芥子の実畑でつかまえて
芥子の実畑でつかまえて
1820年代の日本は栄光に包まれていた。
ナポレオン戦争では勝者の列に加わり、西太平洋に広大な領土を得た。
また、ヨーロッパが戦争にかまけている間に莫大な貿易黒字を溜め込み、経済の拡大に成功したのである。
ナポレオン戦争が終わっても日本経済の拡大基調は続いた。
戦争特需で十分な資本を溜め込んだ日本は産業革命に突入していったのである。
日本で最初に蒸気機関を導入したのは、産業先進地である横浜であった。
関東では毛織物や絹織物産業が盛んで、水力による紡績が行われており、これを蒸気力で置き換える形で蒸気機関の普及が進んだ。
日本各地の鉱山にも蒸気機関を使用した排水ポンプが導入され、いくつかの鉱山では機械力の使用により、人力では考えられない規模での採掘が可能となった。
蒸気機関製造に必要な鉄も、釜石に大規模な製鉄所が建設され、安定して大量供給されるようになっていった。
工業生産への蒸気機関の導入は急速に進んだが、それ以上に重視されたのが蒸気動力の船であった。
既にイギリスではロバート・フルトンが1807年にハドソン川で外輪型蒸気船の航行に成功し、実用化に成功していた。
日本の外輪型蒸気船の第1号は1822年に横須賀で建造された観光丸である。
観光丸は小型で沿岸向けの船であり、主な用途は曳船であった。
曳船とは港などで船を出し入れする小型船である。
当時、日本の帆船建造技術は世界最高水準に達しており、多数の高速帆船を建造するに至っていた。
オダ・クリッパーと呼ばれる流麗な船体をもつ高速帆船は、風の状態がよければ20ktを超えることもあり、ジャワ島の茶や日本の陶磁器を大量にヨーロッパへ運んでいた。
だが、高速を追求したことで舵の効きが鈍く、低速時の応答性が悪かった。特に港から出るのは一苦労であり、座礁や衝突事故も多かった。
そこで蒸気動力による曳船がオダ・クリッパーの出港を支えたのである。
また、オダ・クリッパーに蒸気機関を追加した汽走船も多数建造された。
これは赤道の無風地帯を突破して、蘭州(大蘭大陸)に向かう航路へ集中的に投入された。
普段は帆走し、風が弱いときは蒸気機関で走行できる汽走船は長距離航海となる蘭州からの綿花や羊毛輸入に威力を発揮した。
19世紀初頭の日本は、西太平洋の植民地から船で原材料を輸入し、それらを加工して送り返すことで本国の繁栄を図っていたから、植民地と本国を結ぶ海運には常に最新技術が投じられる体制が自然とできあがった。
同時期、ヨーロッパでは自然科学が発展し、電気の利用や内燃機関といった発明ラッシュが続くが、何れもさほど時間に置かずに日本にも伝わって普及したのは世界第2位の規模を誇る日本商船団があればこそである。
逆に日本で発明されたものが速やかにヨーロッパへと持ち込まれた。
神戸の発明家の遠坂金四郎は、画業と平行して人物画の下書きに使用していたカメラ・オブスクラの改良に取り込み、世界初の銀板写真術を確立した。
遠坂の銀板写真器は好評を博し、全世界的な流行となって多くの写真家を生み出すことになる。19世紀半ばからの現れる多くの歴史的な記録写真も遠坂の銀板写真器によって撮影された。
写真器という言葉を作ったのも遠坂であり、今日に世界の9割を占める至った日本製カメラの源流は神戸にあるといえる。
なお、遠坂家は名声をえたものの後に没落し、神戸に建てられた瀟洒な洋館「遠坂邸」は重要文化財として残されており、往時の繁栄を偲ぶことができる。
ちなみに遠坂は没落したが写真技術との関係は途切れておらず、日本で最初にカメラ用ロールフィルムを製造した浅上藤之(現フジノングループ)は遠坂家の縁戚である。
話がやや逸れたが、そうした日本の産業革命を支える蒸気機関であったが、設備投資に多額の費用を有するため、誰でもおいそれと導入できるものではなかった。
そこで企業合併や、企業連合によるカルテルが結ばれ、大資本を揃える財閥が形成されていき、彼らのみが蒸気機関を導入し、その恩恵に預かることになる。
所謂、独占資本の誕生である。
19世紀半ばまでに日本経済を牛耳るまでに成長した財閥は、三崎と称された。
一つは、北崎財閥である。
