第4話「夜の冷たさは裁く」
第四夜は、熱ではなく冷たさから始まった。
日が沈みきると、砂漠の空気は嘘みたいに温度を落とした。昼間は焼けるようだった白い砂が、一気に冷たい板みたいに変わる。風が吹くたび、肌が切れそうに痛い。
透は、歯の根が合わなくなるのを必死にこらえていた。
昼に溶けた汗が、今は冷たい膜になって張り付いている。喉は相変わらずからからだが、今は渇きより先に震えが来る。息を吐くと白くはないが、内臓の奥から熱が抜けていくのが分かった。
昼間作った「影通貨」は、何の役にも立たない。
夜には影も日向もない。ただの暗闇。太陽から逃げるためのルールは、そのまま夜の冷気にさらされる順番表になっただけだった。
カナはこども枠の旗のそばで、丸くなっている。熱は少し下がったが、今度は冷えで震えている。昼の騒ぎの後、カナが実は少し離れた窪地に倒れていただけだと分かったのは幸運だった。あの白い破片は、彼女のすぐ傍に落ちていただけ。
見つけた瞬間の安堵を、透はまだ覚えていた。
けれど今、その安堵は薄く削られている。
「このままだと、本当に体温が落ちすぎるわ」
ましろが吐息を白くさせながら言った。彼女の指は冷たく、唇も青みを帯びている。看護師として、臨床の現場で何度も見たはずの「危ないサイン」が、今は自分自身に出始めていた。
「体の小さい人、痩せてる人、持病持ち。順番にやられる。昼みたいに順番表作ってる場合じゃない」
「じゃあ、どうする」
橘の声もかすれていた。夜目にも分かるほど、皆の顔色は悪い。唇が紫になっている者もいる。
「抱き合って寝る」
ましろははっきりと言った。
「体をくっつけて、互いの熱で暖め合う。人数が多いほど、外に逃げる熱は減る。病棟でもやる方法よ」
「は?」
隼人が露骨な嫌悪を浮かべた。
「冗談だろ。ただでさえ気持ち悪い状況なのに、ここでぎゅうぎゅうくっついて寝ろって?」
「嫌がる理由が分からないわね」
ましろは冷たく言い返す。
「この温度で単独行動したら、夜が明ける前に数人は凍傷か低体温で動けなくなる。嫌悪感と命、どっちを取るかなんて、比べるまでもない」
「そうやってキレイごと並べて、結局は“固まってるところ”をあいつに見せるんだろ」
隼人は頭上のドローンを顎で示した。
「密集した人間の塊。いかにも観察しがいがある。フレームに収まりやすくて、ログも取りやすい」
「だったら、なおさら固まるべきかもしれない」
氷室がぼそりと言った。
「バラバラで凍えて勝手に死ぬより、まとまって“条件”として提示した方が、保温用の何かを落としてくれる確率は上がる。あいつは“見えるもの”に反応するんだろ」
透は、氷室と隼人の言葉の間で揺れた。
監視を濃くするため、まとまった人間の群れを見たい機械。だが、その群れに何かを投下しなければ、実験にならないと考える機械。
どちらも、ありそうだった。
「……やるしかない」
橘が決断した。
「輪になって座る。真ん中に体温の低い者、外側にまだ余力のある者。男女とか距離感とか、今は全部あと回しだ。嫌なやつの隣になっても、我慢しろ」
隼人は舌打ちしたが、多数は橘の言葉に従った。
人間は、寒さの前ではプライドより熱を選ぶ。
◇
輪はすぐにできた。
砂の上にざらざらと腰を下ろし、背中と肩と脚を互いに押し付け合う。最初は気まずさと緊張で筋肉が固くなったが、やがて冷えがそれを溶かしていった。
透は、右側にカナ、左側に氷室がいる位置を選んだ。カナの体は小さく、震え方も軽くはない。彼女を中心に、ましろと数人が布と体を重ねる。
「苦しくないか」
透が尋ねると、カナは小さく頷いた。
「うん。あったかい」
その一言に、透の肩も少しだけ力が抜ける。
輪の外側には、隼人も座っていた。少し離れた位置で、腕を組み、背中だけはしっかりと誰かにくっつけている。口では嫌だと言いながら、体は正直だった。
密集ができると同時に、頭上のドローンの動きが変わる。
