鄭成功の奇妙な冒険
鄭成功の奇妙な冒険
17世紀は、日本の大航海時代とされる。
しかし、近年の歴史研究により、実態はそれほど単純でなければ、劇的なエポックメイキングがあったわけでもなく、紆余曲折を経た結果として認知されるようになってきた。
まず、大航海時代の誤ったイメージとして、日本船がはるかヨーロッパやアフリカ、中近東アメリカ大陸まで進出したという虚像がある。
確かに、天正遣欧少年使節のようなヨーロッパ渡航は行われた。
しかし、商業目的のヨーロッパ渡航がほとんど行われていない。
また、同じ理由によりアフリカや中近東、アメリカ大陸への渡航は殆どなく、日本の船が赤道を越えたことも殆どなかった。
それらの地域に日本が欲していた物産がないからである。
戦国時代の海外貿易の重要品目は、第一に軍需物資であった。軍需物資としては兵器生産に要する鉄や火薬製造に欠かせない硝石が求められた。
当時、日本刀の生産に用いられたのは、輸入鉄(南蛮鉄)であり、甲冑や鉄砲の生産も専ら輸入鉄によって行われていた。
日本独自の製鉄もなくはなかったのだが、品質が安定していなかったことや、大量生産の必要性から、輸入鉄が使用された。
たたら製鉄のような日本独自の製鉄技法による芸術的な日本刀が生まれるのは、大阪時代中期であり、大量生産を前提としない工芸品としての需要が生じたためである。
小田原征伐以後、平和な時代が到来すると海外貿易の重点は、軍需物資から民生品と移り変わり、特に衣類用の絹に大量需要が生じた。
絹は国産品が存在したが、明産よりも手触りなどの品質に劣っていた。
そのため二代目将軍織田信忠は明との貿易を望んでいたが、明朝は日本に冊封を要求していたので、日明交渉は暗礁に乗り上げた。
冊封とは、歴代中華王朝が周辺国に要求してきた外交・貿易秩序である。
周辺国は中華皇帝に貢物を差し出し臣従する代わりに、皇帝は官号や爵位を与えて支配の正当性と返礼品を下賜してきた。
返礼品は、皇帝の威徳を示すために、貢物の数倍の価値を持つものが用意されるのが常であり、冊封体制に入ることの経済的な便益は巨大なものだった。
また、朝貢国は、中華皇帝の後ろ盾を得ることで、自国の支配体制を強化できるというメリットがあった。
いざという時に、中華皇帝の軍隊を宛にできるからである。
前者はともかく、後者については軍事政権である織田将軍家にとっては何のメリットにもならないため、日明は外交関係を築くことができなかった。
ならば、朝鮮経由での間接貿易ならどうかと李氏朝鮮と交渉が行われたが、こちらも上手くいかなかった。朝鮮の態度は非常に高圧的で、場合によっては宗主国の明よりも尊大だった。
それでも粘り強く交渉が行われたが、朝鮮は直接交渉を拒否して、対馬の宗氏経由以外の外交交渉を認めなかった。
日本側は譲歩して宗氏により交渉を行わせたが、遅々として進まなかった上に、宗氏が日本からの国書や朝鮮からの返書を偽造、改ざんしてることが判明して改易処分となった。
宗氏の改易は、対馬を属国と考えていた朝鮮を激怒させ、日朝は国交断絶に陥った。
信忠は朝鮮の強硬な態度に怒りを覚えたが、武力行使のような短絡的な対応を執ることはなかった。
織田将軍家は初代信長が発した惣無事令を基本原理として日本を全国支配している関係上、自衛ならともかくとして自ら進んで戦乱を起こすことに躊躇があった。
また、貿易の利益を求めて、その全てを台無しにする戦争をおこなすなど、馬鹿げていることなど、誰の目にも明らかである。
日本が朝鮮経由での日明貿易に拘ったのは、当時の日本の外洋航海術が未熟であったことが大きい。
日本の航海術は専ら沿岸航法であり、羅針盤や天測航法の利用は確立されていなかった。
外洋航海術を持っているのは南蛮人だけで、彼らは明で買い付けた絹を日本へ運ぶだけで莫大な利益を得ていた。
日本側にもその認識はあり、「海運」をどうにかしなければならないのは明らかだった。
ハードウェアとしての洋式帆船は小田原征伐(1590年)で完成していた。
ソフトウェアの完成は、1600年4月29日のリーフデ号の漂着まで待つことになる。
豊後臼杵の黒島に漂着したリーフデ号は、オランダ・ロッテルダムから出港したとき(1598年6月24日)、5隻の船団のうちの1隻に過ぎなかった。
