第八話 白い罰、透明な救い
夜明け前の砂漠は、音がなかった。
風も、ほとんど吹いていない。白い砂はひたすら冷たく、星の代わりに上空でドローンの薄い光だけが瞬いていた。
タンクのパネルは、相変わらず赤い表示を灯している。
生存者数:12
蘇生したはずの男は、そこに戻されることはなかった。
透は、その数字をじっと見つめていた。目の奥が痛いのは、睡眠不足か、熱か、それとも単なる怒りか。
背後で、誰かがすすり泣く声がした。
「……二つに絞るしかない」
橘の声だった。
全員がタンクの前に集まっている。疲れと渇きと冷えで、誰もまっすぐには立っていられない。座り込んだり、膝を抱えたりしながら、それでも顔だけはこちらを向いていた。
「選択肢は、もう二つだけだ」
橘は唇を噛んでいた。目の下に濃い隈がある。
「一つは……誰かを殺して水を得て、外縁の熱波を越えること。タンクを開ける。そのために、誰かを犠牲にする」
誰も息を吸わなかった。
もう一つ。と言葉が続くのを、皆が待っている。
「もう一つは、通信を絶つ。タンクとこの表示を繋いでいるラインを切る。水は永遠に開かない代わりに、“ゲーム”を止める」
砂の上に、その二つの道だけが残された。
① 誰かを殺して水を得る
② 水を捨てて、ここを砂の墓場にする
透も、頭の中で同じように並べていた。
「俺は……」
橘は言葉を探すように宙を見た。
「大人として、①を許可できない」
かすれた声だった。
「子どもたちの前で、“一人殺せば助かる”と、俺は口では言えない。思ってしまった時点で、もう十分汚れてるかもしれないが……最後の線まで踏み越えたくない」
ましろが、小さく頷いた。
「わたしも。同じ」
「でも、②を選べば、ここで全員が……」
誰かが言いかけた時、別の声が割り込んだ。
「じゃあ、②でいいだろ」
隼人だった。
夜明け前の暗さの中で、その顔はやけに静かに見えた。
「俺はもう充分、ここの人間だ」
隼人は笑っていなかった。泣いてもいなかった。
「外に何があるかも分からない世界より、ここで終わる方が、まだ筋が通ってる気がする。少なくとも、“誰かを踏み台にして自分だけ助かる”っていう選択肢よりはな」
カナが、薄い声で反応した。
「隼人くん……」
「勘違いするなよ。俺は聖人じゃない」
隼人は肩をすくめる。
「ここまで散々、自分の生存のために汚ねえことも考えた。ナイフも握った。でも、その結果がこれだ。掟の“中身”にまでなりたくはないってだけだ」
沈黙が落ちる。
①も②も、どちらも罰みたいだった。
誰か一人に背負わせる罰か。全員が分け合う罰か。
透は、喉の奥がひりつくのを感じながら、砂を握った。
その時、ふっと、頭の奥で何かが繋がった。
生存者数の表示。ドローンの色。今までのログの取り方。氷室が言っていた「観測系」の話。
これは「生き残るゲーム」じゃない。
「選択の仕方」を集めている実験だ。
だったら――。
「もう一つ、道があるかもしれない」
自分の声が、意外なほどはっきり聞こえた。
皆の視線が、透に集まる。
「第三の道だ」
透はタンクの表示を指さした。
「“生存者数:13→12”で開くシステムなら、逆もあるかもしれない。“13→0”まで落としたらどうなるか」
「ゼロ……?」
ましろが目を瞬いた。
「全員、死んだことにするってこと?」
「そうだ」
透はうなずく。
「タンクの表示を、“生存者ゼロ”まで落とす。全員が死んだと判定されれば、このステージは“終了”したことになる。観測は役目を果たしたと判断して、次の処理――“回収”を始めるかもしれない」
「回収……」
橘がその言葉を繰り返す。
「そんなプロトコルが存在すると、本気で思うのか」
「少なくとも、俺たちが“死ぬまでここで観測が続く”って設計の方が、よほど非効率だ」
透は言った。
「誰かがこれを作ったとする。その誰かは、俺たちに延々とここで苦しませたいわけじゃない。選択のデータがほしいだけだ。全部揃ったと判断したら、回収したくなる」
