その6
「……大丈夫か?」
かすれた声は、静かな部屋に小さく溶けた。
返事はない。
彼女は苦しそうに眉を寄せ浅い呼吸を繰り返している。
俺は恐る恐るベッドの脇へ膝をついた。
さっきまで尾びれだったはずのものは二本の足になり、泳ぐことしか知らなかった体は立つことも歩くことも覚えていない。
それでも彼女の顔を近くで見ることができた。
近い。
こんなに近くで見たのは初めてだった。
いつもガラス越しだった。
彼女の髪が頬にかかり、熱で赤くなった顔には細かな汗が浮かんでいる。
俺はそっと手を伸ばした。
この手で触れていいのだろうか。
少し迷ってから、指先だけで額に触れる。
「……っ」
熱い。
水槽の水とは比べものにならないほど熱かった。
「こんなに熱いのか……」
彼女は小さく苦しそうな声を漏らした。
その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられる。
何とかしなければ。
でも、どうすればいい。
魚だった俺は、人間の病気なんて知らない。
俺は部屋を見回した。
机。
床に落ちたタオル。
飲みかけのペットボトル。
薬の箱。
どれも見覚えはある。
毎日、水槽から見ていたものだからだ。
そうだ。
彼女は熱を測ったあと、濡れたタオルを額に乗せていた。
俺は洗面所へ向かった。
歩くたびによろける。
壁にぶつかり、椅子に足を引っかけ、それでも何とかたどり着く。
蛇口。
どうやって使うんだ。
何度も触っているうちに、水が勢いよく飛び出した。
「うわっ!」
冷たい水が顔にかかる。
思わず後ろへ飛び退く。
……水が怖い。
今までずっと水の中で生きてきたはずなのに。
不思議だった。
俺はタオルを濡らし、ぎこちなく絞った。
力加減が分からず、何度も床へ落とす。
ようやく持ち上げると、慎重に彼女のところへ戻った。
そっと額へ乗せる。
彼女が少しだけ表情を緩めた。
「……」
それだけで少し安心した。
俺はベッドの横へ座り込む。
何もできない。
でも、離れたくなかった。
時計の針だけが静かに進んでいく。
窓の外では満月が高く昇り、部屋を青白く照らしていた。
しばらくして。
彼女の唇がかすかに動く。
「……金魚さん……」
熱にうなされているだけなのだろう。
それでも、俺のことを呼んでくれた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
その時だった。
彼女がゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない瞳が天井を見つめる。
そして、少しずつ俺の方へ向いた。
目が合う。
時間が止まる。
彼女はぼんやりと俺を見つめたあと、熱でかすれた声で小さく笑った。
「……ああ、夢か」
そう呟くと、安心したように目を閉じる。
「金魚さんが、人になってるなんて……そんなわけ、ないよね……」
そのまま再び眠りへ落ちていった。
俺は何も言えなかった。
夢だと思われた。
それでよかったのかもしれない。
けれど、ほんの少しだけ寂しかった。
「夢じゃない」
届かないと分かっていても、俺は小さく呟く。
彼女は眠ったまま、穏やかな呼吸を続けていた。
窓の外では満月が静かに雲へ隠れ始めていた。
そしてその瞬間、俺の胸の奥が再び熱を帯びる。
今度はさっきとは違う。
何かが少しずつ、失われていくような感覚だった。
俺は自分の手を見つめる。
指先が、淡い銀色の光となって揺らぎ始めていた。




