大塩平八郎は民主主義の夢を見るか?
大塩平八郎は民主主義の夢を見るか?
1844年1月13日、呂宋条約締結。
講和が発効し、日英仏の戦争状態(アヘン戦争)は終了した。
イギリスは戦争には勝ったものの勝ち取った領土はマレー半島に留まり、治外法権を10年間の時限措置で日本に認めさせただけに終わった。
途中から戦争に参加したフランスはスマトラ島の北半部を得て、アジアに拠点を得たと喜び勇んだが、スマトラ島北部のアチェにはイスラム王国があり、難治の土地として日本も持て余していた土地である。
不良債権を押し付けられたと言ってもいい。
イギリスの国家財政は破綻寸前であり、積み上がった戦時国債と18万人の死傷者を考えると、とても勝利とは言えなかった。
以後、英仏は日本との衝突を慎重に避けるようになる。
「勝利には程遠い」
戦後に無益な戦争の責任を問われたイギリスのパーマーストン外相が漏らした言葉が全てを物語っていた。
とはいえ、それは英仏からの視点で戦争を俯瞰した場合の話であり、日本人の側は全くそうは考えていなかった。
戦国以来の大規模戦争。
そして、敗戦。
国家存亡の危機である。
イギリスやフランスのインドやアフリカ支配の実態を正確に知っていた多くの日本人が、
「次は俺達の番か」
と考えたのである。
イギリスは軍事力を背景に清に開国を迫り、1846年に南京条約を締結。5箇所の開港地を設けさせ、付帯条項で治外法権と協定関税(関税自主権喪失)を認めさせた。
フランスやアメリカ、ロシアといった国々も清に不平等条約を押し付けた。
このような屈辱的な条約を清が飲み込んだのは、アヘン戦争で示された列強国の軍事力に太刀打ちできないという冷静な判断がある。
清朝は広大な中華世界の中で退廃を貪っていたが、近隣で勃発した大規模戦争に全く無関心であるというわけではなかった。
シンガポールにも密偵を送って、日本と英仏の容赦のない大戦争をつぶさに調べ上げ、そして大国の戦争に腰を抜かしていたのである。
清がイギリスとの対決を避けたのは賢明であったといえよう。
また、アヘンの取締を強化し、日本の二の舞になることを避けることができた。
赤道を超えて膨張した日本が欧米列強の矢面に立ったことで、清朝は幾ばくかの猶予を得ることができたといえる。
問題は、矢面に立っている日本であり、特に一般庶民にとっては莫大な戦時国債返済のための大増税は大きな負担であった。
さらに星州 (シンガポール)で自沈した海軍主力艦隊の再建も待ったなしであり、軍拡のためには増税が必要だった。
その増税を武士や寺社、公家は特権により免れていたから、体制への不満と不安が同時に吹き荒れるのは当然であった。
敗戦で権威を失墜した幕府は大きく動揺し、新たに内閣総理奉行となった滝川正弘はこの国難を乗り切るため、朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募った。
それが却って無策を露見させる結果となり、ますます幕府の権威を失墜させた。
人々が、真剣に国家のあり方を考えなければならない時が来たのだった。
そうした動きを加速させたのが、憲法問題であった。
日本は呂宋条約で10年間の時限措置で治外法権を認めたが、これは日本の法体制があまりにも旧態依然であることを日本も認めざるえなかったからである。
10両盗んだだけで死罪というのは流石に古すぎた。
10両を現代の貨幣価値に換算すれば、140~150万円程度である。これで死刑というのは明らかに過剰であった。
一時的に治外法権を認め、10年間の間に近代的な法整備を行って治外法権を解消させる予定であったが、そのための法整備に欠かせないのが憲法であった。
憲法とは国家の基本法である。
憲法がなければ、その下部構造である法律も何もあったものではない。