「その“誰か”を、ずいぶん信用するのね」
ましろの声には、皮肉が混じっていた。
「信用はしてない。でも、“仕事の終わらせ方”だけは、どこの世界でも似てる。終わったら片付ける。壊すか、収納するか」
「理屈としては……ありえる」
静かな声が加わった。
氷室だ。
彼はタンクの下部の小さな箱に耳を当て、何度も指で触れていた。その彼が、今は透の方を見ている。
「心拍、動作、熱源。あいつは今、俺たちの“生きてる証拠”を総合して、生存者数を出しているはずだ。さっきの蘇生で分かったけど、“一度ゼロになったもの”は、戻さない」
「つまり?」
「全員が“限りなくゼロに近い状態”になれば、システムは“全滅した”と判断するかもしれない」
氷室は砂に図を描く。
「心拍も、動きも、体表の熱も。最低限まで落として、観測系に“死んだ”と思わせる。いわば、“全員で死んだふり”をするんだ」
冷たい言い方だったが、その奥にある危険度は誰にでも分かった。
「そんなことしたら……」
ましろが唇をかむ。
「本当に死ぬかもしれない」
「だから、危険だって最初から言ってる」
氷室は淡々と続けた。
「でも、“誰か一人確実に殺す”のと、“全員でギリギリを踏む”のと、どちらを選ぶかは、俺たち次第だ」
橘は目を閉じた。
隼人は空を見上げた。
カナは膝に顔を埋めたまま、震える肩を止めようとしていた。
「やってみたい」
透ははっきりと言った。
「俺は、誰かを犠牲にする水も、ここで干からびて終わる墓場も、選びたくない。掟を殺すって言ったのは、俺だ。なら、掟の外側に飛び出すための道を、試してみたい」
「……」
橘はしばらく何も言わなかった。
やがて、目を開く。
「全員が同意するなら」
それが答えだった。
「さっきの投票みたいに、無言の賛成に頼るやり方はしない。今度は、一人ずつ口で言ってほしい。“やるか、やらないか”」
最初に口を開いたのは、意外にも隼人だった。
「俺は、やる」
短い言葉だった。
「ここまで付き合ったんだ。最後まで見たい。“掟の外側”ってやつを」
「わたしも」
ましろが続いた。
「看護師としては、全員にそんな危ないことさせたくない。でも……ここで誰か一人に殺す役を押し付けたまま終わるより、ずっとまし」
「俺も」
氷室が言った。
「これは、観測系に対する最後の反抗だ。ここで何もしなかったら、一生後悔する」
カナが顔を上げた。
「わたしも……やる。もう、ずっと選ばれてきたから。今度は、自分で選びたい」
次々に「やる」の声が重なっていく。
誰も、「やらない」とは言わなかった。
橘は最後に、深く息を吸ってから、うなずいた。
「じゃあ、やろう」
教師としての顔ではなく、一人の生存者として。
「全員で、掟の外に出るために」
◇
準備は、夜明け前の一時間で一気に進められた。
まず、発熱板をできる限り掘り出す。
砂の下に埋められていた黒い板を、一枚、また一枚と見つけては、周囲の砂ごと掘り起こす。板の裏側に巻き付いた配線は切らない。代わりに、断熱材で包む。
断熱材は、保温シートやタープの切れ端だ。数枚を重ね、板をすっぽりと巻き込む。その上から砂をかぶせて、熱も振動も外に逃さないようにする。
砂文字の発光は、目に見えて弱まっていった。
殺せば奪える
奪えば選べる
選べば裁かれる
裁けば進める
誓えば奪われる
その下に、新しい文は増えない。
「観測の“感度”を落としてるだけだけどね」
氷室は言った。
「完全には止まらない。でも、“どこで何が起きてるか”の精度は確実に下がってる」
同時に、鏡面片の配置も行った。
保温シートを小さく切って、砂丘の上や斜面に貼り付ける。壊れたケースの反射部分も使って、さまざまな角度に向ける。
太陽が昇ってきた時、その光はきっと、ドローンのレンズに乱雑な情報の洪水を送り込むだろう。
「横たわる場所は、北側の斜面がいい」
氷室が砂丘を指さした。
「直接日光が当たりにくいし、風も少しだけ遮られる。砂に半分埋まれば、体表の熱も抑えられる」
