甘い熱
♦♦ 怜央 ♦♦
雪こそ降りはしないが、ひどく寒い夜だった。道々に立ち並ぶ居酒屋の原色のネオンが、頬を切るような乾いた空気のなかに幻のように瞬いていた。見慣れたはずの街並みが、こうやってまるで夢のように思えるのは、隣に伊織がいるからだ。ここからは遠い田舎町でともに育った幼なじみ。小さくて白くて弱そうで、クラスの馬鹿な男どもにからかわれるたびに教室の隅で顔を真っ赤にさせていた。自分が守ってあげなくてはいけない、大切な存在。
「怜央、今年のお店はなんだっけ?」
「海鮮の網焼き。飲み放題付けたけど、別に伊織は飲まなくていいから」
伊織が嬉しそうにはーいと返事をする。バレンタインの夜は、伊織と二人で飲みに行くのがいつしか恒例になっていた。昔からお菓子づくりが好きだった伊織から、チョコを受け取るためだ。実際、伊織が用意するお菓子は年々複雑怪奇になり、今や一言で『チョコ』と片付けられるものではなくなっていたのだが、怜央にとってはすべて『チョコ』だった。
怜央はビール、伊織は梅酒のソーダ割りで乾杯を済ませる。黙々と貝を焼いていると、伊織が堪えきれないといった様子で笑みをこぼした。
「一応バレンタインだっていうのに、ムードも何もないね。バレンタインの男女が食べるものが、浜焼きって」
「いやだって……。そういうの、気にしないと思って」
「しないよ。怜央のそういう気取らないところが好きだし」
好き、という響きに思わず手が止まる。何食わぬ顔で、ビールを熱くなった体内に流し込んだ。伊織はいつも、平然と好きだと口にする。それが特別な意味を持たないことはわかっているし、それくらいで逆上せあがるほど、伊織との付き合いは短くない。
「ちょっと怜央、ホタテの口開いたよ。焼きすぎると固くなるから、醤油ちょっと垂らして。あ、あと海老も引っ繰り返さないと。焦げちゃう」
「うるさいな」
自分の顔は赤くなっていないだろうか。これだけの酒じゃ酔わないくらいのこと、伊織にはバレている。この網焼きの熱のせいにできるだろうか。怜央は卓上の醤油を乱暴に掴み、ホタテの白い身に振りかけた。
「ちょっと、塩分過多!」
「うるさいな」
伊織は眉を吊り上げながらも、焼き立てのホタテを口いっぱいに頬張った。あまりの熱さに目を見開き、口の中から熱を逃がそうと息を吐いている。怜央は笑いながら伊織を見ていた。伊織のことが、どうしようもなく可愛かった。
「忘れないうちに渡しておくね。今年の分」
ようやくホタテを咀嚼し終えると、伊織はカバンから紺色の細長いボックスを取り出した。磨き込まれたような深い紺色に、上質な素材であることが一目でわかった。ありがとう、と素直に礼を言って、箱の表面を撫でる。ざらりとした触感が、そのまま怜央の心に生まれ始めた後悔と似ていた。
「ほら、解説するから開けて」
箱を開けると、丸いものが五つ並んで入っていた。形容しがたい色に輝いていて、つやつやしている。陳腐な表現だが、宝石のようだった。怜央には正確な名前がわからなかったが、こういう種類のチョコを見たことがある。
「ボンボンショコラの詰め合わせ。怜央、何をあげても『チョコ』っていうから、本当にチョコにしてみました」
これが何々で、こっちが何々……一つずつ説明する伊織の声は、怜央の耳には入っていなかった。自分の思い上がりが恥ずかしくて、顔を上げることができない。こんな魔法のように美しいチョコをもらっておいて、まさか出せない。赤いパッケージの板チョコを溶かして固めただけの、手作りだなんて呼ぶのもおこがましいもの。それを100円ショップで買った透明のフィルムに入れたもの。
伊織に、好きだと伝えるつもりだった。そのために、柄でもないお菓子づくりなんてやってみた。伊織が知ったら笑うだろう。それでも、伊織に何かを返したかった。貰ってばかりだった分、怜央からも何か贈りたかったのだ。しかし、こうして伊織の美しいチョコを前にすると、その意気込みはしゅるしゅると萎んでいった。
