広島県呉市⑤
2029年3月31日
桜の蕾がほころび始めたその日、俺は長年通い慣れたオフィスのデスクを片付け、会社を後にした。
波乱に満ちたサラリーマン人生だったが、いざ終わってみれば、胸に去来するのは妙な清々しさだけだった。勤続年数だけは無駄に長かったおかげで、口座に振り込まれた退職金は、一人の男がこれからの人生を着実に組み替えるには十分すぎるほどの額だった。
だが、俺がその足で向かったのは、高級なレストランでもブランドショップでもない。呉の馴染みのペットショップだった。
「これと、これも頼む」
レジのカウンターに次々と積み上げていくのは、ボスとエルヴィス、そしてすっかり我が家のアイドルになったこまのおやつや、新しいおもちゃの数々。そして、長距離のドライブを想定した大量の犬用おむつだ。
店員がまたしても目を丸くして荷物を袋に詰めていくのを眺めながら、俺は小さく苦笑した。
愛車ジムニーのリアシートは、すでに3匹分のケージと旅の荷物で満杯になりつつある。
手に入れた自由と、十分な軍資金。そして、バックミラー越しに俺をじっと見つめる、3つの愛らしい鼻ぺちゃの顔。
直感が告げていた。今回も、中々の長旅になりそうだ、と。
俺はスーツのネクタイを緩めて助手席に放り投げると、新調したばかりの革のグローブをはめ、静かにイグニッションキーを回した。