あらゆる法律は憲法には反してならないし、地方自治体の制定する条例も同様である。これは法学の常識であり、違憲の法律は無効である。
故に、憲法問題であった。
どのような憲法をつくるのか、国家のあり方をどのように規定するのか、人民の権利はどうなるのか、人々が論争の場としたのはカフェやビアホールといったサロンだった。
長い長い喫茶文化を持つ日本人は、西洋からコーヒーやビールも受け入れていたが、ついでにジャン=ジャック・ルソーの社会契約論も受け入れ、アダム・スミスの国富論も取り入れ、権利の章典やアメリカ独立宣言もきちんと知っていた。
自由主義や民主主義、人権といった言葉もすでに浸透して久しい。
イギリスにある議会制民主主義やアメリカ合衆国の大統領制度や大統領選挙についても、十分な知識があった。
もはや、自分たちの生きる社会が金銭を媒介とした資本主義で動いており、大名家とは地方にある家族経営の行政府でしかないことも自覚していた。
織田将軍家も同じだった。
そして、それらは腐敗しきっていた。
十一代将軍織田信斉が始めた賄賂政治は、代替わりで公式には否定されていたが、賄賂の禁止は上辺だけのことで、役人は汚職にまみれていた。
アヘン戦争を経てもなお、禁止されたアヘンが普通に道端で売っているのである。
役人は取り締まるどころか、アヘンの売人から金を受け取って、懐に入れていた。
役人にも一応、言い分があった。
あまりにも給料が、安すぎるのである。
武士の給料はさすがに米の現物支給ではなくなっていたが、その給金の根本は所領でとれる米を基礎にしており、産業革命を経た日本においては生活をしていく上でまるで足りない。
信斉の賄賂政治は、武士の困窮に対する一つの対応策であった。
奉行所務めの下級武士は賄賂がなければ生活すらできないのである。特に物価の高い大阪や横浜のような大都市ではそうだった。
そして、それを罰することは、彼らに飢えて死ねと命じるに等しかった。
これは武士を土地に封じる封建制度の論理的な帰結であり、鎌倉以来700年続いた長い長い武士の時代の終わりを示すものだった。
どれだけ綱紀を粛正しようとどうにもならない。
法を守って死ぬか、生きるために法を破るか、二者択一だった。
これをどうにかするには、武士と封建制度を抜本的に変えるしかない。
アヘン戦争を経て、日本国内で急速に革命の機運が高まっていくのは、大増税に対する社会的な不満の爆発や、国防体制の危機という要素もあったが、封建制度の限界という要素が大きかった。
腐り果てた大木が、ある日、突然倒れるように、それは起きてしまった。
大塩平八郎の乱である。
1848年5月1日、早朝、大阪の町並みに突如として白装束集団が現れた。
自らの誠心と死を賭した諫言のため全身を白く染めた羽那波衆と名乗る集団は、高度に武装された戦闘集団であり、何ら抵抗を受けることなく大坂町奉行を占領。
民衆に蜂起を呼びかけ、奉行所にあった武器庫や金庫を解放し、金と武器を集まった民衆に配り始めた。
減税と賃上げを求める非合法労働組合のデモ行進や街宣活動が連日、大阪で行われており、奉行所はその鎮圧のために武器弾薬を蓄えていたことが逆に仇となったのである。
反乱を首謀した大塩平八郎は、
「天命を奉じ天誅を致すものである」
と檄文を大阪の新聞各紙に送りつけ、日本全国に号外が飛んだ。
号外を読んだ人々は、大変なことが起きたと衝撃を受け、
同時に、
「大塩平八郎とは何者か?」
と疑問に思った。
大塩平八郎は、新聞報道以前は全く無名の人物だったのである。
大塩は1793年に生まれた。時代は織田定信の御世であり、奇しくもフランス革命の年であった。
大塩の家系は大坂町奉行所に務める与力の家であり、町奉行所時代には数々の犯罪捜査を携わり、大いに活躍した。
