付けるように抱きしめてきたのだ。
「えっ?」と掠れた声がステラの喉から漏れた。依然としてぼやけた視界だが、それでも彼に抱きしめられているのだと身体全体で分かる。
「……悪い、怒ってるわけじゃないんだ。そんなに怖がるな」
「べ、別に怖がってなんかない。ただ、ちょっと、ビックリして……。でも今の方がビックリしてる」
怒られるのなら分かる。怒ってはおらず、強い口調で言及しただけというのならそれも理解出来る。
だがその逆、こうやって抱きしめられるとわけが分からない。レナードの腕はいまだステラをしっかりと抱きしめており、放すまいとしているのだ。苦しいとすら感じかねないほどの強い抱擁はまるで彼が縋り付いているようにも思える。
だがしばらくすると落ち着いたのか、強く抱きしめていた彼の腕からゆっくりと力が抜けていった。そっと身を離すが、せめてものように抱きしめる代わりにステラの腕を優しく掴んできた。
「どうなってるのか分からないが、別に責めてるわけじゃない。どうあっても責める気も無い。だからそんな顔するな」
顔、と言われてステラは無意識に己の頬に手を添えた。
自分の顔など分かるわけがない。鏡は無いし、そもそも鏡があっても今の視界では碌に見えないのだ。
だがきっと酷い顔をしているのだろう。頬に触れた手にひんやりとした冷たさが伝わる。もしかしたら体全体が冷えてしまっているのかもしれない。
薬の副作用に体が冷えるなんてあっただろうか。
思い出そうにも頭が回らず思い出せず、一人部屋で身を丸くさせて苦しんでいた記憶しかない。
どれだけ苦しもうと呻こうと、誰も腕を擦ることも、ましてや抱きしめてくれる事もなかったのだ。