しかし、地球を半周する航海の後、極東にたどり着いたのは1隻のみとなっていた。
漂着時点で、船員の大半が半死半生という有様で、船長ヤコブ・クワッケルナックは身動きが取れず、代わりウィリアム・アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
当初は海賊船と警戒された一行であったが、大阪城で織田信勝と会見し、誤解を解くことに成功し、信忠からも信頼を得ることに成功する。
なお、大阪城にはイエスズ会の宣教師(スペイン人)が押し寄せ、船員の即時処刑を訴えたが、これは完全に無視された。
後に信勝の家臣となり、三浦半島に所領を与えられ、「三浦按針」を名乗ったアダムスは、信勝との会見を次にように書き残している。
「彼は緊張していた私達に、笑いかけ、非常に親切な態度で対応してくれた。飲み物やお菓子を勧めてくれたので、非常に落ち着いた気分で会見に望むことができた。言葉が通じないという不安があったが、彼はイングランドの言葉を理解していて、通訳なしで会見することができた。イングランドとイスパニアの関係も極めて正確に把握しており、私達は彼の鋭い質問に何度も驚かされることになった」
信勝がいつイングランド語を取得したのかは不明だが、信勝が海外情報に精通していたことは他の歴史資料からも裏付けがとれており、スペインの無敵艦隊(=アルマダ)が壊滅した諸海戦についても正確に把握していた。
他にも信勝は、スペインの凋落とイングランド・オランダの興隆を予見する発言や記述を残しており、日本の対外政策に与えた信勝の影響は極めて大きいといえる。
リーフデ号の乗員は幕府から船を与えられ半数が帰国することになる。
しかし、三浦按針など日本に残った者達によって、横須賀に海運伝習所が開かれ、外洋航海術の教育が行われた。
海運伝習所は後に、横須賀鎮守府に名前を変えて、日本海軍の一大根拠地となる。
現在でも、横須賀基地の営門には三浦按針の銅像が立ち、按針寮(兵営)や按針通り(国道11号線)など、三浦按針にちなんだ施設や地名が残っている。
また日本海軍の各種軍事用語にも大量のイングランド語(英語)が残されており、アダムスを日本海軍の始祖と評することもある。
外洋航海術を手に入れた日本船が出向いたのは、安南、交趾、占城、暹羅、柬埔寨、太泥、呂宋、高砂などの東南アジア各地であった。
これらの日本船には、必ず幕府の発給した朱印状(海外渡航許可書)が大切に保管されていた。朱印状のない船は密貿易船とみなされ、基本的に死刑となる。
大阪幕府は、朱印状の発給により貿易によって得た利益の10%を発給手数料として徴収する仕組みをつくり、多額の税収を確保した。
朱印船が東南アジア各地に出向いたのは、東南アジア各国が朝貢貿易で得た絹を買い取るためで、間接的に明産の絹を輸入することができるようになったのである。
特に朱印船が集まったのは大陸に近い高砂(台湾)と呂宋であり、中国人商人が絹や陶磁器、珊瑚などの奢侈品を卸し、日本人商人が銀のインゴットで買い取る風景が常態化した。
17世紀初頭の日本は、各地の鉱山開発が全盛期を迎えており、石見、院内、上田、対馬銀山や佐渡金山から豊富な金銀が算出し、世界の銀生産の3分の1を日本が担っていた。
特に石見銀山は、スペイン王国躍進の原動力となったペルーのポトシ銀山に比肩する大鉱山として西洋でソーマ(相馬)銀としてその名を轟かせた。
大阪幕府は日本各地の鉱山を直轄領として支配し、莫大な税収を得ていた。
二代目将軍信忠や三代目将軍秀信は信長に似て非常に派手好きで、奢侈な生活を送ったがそれを支えたのも石見銀山だった。
初期の大阪幕府の政治は絢爛豪華の一言に尽き、織田将軍家は自らの権威を高めるために天皇を大阪城に行幸させ、全国の大名を集めて祝宴を催した。
天皇行幸に要する費用は1回につき25万両にも及ぶが、信忠は生涯で5回、秀信は8回の天皇大阪行幸を行っている。その後、多額の費用を要することから天皇行幸は五代目将軍織田信綱の時代に一代に限り1回と制限された。
また、秀信は戦乱で中止されていた伊勢神宮の式年遷宮の復活や日本各地の寺社仏閣の修繕も行っており、それらの支払いも豊かな鉱山収入によって実現したのである。
