第七話 掟を殺す
砂漠の昼は、もう何度目か分からない残酷さで照りつけていた。
ポンプ施設のタンク。その赤い表示は、まだ「生存者数:13」のまま光っている。少し離れた砂地には、昨日透と氷室が引き剥がした黒い板が、焦げた虫の殻みたいに転がっていた。
掟は止まらなかった。別の板が、別の場所で、同じ文字を浮かび上がらせた。
殺せば奪える
奪えば選べる
選べば裁かれる
裁けば進める
誓えば奪われる
砂の上に、相変わらず詩みたいな残酷さで並んでいる。
透はその文字をぼんやりと見つめていた。
「掟を殺す、か」
自分で口にした言葉が、今はひどく軽く聞こえる。
ナイフを握って誰かを刺すより難しいことを、自分は言ってしまったのかもしれない。
喉は乾いている。熱で目の奥が痛む。それでも、胸の奥の苛立ちだけは冷めないままだった。
「掟を殺す方法、今一度整理させて」
背後から声がした。
氷室だ。眼鏡の奥の目は真っ赤に充血しているのに、どこか冴えている。
透が振り向くと、そこには橘とましろ、それから少し離れたところに隼人と数人が立っていた。皆、疲れと苛立ちと期待を一緒くたにした顔をしている。
「方法なんて、本当にあるのかよ」
隼人が砂をつま先で蹴りながら言った。
「昨日あれだけ暴れて、板を一枚剥がした結果が、『誓えば奪われる』の一行追加だろ」
「だからだよ」
氷室は砂にしゃがみ込み、指で円を描いた。
「やり方を変えなきゃいけない。あいつを“壊す”んじゃなくて、あいつの“目”を狂わせる」
「目?」
「ドローンと、発熱板のネットワーク。全部まとめて“観測系”って呼ぶとする。掟は、その観測系を通して書き換えられてる。なら、観測系を一時的に混乱させれば――」
氷室は円の外側に、小さな点を三つ描いた。
「判定アルゴリズムが“安全側停止”に入る可能性がある」
橘が眉をひそめる。
「安全側停止?」
「事故が起きた時に、システムを一旦止める仕組みだよ。どこの世界にも、大抵ある。信号が矛盾したり、中核のセンサーが壊れたりした時に、勝手な動作をしないようにね」
「つまり、あいつに“壊れたふり”をさせるってことか」
隼人が言った。
「で、その間にどうする」
「掟の更新を止める。文字が増えなくなれば、その時点で“このステージは終了した”って扱いになるかもしれない。タンクのロック条件も無効になる可能性がある」
「……全部仮説だな」
隼人は鼻で笑った。
「でも、何もしないよりはましだ」
透が口を開いた。
「どうやって、その観測系を狂わせる」
「まず、ドローンの“視線”を乱す」
氷室は砂に一本の線を引き、その上にドローンのマークを描いた。
「あいつは今、ほとんど常に俺たちの中心か、その少し先を見てる。タンクの周りと、砂文字の周囲。なら、視線を三つに割ってやればいい」
「三つ?」
「集団を三つに分ける。一つは中核の発熱板群に。もう一つは外周の板群へ。最後の一つは、第三の地点。さっきドローンが何度か低空で旋回してた場所だ」
氷室の指が砂の上に三つの点を打った。
「同時多発で、発熱板を破壊する。掻き出して、砂を詰めて、配線を切る。同時に――」
氷室はポンプ施設の横に積まれた箱を指さした。
「鏡面片を使う」
保温シートや壊れたケースの一部には、表面が鏡のように光るパーツがあった。昨日、物資の仕分けをしている時に、氷室が「使える」と目をつけていたものだ。
「これで太陽光を乱反射させる。砂丘の斜面や板の上で光を跳ねさせて、ドローンのカメラに“偽のイベント”を大量に送り込む。判定アルゴリズムは、何を優先すべきか分からなくなる」
透は想像した。
砂漠の上で踊る光。ドローンのレンズに飛び込むきらめき。文字の上で照り返る白い閃光。
「観測が乱れれば、あいつは“安全側”を選ぶ。止まるか、もしくは最低限の動作だけを残して、介入を減らす」
氷室はそう言い切った。
「条件は一つ」
彼は顔を上げ、皆を見渡した。
「誰も殺さないこと」
砂の上に、その言葉だけが重く落ちた。
「当たり前だろ」
真っ先に言ったのは透だった。
「これ以上、誰かの血を見たくない」
「そうだな」
橘も頷く。
「この作戦は、“誰も死なせない”ためにやる」
