第2話 影の値段
第ニ日目の朝は、音から始まった。
砂を削る風の音。耳の奥で唸るドローンのプロペラ音。どこからか聞こえてくる、乾いた咳の連鎖。透はその混ざり合いの中で目を覚ました。
影が短い。
それが最初の感想だった。昨日よりも、確実に。
太陽はすでに地平線から跳ね上がり、白い砂の世界に容赦なく光を落としている。夜の冷えで強張った筋肉に、急に熱が刺さる。体が自分のものじゃないようなだるさだ。
透は上半身を起こし、周囲を見渡した。
十三人は、もう「寝ている」だけの集団ではなかった。誰もが自分の位置を気にしている。砂丘の陰にできたわずかな日陰。その形と範囲を測るように、何人もの視線がそこに向いていた。
ましろが一番早く動き出した。白い帽子のつばを指で押さえながら、立ち上がる。顔色は悪いが、目ははっきりしている。
体温管理を優先しないと、本当に誰か倒れるわよ
その声は、朝の空気よりも冷たかった。
砂丘の陰はたった一つだ。そこには昨夜のうちに決められた順番で、人が入っている。今、中にいるのはカナと、年配の男、それから氷室だ。外にいる者たちは、少しでも影に近づこうとして、足もとをじりじりと動かしていた。
しかし、影は風に弄ばれて形を変える。砂丘の斜面が風に削られ、輪郭が少しずつ歪む。そのたびに影の位置もずれる。十分もしないうちに、さっきまで日陰だった場所が、じわじわと日向に押し出されていく。
透は額の汗を拭いながら、砂に線を引いた。影の端に、小さな印を付ける。時間が経つごとに、その印から影がどれだけ離れていくかを見ていた。
十数分ごとに、影は移動する。
その事実に気付いたとたん、たまらない不安がこみ上げてきた。
橘が砂丘の上に立ち、全員を見下ろす位置で声を張った。
おい 集まってくれ。少し話し合おう
昨日よりも声が掠れている。それでも、ここで「話し合い」という言葉を出せるのは、この男だけだと透は思った。
全員が砂丘の陰と陽の境界に集まる。影にいた者も、しぶしぶ席を立った。頭上では、ドローンが軌道を変え、彼らの真上へと滑り込んでくる。
球体の底にある赤い小さなランプが、一度だけ点滅した。
ましろがちらりとそれを見上げ、眉間に皺を寄せる。
透は、まだ少し冷たい肩を回しながら、橘の近くに立った。
昨日も言ったが、体力の消耗を抑えるのが一番大事だ。日陰に入る順番を決めて、無駄に歩き回らないようにする
橘はそう言って、昨夜作った簡単な配分表を見せる。あの紙切れはもう汗と砂でよれよれになっていた。
動くたびに水を失うのよ。皮膚からも、息からも。無駄な競争をしたら一番もったいないわ
ましろが橘の言葉を補強するように続ける。医療の現場で患者に説明するような、抑えた声だった。
しかし、その言葉を鼻で笑う音がした。
隼人だ。彼は両手を頭の後ろで組み、わざと日向の真ん中に立っている。額の汗をぬぐいもせず、余裕を見せる仕草だった。
なあ そろそろ認めたらどうだ。ここにはもうひとつ、ちゃんとした価値があるってことをよ
橘が目を細める。
価値
隼人は砂丘の陰を顎で指した。
影だよ
全員の視線が、自然とそちらに引かれた。
隼人は、昨夜落ちてきた空のケースを足もとから拾い上げる。まだドローンの投下痕が残っている砂の上だ。彼はそれを軽く弾きながら言った。
ここで一番欲しいものは水だ。でも 次に欲しいのは何だ
答えは分かりきっている。沈黙がそれを示していた。
隼人は笑う。
影だよ。日陰。体温、体力。全部まとめて影の中だ。ならさ、影の持ち主を決めようぜ
持ち主 影にそんなものいないだろ
橘が食い下がると、隼人は肩をすくめる。
昨日 お前が勝手に順番を決めたよな。あれだって結局 お前の「ルール」だ。ならいっそ はっきりさせよう。影を売る。影に入る時間を、俺が決めた条件を飲んだやつにだけ売ってやる
砂の上にざわめきが走る。
ふざけないで
ましろがきっぱりと言った。
それじゃあ本当に倒れる人が出るわ。影を買えない人から順番にね
それでも 隼人の提案に、どこか惹かれている顔がいくつかあった。昨夜、寒さに震え、眠れなかった者たち。頭痛と吐き気でほとんど眠れなかった若い男が、小さく呟く。