そして、その豊富な銀を積んだ朱印船を狙って、多数の海賊船が東南アジアの海を跋扈するようになり、幕府は対応を迫られることになった。
また、キリスト教問題も、頭の痛いところだった。
幕府がキリスト教を、政治問題であると認識したのは信忠の時代になってからである。
信長死去(1588年)まで、イエズス会とは良好な関係にあった。
信長は宿敵であった一向宗に対向するため、或いは貿易の利益を求めてキリスト教宣教師を保護、支援してきたのである。
だが、九州征伐の際に平戸や長崎、島原において、日本におけるイエズス会の活動実態を見た信忠はキリスト教への不信感を抱いた。
信忠が見たのは、大友宗麟や有馬晴信といった有力なキリシタン大名が日本の寺社仏閣を破壊し、国土をイエズス会に寄進するという国家体制の危機だった。
また、信忠に同行した羽柴秀吉は、貧農出身である故に、島津や大友が戦で敵国の農民を誘拐し、奴隷として海外へ売りさばくことを激しく憎悪した。
信長にはそうした九州で起きていた危機に関する認識はなく、またスペインとの友好関係を重視していたこともあって、その死までキリスト教問題は伏せられていた。
信忠も秀吉も、信長に直言することで勘気を被ることを恐れたのである。
信長が死去すると信忠はただちに九州での奴隷売買の実態調査と対策に乗り出し、奴隷貿易を全面的に禁止すると共に、調査過程で組織的に奴隷売買に関わっていたとして大友家が改易処分となった。
さらにイエズス会への土地の寄進を全て無効とし宣教師を国外追放処分とした。
ただし、完全な禁教には踏み込まず、信仰そのものは黙認という形で存続させている。
完全な禁教はスペインと手切れになってしまう可能性があり、海外貿易の利益を失うことを恐れたのである。
また、叔父の信勝は宣教師を使ったスペインの侵略については否定的な立場をとった。
サン=フェリペ号事件(1596年)においても、
「南蛮人が地球の反対から攻めてくるのに必要な船の数は?兵糧は?武器は?どうやって賄うのだ?日の本を征服するまで継続的に荷駄を運び続けられるのか?」
と述べて、スペインとの国交断絶を主張する強硬派を諌めている。
現実問題として、17世紀の輸送能力でスペイン王国が日本を征服するに足りうる軍隊をヨーロッパからアジアまで輸送することは不可能だったから、信勝の指摘はもっともなものだった。
外国人宣教師は入国禁止となったが、その後も身分を偽っての潜入は後を絶たなず、いたちごっこが続くことになる。
さらにイエズス会と競合関係にある修道士会などの対日強硬派は、貧困層への浸透を重視し、自由な信仰を求めて耶蘇一揆を扇動するなどした。
海外貿易を続けるかぎり、宣教師の浸透を完全に阻止することは不可能だった。
そのため、信忠は真剣に海禁政策(国境封鎖)を検討したが、信勝が断固として反対しため、海禁政策が実施されることはなかった。
日本におけるキリスト教問題が、一段落つくのは17世紀半ば以後のことである。
イエズス会などのカトリック教会の強力な後援者であったスペインはドイツ30年戦争でアジアどころではなくなり、後ろ盾を失ったカトリック勢力は勢いを失うことになる。
ただし、ドイツ30年戦争(1618~1648年)の余波はアジアの海にも及び、前述のとおり銀インゴットを満載した日本の朱印船は、私掠船の格好のターゲットにされた。
そのため、多くの朱印船は日本国内で失業した武士(浪人)を用心棒として船に乗せ自衛した。
さらに公設の商船護衛組織の編成を求める嘆願が貿易商人達から寄せられ、それを受けて1628年1月に横須賀海軍奉行所が設置された。
これが日本海軍の始まりである。
同時に、これが日本初の常備軍となった。
そのため、日本海軍は先任軍として後に建軍された陸軍、空軍に対して形式上、上位の軍であると定められている。
日本海軍の最初の軍船は75tの武蔵丸だった。
分類的には軽キャラック船に属し、小型で少人数で運用できるため使い勝手がよかった。また、喫水線が浅いため海賊が小舟で沿岸に逃げても追尾しやすかった。
船員の確保については、既に商船航路で活躍しているものを引き抜くか、海賊禁止令(1588年)で引退した水軍衆(海賊)の生き残りを集めることで賄われた。
特に水軍衆の生き残りで数が多かったのは、毛利家と共に織田家と激しく争った村上水軍であった。