ましろも視線を上げた。乾いた瞳の奥に、わずかな光が戻る。
「うん。看護師として、ここから先は一人も出させない」
「で、俺は」
隼人が砂丘に寄りかかり、あくびをするような顔で言った。
「どこに行けばいい」
「第三の地点をお願いしたい」
氷室が即答した。
「一番危ない場所だ。ドローンがよく低空で旋回している。あそこを抑えられなかったら、全部が台無しになる」
「信用するんだな、俺を」
「信用したいから、言ってる」
氷室はまっすぐに隼人を見た。
「君はここまで、一度も“自分の手”で刺してない。ぎりぎりのところで踏みとどまってる。俺はそれを見てた」
隼人の表情が一瞬だけ曇った。
昨夜、倒れた男の喉元にナイフを近づけながらも、最後には手を引いた瞬間を、透は思い出す。
「……俺も、ここから出たいんだよ」
隼人はぽつりと言った。
「ゲームの駒で終わる気はない。分かったよ。その第三地点、やってやる」
意外なほどあっさりと、隼人は頷いた。
「じゃあ、分担を決めよう」
橘が一歩前に出る。
「中核の発熱板へは、俺と……透、ましろ。カナは残留だ。体力が持たない」
「私は?」
ましろが透を見る。
「来てほしい。板を掘るにも、誰かが周囲の体調を見てくれないと」
「分かった」
ましろは頷いた。
「外周の板群は、俺と氷室で行く」
橘が続ける。
「隼人には第三の地点へ向かってもらう。同行者は……」
「俺が二人連れて行く」
隼人が指名したのは、実利側の若い男と、無口な女性だった。どちらも足が速く、今もまだ顔色が比較的ましな方だ。
「残りはここで待機だ。ポンプとタンクの様子を見ていてくれ。何か変化があったら、鏡で合図を送る」
氷室が鏡面片をいくつか配る。
「乱反射のタイミングは、太陽が頂点を少し過ぎた頃だ」
氷室が空を見上げる。
「今から一時間くらい。準備して動くには、ぎりぎりだ」
透は砂漠の太陽を見た。白い光が、じわじわと頭蓋骨を焼いていくような感覚。
これが最後の賭けになるかもしれない、という予感だけは、誰の胸にもあった。
◇
太陽が頂点を過ぎ、ほんのわずかに影が伸び始めた頃。
三つの影が、砂漠の異なる方向へ伸びていった。
「行くぞ」
橘が言い、透とましろが頷いた。
中核の発熱板群は、昨日文字が最も鮮明だった場所の近くにある。そこから放射状に、砂の下へ配線が伸びているのを氷室は確認していた。
風が砂を運び、足もとをさらう。
汗がすぐに乾いた。
透は、自分の呼吸の速さを意識的に抑えながら走った。息を切らせて倒れてしまえば、それだけで“イベント”になりかねない。
背後では、外周に向かう橘と氷室の姿が小さくなっていく。反対側には、隼人と二人の同行者の背中。ドローンは三つの方向に揺れながら、その上空を追いかけようとしていた。
「分かれてる……」
ましろが空を見上げて呟く。
「本当に三つに視線を割ってる」
「今のうちだ」
透は走る速度を少し上げた。
やがて、昨日掘り返した跡地にたどり着く。砂を被せ直した場所でも、うっすらと形の違いが見えた。
「ここが中核……?」
「もっとある」
氷室の言葉を思い出しながら、透は周囲の砂を足で払う。日当たりの具合が違う場所。砂の温度が少し高い場所。耳を澄ますと、微かな振動が伝わってくる場所。
「ここだ」
透はしゃがみ込み、指で砂を掻き始めた。
じきに、黒い板の縁が見えてくる。昨日のものと似ているが、わずかに大きい。板の周囲には、細いワイヤのようなものが砂の中へ伸びていた。
「ましろさん、鏡を」
「はい」
ましろが保温シートを折りたたんで作った即席の鏡を、太陽に向ける。白い光が反射し、砂丘の斜面を舐めるように走る。
あちこちで、同じような光が踊っているのが見えた。橘たちの方向、隼人たちの方向。ドローンのレンズに向けて跳ね返る光の筋。
空中で赤いランプがちらつき、やがて色が変わった。
「黄色……?」
透は目を細めた。
今まで一度も見たことのない色だった。警告とも、注意とも取れる中途半端な光。ドローンのプロペラ音も、少し不安定になっている。
「システムが……迷ってる」
ましろが息を呑む。
ドローンは一瞬、風に押されたみたいにふらつき、それから高度をわずかに下げて静止した。