「半分埋まるって……」
誰かが顔をしかめた。
「窒息しないようにだけ、気をつけてくれ」
氷室は真顔で言った。
「鼻と口の周りは開けておく。目も閉じて。体を固くしていると、どうしても痙攣が出るから、力を抜いて、呼吸を浅く、ゆっくりに」
「そんな器用なこと、できるかな」
隼人が苦笑した。
「やるしかない」
透は握りこぶしをほどき、開いた。
これから、自分の心臓の鼓動を、意識的に遠ざける。
◇
太陽が、白い輪郭を空に描き始めた。
砂漠の東の端が、淡い橙色に染まる。
「時間だ」
氷室が短く言った。
全員が砂丘の北側斜面に移動する。そこは、これまで何度も風を避けるために座った場所だ。今度は座るのではなく、横たわる。
「透くん」
ましろが袖をつかむ。
「怖い?」
「怖くないと言ったら嘘になる」
透は苦笑した。
「でも、誰か一人を選ぶよりは、ずっとましだ」
「そうだね」
ましろは手を握ってから、離した。
「じゃあ、行こうか。死んだふりの練習なんて、病院でもなかったから、新鮮だわ」
「どんな冗談だよ、それ」
少しだけ笑いが漏れた。
砂の上に横たわる。背中にひんやりとした感触。頭を少し砂に沈めると、耳のすぐ横で、砂粒がざらざらと音を立てる。
隣にはカナがいる。目をぎゅっとつぶり、唇を結んでいる。
「カナ。大丈夫か」
「うん……。透くんが起きたら、起きる」
カナは小さく笑った。
橘は皆の顔を一人一人見てから、自分も砂に身を沈めた。隼人は腕を組む癖をやめ、だらりと両腕を広げる。
「呼吸を合わせよう」
氷室が言った。
「吸って……吐いて……。一分間に、十回も吸わないくらいのペースで」
全員が、それに合わせるように息をする。
吸う。吐く。吸う。吐く。
やがて、誰の息も聞こえなくなっていく。
「体表の熱を抑えるために、砂を少しだけかける」
ましろと橘が、互い違いに砂を掬っては、皆の上に薄くかけた。胸と腹と脚に、さらさらと砂が降り積もる。布団の代わりに、墓標の下ごしらえのようだった。
「もう動くな」
氷室が最後に言った。
「これから先は、一つ一つの動きが、“生きてる証拠”になる。全員で、完全に止まるんだ」
透は目を閉じた。
暗闇の中で、自分の心臓の鼓動だけが大きく感じられる。
ドクン。ドクン。
すぐ近くで、カナの小さな呼吸の気配。ましろの微かな体温。隼人の存在感のある気配。
吸う。吐く。吸う。吐く。
それ以外を、全て捨てる。
砂の重みが、少しずつ体に馴染んでいく。冷たさが、むしろ安心に変わる。
時間の感覚が薄れていった。
◇
ドローンの音が、変わっていくのが分かった。
最初は、いつも通りの一定の唸り。やがて、それが上がったり、下がったりし始める。強くなったり、弱くなったり。
目を閉じていても、光の変化が瞼の裏から伝わってくる。
赤い点滅。黄色。白。
やがて――青。
透は瞼を閉じたまま、ほんの少しだけ目を細めた。
青。今まで一度も見たことのない色。
ドローンの中の何かが、状態を切り替えた証だ。
タンクの表示はどうなっているか。誰も見に行けないが、想像はできた。
十三。十二。十一。
ゆっくりと、数字が減っていく。
生存者数:10
生存者数:7
生存者数:3
透は、自分の心臓の鼓動を、もっと遠くへ追いやろうとした。
吸う。吐く。
体内の熱が、砂に吸い取られていくような感覚。指先の感覚が消え、頬の皮膚がしびれる。
喉が焼ける。乾きが一つの塊になって、喉元にへばりついていた。それでも、咳をしないように必死に堪える。
呼吸を止めるのではない。限界まで浅くするだけだ。線のような呼吸。
いつの間にか、ドローンの音は遠ざかっていた。
もはや、上下する音もしない。ただ、遠くで機械がかすかに震えているだけの気配。
それすらも、やがて消えていった。
◇
どれくらい時間が経ったのか、透には分からなかった。
無音の世界で、自分がまだ生きているのかどうかも、はっきりしない。