村上水軍は毛利征伐や海賊禁止令で組織としては一度滅びたが、構成員は瀬戸内海に散らばって漁師や商船員になって生き残っていた。
そのため、村上水軍は日本海軍に多くの足跡を残した。操船命令の面舵、取舵は村上水軍から伝わったものである。
海軍は、その性質上、技術者集団の集まりであり、誰にもでなれるものではない。
故に世襲は不可能であり、世襲を前提とする封建制度に最もなじまないものである。
なり手が限られるため、募兵を募り続ける必要があることや、常に予算が不足していたので「乞食の軍隊」とさえ呼ばれたが、実力さえあれば立身出世の道が開かれることから、封建制度の抜け道として海軍は野心と才能ある若者を集め続けることに成功する。
なお、横須賀海軍奉行所は大阪幕府の政治組織としては、役方(文官)組織に属した。
これは海軍奉行所の業務が、水上での警察活動以外に海図作成や航海記録の管理、商船の運行管理などの大量の文書管理事務が存在したためである。
そのため、柔弱であるという批判が集まり、番方(武官)で編成された平戸海軍奉行所が編成された。
ただし、その業務はあくまで水上での警察活動であり、横須賀に比べて多少荒っぽい取締方法を採用する程度で、大きな差異は存在しなかった。
あくまで、軍隊ではなく、警察というのが日本海軍の始まりである。
よって、海の検非違使とも称された。
それは大阪幕府の基本方針を反映したものであり、前述のドイツ30年戦争においても、日本は戦争から距離をおいて中立を保った。
一度だけ、オランダ(東インド会社)から参戦要求があったが、断っている。
オランダはフィリピンやスペインが持っていた太平洋諸島を日本領として認め、貿易の特権などを提示して幕府を誘ったとされる。
だが、自衛ならともかくとして、自ら欲得の目的のために戦争を起こすのは、信長の発した惣無事令に精神に反するとして信勝は拒否した。
実態としては戦国の余燼が未だにくすぶる日本国内が参戦後にどうなるか分からないという恐怖があった。
一言でいえば、
「寝た子を起こすな」
と身も蓋もない結論に落ち着くだろう。
戦国を知っている信忠や信勝は100年以上も内戦を続けた武士達が、一朝一夕で変わるとは欠片も考えていなかったとされる。
平和になれば謀反を起こすのが武士の習いと本気で信じていた彼らは、とにかく戦国の遺風を国内から消し去ることに腐心したのである。
信忠・秀信・信朝の三代に渡って続く平和主義路線は、5代目織田信綱によって頂点に達して、生類憐れみの令のような極端な悪法を生み出すことになるのだが、それは後述する。
戦国の遺風を消し去ることに腐心した初期の幕府政治だったが、金のために武器を輸出するのは全く躊躇がなく、日本の堺や國友、博多等で生産された大量の火縄銃や大筒がスペイン、オランダ双方へ輸出された。
戦国末期になると織田家等は硝石の自給自足を達成しており、平和な時代が来ると硝石余りが起きたため、海外輸出されるようになった。
鉄砲や大筒も同様である。
後の歴史研究によって東南アジアで活動するスペイン・オランダ軍の保有する鉄砲火器の8割が日本製だったことが判明している。
また、それを操る傭兵(浪人)も、大量に海外へ流れた。
東インド会社(VOC)は彼らをサムライ・サーヴァントとして、大量雇用し、スペインをアジアから駆逐することに成功する。
大阪幕府としても、治安の不安要素にしかならない浪人が海外へ流れることには大賛成であり、積極に傭兵雇用を斡旋した。
そうした傭兵の中には、生き延びて国持ちになるものさえ現れた。
暹羅にて活躍した山田長政や呂宋の日本人町をスペイン軍から守りきった後藤又兵衛が有名だろう。
彼らは現地の日本人社会(日本人町)の支配者として、アユタヤ王朝やスペイン総督から認められ、現地の国政に参加した。
日本から浪人としてあぶれる人間は常に一定数存在したことから、東南アジア各地の日本人町はその受け皿として機能し、現地人や華僑と対立と協調を繰り返しながら発展していくことになる。
特にVOCは対スペイン戦の活躍からサムライ・サーヴァントの有効性に気が付き、日本との友好関係構築に邁進した。
使い勝手の良い傭兵は、VOCによる東南アジア支配になくてはならないものだった。
そして、アジア近傍で強力な海軍力を持つ日本を絶対、敵に回してはならないと考えたVOCは日本と共存共栄の道を選んだのである。
