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第5話「オアシスまでの殺意」

 第五日目の朝、砂漠は嘘みたいに鮮やかだった。


 それは、誰かの叫び声から始まった。


「見ろよ、あれ!」


 寝起きのだるさと喉の痛みを抱えたまま、透は顔を上げた。視線の先、はるか遠くの地平線の上に、細い緑色の帯が揺れている。


 白い砂の海の中で、そこだけが別世界みたいに色を持っていた。


「……オアシス?」


 誰かがそう呟いた途端、その言葉が空気に混ざり、伝染していく。


 オアシスだ。水だ。草だ。木陰だ。


 昨日まで灰色だった人々の顔に、一気に血の気が戻る。乾き切っていた瞳が、あの緑だけを映し始めた。誰もが喉を鳴らし、唾を飲み込む。


「待て。蜃気楼の可能性が高い」


 氷室が冷静に言う。


「この気温、この距離、この揺れ方。地表の温度差で光が屈折してるだけかもしれない」


「分かってるよ、そんなこと」


 それでも、言葉は止まらなかった。


「でも行かない理由にはならないだろ」


 隼人だった。


 移動の疲れも、喉の渇きも、夜の寒さも一瞬忘れたように、彼は砂丘の上に立ち、緑の帯を見下ろして笑った。


「いいか。先に着いた側が権利を得る。水があろうがなかろうが、あそこに“何か”があるのは間違いない。見つけたやつが決める。シンプルだろ」


 橘の顔が険しくなる。


「勝手に決めるな。全員で動くかどうかを――」


「全員でのろのろ向かったら、その途中で全滅するぞ」


 隼人は遮った。


「残りの水も、影も、もう限界だ。足が動くうちに動いた方がいい。動けるやつが先に行って確認する。それでいい」


「確認のあと、どうするつもりだ」


「それは、“先に行ったやつ”が決める」


 その言い方には、迷いも後ろめたさもなかった。ただ、当然の権利を主張するような口調だった。


 橘は何か言い返そうとしたが、喉がかすれただけだった。口の中に貼り付いた乾いた舌が、うまく動かない。


 実利側の数人が、隼人の後ろに立つ。夜の寒さを共に乗り切り、「ナイフ」の話を共有してしまった顔ぶれだ。


 彼らの目には、「ここに留まる」という選択肢はもうなかった。


「行くやつは手を挙げろ」


 隼人が言うと、数本の腕が迷いなく上がった。その中には、昨夜ナイフの所在について橘に詰め寄った男もいる。


「……俺たちは残る」


 橘が静かに言った。


「体力に不安のある者、カナや篠崎は連れて行けない。ここで待って、水があるかどうかの報告を受ける」


「残留組か」


 隼人はつまらなそうに鼻を鳴らした。


「だったらいいよ。俺たちが“進めた先”で、何を見たか教えてやる。その代わり、戻った時に“場所”が残ってるといいな」


「脅しか?」


「ただの現実だ」


 その軽い口調が、逆に胸に重く沈んだ。


 透は黙って緑の帯を見つめていた。揺れるように滲み、時々消えそうになり、それでも確かにそこに「ある」と主張している。


「透」


 橘が呼ぶ。


「お前はどっちに」


「……行く」


 自分でも驚くほど、即答だった。


「何を言ってるの。透くんまで行ったら」