このまま、持って帰ろう。いつでも渡せるようにと、コートのポケットに入れておいた生まれて初めての手作りチョコレートを、怜央はそっと握りしめた。指先に、安いプラスチックの袋が痛かった。
♢♢ 伊織 ♢♢
「これは、ピスタチオ。中はホワイトチョコレートのガナッシュね。こっちがプラリネとコーヒー。結構お酒を効かせてあるから、好きだと思う。あとラズベリー、キャラメルとオレンジ。この白いのは何だと思う? 意外にも柚子なんだよね」
一つずつ説明しても、怜央はぼんやりとボンボンショコラを見つめている。気に入らなかったのだろうか。丸一日かけて、苦労して作ったのだ。せっかくだから喜んでほしい。そして、自分の気持ちに気がついてほしい。今年こそ、今回こそ。
最初は、市販のチョコレートを湯煎して再度固めただけの、簡単なものだった。その次はアーモンドのマドレーヌ。その次は市松模様のアイスボックスクッキー。昔からお菓子づくりや料理が好きだったが、それが理由でクラスメイトに馬鹿にされることもあった。そんなとき、怜央だけはいつも美味い美味いと屈託なく伊織の菓子を食べてくれた。それが、硬いマドレーヌや粉っぽいクッキーでも、溶かして冷やしただけのチョコレートでも。
学生時代から、怜央はたくさんの女の子にチョコを貰っていた。明るくて優しい怜央は当然ながらクラスの人気者で、彼女たちから怜央に贈られるたくさんの甘さに埋もれないように、伊織が作る菓子は年々手が込んでいった。高校を卒業して上京してすっかり大人になった今、怜央にチョコレートを渡す人は、もういないのかもしれない。でも、伊織はもう後には引けないのだった。
「今年はいつにも増してすごいな。……伊織の手にかかれば、簡単なのかな」
「ボンボンショコラは初挑戦だったから、ちょっと大変だったよ」
嘘だ。本当はとても大変だった。怜央に渡す五つの美しい輝きを生み出すために、百個以上のチョコレートを作った。おかげで、伊織の狭いワンルームの部屋は今、大量の試作のチョコレートで溢れかえっている。
怜央はプラリネのボンボンショコラをつまみ上げ、それをしげしげと見つめた。細い指だ。自分の劣情が見透かされているような、そんな落ち着かない気分になる。そのまま食べるのかと緊張して待ったが、怜央は慎重な手付きで箱の中にそっとそれを戻した。
「食べないの?」
「家でゆっくり食べる。だって、ちょっと大変だったんでしょ」
じゃあ大切に食べなきゃね。生真面目にそう言うと、怜央はカバンから紙袋を取り出して宝物を扱うような手付きで箱をしまい込んだ。それを見て、なぜだか鼻の奥がツンとした。怜央が自分のものになってくれればいいと、自分以外の何も見ないでくれればいいと、強く思った。バレンタインというイベントにかこつけて押し付けた自分の執着が、怜央にバレてくれればいいと思った。
好きだった。右目の下にある小さなほくろ、子どもの頃に突き指したせいで少し曲がった小指、調子に乗って教室で開けた耳たぶの三つの穴。何かあるとすぐに泣きそうになるところ、好きだと冗談めかして口にするとほんのり頬を染める素直さ。怜央のすべてが、むしゃぶりつきたい程に好きだった。
怜央は「飲み放題だから、伊織の分まで飲んで元取らなきゃ」と言いながら、流し込むようにビールを飲んでいる。結局、今年も伝わらなかった。直接言うべきだとわかっているが、自分が怜央に釣り合う人間だと、伊織には到底思えなかったのだ。だから、怜央がこうしてバレンタインの日に二人で会ってくれるうちは、その優しさに甘えていたかった。ただそれだけを願っていた。
♦♦ 怜央 ♦♦
どれだけアルコールを体内に入れれば、伊織に「好き」だと伝えられるのだろう。たった二文字、それだけなのに、それだけの言葉がどうしても言えない。好きだという気持ちは人を強くすると、昔クラスメイトに押し付けられた少女漫画で読んだ。ところがどうだ、伊織が好きだと自覚してからというもの、怜央はとても弱い。