清廉潔白な定信時代に、大塩は町奉行所で内部告発を行って、奉行所に蔓延っていた汚職を一層し、町奉行所にその人ありと大いに信頼されていたのである。
だが、賄賂を公認する信斉の時代になると根っからの正義漢であった大塩は、同僚や上司から疎まれ、町奉行所を追放された。
大塩は奉行所時代に独学で儒学(陽明学)を修め、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念。自宅に開いた私塾・洗心洞で子弟を指導した。
そんな大塩は、天葆の大飢饉に際して貧民救済に奔走した。
1833年秋から、1835~1837年にかけて大雨と冷害、さらにジャガイモの記録的な不作によって発生した天葆の大飢饉は、日本最大飢饉の一つに数えられる。
大阪には食料を求めて大量の流民が殺到した。
産業革命の進展により、日本は人口爆発を迎えたが、食料も行政処理能力も全く不足していた上に、汚職の蔓延によってお救い小屋の配給食料が闇から闇へと消えた。
義憤に駆られた大塩は、私財を投げ売って食料を買い集めて配給し、移民船を用意して、多くの人々を海外へ送り出した。
日本にいたら死ぬしかない人々を新天地に導くことで、大塩は救済を図ったのである。
天葆の大飢饉に際して日本を離れた日本人の数は350万人に上り、その中の一人に大塩もいた。
赤道を越えて大蘭州北西部の田植院港に入った大塩と移民船団は、他の移民者達と共に荒れ地を開墾して畑をつくり、農地を広げて植民地を建設した。
田植院は入植地としては安定しておらず、これまで幾度も入植と撤退を繰り返した土地であったが、大塩は現地人と良好な関係を築くことで、入植を成功に導いた。
大塩は田植院でも私塾を開き、アボリジニに陽明学を教えながら交流を深め、ブーメランの作り方などを教えてもらったという。
過酷な大蘭州の自然には苦しめられたが、彼方まで続く広大な土地は大阪のような都市生活に慣れた大塩に深い感銘を与えたとされる。
だが、大塩にとって幸せな日々は長く続かず、アヘン戦争が勃発すると蘭州の近海にもイギリス海軍のフリゲートが出没するようになった。
イギリス軍の上陸もあり得るとして組織されたのが、入植者の自衛組織である羽那波衆である。
幸いなことにイギリス軍の上陸はなかったが、それ以上に入植者を苦しめたのが本国からの税金徴収であった。
移民事業を推し進めた八代将軍織田吉信の代より、入植者の初代は免税の特権があった。
生計を立てる術に乏しい初期の入植者が生活に困らないようにするための措置である。
田植院の入植者は皆入植したばかりであり、とても税を納められる状況ではなかった。
それでも、戦時中は祖国防衛のためと思って耐え忍び戦時納税に協力してきたが、戦争は敗戦に終わり、しかも敗戦後も納税の継続を求められた。
田植院の入植者の不満が爆発するのは当然のことであり、直訴のために大塩は大阪に戻ったのである。
だが、帰国した大塩が見たのは敗戦後もアヘンに溺れ、汚職に勤しむ腐敗しきった幕府の姿であり、正義漢であった大塩にとって到底許せるものではなかった。
それでも幕府への直訴を試みた大塩であったが、門前払いをされ全く相手にされなかった。
ここに至っては、もはや一死を以て公儀に諫言するしかないと覚悟を決めた大塩は、新たな故郷となった田植院から羽那波衆を呼び寄せ、決起の算段を整えた。
なお、羽那波衆の多くは大塩の門弟であり、大塩のことを心酔するものばかりであったことから、決起に反対するものは一人もなかった。
本国から過酷な税の取り立てを行う公儀に一泡吹かせたいというのは、入植者であれば誰もが一度は思い描き、そして胸のうちに秘め止めておく甘い夢であった。
移民の多くは貧しく、本国で暮らせぬ見捨てられた民である。