元は京都の呉服問屋から始まった北崎家は、清朝との密貿易によって財を成し、廻船業に進出して東南アジアと日本を結び、遠くヨーロッパにも支店を置く国際企業となった。製鉄や機械工業にも強く、ナポレオン戦争では大量の大砲をロシアに卸した実績がある。
北崎財閥の代表企業である北崎重工の本社は堺にあり、前述の大砲製造工場が堺にあったことから、しばしば堺は大砲の町と称された。
二つは、国崎財閥である。
国崎の始まりは定かではなく、始祖となった人物は旅の人形師と言う伝説がある。
初代国崎が作った一人でに踊りだすからくり人形は大変評判となり、多くの注文が舞い込んだことから、横浜に店を構えたことが国崎商店の始まりである。
国崎商店は精密機械工業に優れ、時計製造に乗り出し、紡績機や織機の生産を経て、日本で初めて蒸気式工作機械の製造に成功した。
横浜に本社を構える国崎はやがて東国企業の顔役となった。
毎年、横浜で行われる国崎祭は、奇抜な格好をした踊り子が初代国崎が最高であるさまを掛け声にして練り歩く日本三大奇祭の一つに数えられる。
三つは、四季崎財閥となる。
四季崎もまた、初代となった人物の生年や詳細がよくわかっていない。羽柴秀吉に仕えた武士とされるが、羽柴家お抱えの刀匠として名を残した。
一説によれば占い師だったとも言われている。
四季崎は先端的な技術を多数保持し、蒸気機関の製造についても、北崎と国崎がイギリスから技術供与を受けたのに対して、四季崎は自力で蒸気機関を製造し、実用化に成功した。
本拠地は博多にあり、筑豊炭田と呂宋から鉄鉱石輸入によっていち早く、鉄鋼の大量供給を達成している。
これらの三崎とその取り巻きが19世紀以後の日本経済を動かしていくことになるのだが、当然のことながらこの手の独占資本は国家と深く結びつき、往々にして政治を専横して腐敗させるものである。
八代将軍織田吉信の時代に始まった日本の重商主義政策は、殖産興業と経済の近代化を果たしたが、論理的な結論としてブルジョワ政治へと堕ちていった。
十代将軍織田定信は清廉潔白の士と知られていたが、定信亡きあとの幕府政治は贈収賄にまみれていくことになる。
十一代将軍織田信斉は厳格な定信が死ぬと、その反動から奢侈な生活をおくるようになり、その費用を賄うために収賄を公認して賄賂政治を始めた。
信斉の時代に幕府政治は風紀紊乱を極め、著しく行政能力を低下させた。
吉信以来質素であった大奥はその予算が信斉時代に150倍まで増加し、オスマン帝国のハーレムを超えたと言われる。信斉は乱れた性生活を送って、国庫を圧迫させた。
信斉が儲けた子供は、男子26人・女子27人にもなり、認知されていない庶子の子はその2倍から3倍とも言われている。
20世紀後半に信斉を主人公にした18歳未満のプレイが制限されるゲームが発売されたが、史実を忠実に再現したところあまりにもヒロインの数が多すぎて把握しきれなくなり、プレイを投げ出すものが続出したという逸話があるほどである。
吉信が始めた将軍独裁は、将軍が有能で清廉な人間であれば効果的に機能するが、無能や悪徳がはびこると自浄作用が働かないという重大な欠陥があった。
誰も信斉を罷免することはできず、信斉の寵臣が私腹を肥やしても、それを止めるすべはなかった。
そんなことをしようもなら、
「では、彼に変わって阿羅斯加の木の数でも数えてきてくれたまえ」
ということになりかねない。
政治が自浄作用を失ったことは、日本の発展を大きく歪めることになった。
19世紀初頭の日本の発展は、富めるものにとっては輝かしいものであったが、その輝きは貧しいものには届かなかった。
産業革命で伝統的な手工業は廃業に追い込まれ、失業者した零細業者は都市部に流れ込んだ。
蒸気機関の力は圧倒的で、工業生産される紡績製品に手工業の既存製品は価格競争で太刀打ちできなかった。
また、海外からの食料輸入によって、米価が値下がりして農村を疲弊させた。農村の疲弊は農業生産に依存する武士階級を困窮させ、一層彼らを贈収賄へと駆り立てていった。
労働者の社会保障制度などこの時代には影も形もなく、工業労働者は一日18時間も働いていた。それでも食うこと欠く有様だった。
しかも都市部に大量の人口が一度に押し寄せたことから、住宅が不足しており、道端で工場労働者が寝起きすることになった。