でも もし少しだけでも長く影に入れるなら
彼の視線は、カナに向いていた。カナは膝を抱えて座り、目を細めてこちらを見ている。唇は乾いて固く、寝不足で目の下にうっすらと影があった。
体力の限界に近い者ほど、影を「買いたい」のだ。橘とましろの言う「公平」は、そういう者から見れば、ただの高望みかもしれない。
透は奥歯を噛んだ。隼人の案が危険なのは分かる。分かっているのに、喉の渇きが思考を鈍らせる。
橘はもう一度皆を見渡した。
影に値段を付けた瞬間から、俺たちは……お互いを商品として見ることになる。それがどういうことか分かるか
だが、その言葉は届きにくい。体力が削られた朝、きれい事は砂の上で滑りやすい。
隼人は空のケースを掲げた。昨日落ちてきた、何も入っていなかった箱。紙片にはまだ折り目が残っている。
従えば落ちる。従わなければ 落とさせる。昨日 分かったろ。あのドローンは こっちの様子を見てる。ルールを作れば、それに反応する。だったら ルールを作ったもん勝ちだ
従えば落ちる。従わなければ落とさせる。
その言葉が、砂漠の空気にゆっくりと染み込んでいくのを、透ははっきり感じた。
ましろは唇を噛み、橘は拳を握りしめる。だが、それでも隼人の案を完全に否定できない。現実に、影は足りないのだ。
結局、妥協の形で「影の持ち主」が決まった。隼人と橘、二人の名前が挙がる。橘は最後まで渋ったが、彼がいなければ隼人の独裁になるだけだ。ましろも、せめて監視役が必要だと説得した。
日陰に入る時間は一人十五分。入りたい者は、隼人か橘の出す条件を飲まなければならない。条件の内容はまだ曖昧だったが、すでにそれだけで空気が変わってしまった。
影は通貨になった。
その瞬間から、人は影に列を作り始めた。
◇
正午が迫るにつれ、熱はさらに増していった。
影待ちの列は、砂丘の斜面に沿ってゆるやかに伸びている。先頭には若い女の子が二人、その後ろに中年の男が三人。そして少し離れて、篠崎が座り込んでいた。
篠崎は、眼鏡をかけた痩せ型の青年だ。昨夜から咳が多く、胸を押さえる仕草が目立っていた。ましろによれば、元々持病があるらしい。呼吸器の問題かもしれない、と。
なあ 篠崎。大丈夫か
透が声をかけると、篠崎は薄く笑った。
大丈夫じゃないから 並んでるんだよ
冗談めかした言い方だが、額の汗は冗談ではなかった。息は浅く早い。立ち上がるたびに、膝が震えている。
列の一番前では、隼人が腕を組んで立っていた。その隣には橘。ふたりは「影の入口」の門番のように見える。
途中から、隼人の「条件」は具体的になっていった。
ペットボトル持ってるやつ。一番に影に入らせてやるから 代わりに中身を見せろ
持ち物を見せろ。情報を教えろ。誰と誰が知り合いか言え。昨日、誰が一番多く水を飲んだか知ってるか。
条件の中身はバラバラで、時にくだらなささえあったが、そのどれもが「差」を作るための質問だった。誰よりも弱いか。誰よりも強いか。誰よりも嫌われているか。そういう差を。
疲れた者ほど、低い要求を飲んでしまう。影に入るためならと、プライドを削っていく。
橘はなるべく「負債にならない条件」を出そうとしていた。日陰に入るための対価として、砂を運ぶ手伝いや、周囲の見張り、簡単な作業を提案する。それでも、影を決めるのは隼人だ。橘の言葉は、時々さえぎられた。
そのうち、隼人は列の後ろの方を見て言った。
おい 篠崎。お前 そろそろやばいんじゃないか
篠崎は顔を上げる。唇は紫がかっている。透は慌てて肩を貸し、彼を支えた。
こっち来いよ。順番を少し繰り上げてやってもいいぜ
隼人の声は妙に優しげだった。しかし次の瞬間、彼は指を一本立てる。
ただし 条件がある
嫌な予感がした。透は反射的に身構える。
隼人は昨日の空ケースをまた掲げてみせた。
昨日 俺たちが喧嘩した時にこれが落ちた。つまり ドローンは俺たちの「熱」に反応するらしい。争い 暴力 緊張 そういうのにな
何が言いたい
透が問うと、隼人はにやりと笑う。