プロペラ音が低くなり、軌道が収束する。黒い球体が彼らの輪の上に、きっちりと中心を合わせて旋回し始めた。
赤いランプが、ふっと点灯する。
「来るぞ」
誰かの声と同時に、ドローンの側面がわずかに開いた。
落ちてきたのは、箱ではなかった。
白い光の玉だった。
空中で一瞬だけ膨らみ、次の瞬間には破裂する。眩しい閃光と共に、白い炎の花びらが四方に散る。
「うわっ!」
目を焼かれたような感覚に、皆が思わず顔を伏せた。
強い光。強い影。そして、熱。
白いフレアが砂の上に点々と燃え広がり、周囲の空気を一気に暖めていく。強い光源が複数できたせいで、人の影は極端に濃く、長く伸びた。
昼の太陽とは違う、刺すような人工の光。夜の闇とのコントラストが、輪の内側に異様な雰囲気を作り出す。
「……あったかい」
誰かが呟いた。本当にそうだった。フレアから数メートルの範囲は、風が吹いても震えが和らぐほどの熱を放っている。
「助けてくれてるじゃないか、あいつ」
輪の中から、安堵と感謝が混じった声が上がる。
だが、別の声がそれを遮った。
「違う。監視を濃くしてるだけだ」
透の隣で、氷室が低く言った。
「あのフレア、熱源と光源を一気に増やしてる。カメラの感度を上げずに、人の輪郭をはっきり拾うために。昼間と同じだよ。“見えるもの”を増やしてる」
透は黙り込んだ。
確かに、フレアの光の中では、誰がどこにいて、誰とくっついていて、誰が震えているかが、はっきり分かる。善意も、怯えも、ささやきも。
暖かさと引き換えに、丸裸にされる。
夜の冷たさは、助けという名の拘束具を落としてきた。
◇
輪の外縁部にいた篠崎が、先に限界を迎えた。
過呼吸だった。
胸を押さえ、浅い息を繰り返す。肩で息をして、目を見開き、何かから逃げるように視線を泳がせている。
「し、篠崎?」
透が呼びかけると、篠崎は首を横に振る。
「だ、大丈夫……。ここ、ちょっと、苦しくて……」
密集が負担になっているのだろう。持病の肺が圧迫され、息がうまく吸えない。
「一回、外に出よう。少しだけ離れれば」
「でも、離れたら……」
フレアの熱の壁から外れるのが怖い。篠崎の目はそれも分かっている。けれど、ここにいても息ができない。
「透、付き添ってあげて」
ましろが言った。
「私たちはここにいるから。なるべく近くで、風を避けられるところ探して」
透は頷いた。
「行こう。大丈夫だ、すぐ戻る」
篠崎の肩を支え、輪から離れる。フレアの白い光が背中に刺さる。数歩歩いただけで、熱が嘘みたいに減った。
砂漠の夜の冷たさが、再び全身にまとわりつく。
篠崎の呼吸は少しずつ落ち着き始めたが、代わりに震えが強くなる。
「戻った方が……」
「もう少しだけ」
篠崎はよろよろと歩き、フレアの境界線――熱波の壁が揺らめくラインのすぐ外側で足を止めた。
その時だった。
頭上から、低い機械音が降りてきた。
ドローンが降下してきたのだ。
今までより明らかに低い高度。威嚇するような振動音。赤いランプが、夜の闇の中で明滅している。
目の前に、黒い球体の底が迫る。
「な……」
篠崎の顔から血の気が引いた。
逃げ場がない。後ろは冷たい砂漠。前は熱の壁とドローン。フレアの光が影を歪め、篠崎の体を巨大な黒い塊に見せる。
「落ち着け、篠崎!」
透は叫んだが、その声は風にかき消された。
ドローンが、短い鋭い音を鳴らす。警報とも、笑い声ともつかない機械音。光が篠崎の顔を舐める。
「来るな!」
篠崎は反射的に手を振り上げた。
握っているのは、小さな石だった。どこで拾ったのかも分からない。ただの防衛本能。襲ってくるものを払いのけたい一心で、手が動いた。
石が飛ぶ。
偶然だった。狙いなんて定まっていない。だがその偶然が、最悪の精度を持った。
石はドローンの側面に当たった。
カン、と乾いた音が夜を裂く。
次の瞬間、赤いランプが激しく明滅した。プロペラ音が変調し、一瞬だけ機体がぐらつく。
「やばっ……!」
透が篠崎を引き寄せようとした時、地面が光った。
砂が、内側から焼かれるように。