町奉行所は彼らを容赦なく取り締まったが、行く宛のない労働者が河原にあふれて、大雨がふるたびに大量に溺死する事件がおきるほどだった。
いくつかの都市では労働者が打ちこわしに及んだが、富裕層は賄賂を使って奉行所を結託し、彼らを弾圧した。
工場のばい煙が空を覆って喘息が都市生活者の持病になったものも19世紀のことである。
大阪や横浜が霧の街として有名になったが、発生していたのは霧ではなく光化学スモッグであった。
食料供給においても、法的規制の不備が表面化し、偽食品が横行した。
大阪では、天ぷらの屋台が流行ったが、その油が工業廃液から精製されたもので、食べたものが中毒死した。
食肉の生産が追いつかないため、塩漬けの腐りかけた鯨肉が豚や牛と偽って販売され、ゼラチンに有毒染料で色付けされた卵が出回った。
貧しいものにとっては阿鼻叫喚という他なく、政治は独占資本と手を組んで、収賄に勤しんで社会問題を放置したことから、貧民の憂さ晴らしは酒と阿片しか残らなかった。
ちなみに酒は日本人はもっぱら下戸が多く、粗悪な工業用アルコールが出回って失明するものが現れたことから、阿片が流行った。
阿片は19世紀の日本における最大の社会問題である。
貧しい工場労働者や貧農はこぞって阿片を吸引した。
また、それを大企業が推奨していた。
阿片には鎮痛、陶酔作用があり、一日18時間も働いていた工場労働者にとっては、仕事の合間の僅かな時間で、ストレスを解消できる魔法の薬だった。
夜泣きやぐずる子供に阿片を与えることさえ行われていた。仕事のため、子供の相手をする時間がないからである。
寺子屋に代わって保育園や幼稚園が発明されるのもこの時代だった。しかし、数が足りない上に、保育園でも大量の幼児を見るためにアヘンを使用することさえあった。
企業も阿片を疲労回復に効果があるとして労働者に給料代わりに配った。
給料の代わりに阿片を配ったある企業家は、
「無理というのはですね、途中で止めてしまうから無理になるんです。途中で止めなければ無理じゃ無くなります」
と言い放ち、阿片を使って工場労働者を中毒状態にして、限界を超えて働かせ続けた。最後には阿片のために無給で働き続け、餓死するものまで現れたという。
しかもその起業家は幕府に賄賂を渡して奉行所の追求を逃れ、売官によって高級武士となって幕府政治に関与してアヘン労働をさらに広めるなどやりたい放題であった。
なお、阿片は大阪時代を通じてその流通・所持が、法律で禁止されていなかった。
阿片に陶酔、鎮痛作用があることは古来から知られており、医薬品として所持・流通することには何の制限もなかったのである。
故にイギリスが輸出品として大量にインドから日本に阿片を持ち込んでも、誰も最初は問題にはしなかった。
今では完全に違法であり、鬼畜の所業であるが、当時は合法であった。
イギリス人或いはイギリスという国家が20世紀を通じて、日本とその文化圏において不倶戴天の敵として現れるのは、専らこの時の阿片貿易に原因がある。
ヨーロッパ初の産業革命を成し遂げたイギリスは、大量の工業製品を世界中に輸出し、繁栄の極みにあった。
そんなイギリスだが、対日貿易に関しては全くの赤字であった。
日本からイギリスに茶や陶磁器が輸出されたが、逆の輸入は殆どなかった。イギリスの綿製品は日本も既に工業生産しており、商品価値がなかったのである。
結果として、大量の銀が日本へ流出した。
銀の流出に危機感を覚えたイギリスは、貿易の収支均衡を狙って、インド産の阿片を日本へ輸出することを思いついた。
イギリス・日本・インドの三角貿易は、
日本→ イギリス(茶)
イギリス → インド(綿織物)
インド → 日本(阿片)
という構図となる。
対日阿片貿易を主導したのは、イギリス東インド会社であった。
イギリス東インド会社は国王からインド、中国、対日貿易の独占を認められた勅許企業である。
最初は、香辛料や絹、陶磁器をアジアから輸入する単なる貿易会社であったが、インドのムガール帝国の衰退と併せて武装化し、オランダ東インド会社やフランスインド会社と抗争を繰り返すようになった。
ナポレオン戦争でフランスとオランダが敗退すると単独でインドの植民地化を進め、行政組織を編成して、植民地政府の役割を担うようになる。