空中で止まる黒い球体。その底面のカメラが、焦点をどこに合わせるか決められないように、わずかに揺れる。
「今だ!」
透は板の下に指をかけ、力を込めた。
板は、思ったよりも粘った。砂と熱で接着剤みたいになっている。爪が痛み、指の皮が剥ける感覚。
「くそ……!」
歯を食いしばった瞬間、ましろが横から手を添えた。
「せーの」
二人同時に力をかける。砂が崩れ、板が浮き上がる。
バチ、と鈍い音。
板の裏側から、細いコードがいくつも伸びていた。その一部が引きちぎられ、小さな火花が散る。
「中身を壊す!」
透は板の表面の小さな隙間を見つけ、そこに砂を押し込んだ。熱で膨張した金属がミシミシと鳴る。砂粒が回路の間に入り込み、基板の上に固い層を作っていく。
やがて、板の表が赤く光るのをやめた。
砂の上の文字も、その一部がかすれたように消える。
「止まった……」
ましろが呟く。
「外周は?」
透は顔を上げ、遠くを見た。
橘と氷室のいる方向でも、鏡の光が一際強く弾け、その後でドローンがふらついていた。砂文字の別の部分も、わずかに薄くなっている。
「成功した……?」
「あと一つ。隼人たちの地点だ」
ましろが額の汗を拭った。
砂丘の向こう、第三の地点の方角では、まだ鏡の光がちらちらと踊っていた。ドローンも、そっちの上空でいらだたしげに行ったり来たりを繰り返している。
透は胸の奥の何かが少し浮くのを感じた。
いけるかもしれない。
掟を、ほんの少しでも狂わせることが、できるかもしれない。
そう思った、その時だった。
悲鳴が聞こえた。
◇
「きゃああっ!」
甲高い叫び声が、砂丘を越えて届いてくる。
同時に、怒鳴り合う声。砂を蹴る音。金属が何か硬いものにぶつかる音。
「隼人たちの方角だ」
ましろが顔をこわばらせた。
「行く!」
透は即座に走り出した。
足もとを砂がすくう。さっきまでの慎重さを置き去りにして、砂丘の斜面を駆け上がる。
頂上を越えた瞬間、視界が開けた。
「うそだろ……」
透は息を飲んだ。
第三の地点には、隠れるようにして埋められていた発熱板があった。その周囲の砂が、ぐしゃぐしゃに掻き乱されている。鏡面片が何枚も割れ、光を乱雑に跳ね返していた。
その中心で、誰かが倒れていた。
血が、砂の上にじわじわと染み広がっている。
隼人が、そのすぐそばに立ち尽くし、震える手でナイフを握っていた。
「隼人!」
透が叫ぶと、隼人がこちらを振り向いた。
その目は、見たことがないほど見開かれていた。いつもの冷笑も、皮肉も、計算もない。純粋な恐怖だけがそこにあった。
「違う……」
隼人は震える声で言った。
「違うんだ。落ちたんだ。俺は……」
その言葉をかき消すように、空から低い唸りが近づいた。
ドローンが一斉に沈下してきたのだ。
三機、四機。いつの間にそんなに増えていたのか。黒い球体が、砂漠の空を埋め尽くすように降りてくる。
赤いランプが、一斉に点灯した。
投下口が開く。
「来るな!」
透は思わず叫んだ。
だがドローンは止まらない。頭上数メートルの高さで静止すると、その腹から箱を落とし始めた。
箱。箱。箱。
今度は祝祭ではない。罰としての降下。
透は駆け寄り、倒れている人間の肩を掴んだ。
若い男だった。隼人と一緒に来ていた、実利側の一人。胸の辺りの服が、ざっくりと裂けている。そこから血が溢れ、砂を赤く染めていた。
「隼人。これは……」
「違う!」
隼人はナイフを放り投げた。刃が砂に突き刺さる。
「掘ってたんだ。板を。そしたら、あいつが……足を滑らせて、俺にぶつかってきて……俺も倒れて、その時に……」
隼人の手には、うっすらと血が付いている。
透はそれ以上聞いていられなかった。胸の奥で、別の音が鳴り始めていたからだ。
ゴウン。
ポンプの音だ。
遠く、タンクの方向から低い振動が伝わってくる。地面が、ほんの少しだけ震える。
同時に、誰かが叫んだ。
「表示が……!」
橘の声だった。外周からこちらへ走ってくる。
透は顔を上げた。
タンクのパネルが、炎天下の中で赤く光っている。そこに表示された数字が、ゆっくりと変わっていく。
生存者数:13
→12
ドローンのレンズが、投票の時と同じように、赤く祝祭めいた光を放った。