 ましろが目を見開く。


「戻ってくる保証がないのに」


「だからこそ、確認が必要なんだ」


 透は緑色の帯から目を離さずに言った。


「隼人たちだけが“見たもの”を握っている状態にはしたくない。あそこに何があるかを、自分の目で確かめたい」


 本当のオアシスか。単なる蜃気楼か。それとも、別の罠か。


 それを他人の口から聞くだけで受け入れられるほど、この場所は信用できない。


「僕も行く」


 すぐ横で、氷室が言った。


「ログを取りたい。あいつらがどこに何を置いているのか。オアシスが本物なら、その情報は皆にとっても大きい」


「決まりだな」


 隼人が笑う。


「じゃあ、先に行った側が権利を得る。文句はないな?」


 橘は何も言わなかった。ただ、透の肩を強く掴んだ。


「戻ってこい」


「必ず」


 透は短く答え、氷室と共に隼人たちの後ろに立った。


 砂漠の上に、新しい線が引かれた気がした。


     ◇


 走り出してすぐに、透は自分の決断の重さを思い知ることになった。


 砂は、走るための地面ではない。


 一歩踏み出すごとに、足が沈む。力を前に伝えたいのに、半分以上は横に逃げる。ふくらはぎが悲鳴を上げ、太ももが焼けるように痛む。


 喉で心臓が跳ねていた。


 息を吸うたびに砂が入り込み、気管をこすっていく。肺が熱い。胸の奥で酸素が薄くなっていくのが分かる。


 隼人はそれでも先頭を走り続けた。足が長く、重心の使い方がうまい。砂を蹴る角度を知っているかのような動きだった。


 実利側の数人は、その少し後ろに続く。息は荒く、汗もすぐに蒸発していく。それでも、「先に着いた側が権利を得る」という言葉が彼らの背中を押していた。


「透、大丈夫か」


「……まだ、いける」


 氷室は走りながらも時々空を見上げ、ドローンの位置を確認している。プロペラ音は相変わらず上から聞こえるが、その軌道には変化が見え始めていた。


「あいつ……」


 氷室が息を切らしながら言う。


「進行方向の先に回り込んでる」


「先?」


「そう。僕らの真上じゃなくて、僕らが向かっている方向の、少し先。ずっと前から、あの緑の帯の上を中心に回ってたけど、今はさらに前に出てる」


 透も空を見上げた。


 確かに、ドローンは彼らの真上ではなく、少し先の空を旋回していた。まるで、あちらから「おいで」と誘っているみたいに。


「つまり……あいつは、“目的地”を知ってる」


「そう考えるのが自然だね」


 氷室は青ざめた顔で笑う。


「オアシスが本物かどうかは別として、あそこに何かがあることだけは確かだ」


 何か。


 水ならいい。建物でもいい。影でもいい。


 透は歯を食いしばり、さらに足を前に出した。


 砂丘が一つ、二つと過ぎていく。緑の帯は少しずつ形を変え、やがてそこに「何かの輪郭」が見え始めた。


 揺れる木々ではない。湖面でもない。金属の反射だ。


「……柵?」


 透は足を止めそうになった。


 砂丘の向こうに、低い金属柵と、いくつかの機器群が見えた。パイプが地面の中へと伸び、その上に銀色のタンクが横たわっている。周囲には、ソーラーパネルらしきものがいくつも立っていた。