マラータ同盟などのインドの抵抗勢力は、全国的な統一戦線を構築することができず、各個撃破され、インドはイギリスの保護国へと転落していった。
インドの現地国家による抵抗は1849年まで続き、最後の抵抗勢力であったシク王国が滅亡して、終焉を迎える。
阿片は日本の貧困層に浸透して、イギリスに莫大な利益を齎した。
大阪にも阿片窟が広がり、阿片で廃人になった者が路上に転がり、そのまま死体として放置されるほどになった。
阿片を買う金欲しさに短絡的に凶悪犯罪に走るものが多数現れ、治安は著しく悪化した。
腐敗していた幕府も流石に不味いと考え、阿片の吸引は法律で禁止された。
1831年のことである。
だが、阿片の流行は全く止まらなかった。
企業家や資本家は労働効率が下がるとして阿片の禁止に反対し、賄賂を役人に握らせることによって法律を無効化した。
将軍本人が収賄を公認しているのだから、禁止令は意味を持たなかった。
本人自身も莫大な賄賂を積み上げ、朝廷から太政大臣を売官するほどであった。
なお、織田将軍家で太政大臣となったのは初代信長と二代目信忠、八代目の吉信の3人しかいない。
生前に太政大臣に上ったのは、信長ただ一人であったことから、その異常さが理解できることだろう。
歴代の織田将軍のうち、最良とされる将軍は複数候補があり、選者によってばらつきが生まれるが、最悪については衆目一致して十一代将軍織田信斉となるほどである。
阿片禁令に実効性が伴うのは、1837年に大御所として政治を動かしていた信斉が死亡し、十二代将軍織田信慶が収賄を禁止した後のことである。
信慶は、溝口忠邦を阿片取締奉行に任じて、徹底的な阿片の摘発に乗り出した。
法令も厳罰主義を取り、阿片の所持は死罪という過酷なものとなった。
平戸では1,400tもの阿片が押収され、石灰で化学処理して処分された。
また、阿片を所持していたイギリス人商人・船員12名を逮捕した。
これに対して、イギリス政府は強硬にイギリス人の釈放を要求した。
イギリスでは阿片の所持は禁止されておらず、死罪でもないからである。
さらに日本には憲法もなく、近代法もないため、阿片の所持はイギリスの法律で対応すべきと主張した。
所謂、治外法権の要求である。
このような無茶な要求の背景には、有色人種に対する差別感情があった。
19世紀のヨーロッパは科学技術の発明・発明が相次ぎ、産業革命の進展、さらに啓蒙思想の普及によって、人種差別思想が一般化していた。
「優れた白人がキリスト教と科学技術によって未開人を啓蒙し、世界を正しく統治することが自分たちの義務である」
という白人優越思想である。
200年近く世界に窓を開き、誼を通じてきた日本人も、この発想ばかりは理解の外にあった。
確かにヨーロッパの科学技術は優れていたが、それを操る人間がそれほど上等ではないことをよく知っていた。
少なくとも、ナポレオン戦争の頃にはなかった発想であり、日本もウィーン議定書にサインした反仏大同盟の一員であったはずである。
また、近代法や憲法がないのはロシア帝国も同じであり、イギリス政府はロシアにも同様の要求をするのかと外国奉行の丹羽照秀は激しく反論した。
イギリス政府からの反論はなく、返ってきたのは12名のイギリス人の返還要求とそれが受け入れられない場合は、戦争も辞さないという最後通牒であった。
また、フランスもイギリスに同調して、参戦を匂わせて圧力をかけてきた。
日本の国内世論はイギリスの高慢な要求に激昂し、戦争希望の一色に染め上がっていた。
将軍信慶の承認のもと12名のイギリス人が斬首とされ、首は激昂した群衆に晒された。
1840年11月3日、イギリスは日本に宣戦を布告。
アヘン戦争が始まった。
イギリス海軍は東洋艦隊を編成し、40隻近い大艦隊でマラッカ海峡の入り口にあるペナンを占領。対岸にあるマレー半島に上陸した。
マレー半島の先端にある星州(英名シンガポール)には、日本の手によって軍港が築かれていた
駐留艦隊を保護するため、軍港は全周に城塞と砲台を配置して要塞化されており、海側にも砲台があって、艦隊を寄せ付けなかった。
当然、この要塞を攻略して駐留艦隊を撃破しないかぎり、マラッカ海峡の通行は不可能であり、日本本土への道も開かれなかった。