水が、流れ始めた。
ポンプの内部で何かが回転し、パイプの中を冷たいものが移動する感触。地面の奥で、水が押し出されていく。
「やめろ!」
透の叫びは、誰に向けたものか、自分でも分からなかった。
隼人か。ドローンか。タンクか。この世界を設計した何者かか。
血の匂いが、砂の熱と混ざり合って立ち上る。
「透!」
ましろが駆け寄り、倒れた男の頭を支えた。
「まだ呼吸がある!」
透は膝をつき、男の胸に耳を当てた。
心臓の音がしない。口元に手をかざしても、息が感じられない。
それでも、どこかで「まだ間に合う」と叫ぶ声があった。
「胸骨圧迫する!」
透は両手を男の胸の中央に重ねた。
海辺で、柔道場で、救命講習で習ったことがある。力の入れ方。リズム。深さ。
ここでやらなければ、その知識は一生呪いになる。
「一、二、三、四……」
数を数えながら、透は押し続けた。
胸骨が沈む感触。戻る感触。汗が目に入る。腕が震える。喉が焼ける。砂が膝に食い込む。
「ましろさん、気道!」
「開けてる!」
ましろは男の顎を上に持ち上げ、口を軽く開かせた。舌が落ち込まないように、指で位置を調整する。
「氷室!」
橘が到着し、氷室もその後ろから駆け込んできた。
「リズムを読んでくれ!」
透が叫ぶと、氷室はすぐに膝をついた。
「分かった。今のペースを保って。百二十回前後。止めるなよ」
ドローンが、頭上で迷うように高度を上げ下げしている。
赤いランプはまだ点灯しているが、その明滅はさっきよりも不規則だった。判定を下した後に、想定外の“続き”を見せられているのだ。
「戻ってこい……」
透は押しながら呟いた。
「お前が死んだって事実にされるのは、嫌だ」
胸骨圧迫。圧迫。圧迫。
時間の感覚が消える。何分押しているのか分からない。ただ、続けるしかない。
「息!」
ましろが叫ぶ。
男の胸が、わずかに上下した。
最初は幽かな動きだった。次に、小さな咳。それから、ひゅうと空気を吸い込む音。
「……生きてる!」
ましろの声が震える。
透は手を止め、膝から崩れ落ちそうになった。全身から力が抜けていく。砂が背中を支える。
男の胸は弱々しく上下を続けている。完全ではないが、呼吸は戻った。
「よかった……」
橘が腰を落とし、顔を覆った。
「……生きてるのに」
氷室が空を見上げた。
ドローンはまだ、タンクとこちらを交互に見ている。高い高度と低い高度を、迷うように行き来している。
タンクの表示は――変わらなかった。
生存者数:12
再計算されることなく、その数字だけがそこにあった。
「判定は……覆らない」
氷室の言葉が、砂漠の真ん中に落ちた。
「観測は、“瞬間”だけを記録している。呼吸が止まった瞬間、“死”とラベルを貼った。その後に蘇生しようと、ログは書き換えられない」
透は、砂に爪を立てた。
指の間に砂粒が入り込み、皮膚を削る感覚も、今はどうでもよかった。
「ふざけるなよ……」
喉の奥から、言葉にならない声が漏れた。
誰が死んだか。誰が生きているか。
それを決めるのは、血の通った目でも、触れられる手でもない。
遠くのどこかにあるアルゴリズムと、その場にあるドローンのレンズだけ。
「ふざけるなって、言ってんだろ!」
透は立ち上がり、空に向かって叫んだ。
「お前の一瞬の判断で、人の生き死にを決めるな! こっちはこんなに必死で繋ぎ止めてるのに、なんで“瞬間”だけでラベルを貼って終わりなんだ!」
声は空に吸い込まれる。
ドローンは、わずかに高度を上げた。まるで「理解できない」とでも言うように。
「なら……」
透は拳を握りしめた。
「なら、掟の方を殺す。お前が“瞬間”だけ見てるなら、俺たちは“過程”ごとぶっ壊してやる」
それは、今までのどの怒りとも違う感情だった。
誰かに向けた怒りでも、状況に向けた苛立ちでもない。
この世界そのものを設計した意志に対する、初めての本気の反抗だった。
◇
夜が来た。
砂漠の熱はすぐに逃げ、冷たさが這い上がってくる。
倒れていた男は、ましろの処置と皆の協力で、簡易の寝床に運ばれていた。呼吸は浅いが、確かに生きている。
それでも、タンクの表示は変わらない。