それが武装して大阪城に攻め上るというのは、驚天動地の出来事であり、和漢比類なき壮挙であった。
そして、それは思いの外あっけなく、成功した。
大阪町奉行所を占領した大塩軍は、民衆と共に大阪城に攻め込んだが、将軍織田信慶は既に京都へ逃亡した後だった。
将軍の逃亡は極秘事項であったが、その日のうちには大阪城中に知られることになり、防戦に当たっていた兵士が職務を放棄したため落城となった。
初代織田信長が築いた天下無双の城は、僅か1日で落城したのである。
これによって織田将軍家の権威は失墜した。
日本の歴史上、民衆の武装蜂起によって貴人が城を追われることなど、ただ一度もなかったことである。
三好三人衆による足利将軍の殺害や加賀の一向一揆といった事例もなくはないが、武家の棟梁に民衆が反旗を翻したということは、これまでなかった。
しかし、これは大塩にとって誤算であった。
大塩としては、大阪城を占拠した上で信慶に改革断行を迫り、自らは天下静謐を乱した謀反人として死を賜る予定だった。
同志の羽那波衆もこのことは予想外だった。
全員が白装束なのは最初から死を覚悟した上でのことであり、まさか将軍が城を捨てて逃げるとは思っていなかった。
大塩と同様に死を以て君主に諫言することが目的であり、民衆革命など微塵も考えていなかったのである。
だが、後から大塩軍に参加した民衆にとっては、まさに大塩は民衆革命の指導者であり、フランス革命のロベスピエールであった。
民衆が自分にロベスピエールの役を求めていると知ると、大塩は驚愕した。
典型的な儒学者である大塩にとって、革命で権力を簒奪して君主を殺害するなど、全く考慮の外であり、逆賊の所業であった。
大塩は明らかに民衆の熱量を見誤っていた。
1848年といえば、ヨーロッパでは諸国民の春として、相次いで自由を求める民衆の蜂起が起きた年である。
イタリア、フランス、オーストリアで革命が起き、オーストリアでは名宰相であったメッテルニヒが辞職し、亡命する騒ぎとなった。
当然のことながら、そうした情報は日本にも入ってきており、新聞報道によって大阪町民にも知れ渡っていた。
「次は、自分たちが」
という意識がどこかにあったのである。
あとはきっかけさえあれば、状況は雪だるま式に膨れ上がった。
京都に逃亡した信慶は陸軍に鎮圧を命じたが、岸和田の第1師団は大阪が地元であるため、兵士の多くが近親者や友人に銃を向けることを拒み、出動を拒否した。
配置についた部隊も大塩軍に説得され合流する始末で、却って大塩軍の戦力が増強される始末であった。
激怒した信慶は第1師団師団長近藤重蔵を処分しようしたが、理不尽な命令に反発した部下がさらに大塩軍に参加する流れを作っただけだった。
海軍は艦隊を大阪湾に送ったが、海兵隊の上陸は時期尚早として拒否してきた。
アヘン戦争の余燼もくすぶる1848年である。
海兵隊はマレー半島のジャングルでイギリス軍を相手に持ち場を死守して、多くの戦友を失った地獄からの生還者であり、さっさと城を捨てて逃げた将軍の命令など聞けるものではなかった。
名古屋の第3師団、広島の第5師団が動員されたが、首都大阪は大塩軍によって封鎖されており、遠巻きに囲むしかできることがなかった。
人口100万人の大都市での全面戦争など日本陸軍は全く想定しておらず、一体どれだけの巻き添えがでるのか検討もつかなかった。
京都の二条城に落ち着いた信慶は戦火の拡大を恐れる公家衆からの圧力もあって、大塩軍との交渉に同意せざるえなくなった。
交渉に際して大塩が提示したのは、以下の改革案であった。
1 大政奉還
2 上下両院の設置による議会政治
3 有能な人材の政治への登用
4 不平等条約の改定
5 憲法制定
6 軍事力の増強
7 完全な徴兵制軍隊の設置
8 身分に依らない公平な税制