何杯目かわからないビールを飲み干すと、机にトンと新しいジョッキが置かれた。水だった。
「今日ちょっとペース早くない? 怜央が強いのは知ってるけど、水もちゃんと飲んで」
「うん……」
さっきから、どんな顔をすればいいのかわからないのだった。勿論、怜央が子ども騙しのようなチョコを用意していたことを、伊織は知らない。だから何も恥ずべきことはない。でも、あれがなきゃ、気持ちを伝えられない。
伊織が頼んでくれた水を飲みながら、怜央はまたポケットに手を突っ込んだ。そこには確かにチョコが入っていて、鉛のような重みで怜央の居た堪れなさを煽った。目の前の伊織は、訝しむように怜央を見ている。伊織は、すっかり大人だった。教室の隅でうつむいていた、小さくて弱い子どもはもうどこにもいなかった。心配そうにこちらを覗き込む伊織の二重にぼやけて、遠い日の面影がその色白の頬に重なった。
ちょうどそのとき、店員がラストオーダーを告げに来た。条件反射で追加のビールを頼もうとしたところ、伊織が右手でそれを遮った。
「やっぱりちょっと飲み過ぎだね。今日はもうやめとこう。……すみません、お水を追加で、二杯ください」
酔っているつもりはなかったが、大人しく言うことを聞いた。もう何も飲まなくても、不甲斐なさに押し流されそうだったし、言えない愛しさが零れ落ちそうで、怜央はそっと口をつぐんだ。伊織に触れてみたかった。美しいものを生み出せるその優しい手を取りたかった。その温度を知りたかった。空っぽの手が、役割を持て余したようにやけに熱を帯びていた。
会計を済ませ店を出ると、愛想の良い店員が「外は寒いので」と熱すぎるくらい温まったカイロをくれた。表面に書かれた『Happy Valentine♡』の丸文字を潰すように、カイロを握りしめてポケットに突っ込む。伊織は「寒い!」と言ってマフラーの中に顔を埋めていたが、こんなものは必要ないくらい、怜央の身体は熱かった。
「今日は解散にする?」
前を歩いていた伊織が振り返る。いつもであれば怜央の方から二軒目に誘うのに、今日はなんとなくそんな気分でもなかった。
「ちょっとだけ、歩きたい」
「ん、了解」
二人で肩を並べて、幻のような街を歩いた。煙草のけむりや、居酒屋のダクトから漏れるにおいや、たくさんの人たちの夢とか希望とか挫折とか下心とか、そういうもので霞むいつもの街だった。楽しげに歩くカップルの姿がやけに目につくのは、怜央の僻みのせいだろう。自分以外の誰かの素直な幸せが、奇跡みたいに見えた。隣を歩く伊織は、ぼんやりした顔で黙っていた。寒さを堪えているのだろう、コートの袖口から覗く指先は赤くなっていて、その手を温められない自分の熱い手が憎かった。
ポケットに手を突っ込むと、指先がドロリとしたものに触れた。ぎょっとして慌てて手を見ると、茶色い粘度の高い液体が付着していた。チョコだった。
ポケットの中に入れていた手作りチョコが、カイロの熱で溶けている。セロハンテープで留めただけの入り口から、溶けたチョコが溢れ出していた。どうしよう、服で拭こうか。流石にそれはまずい。舐めてしまおうか。いや、それはもっとまずい。
「怜央? どうしたの?」
突然立ち止まった怜央を訝しむように、伊織が振り返った。じんわりと全身の汗腺が開くのがわかった。何と言って誤魔化せば、不自然に思われないだろうか。
「え、何。その手、どうしたの」
何と見間違えたのか、伊織は慌てた様子で怜央の手を取った。身震いするほど、冷たい手だった。急いで手を引こうとしたが、意外にも強い力がそれを許さなかった。怜央は観念してチョコに塗れた手を伊織に委ねた。渡せなかったチョコが、伊織の白い手に一筋伝った。
「え、甘い匂い」
伊織は怜央の手を離し、自分の手についた茶色いものをしげしげと眺めた。どうしようもない羞恥心に、怜央は下を向いた。所在なさげに立ち尽くす、サイズの違う二人分の靴から、長い影が伸びていた。
「これ、もしかしてチョコレート?」
戸惑ったような伊織の問いに、怜央は小さく頷いた。