篠崎と透の足もとから少し離れた場所に、熱線のようなものが走った。フレアの光とは違う、狭く鋭い光。砂粒が一瞬だけ宙に浮かび、黒く焦げる。
そこに、文字が刻まれていく。
逃げれば罰
透は言葉を失った。
赤いランプの明滅と同期するように、一文字一文字が焼き付けられていく。まるで、石を投げた篠崎への返答みたいに。
同時に、ドローンの腹部が開いた。
今度こそ、箱が落ちる。
三つ。
立て続けに投下された箱が、少し離れた場所にばらばらと落ちた。砂を跳ね上げる音が三回。フレアの光が箱の輪郭を照らし出す。
「透!」
輪から橘の声がした。
「戻れ! 篠崎を連れて!」
透は篠崎の肩を強く抱き寄せ、フレアの熱の方へと引き返す。背中にドローンの視線を感じながら。
逃げれば罰。
その言葉が、今さら遅い脅し文句みたいに、鼓膜の奥で反響していた。
◇
三つの箱は、皆の目の前で開けられた。
一つ目には、銀色の保温シートが詰め込まれていた。アルミブランケットと似ているが、厚みが違う。数人を同時に包めるほどの大きさだ。
二つ目には、固形燃料のブロックが入っていた。ライターもマッチもないが、フレアの残り火を使えば火を起こせるだろう。
そして三つ目。
橘が蓋を開けた瞬間、空気が止まった。
中に入っていたのは、きらりと冷たく光る一本のナイフだった。
刃渡り十五センチ。折り畳みではない。握りやすいグリップ。質素だが、実用的な形。
「……何だよ、これ」
誰かがかすれ声で言った。
ましろが喉を鳴らす。
「医療用の……じゃないわね」
隼人がゆっくりと口角を上げた。
「やっと、分かりやすいおもちゃをくれたな」
透は隼人を睨んだ。
「ふざけるなよ」
「ふざけちゃいないさ。夜の冷たさから守るために、あいつは保温シートと燃料をくれた。ついでに、もっと手っ取り早く熱を集める方法も投げてきたってだけだ」
「つまり?」
「誰かを減らせば、その分、残ったやつの周りは暖かくなる。食料も、影も、水も、全部そうだったろ。ナイフは、その“論理”を分かりやすくする道具だ」
夜の冷たさは、暴力の口実を連れてくる。
その言葉が、透の頭に浮かんだ。
逃げれば罰。石を投げれば、刃物が落ちる。機械の論理は単純だ。逃げるな。争え。選べ。裁け。
橘はナイフを見下ろし、ぎゅっと拳を握った。
「これは……使わない」
「使わないで済むなら、それが一番だな」
隼人は軽く肩をすくめる。
「でもさ、もし本当に誰かが凍え死にそうになった時、そのナイフを握ってるのは誰だろうな」
その問いは、誰の胸にも刺さった。
◇
夜明け前、空がわずかに灰色を帯び始めた頃。
橘は、ひとりで砂丘の裏側にいた。
手にはナイフ。短く澄んだ刃が、夜明け前のわずかな光を反射している。
「……」
橘はしばらくそれを見つめていた。指先に伝わる重み。握るたびに、想像が膨らむ。
誰かの喉。誰かの背中。誰かの影。
橘は息を吐き、小さく首を振った。
「こんなもの、あるだけで皆おかしくなる」
彼は周囲を一度見回し、誰もいないことを確認すると、ナイフを握ったまま膝をついた。
砂を掘る。指で。爪で。冷たい砂をかき分け、小さな穴を作る。
そこに、ナイフを差し入れた。
刃が砂に埋もれて見えなくなる。グリップだけが線のように残り、それもすぐに砂で覆われた。
橘は穴をならし、足で踏み固めた。跡が残らないように、周囲と同じように波紋をつける。
「……これでいい」
彼は立ち上がり、輪の方へ戻ろうとした。
その背中を、誰かが見ていた。
砂丘の陰で、隼人が腕を組んで立っていた。
橘は気付かない。隼人の唇に浮かぶ、薄い笑みも。
◇
朝日が昇る。
白い砂漠に、再び熱が戻ってくる。フレアの跡は黒い焦げ跡になって残り、固形燃料のブロックはまだ手つかずのまま積まれている。
ナイフの話は、あえて誰の口からも出なかった。
だからこそ、最初にその場所を話題にしたのは、隼人だった。
「なあ、橘」
皆が体勢を変え、日の当たり方を調整している時。隼人はわざとらしく大きな声を出した。