大塩の改革案は、その後、殆どが実現する画期的なものであった。
蘭州からの船旅の合間に、羽那波衆の同志と立案したことから船中八策とも呼ばれる。
だが、この改革案は保守派からは全く受け入れられるものではなかった。
とくに8番目の身分に依らない公平な税制は、武士や公家、寺社の免税特権を奪うものであり、大土地所有者である大名にとっては、土地税の支払いで破産せよというものであった。
大名や公家衆は民衆蜂起による革命を極端に忌避するものが多く、大塩の改革案を少しでも認めれば、それが蟻の一穴となって旧来の権威、即ち朝廷まで否定されるのではないかと恐れていた。
敬虔な儒学者であった大塩にその意図は全くなかったのだが、日本初の民衆蜂起に保守派は拒絶反応を示し、交渉の打ち切りを信慶に求めた。
信慶もまた大政奉還は受け入れられないとして、交渉を打ち切って反乱鎮圧に乗り出した。
反乱鎮圧に用いられたのは幕府常設の陸海軍ではなく、大名の軍隊だった。
信慶は陸海軍に不信感をつのらせており、旧来の武士の軍隊を用いることにしたのだった。
地方から集められた武士の軍は幕府陸軍が見たら噴飯モノの有様で、東北から来た大名の軍勢には甲冑を来た鎧武者が混じっていた。
鎮圧軍の主力となった柴田軍や滝川軍はそれよりも多少マシだったが、第1師団の造反者が混じった大塩軍を相手に大苦戦に陥った。
武士の軍隊が、民衆の反乱軍を相手に負けることなど許されることではなかった。
だが、現実は如何ともし難く、バリケードの隙間からライフル銃で狙撃してくる大塩軍に柴田軍は大敗し、滝川軍は当主滝川和益が狙撃され死亡した。
蘭州の広大な大地でカンガルーや野うさぎを狩って生活の足しにしてきた羽那波衆は、狙撃の名手が揃っており、300m先から馬上の滝川を仕留めている。
大塩軍を鎮圧したのは、途中から戦闘に参加した第3,第5師団であり、彼らは大砲でバリケードを吹き飛ばして大阪城へ進軍した。
大塩軍は大阪城に立て籠もり鎮圧軍と対峙したが、大塩は自身の切腹と引き換えに反乱に参加したものを助命することを条件に軍を解散させた。
大塩の切腹は、1848年10月2日のことである。
主君である信慶に、「定説では」で始まる国家改革の必要性を訴える遺言書をしたためた大塩は、息子の格之助と共に割腹して果てた。
こうして日本初の民衆革命は潰えたのである。
ヨーロッパでも民衆革命は夏までに反動勢力によって鎮圧されており、1848年の蜂起は旧体制を動揺させたものの倒すには至らなかった。
また、大塩の乱は必ずしも民衆革命を目指したものではなく、主君を諫言し、上からの改革を促すものであった。
大塩は京都に逃亡した信慶を最後まで主君として扱っており、遺言書も家臣として主君に諫言する形式をとっている。
しかし、大塩と行動を共にした民衆が目指したものは革命であった。
乱によって発生した武士と民衆の戦いは、もはや武士が武力を独占する時代が終わっていることを天下に知らしめることになった。
そして、勝利したはずの旧体制の命運も尽きようとしていた。
1848年10月17日、本能寺ホテルは旧体制の象徴と共に炎に包まれることになった。
本能寺は京都における織田家の宿泊地となっており、240年後には跡地にホテルが建てられ京都に逃亡した信慶も宿泊に利用していた。
そこを明智光英率いる12,000の軍が突如として急襲。
逃亡は不可能と悟った信慶はホテルに火を放ち自害した。
さらに明智軍は京の織田家の拠点である二条城を攻め落とし、二条城と共に信慶嫡男の信定も落命した。
織田将軍家は当主と後継者を同時に失うという悲運にまみれた。
京を制圧した明智光英は新政の開始を宣言。
これは日本全国の大名に対する宣戦布告であった。
本能寺戦争の始まりである。