♢♢ 伊織 ♢♢
最初、怜央の手についているものが血に見えて、心臓が縮み上がる感覚がした。怪我をしたのかと思ったのだ。しかし、それの正体がチョコレートだとわかって、今度は頭の中にたくさんの疑問符が湧いた。まさか、伊織があげたボンボンショコラを道端で開けて食べたわけでもあるまい。
「……チョコレート、誰かからもらったの?」
自分以外の誰かから。その言葉を無理やり飲み込んで、怜央の顔を見つめる。学生時代、たくさんの華やかな贈り物で埋め尽くされて困ったような顔をした怜央の手の中に、自分の控えめな色味のお菓子を見つけたときに感じた、引け目と劣等感。伊織からもらったのは特別だよと怜央は言ってくれたけれど、本当のところはどうだったのだろう。
「誰にももらってないよ。伊織だけ」
「え、じゃあそれ……」
「……作った」
伊織は気まずそうに頬を掻こうとし、その手が汚れていることに気がついたのか宙で手を止めた。肩にかけたカバンからティッシュを取り出すと、乱暴に拭き取る。外気に触れたチョコレートは固まり始めていて、しぶとく怜央の手にこびりついていた。
「まあ、作ったって言えるようなもんじゃないけど。溶かして固めただけだから。しかもまた溶けちゃったし」
「え、作ったって……。怜央が?」
「正直、お菓子づくり舐めてたなあ。簡単だなんて思ってたわけじゃないけどさ。自分でやってみてわかったよ。やっぱり伊織はすごいんだね。あんな宝石みたいなチョコ、どうやったら」
「怜央」
目を逸らそうとする怜央の瞳を捕まえにいく。弱々しいその手に握られたままのティッシュを奪い取り、燃えるような熱い手を握った。
「どうして、言わなかったの? そのチョコレートって」
もしかして自分のために作ったのではないか。聞かせてほしい。その手に残る甘さが、誰のためのものなのか。
「……笑うと思って。私みたいなガサツな人間が、急にお菓子づくりなんて似合わないって」
「言うわけないよ。怜央は、僕がお菓子づくりしても、いつも喜んで受け取ってくれたじゃん」
伊織が、そんなことを言うわけがない。男がお菓子づくりなんておかしい、女みたい……そういう声からいつも伊織を守ってくれたのは、怜央だったのだ。
♦♦ 怜央 ♦♦
伊織に請われるがまま、ポケットからチョコの包みを取り出す。思った通り、入り口のテープが剥がれ、溶けたチョコが流れ出ていた。中身はかろうじて形を留めてはいるが、その表面の模様は溶けて見えなくなってしまっている。安堵と失望が綯い交ぜになった感情で、チョコの袋を伊織に手渡す。伊織は何故か深く息を吐くと、両手でそれを受け取った。
「ありがとう。本当に嬉しい」
正面からお礼を言われると、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。ただ、チョコを渡しただけだ。伊織には毎年もらってばかりだから、そのお礼をしただけだ。なんとなく肩の荷が下りた気持ちで、駅の方へと足を向ける。
その背に、怜央がねえ、と声をかけた。
♢♢ 伊織 ♢♢
「ねえ、これチョコペンで何か書いてあったよね? 何て書いてあったの」
そう問うと、怜央はあからさまに動揺した様子で顔を背けた。不貞腐れたように、唇を尖らせている。まるで子供みたいだ。
「もしかして―――」
何故か、自信があった。そこに何が書いてあったのか、わかった。ずっと、長い間ずっと伝えたかった言葉を、自分よりも随分下にある小さな耳に告げた。右目の下のほくろ、少し曲がった小指、耳たぶの三つの穴。伊織が好きな怜央のすべてを順番に見た。
「違うかな? 僕は、実はそう思ってるんだけど。ずっと」
怜央は顔を真っ赤に染めて、下唇を薄く噛んだ。何よりも美しいその瞳が、繁華街の明かりを映して輝く。泣き虫なところ、それから、好きだと伝えればすぐに赤くなるところ。伊織が好きな、怜央の全部がそこにいた。伊織は、怜央の熱い身体を抱き寄せた。甘い匂いが、鼻先を掠めた。