幕府軍もそのことは認識しており、呂宋からマレー半島に第8師団を送り、さらに本国からも4個師団を増派している。
日本の勝利戦略は持久戦であり、地上戦でイギリス軍に出血を強いて、相手が疲れるのを待って講和することだった。
遠いイギリス本土から軍隊を派遣しなければならないイギリスに対して、日本本国は比較的近いことから戦闘が長期化すれば、先に息切れするのはイギリスと考えた。
その発想は間違っていなかったが、一つだけ日英両国が見落としている点があった。
それはどちらも産業革命を経験した国家であり、その生産力はナポレオン戦争時代に比べて飛躍的に高まっているということである。
歩兵の武器については、どちらも大差ないパーカッション式マスケット銃であった。
革新的なエンフィールド銃が登場するのは10年ほど先の話である。
戦術も同様で、ナポレオン時代と大差ない密集歩兵戦術で戦っていた。
比較にならないのは、その生産力であり、工業生産される大量の武器弾薬が高速帆船によって輸送され、戦場で大量使用された。
当初、マレー半島に上陸したイギリス軍は4,000名程度だったが、戦闘が激化するとまるで足りないことが判明し、大量のインド歩兵が投入された。
最終的にイギリス軍はマレー半島制圧のため36万の兵力を投入した。
さらにフランスが1841年3月11日に参戦し、追加兵力として11万が投入された。
幕府軍も徴兵強化と武器の大増産を行って、18万の兵力を投入してマレー半島の防衛を固めた。
マレー半島周辺の制海権については、インド洋側を英仏海軍が保持し、南シナ海側は幕府海軍が確保した。
幕府海軍の主力艦隊(戦列艦24隻)を星州要塞に留め置き、出撃しなかった。
英仏連合艦隊(戦列艦55隻)もまた要塞砲の射程外で海上封鎖を行っており、2倍近い戦力差があった。
代わりに活発に活動したのが、外輪式蒸気動力軍艦であり、風向きに関係なく動ける蒸気船の優位を知らしめることにある。
幕府海軍の巡察艦畝傍は帆走と外輪式蒸気機関推進併用の機帆船で2,400tという戦列艦なみの大型艦であった。
だが、武装は甲板砲を加えてもカノン砲16門と貧弱だった。
これは推進装置に外輪式を採用しているためで、船体の中央に砲列を敷くことができないためである。また、蒸気機関を搭載するスペースも必要だった。
畝傍は哨戒中にイギリス海軍の帆走フリゲート艦3隻に遭遇したが、ほぼ無傷で3隻を撃破して離脱に成功した。
アヘン戦争は帆走軍艦が活躍した最後の戦争とされるが、活躍できたのは相手が蒸気船でない場合のみだった。
マレー半島の戦いは、物量に勝る英仏連合軍が大量の死傷者を出しながらも幕府軍を圧迫し、1842年4月13日に星州要塞での戦いが始まった。
要塞防衛軍総司令官高山長近中将は、
「マレー半島の道は英仏軍兵士の死屍をもって舗装されたり」
と豪語し、要塞の防衛力に絶対の自信を持っていた。
実際に星州要塞は要塞戦開始から1年以上も、英仏軍将兵の血を飲み込み続けることになる。
大量の大砲(大小120門)と最新の建築資材であるコンクリートで固められた要塞はまさに鉄壁を誇った。
多数の砲身、銃身が並び立つ様から、イギリス軍将兵はアイアンフォレストと恐れ、フランス軍からはフェールフォレットと戦慄した。戦争に駆り出されたスイス人傭兵(ドイツ系)はイーザーローンと呼んで、契約を破棄したくなった。
イーザーローンを日本語で発音しやすくするとイゼルローンとなるだろうか。
また、海上では封鎖突破を図る幕府海軍と英仏連合艦隊の戦いが幾度も繰り返されたが、日本が決戦を回避したため大規模な会戦は起きていない。
幕府海軍は、帆走軍艦が動けない無風の時間帯を狙って、蒸気船によって度々封鎖突破に成功したことから、海上戦争における蒸気船の優位が確定した。
要塞が陥落したのは攻城戦開始から1年後の1843年5月14日のことである。
英仏軍将兵を轢殺しつづけた難攻不落の要塞は、華僑軍のある将校の機略によってあっけなく陥落してしまった。
華僑軍とは、マレー半島に土着していた華僑達によって臨時編成された軍だった。
華僑は日僑と並ぶマレー半島の二大移民勢力であり、アヘン戦争でイギリス・フランス軍の侵攻が始まると日僑を追い落とす機会と捉えて積極的に協力した。
