第六話 砂上の共犯
砂漠に沈黙が落ちていた。
太陽の光はまだ弱い。昨日の騒ぎの余熱だけが、砂丘の上に置き去りになっている。ポンプ施設の前に立ち尽くす十三人の影が、細く、長く伸びていた。
その中央で、橘は両手を膝につき、息を整えていた。
教師としての顔でも、リーダーとしての顔でもない。限界を自覚した大人の顔だった。
「……提案がある」
橘が言った瞬間、周囲の空気がざらりと動いた。
ましろが眉を寄せる。
「橘さん?」
「犠牲者を……投票で決める」
誰もが息をのみ、数秒遅れて理解が追いつく。
「投票って……何の?」
氷室が聞いた。答えは分かっているが、確認しなければ壊れる。
「一人欠ければ、水は開く。ならば、“誰が欠けるのか”を、全員で決めるしかない」
透は喉をつかまれたような感覚に陥った。
橘の声は震えていない。けれど、指先がわずかに揺れていた。
「そんな……」
ましろは、すぐに首を大きく振った。
「票なんて、人を殺すための道具よ! そんなの……そんなの、橘さんが言うことじゃない!」
「分かってる」
橘はましろの叫びを正面で受け止めた。
「言いたくない。誰にも言わせたくなかった。だが……見ただろう、あの表示を」
パネルの赤い文字。
生存者数 十三
十二で解錠
「時間はない。渇きも、夜の寒さも、争いも、もう限界だ。誰も死なせずに進める方法があるなら教えてくれ。俺は……それを言えるほど、強くない」
橘は唇を噛み、俯いた。
「だったら……だったら、なおさら投票なんて……!」
ましろの声は震えていた。目に涙が浮かび、その涙が熱で揺らめいて見える。
しかし、周囲の反応は違った。
誰も、反対しなかった。
それは沈黙の賛成だった。
喉を押さえ、影を求め、夜の寒さを思い出しながら、皆の視線は下を向いたまま止まっていた。
透は理解した。
この沈黙が、何よりも残酷だということを。
「……投票箱はどうする」
隼人が言った。
「ちょうどいい空ケースがあるだろ」
昨日、確認として落とされた空箱が、砂に半分埋まって転がっていた。金属とプラの混合ケース。蓋を閉じれば密閉され、中身は見えない。
隼人が拾い上げ、砂を払う。
「これで十分だ」
氷室がささやく。
「“可視化された合意”が、一番よろしくない形で機械に伝わる」
「でも、拒否しても……押し切られる」
透の声は自分でも分かるほど弱かった。
橘は皆の前に立った。
「名前を書いて、この箱に入れてほしい。誰に入れても……構わない。俺に入れてもいい」
砂の上に、短い影が落ちる。風が吹き、砂粒が橘の足もとを撫でる。
「一つだけ……ルールを言わせてくれ。決して、誰も強制はしない。書きたくないなら、空白でもいい」
それでも、誰も空白にはしない。
透には、それが最初から分かっていた。
◇
投票は、驚くほど静かに進んだ。
名前を書く紙は、ポンプ施設の説明書の裏紙を千切って使った。鉛筆は氷室が持っていた一本。使い古しの短い芯。
順番に紙切れが渡される。そのたびに、ドローンが高度を下げてくるのが分かった。
まるで祝祭のように、赤ランプが瞬く。
「……お前はどうするんだ」
隼人が透に聞いてきた。投票箱を前に置き、腕を組んで見ている。
「自分の名前を書く」
透は迷わず答えた。
「俺が生き残るために誰かを選べない」
「偉い偉い」
隼人は皮肉げに笑う。
「でも、票ってのはそういう“美学”で決まるもんじゃないぞ。大抵、弱ってるやつ、文句を言わないやつ、倒れそうなやつに吸い寄せられる」
「そんなの分かってる」
透は鉛筆を取り、紙に文字を書いた。
透
その文字を見つめて、箱に入れる。
紙が底に沈む音がした。
氷室は、紙を二つ折りにしてから、ゆっくりと箱に入れた。
透は不思議に思った。
「氷室……何を書いた」
「無記名さ」
「無記名って……?」
「掟を壊す、ってだけ書いた」
透の心臓が跳ねた。
「そんなものを入れたら……」
「分かってる。でも、“観測”に対する抵抗って、こういう形しかない気がした」
氷室は目を伏せた。
「俺たちの意思を、全部合意として集計されるのは嫌だ。機械のためのデータじゃなくて、あくまで“俺の拒否”として箱に入れたかった」
透は、何も言えなかった。
◇
開票の時間が来た。
砂丘の影が短くなり、熱が肌を刺し始める。
空にはドローンが二機。いつの間にか増えていた。一機は高い軌道、もう一機は低く、投票箱の真上に位置取っている。
「開けるぞ」
橘が震える手で蓋を外す。
紙が数枚、角が折れたり、砂が付いたりして重なっている。
全員が息を止めた。
一枚目を開く。
カナ
二枚目。
カナ
三枚目。
カナ
透の頭の奥で、何かが崩れた。