「昨日のナイフ、どこやった?」
空気が固まる。
橘は一瞬だけ目を泳がせ、それを悟られまいとすぐに隼人を見返した。
「安全な場所に置いた。誰でも持てる状態にしておくわけにはいかないからな」
「安全な場所、ねえ」
隼人はニヤリと笑う。
「つまり、今それを手にしてるのはお前だけってことか?」
「そうは言ってない」
「でも、どこにあるか知ってるのは、お前と……せいぜい数人だろう? あれがあれば、夜を越えやすくなる。影の取り合いも、水の配分も、いざとなれば“整理”できる」
隼人の言葉に、数人の目がぎらりと光った。
喉の渇きと夜の寒さを経験した者には、「整理」という言葉の意味が、別の重さで響く。
「隼人、やめて」
ましろがきっぱりと言った。
「ナイフは使わないで済ませるって、昨日決めたはずでしょ」
「決めたのは誰だ? 橘か? お前か? それとも、投票でもしたか?」
隼人は肩をすくめる。
「ナイフの行方を黙ってるってことは、“情報”を独占してるってことだ。影と同じだよ。“影通貨”やった時と何が違う?」
透は橘を見た。
橘の顔には迷いと焦りと、自分への怒りが混ざっていた。ナイフを埋めたことが、今こうして別の火種になっている。
「……場所は俺が決めた。責任も俺が取る」
「その“責任”が信用できるかどうかを、確かめる方法は?」
隼人が言う。
「ナイフを持ってるやつと持ってないやつ。知ってるやつと知らないやつ。その差が、ここで一番大きな武器になる。そう思わないか?」
言葉は刃物より鋭かった。
善意で埋めたナイフが、埋めたこと自体で疑いを生む。
「橘さんは、私たちのために……」
ましろが反論しかけたが、その声を別の男の声が遮った。
「でも、正直……ナイフがどこにあるかぐらい、共有してもいいんじゃないか?」
昨夜、殴られた若い男だ。頬の腫れはまだ引いていない。
「誰か一人が持ってるより、みんなで見張れる場所に置いた方がいい。そう思う」
「そうだそうだ」
他にも賛同の声が出る。ナイフの所在は、重大な「資源」だ。隼人は、その「見えない資源」に光を当てることで、橘の立場を揺さぶっている。
気付けば、輪の中に細い線が引かれていた。
橘を中心に、透、ましろ、氷室、そしてカナが一方に立つ。彼らの表情には迷いがあるが、それでも「ナイフに頼らない」という意志が読み取れた。
反対側には、隼人と数人の男女。彼らは夜の寒さと渇きに晒されながら、現実的な計算を優先してきた顔をしている。「生きるためなら何でもする」と、目が言っていた。
「……分かりやすくなったな」
隼人が笑う。
「倫理側と実利側。どっちが正しいか、あいつに見せてやろうぜ」
「やめろ」
透が思わず一歩踏み出した。
「これはゲームじゃない」
「ゲームじゃないよ。審判だ」
隼人は空を見上げた。
頭上では、ドローンが静かに旋回している。その底面には、昨夜の衝撃の痕跡か、ほんのわずかに欠けた部分が見えた。
砂の上の文字は、朝日に照らされてくっきりと浮かび上がる。
殺せば奪える
奪えば選べる
選べば裁かれる
その下に――新しい行が刻まれていた。
裁けば進める
「……」
誰も声を出せなかった。
裁けば進める。
裁くのは誰か。進めるとは、どこへ。
オアシスか。外の世界か。それとも、もっと別の罰のステージか。
氷室が、かすかに震える声で言った。
「“進める”ってことは、どこかに“次”があるってことだ。今が最終地点じゃない」
「進みたいか?」
隼人が問いかける。
「ここで凍えて渇いて、意味もなく死ぬか。それとも、“誰かを裁く”ことで先に進むか。選べよ」
昼の熱はまだ本気を出していないのに、背筋がじわりと汗ばむ。
夜の冷たさは、確かに誰も殺さなかった。
代わりに、裁きという言葉を残して去っていった。
透は拳を握りしめた。
進むために、誰かを裁くのか。裁かないために、ここで止まるのか。
砂漠の真ん中で、二つの陣営の境界線だけが、くっきりとそこにあった。