 オアシスではなかった。


 地中の貯水タンクと、ポンプの施設だった。


 砂漠のど真ん中に、人工物がぽつんと浮かんでいる。


「やっぱり……」


 氷室が肩で息をしながら笑う。


「あるわけないよな、分かりやすいオアシスなんて」


 それでも、透は胸の奥で何かが跳ねるのを止められなかった。


 水だ。


 たとえ地中でも、この下に水がある。タンクがそれを証明している。


「行くぞ!」


 隼人が叫び、柵に向かって走る。実利側も一斉に速度を上げた。


 透と氷室も遅れまいと砂を蹴った。


 近づくにつれて、施設の細部が見えてくる。


 タンクの表面には傷や砂かぶりの跡はあるが、大きな損傷はない。パイプも生きているように見える。ポンプらしき機械には、まだ電源ランプがわずかに点灯していた。


 だが、肝心の部分は固く閉ざされていた。


 タンクの側面に、大きな電子錠が取り付けられている。四角いパネルが淡い赤色の光を放ち、数字と文字を表示していた。


 透は駆け寄り、息を整えながら画面を覗き込んだ。


「……何だよ、これ」


 そこにはこう書かれていた。


 生存者数:13

 →12で解錠


 赤い矢印が、じわじわと点滅している。


 誰かが、息を止めたような音を立てた。


「生存者数……」


 氷室が唇を震わせる。


「ここのシステムは、俺たちの人数を認識してる。今は十三。誰かが死んで十二になったら、ロックが外れる」


「そんな……」


 透の喉から、ひきつった声が漏れた。


 誰かが死ねば、水が開く。


 逆に言えば、全員生きているうちは、水は出ない。


 その設計をしたのは、誰だ。何のために。


 考える間もなく、背後で悲鳴が上がった。


「うわっ!」


 振り向くと、実利側のひとりが砂に足を取られ、前のめりに倒れていた。膝をひどく打ったのか、顔をしかめて動けないでいる。


「おい、大丈夫か!」


 隼人が駆け寄り、腕を引っ張って起こそうとする。砂まみれの顔が、痛みと恐怖で歪んでいた。


 その隼人の手に、何かがきらりと光った。


 ナイフだ。


 夜明け前に砂に埋めたはずのそれが、今、隼人の指の間で冷たく光っている。


 透は血の気が引いた。


 いつの間に掘り返したのか。いつから持っていたのか。そんなことはどうでもいい。ただ、今ここで、その刃が誰かの喉に向くかもしれない。


 隼人の表情が、一瞬だけ凍った。


 目の前には、電子パネルの赤い表示。


 生存者数:13

 →12で解錠


 背中には、喉を鳴らして見守る視線。実利側の人間たち。遠くには、まだこちらに追いついていない残留組の姿。


 砂漠の空気が、ナイフの周りだけ違う密度になっているように感じた。


 隼人は、ゆっくりと手を上げた。


 倒れている男の肩を掴み、引き起こす姿勢のまま、その喉元に刃が届く距離。


 透の手が、自然と握りしめられる。


 刺さるのか。ここで。


 一人死ねば、水が出る。


 ナイフ一本で、十三人分の喉の渇きが癒える。


 計算は簡単だ。冷たい論理だ。ここまでの「掟」の流れからすれば、むしろ当然の結論にさえ見える。


 隼人は。


 刺さなかった。


「……ちっ」


 舌打ちと共に、ナイフを男の喉から離した。そのまま腕を引っ張り、力づくで立たせる。


「立て。ここで死なれたら、俺が“悪者”になるだろうが」


 男はわけも分からない顔で立ち上がり、膝を押さえながらよろよろと柵の方へ歩いた。


 隼人の顔には、決して優しさではないものが浮かんでいた。


 逡巡と、自嘲と、苛立ち。


「何やってんだよ、お前」


 透の口から思わず出た。


「ここで刺さないなら、ナイフなんて持ち歩くな」


「刺さないと決めたわけじゃない」


 隼人はナイフを握り直し、刃をタンクのパネルに向けた。


「俺が今刺すのは、こいつじゃない」


 パネルのガラス面に、刃先が触れる。


「やめろ!」


 透は飛び出した。腕を掴み、力いっぱい引いた。


 隼人は振り返り、苛立った目で透を睨む。


「何だよ」


「パネルを壊したら、どうなるか分からないだろ。解錠どころか、二度と開かなくなるかもしれない」


「だからって、このまま“誰か一人減るまで待ちます”ってか?」


 隼人の声には怒りと焦燥と、少しの恐怖が混ざっていた。


「誰かが死ねば開く。だったら誰かを選ぶ。それが“裁けば進める”って掟なんだろ」


 その言葉を聞いた瞬間、透の背筋に冷たいものが走った。


 砂の上の文字が脳裏に浮かぶ。


 殺せば奪える

 奪えば選べる

 選べば裁かれる

 裁けば進める


 進むために、裁く。


 ここまでの流れと、タンクのパネルの表示は、あまりにも綺麗につながり過ぎていた。


「一人、出ていけ」


 隼人が叫んだ。