生存者数:12
その数字は、まるで嘲笑うように赤く浮かんでいた。
「アルゴリズムにとって、“一度死んだ人間”は、蘇生しても数には戻らない。ログ上では、“死者”として扱われ続ける」
氷室がパネルの前にしゃがみ込み、配線を追いながら言った。
「さっき少し調べた。タンクとパネルの間で、弱い通信が行き来してる。生存者数の情報も、そこを通ってやりとりされてる」
「通信……?」
透が隣にしゃがみ込む。
タンクの下部には、小さな箱が取り付けられていた。昼間は気づかなかったが、夜になると、そこからかすかな光が漏れている。中で信号が点滅しているのだろう。
「ケーブルは、ここから地下に伸びてる。どこにつながってるかは分からない。遠くの管理施設か、衛星か、他のタンクか」
「そこを……切れば?」
透が言った。
「通信を遮断すれば、タンクは“生存者数”の更新を受け取れなくなる」
「理屈の上では、そうだね」
氷室は頷いた。
「このパネルも、今後“誰かが死ねば解錠”という条件を満たしても、それを知らせてはこなくなる。つまり、“開かないロック”になる」
「それって……」
透は喉を鳴らした。
「掟を殺す代わりに、水を殺すってことか」
「そうなる」
氷室の声は淡々としていた。
「この通信が生きている限り、このタンクは“掟”の一部として動き続ける。誰かが死ねば開き、誰も死ななければ開かない。逆に、この通信を切れば、掟からは切り離されるが、水も永遠に閉じ込められる」
選択の刃は、二方向に切れる。
一方は、水を得る代わりに、誰かの死を受け入れる道。
もう一方は、掟を殺す代わりに、全員が渇き続ける道。
「そんなの……どっちも間違ってる」
透は砂を握りしめた。
「全員生きて、水も手に入れる方法は……」
「ゼロではない」
氷室が言った。
「例えば、別の水源を見つける。別のタンク。別の施設。どこかに、もっとマシな条件の場所があるかもしれない」
「そんなの、賭けじゃないか」
「ここに留まるのも賭けだよ」
氷室は静かに言い返した。
「タンクの水がどれだけあるかも分からない。開いたところで、全員分ある保証もない。むしろ、“誰かを殺せば助かる”という掟を強化するだけかもしれない」
透は黙り込んだ。
掟を殺すということは、単に板を壊したり、配線を切ったりするだけではない。
その掟が支配している「便利さ」をも捨てることだ。
水。影。物資。判断の代行。
「お前は、どうしたい」
透が問うと、氷室は少しだけ考える顔をした。
「俺は……この通信を切るべきだと思ってる」
静かな言葉だった。
「掟の下で生き延びることは、“掟の一部になる”ことでもある。誰かを殺すことを前提とした水を飲んだ瞬間、俺たちはきっと、もう戻れなくなる」
「でも……」
「だからと言って、今すぐ切れとも言えない。これを切るのは、全員で決めるべきことだ。さっきの投票みたいに、誰か一人に押し付ける形じゃなくて」
氷室は夜空を見上げた。
星は見えなかった。雲でも砂嵐でもない。頭上を常に旋回するドローンの光が、暗闇を塗りつぶしている。
「この世界は、“決定の形式”を試している。誰かを排除する投票。誰かを救うための誓い。それに対する反応。だったら、俺たちは“別の形式”を見せなきゃいけない」
「別の形式……?」
「全員で話し合って、全員で決める。誰か一人の犠牲に乗っかる形じゃなく、誰も切り捨てない決定の仕方を」
透は、自分の掌を見つめた。
胸骨圧迫で赤くなった手のひら。砂と血で汚れた指。さっきまで、誰かの命をかろうじて繋ぎ止めていた手だ。
「そんな決め方をしたら、掟はどう反応する」
「分からない」
氷室は笑った。
「でも、試す価値はあるだろ。どうせ、ここまで散々、あいつの“ゲーム”に付き合わされてきたんだ。最後ぐらい、こっちのルールで決めたい」
その笑いは、疲れているのに、どこか少しだけ楽しそうだった。
掟を殺す。
それは、どこか遠くにいる“誰か”との戦いではなく、自分たちの中の「楽な決め方」と決別する戦いなのかもしれない。
透は、タンクの下部の小さな箱を見つめた。
その中で、微弱な光が点滅している。
掟の心臓のひとつ。
砂漠の夜は冷たく、長かった。