簡単な話だ。俺は「影を売る」。お前らは「感情を売る」。怒鳴り合いでも殴り合いでもいい。ドローンに見せつけるような劇をしてくれたら 影に入れる
冗談じゃない
橘が即座に制した。
そんなことを続けたら、本当に誰かが……
倒れるか。だからこそ 面白いだろ
その時、頭上のドローンの赤いランプが一度点滅した。まるで隼人の言葉を肯定するように。
透は背筋が冷えた。だが同時に、喉の奥の渇きが、冷静さを削り取っていく。
篠崎の肩が透の手の中で軽く揺れた。
ごほ ごほっ
咳がひどい。砂を吸い込んだせいで、さらに悪化しているのだろう。ましろが慌てて駆け寄り、胸元を緩めた。
これ以上 日に当てたら本当に危ないわ。影に入れないと
でも 影の順番は
橘が言いかけた時だ。頭上で低い爆ぜるような音がした。
ゴンッ
また、ケースが落ちた。
皆の頭上で、ドローンが少し高度を下げ、中腹から小さな金属箱を吐き出すようにして落とした。箱は砂にめり込み、ほんの少しだけ砂煙を上げる。
一瞬、誰も動けなかった。
篠崎の目だけが、その箱に釘付けになっていた。
透は無意識に、篠崎の体を支えたまま前へ出る。隼人も、橘も、同時に動いた。
ケースを開けると、また小さな紙片が一枚。
確認
透は歯ぎしりしたくなった。
確認。何を。何の。誰の。
いつも同じ文字。だが、落ちてくるタイミングだけが違う。そのたびに、全員の心が試されている。
ちくしょう
隼人が舌打ちする。その顔には苛立ちが浮かんでいた。自分の「演出」に対して、箱が中身を持っていないことへの不満。あるいは、自分でも制御できない何かへの苛立ち。
その一瞬。
篠崎が、隼人の襟首を掴んだ。
お前がやらせてるんだろ こんなの
声はかすれているのに、怒りだけははっきりと伝わる。篠崎の指は細いが力がこもっていた。
ぐっ
隼人の体がわずかによろける。周囲が息をのむ。透は慌てて間に入ろうとしたが、その前に篠崎は言葉を吐き出した。
影を売るだの 感情を売るだの そんなの全部 お前のためのルールだろ。昨日からずっと お前だけが楽しそうにしてる
隼人の目が細くなった。
楽しそう 俺が
ああ 楽しそうだ。人を並ばせて 選んで 落ちてくる箱を眺めて。お前 自分が何のつもりでここにいるか忘れてないか
篠崎の声は最後の方で途切れた。言葉よりも、息が先に切れる。
おい 落ち着け
橘が割って入ろうとしたが、その瞬間、頭上のドローンのプロペラ音が変わった。低く唸り、旋回速度が上がる。赤いランプが、これまでにない速さで点滅し始めた。
氷室が青ざめた顔でつぶやく。
争いの密度に 反応してる
透は意味を飲み込む。昨日よりも強い怒り。昨日よりも多い人数。昨日よりも深く絡み合った感情のぶつかり合い。それらが「密度」と呼べるものに形を与えているのだとしたら。
ドローンは、それを見ている。
次の瞬間、小さな影が彼らの真上を横切った。
またケースだ。だが、さっきよりも大きい。
箱は三メートルほど離れた場所に落ちた。砂が大きく跳ねる。全員の視線がそちらに向かう。誰かが駆け出し、誰かが止めようとして転ぶ。
争いになりかけたところで、橘が大声を上げた。
待て まず中身を確認する。順番はあとだ
さすがにその声には重みがあった。皆の足が止まる。
橘が膝をつき、慎重に蓋を開ける。中には、小さな小瓶が一本だけ入っていた。透明な液体が、太陽の光を受けてきらりと光る。
水だ
誰かが呟いた。
氷室が首を振る。
いや これ 普通の水じゃない。ラベルに電解質って書いてある。スポーツドリンクの濃縮みたいなやつだ
そんなことはどうでもよかった。ただの水だろうが何だろうが、とにかく「飲める液体」であることに変わりはない。
喉が鳴る音が、いくつもいくつも重なった。
隼人は舌の裏で何かを噛むようにしていた。悔しさと、わずかな興奮が入り混じった顔。自分の提案が、ようやく「当たり」を引いたような感覚があるのだろう。
橘はその瓶を持ったまま、皆の顔を見回した。
篠崎に飲ませる