「そんな……」
ましろが口に手を当て、後ずさる。
「どうして……」
「理由は簡単だろ」
隼人が言った。
「弱ってるからだ。倒れたら死ぬ。死んだら水が出る。皆、怖いんだよ。自分の票が誰かの死を決めるとき、できるだけ“正当化できる理由”を求める」
「そんな理由……」
「正当化なんて、後付けだよ」
二機のドローンが赤ランプを同期させて点滅させる。まるで祝っているように。
投票という“共犯”を完遂した集団への祝祭。
透は、吐き気をこらえた。
「待って!」
ましろが叫んだ。
「カナは……まだ子どもよ! 病気で倒れてるのよ! そんな……そんな残酷な選び方……!」
「俺が決めたわけじゃない」
橘が言った。声は掠れていた。
「でも、結果は……事実だ」
誰も言葉を返せなかった。
「わたし、選ばれちゃったね」
その声が、静かに降ってきた。
振り向くと、カナが砂の上に座っていた。膝を抱え、汗で濡れた髪を額に貼り付けたまま、微笑んでいた。
その笑みは、泣きそうで、泣いていて、でも笑っていた。
「わたし、昨日、少しだけ……影に入れて嬉しかったんだよ。だから、許してあげて。みんな、苦しいんだよね」
「違う!」
ましろが走り寄り、カナを抱きしめる。
「誰もあなたを選んでいいわけない! こんな投票……こんなもの、認めない!」
「でも……」
カナは弱々しく笑った。
「わたし、ほんとに……選ばれちゃったんだね」
透は拳を握った。
その瞬間。
空が割れた。
ドッという爆音。風圧。砂が一斉に舞い上がる。
空から、箱が降ってきた。
一つではない。
二つでもない。
十、二十、三十。数え切れないほどの箱が、雨のように降り注いだ。
「うわっ!」
「避けろ!」
砂煙の中で箱が弾け、転がり、砂に半分埋まる。開けるまでもなく、中のものが見えた。
水。水。水。
乾パン。栄養バー。保温具。タープ。ライト。ロープ。
大量の物資が、一瞬で足りすぎるほど現れた。
「……報酬だ」
氷室が呆然と呟く。
「投票という……“意思決定の形式”をやり遂げた集団への……報酬」
透はその瞬間、理解してしまった。
これは殺しのゲームではない。
誰が死ぬかを決めさせるゲームではない。
“誰かを死に向かわせる仕組みを、どう合意形成し、どう可視化するか”
それを観測し、収集し、試している。
投票箱は、そのプロトタイプだ。
名前を書き、集計し、同意を得て、排除する。
人類が古くから持つ、最も古い「排除の装置」を、機械の前で再現させている。
透は喉の奥が焼ける感覚を抱えたまま、氷室の腕を掴んだ。
「掟を……壊さないといけない」
「分かってる」
氷室が頷く。
「砂文字の下だ。発熱板を剥がせば、更新は止まる」
「急ぐぞ!」
二人は砂を蹴り、昨日文字が刻まれた場所へ走った。
まだ熱が残る砂。息が焼ける。指が痛む。
氷室が素早く砂を掘り始め、透も手伝う。
「ここだ!」
砂の下から、薄い黒い板が現れた。スマホほどのサイズ。裏には配線が伸びている。
「引きはがす!」
二人はロープを使い、板に巻きつけて引っ張った。
ぎし、と音がした。
さらに力を込め、体重をかける。砂が崩れ、板が持ち上がる。
バチ、と火花のような音がした。
配線が切れ、赤く光っていた砂文字の一部が、ふっと消える。
「止まった……!」
透が叫んだ。
だが氷室の表情は固い。
「いや……見ろ」
砂の少し離れた場所で、別の文字が浮かび上がった。
同じ文だ。
殺せば奪える
奪えば選べる
選べば裁かれる
裁けば進める
そしてその下。
誓えば奪われる
透の背筋が凍った。
「多層……」
氷室の声が震える。
「発熱板は一枚じゃない。網目のように、砂漠全体に点在してる」
「じゃあ……掟は……」
「壊せない。全部は。少なくとも、今はまだ」
ドローンの赤ランプが、砂漠の空で静かに瞬いていた。
◇
夜、カナは泣きながら笑っていた。
「ねえ透くん。わたし……本当に、選ばれちゃったんだね」
「違う。あれは……あれは、ただの機械の玩具だ」
「でも、みんな……わたしの名前を書いた」
「俺は書いてない」
「でも……」
カナは涙を拭きながら、それでも微笑んだ。
「わたし……透くんの名前を書こうとしたけど、書けなかったんだ。だって透くん優しいから……そういう人が残ってほしいって思ったの」
胸が潰れそうだった。
「カナ。誰も死なせない。絶対に」
透は強く言った。
「俺が守る。約束する」
カナは、目を閉じて頷いた。
その瞬間。
砂の上で、文字が新たに光った。
誓えば奪われる
透はゆっくりと顔を上げた。
掟は、誓いすら奪おうとしていた。
砂上の共犯は、もう後戻りできないところまで来ていた。