 声は風に乗り、タンクの周囲に響いた。


「ここで“減らせ”。誰でもいい。自分から出て行くやつがいるならそれでいいし、決められないなら、あいつに決めさせるか?」


 あいつ。頭上のドローン。


 皆の視線が自然と空を仰ぐ。黒い球体は、施設の上空を低く旋回していた。赤いランプはまだ光っていない。


 倫理側と実利側の線が、ここで完全に崩れた。


 残留組の一部も追いつき始め、状況を把握しきれないまま、タンクの表示とナイフを見て顔色を失っていく。


「待て!」


 橘が息を切らして駆け込んできた。


「状況は――」


 パネルの表示を見て、言葉を失った。


「……ふざけてるのか、これは」


 ましろも顔を蒼白にしながらパネルを見つめる。


「こんなの、ただの殺し合いの扉じゃない」


「殺し合いなんて言葉、まだ早い」


 隼人が言った。


「誰かが事故で死んでも、同じだ。誰かが倒れて、そのまま戻ってこなかったとしても。システムからしたら、“一人減った”ってログが残るだけ」


「その“事故”を演出できるナイフを振り回してるやつが言うな!」


 透は怒鳴った。


 空気がきしむ音がした。


 実利側と倫理側。意見と恐怖と喉の渇きが入り混じり、声が重なり合う。誰かが隼人に掴みかかり、誰かが透を引き離そうとする。誰かが「俺は嫌だ」と叫び、誰かが「誰も死ななければいい」と言い、誰かが「そんなのありえない」と笑う。


 熱が上がった。


 それは砂漠の温度ではなく、人間の中の熱だった。


 頭上のドローンのプロペラ音が変わる。旋回速度が上がり、赤いランプが明滅を始める。


「やばい、“争いの密度”が――」


 氷室が言いかけて、口をつぐんだ。


 透の視界が白く揺れた。


 吐き気が込み上げる。喉の渇きと混ざり合い、胃の中の空っぽさが反乱を起こす。


 ここで誰かが死ぬ。


 そんな予感が、現実味を帯びて胸を締めつけた。


 透は、タンクの下部に視線を落とした。


 そこに、何かが刻まれているのが目に入ったのだ。


 砂に近い部分、配管の影になっているところに、小さな金属板が貼り付けられている。砂埃で半分隠れていたが、近づいて指でこするとはっきりと文字が浮かび上がった。


 観測下にて決定せよ


 透は、思わず声に出した。


「観測下にて……決定せよ」


 誰かが聞き返す。


「それ、どういう……」


「観測下」


 氷室が、透の横にしゃがみ込んだ。眼鏡の奥の目が細くなる。


「観測者は……あいつだ」


 氷室は空を見上げ、ドローンを指さした。


「殺意も。善意も。逃亡も。合意も。全部“見えるもの”になった瞬間、あいつがログに残してる。ここも同じだ。誰かが死ぬ“その瞬間”を、あいつが観測して初めて、このロックは外れる」


「じゃあ、どうすればいい」


 透は声を震わせた。


「決定権を奪い返す方法はあるのか。あいつの観測から逃れることなんて……」


「“掟”を殺す」


 氷室が囁いた。


 あまりにも小さな声だったが、透にははっきりと聞こえた。


「掟……?」


「ここまでの流れを作ってるのは、砂の文字と、その裏に埋まってる発熱板だ。誰かが書いたルールを、あれがずっと更新し続けてる。あれを壊せば――」


 そこまで言ったところで、ふいに氷室の目が別の方向に引き寄せられた。


 透もつられて顔を上げる。


 遠くで、水面がきらめいていた。


 さっきの緑の帯とは違う。もっと鋭く、もっと直接的な光の揺らめき。砂丘の向こう、ポンプ施設のさらに奥に、鏡のように光る一帯が見える。


「……水?」


 思わず呟いた。


 蜃気楼かもしれない。罠かもしれない。別のタンクの反射かもしれない。


 それでも、光は確かに「水」の揺れ方をしていた。


 実利側の一人が、思わず一歩踏み出す。


「まだ、あっちにも……」


「待て!」


 橘が叫ぶ。


「今行けば、ここと同じ仕組みがあるかもしれない。いや、もっとひどい条件かもしれない。掟を壊す話を――」


「決める時間なんて、もうないかもしれない」


 隼人が遮った。


 ドローンの赤いランプは、さっきから消えない。砂漠の温度もまた上がり始めている。このままここで争い続ければ、誰かが「自然に」倒れる。それもまた、「観測下の決定」だ。


 進むか。止まるか。掟を壊すか。掟に従うか。


 すべての選択肢が重なり合い、互いに絡み合っていた。


 透は唇を噛んだ。


 砂の上に刻まれた四行の掟が、頭の中でぐるぐると回る。


 殺せば奪える

 奪えば選べる

 選べば裁かれる

 裁けば進める


 進んだ先にあるのは、オアシスか。さらなる罰か。それとも、掟の外側か。


 ドローンの低い唸りだけが、砂漠の空に響いていた。

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