理由は説明するまでもない。今 一番危ないのは篠崎だ。誰もがそれを分かっていた。さっき隼人の襟首を掴んだことで体力をさらに消耗し、今は透の肩に完全に預けた形で立っている。
だが、その一番分かりきった正しさの前で、隼人の目だけが冷たかった。
本当に それでいいのか
隼人が言う。
この一滴は貴重だぞ。これを飲めば そいつは少しは楽になる。でも 他の誰かが今夜 倒れるかもしれない。公平に分けるっていうなら せめて……
橘の目が鋭くなった。
隼人
透は、隼人の言葉が最後まで聞きたくなかった。頭の中で、昨日の文字がよみがえる。
殺せば奪える
奪えば生きられる
今、手の中にあるのは、殺す代わりに奪えた一滴か。それとも、まだ誰のものでもない希望か。
透は篠崎の顔を見た。
彼の唇はひび割れ、目は焦点を失いかけている。あのまま日向に置いておけば、文字通り死に近づいていくだろう。それでも「公平」を守るべきなのか。
ましろが一歩前に出た。
私は医療従事者として言うわ。この一滴は 今 一番危険な状態にある人に使うべきよ。そうしないと 私は自分を許せない
その言葉には迷いがなかった。彼女は、自分の中のルールを曲げない。
橘は小さく頷いた。そして瓶を透に差し出す。
透 お前が飲ませろ
透は受け取った。掌に触れたガラスが、ひどく冷たく感じられた。
選んだな
隼人の低い声が耳に刺さる。
誰を 生かして 誰を捨てるか。お前が一滴で線を引いた
透の胸の奥で何かがざわりと動いた。だが、それでも手は止まらなかった。
篠崎。少し 口開けてくれ
透はしゃがみ込み、慎重に瓶の口を篠崎の唇に当てる。ごく少しだけ傾ける。透明な液体が、一筋の光のように流れ落ちる。喉が反射的に動き、篠崎の体がびくりと震えた。
ごく ごく
ほんの数滴しかない。それでも、喉を通る感触は確かに生の感覚を連れてきた。篠崎の目に、ゆっくりと焦点が戻る。
ああ……
かすれた声が漏れた。
ありがとう
その一言が、透の胸に刺さる。感謝というより、告解のように聞こえた。
瓶はほとんど空になっていた。唇に残ったしずくを、篠崎は舌で拾うようにして飲み込む。
透は立ち上がったとき、自分の手が小刻みに震えているのに気付いた。
隼人は冷たい目のまま、透を見つめていた。
なあ 透
何だよ
お前 今 はっきり分かっただろ
何を
隼人は空になった瓶を指さす。
選ぶってのは こういうことだ。水をやったやつも もらったやつも そうじゃないやつも。全員が お前を見てる
周りを見渡すと、本当にその通りだった。
カナが透を見ている。氷室が見ている。ましろも、橘も。名前もまだ覚えていない何人かも、それぞれに違う感情を宿した目で、透の背中を追っていた。
感謝か。羨望か。不満か。恐怖か。
全部ひっくるめて、「選んだ責任」という形で透の肩にのしかかってくる。
夜になったら 文字がまた変わるぞ
隼人がぽつりと呟いた。
殺せば奪える。奪えば生きられる。その次は何だろうな
言葉の端に、うっすらとした期待が滲んでいる。ゲームの展開を楽しむ観客のような目だった。
◇
夕刻。太陽は少しずつ傾き、影は再び伸び始めた。
しかし「影の競売」は止まらなかった。むしろ熱は増している。涼しくなるはずの時間帯なのに、人々の声は昼よりも鋭かった。
影に入る順番を巡って、軽い押し合いが起こる。足がもつれて転ぶ者が出る。罵声が飛ぶ。ちょっとした行き違いが、すぐに大げんかに繋がりそうになる。
隼人はそのすべてを「条件」に利用した。
さっきあいつに文句言ったよな。その続き ここでやれよ。派手にやってくれたら影に入れてやる
俺に向かって正直なこと言えよ。お前らの中で 誰を一番最初に切り捨てたいか
口げんかはやがて手に変わる。押し合い。突き飛ばし。そのうち、本物の殴打が起きた。
乾いた音が砂漠に響いた。
若い男の頬に、別の男の拳がめり込む。砂が舞い、血が飛ぶ。殴った方も手の甲を押さえてうめいた。
血だ
カナが小さく叫んだ。
真っ白な砂の上に、赤い点がぽつんと落ちる。すぐに砂が吸い込むが、その色はしばらく残った。
その瞬間、頭上のドローンが急に静かになった。プロペラ音が抑えられ、代わりに内部から低い機械音が響く。