華僑軍の誰が言い出したのかは不明だが、英仏軍の墓穴と化していた星州要塞を一日で陥落させてみせると大見得をきったものがいたらしい。
その大見得を聞きとがめたフィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵)が、実際にやらせてみたところ、奇策により1日で要塞は陥落した。
華僑軍が実施したのは、日本海軍の封鎖突破船に偽装した船で要塞に正面から潜り込み、司令部を制圧するというものだった。
顔立ちが日本人に似ている華僑の、特に日本語に堪能なものを集めて行われた奇襲作戦はなんと大成功を収めた。
要塞防衛軍総司令官の髙山中将は捕虜になってしまったのである。
髙山は自殺を図ったが失敗し、司令部がまるごと人質になってしまったことや、弾薬庫への放火により、要塞が陥落したと勘違いした駐留艦隊が一斉に自沈してしまった。
こんなペテンを成功をさせる方も大概であるが、やらせてみたラグラン男爵もどうかしていると言わざる得ない結末であった。
なお、この奇策を立案、実行した華僑軍のペテン師は現在に至るまで不明である。
おそらく作戦中に死亡したと思われる。
難攻不落の要塞が華僑人のペテンのようなアイデアで陥落したことは、人種差別意識の強かったイギリス軍にとって耐え難いものであり、闇に葬られたと考えられている。
一説によれば、中華帝国軍の楊威利元帥の若き日の栄光ではないかという意見もあるが、本人は公式に否定している。
ただし、楊元帥が20代前半を星州で過ごしており、時系列的にはあり得る話であることから、この説を信じるものは数多い。
ともかく、要塞の陥落と駐留艦隊の自沈によって戦争は終わった。
できた屍の山はイギリス軍18万人。フランス軍3万人であった。日本軍は6万人である。
戦死者の大半は劣悪な衛生環境による戦病死であった。
殺してでも負傷兵を治療するクリミア半島の天使が活躍するのは、これから10年後の話であり、マレー半島に天使はいなかった。
すぐに終わるはずの極東アジアの戦争は、3年に渡って続き、イギリスの国家財政は破綻寸前まで追い詰められた。
もしも、華僑人のペテンが成功せず、あと半年ほど戦争が続いていたら、イギリスから和議を求めなければならないほどであった。
見込みの甘すぎた戦争の見返りは、イギリスにマレー半島、フランスにはスマトラ島北部が割譲だった。
イギリス外相のパーマーストンは日本に東南アジア全域の割譲を迫ったが、イギリスの国家財政が破綻寸前であることを日本は掴んでおり、全く譲歩しなかった。
賠償金についても同様であり、鐚一文たりとも払わないとして押し切った。
ただし、イギリスの当初の要求であった治外法権については、日本側も法体制の不備を認めて、10年の時限措置で認めることになった。
ついカッとなってやってしまったが、斬首や晒し首は流石に時代遅れだった。
日本の強硬姿勢にイギリスは戦争再開を検討したが、マレー半島だけで3年の月日と16万人が死傷したこの戦争がこの先、2年、3年と続くことは許容できるものではなかった。
さらにどう考えても国内世論が保たなかった。
麻薬の売人を助けるために始まった戦争で、クソみたいなジャングルの中で18万人が昇天し、戦費調達のため大増税となったことから、非難轟々であった。
戦争に勝利したものの賠償金はなく、得られた領土も蚊の涙ほどであり、イギリスのメルバーン子爵内閣は総辞職に追い込まれた。
惜敗に終わった日本ではあったが、負けは負けであり、この敗北を境として日本の政治体制は大きく動揺し、動乱期へと突入してことになる。
戦費調達のための大増税は日本でも行われており、人々の不満が敗戦によって爆発したのである。
日本の内紛を見て取ったイギリスは、日本への追撃を後回しにして経済的利益を求めて中国への進出へ注力していった。
フランスも同様であり、未だに強力な抵抗力を残している日本が内紛を続けて弱るのを待つことにした。
その間に、日本の影に隠れていたアジアの小国を平らげてしまうほうが、よほど犠牲が少なくて済みそうだったからだ。
後に、英仏はこの時の判断を死ぬほど後悔することになる。
インドの賢者ならこのときに、このような言葉を贈っただろう。
「虎は、手負いになってからが本物である」と。