だが、地面の下から伝わってくる振動だけは、確かにあった。
ゴウン。
低い音。
タンクのポンプの音ではない。もっと深いところから響いてくる。
ゴウン。ゴウン。
地中のどこかで、巨大な装置が動き出した。
砂丘の向こうで、空気が変わる気配がした。冷たい風が、一筋、頬を撫でる。
透はまだ目を開けない。
誰かが合図を出すまで、動いてはいけない。
じきに、氷室の声が、砂の向こうから聞こえた。
「……いい。起きて」
その声は、今までで一番弱々しかった。
透はゆっくりと瞼を持ち上げた。
世界が、少しだけ違って見えた。
さっきまで、上空に張り付いていたドローンの影が、どこにもない。空は白く、ただ太陽だけがそこにある。
代わりに、砂漠の一部が、変わっていた。
ポンプ施設の横、タンクの裏手の砂地が、大きく陥没している。まるで地面が口を開けたようだった。
その口の中から、冷たい空気が吹き上がっている。
「……開いた」
橘が、息を呑んだ。
口を開けた地面の中には、階段が見えた。白いコンクリートの壁。整然と並んだ照明。地下へと続く感じの悪い整然さ。
その壁の一部には、銀色のプレートが取り付けられている。
選択の観測終了
協力に感謝する
透は、その文字を何度も読み返した。
誰の選択だ。誰の観測だ。誰の感謝だ。
そこで初めて、タンクの表示を見た。
生存者数:0
赤い数字は、ゼロを示していた。
この世界のログ上では、彼らは全員、死んだことになっている。
「……そういうことか」
隼人が、笑うでも泣くでもない声で言った。
「俺たちは、モルモットとしての役目を終えた。だから、餌箱に戻されたわけだ」
階段の下からは、人工の風の音がする。発電機の低い唸り。機械の冷たさ。汚れ一つない人工の影。
中には、確かに水があった。
階段の途中から、透にはそれが分かった。冷たい湿気の匂い。金属と消毒液の匂い。その奥に、医療資材の整然とした気配。
「救い、ね」
ましろがぽつりと言った。
「ここを“救い”って呼ぶなら、きっとこれは白い罰なんだろうね」
壁も床も、白かった。
病院の廊下みたいな白。汚れが目立つからこそ安心させる、管理された白。
透は頷いた。
「罰でいい」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「掟の下で誰かを殺して得た水より、ずっとましな罰だ」
カナが透の袖を引いた。
「行こう……?」
「ああ」
透は頷いたが、その前に、一度だけ振り返った。
砂丘の向こう。陽炎の揺れる地平線。
そこに、うっすらと緑色の帯が揺れていた。
「……まだ、見える」
あの、最初の日に見た、オアシスの幻。
本物だったのかもしれない。別の出口だったのかもしれない。もしかしたら、そこに向かい続けていたら、まったく別の形の終わりにたどり着いていたのかもしれない。
だが、彼らはそこを選ばなかった。
目の前に穴が開き、「観測終了」と刻まれた扉が用意された今も、彼らは自分たちの選んだ道の意味を抱えたままだった。
掟を殺すために、彼らは「全員死ぬ」という記録を受け入れた。
ドローンの目の届かない場所へ行くために、彼らは観測の外側に、自分たちの身体を運ぶ。
「これも罰だね」
ましろがもう一度そう言った。
透は笑った。
「罰でしか、終われないだろ」
この世界では。
唯一、透明な救いを選べたのだと、信じるために。
彼らは、ひとり、またひとりと階段を降りていく。
白い光の中へ。
影と水と医療資材が待つ、地下の施設へ。
ドローンの目が届かない、透明な罰の中へ。
最後に、風が砂丘を撫でた。
砂上の文字が、少しずつ削られていく。
殺せば奪える
奪えば選べる
選べば裁かれる
裁けば進める
誓えば奪われる
その全てが、風にさらわれ、跡形もなく消えた。
白い砂漠には、もう掟の言葉は残っていない。
ただ、誰も知らないログの中に、「十三からゼロへ」という数字だけが、静かに残り続ける。
地平線の彼方で、うす緑の帯が、まだ揺れていた。
《了》