透は反射的に空を見上げた。
次の箱だ
声に出してしまった。
ドローンの底部が開く。今度は先ほどよりも小さなケースが二つ、ほとんど同時に落ちてきた。
一つは日向側に。一つは砂丘の陰に。
ばらけた
氷室が呟く。
さっきの殴打で集団の重心がばらけたからか。あるいは、別の条件か。分からない。ただ、箱は確実に「争いの後」に落ちている。
日向側に落ちた箱の方に、隼人が走った。陰側の箱には、透と橘が向かう。
隼人が先に蓋を開ける。期待で目がわずかに輝いていた。
中身は、何もなかった。
空の水筒一本と、また同じ紙片だけ。
確認
隼人の口元がぴくりと歪む。悔しさと、どこか楽しげな感情が混ざった、不気味な表情だった。
一方、透が開けた箱の中には、また小瓶が一本だけ入っていた。今度も少量の電解質水。前回よりもさらに少ないように見える。
誰に 飲ませる
橘が問う。
透は篠崎を見る。彼は先ほどよりは少しマシになった顔色で、しかしまだ地面に座り込んでいた。先ほどの一滴では足りないのは明らかだ。
それと同時に、さっき殴られた若い男が頬を押さえてうずくまっているのが目に入る。口の中から血がにじみ、吐き出された唾に赤い色が混じっていた。
ましろがその男のもとへ駆け寄り、様子を確認する。
骨は折れてなさそう。でも 失神しかけてる。脱水も併発してるわ
透の手にある瓶が、一気に重くなる。
選択のたびに、瓶は重くなる。
隼人が笑いもせずに見ていた。
また お前が選ぶんだな
透は唇を結んだ。
これは……
言葉を探して、見つからない。
すると、橘が静かに口を開いた。
今度は 俺が決める
透は意外そうに橘を見た。橘は瓶を受け取り、ゆっくりと篠崎と殴られた男の中間に立つ。
二人に少しずつ分ける
そんな 中途半端なことをしたら
隼人が口を挟もうとしたが、橘は続けた。
少しずつでも 点滴みたいに続ければ 効果はある。これはルールじゃない。俺個人の責任だ。文句があるなら 俺に言え
橘はそう言って、まず殴られた男の唇に瓶を傾けた。ほんのわずか一滴。次に篠崎にも同じ量を飲ませる。
透はその光景を見ながら、自分の胸の中にも何かが分配される感覚を覚えた。
罪悪感と安堵。
全部をひとりに渡すより、少し楽になる。だが、その分、「誰かを完全に救う」という明確な線は消える。
曖昧さは、時に救いであり、時に呪いだ。
◇
夜が来た。
風は昼よりも強くなり、砂丘の形を少しずつ削っていく。影は広がったが、冷えが骨に刺さるようだった。アルミブランケットは相変わらず一枚しかない。誰かが持っていれば、誰かは震える。
その震えの中で、人々は期待と恐怖を混ぜ合わせた視線で砂の文字を見つめていた。
氷室が月明かりの下で、指でなぞりながら読み上げる。
殺せば奪える
奪えば選べる
その瞬間、透の背筋に冷たいものが走った。
昨日は「奪えば生きられる」だった。今日は「奪えば選べる」。
生きることよりも前に、「選ぶ」という言葉が来ている。
誰が 選ぶんだ
透が思わず呟く。
隼人が静かに笑った。
当たり前だろ。選ぶのは いつだって 人間だ
その言い方には、どこか自分自身を含めた開き直りがあった。責任を喜んで引き受けているような、歪んだ覚悟。
透は喉に手を当てた。砂漠の乾いた空気の中で、喉は相変わらず焼けている。昼間、篠崎に水を飲ませたときよりも、今の方がきつく感じた。
選ぶのは 誰だ。
水を飲むのは 誰だ。影に入るのは 誰だ。箱を開けるのは 誰だ。ルールを決めるのは 誰だ。
頭上では、ドローンが相変わらず一定の距離を保ちながら、ゆっくりと旋回を続けていた。赤いランプは今は消えている。眠っているようにも見える。
だが間違いなく、あの黒い球体は見ている。
影の動きも。人の列も。殴られた頬の赤さも。喉を鳴らす音も。小瓶の中を流れる一滴の行方も。
すべてを、どこかで数えている。
透は目を閉じた。
明日 誰が影を買い、誰が売られるのか。
その時 自分はどちら側に立っているのか。
眠れない夜が、また始まろうとしていた。