だが、常に利害が一致するわけではなかった。
高砂(台湾)問題である。
「国性爺合戦」
といえば、18世紀初頭の人形浄瑠璃の傑作として名高い。
この物語は史実を一部、脚色、改変したものだが主人公は実在した人物であり、鄭成功といえば、台湾王国の開祖である。
17世紀の東アジア最大の事件といえば、明朝の滅亡(1644年)となる。
明朝は、1368年の朱元璋による建国以来、東アジアの最大最強の国家であった。
1368年といえば、日本では足利義満が室町幕府の征夷大将軍に就任した年である。
その室町幕府は応仁の乱(1467年)によって実態を失い、120年に渡る戦国時代が幕開け、織田家による天下布武によって大阪時代(1589年~)が始まって、半世紀近くが過ぎていた。
2世紀を超える明朝の歴史に紆余曲折がなかったわけではないが、その最後をまとめるなら内紛と財政破綻、そして農民一揆による首都占領と皇帝の自殺だった。
その農民一揆も指導者の力量に欠いていたため新政権を築くことができず、皇帝の自殺によって無政府状態となった中華大陸を征服したのは、ツングース系女真族のヌルハチによって建国された清(後金)であった。
明の財政破綻の原因は、清との抗争に備える軍備拡張によるものだったから、明朝は清朝によって滅ぼされたと言っても良いかもしれない。
明の滅亡後、明朝遺臣による亡命政権(南明)の樹立と抵抗運動が始まった。
その明朝遺臣の一人が、前述の鄭成功であった。
鄭成功の名が日本に広まったのは、3代目織田秀信の時代に、明朝救援の使者として来日して、秀信と会見(1648年11月5日)したことがきっかけとなる。
日本の平戸で日本人女性と漢人商人の間に生まれた鄭成功は、生まれ故郷に援軍を求めたのである。
秀信は滅びた主家に忠義立てる鄭成功を褒め称えたが、援軍や参戦要求については全て断った。
鄭成功は明朝復興の暁には領土割譲などを交渉材料と提示したとされる。
しかし、この申し出は秀信にとっては迷惑でしかなかった。
鄭成功が割譲予定の土地として提案したのは、満州等の女真族の領土であり、完全な空手形な上に、そんな土地をもらっても何の利益もなかった。
火中の栗を拾うのは愚か者のすることだった。
大阪幕府の関心は、明から間接貿易で手に入れていた絹や陶磁器、漢方等の製薬原料の輸入だったのである。
そのため、援軍は断ったが鄭氏を通じて絹などが輸入できるとわかると武器と絹のバーター貿易が成立させた。
援軍が得られなかったことに鄭成功は落胆したが、滅びた主家に忠義を尽くすその姿に全国から同情や喝采が集まり、多くの浪人が雇用を求めて殺到したのは予想外だった。
鄭成功の傭兵として、大陸に渡った日本人の数については正確な統計があるわけではない。しかし、一説によればに5万人から6万人に上ると考えられている。
日本人傭兵軍と大量の鉄砲火器を得たことから、南明は南京を奪回するなど清の膨張を押し返すことに成功した。
しかし、傭兵や武器の代金を支払うため南京を略奪し、占領地に重税を課したことから農民一揆が頻発した。
日本人傭兵も略奪に参加しており、その破壊は酸鼻を極めた。
江南、江西などの産業地帯を荒らした日本人傭兵は、景徳鎮でも略奪や陶工の誘拐を行っている。
この時、流出した技術が日本に伝わり、伊万里や瀬戸で美しい陶磁器が焼かれることになった。
南明は完全に民心を失ってしまい、清軍の反撃もあって台湾に撤退を余儀なくされた。
台湾は、当時、VOCの支配下にあり大陸から逃れてきた鄭成功軍とVOC軍が激突した。
ちなみにVOC軍の主力は日本人傭兵で、台湾の地で日本人同士が戦うことになった。
VOCは大阪幕府に救援と鄭成功軍の日本人傭兵に戦闘中止を要求し、全く同じ要求が鄭成功から届いたため、幕府は頭を抱えることになった。
四代将軍織田信朝は、停戦を斡旋し、使者として五大老の豊臣秀邦を遣わした。
豊臣秀邦は、初代秀吉の孫にあたり、秀吉の再来として辣腕を奮っており、外交にも明るいことからこの人選は適当なものだった。
秀邦は講和斡旋に際して、VOCが台湾の統治権を手放す代わりに貿易特権を得るなど妥協策を提示し、講和を成立させた。
VOC軍がゼーランディア城を退去したのは、1661年6月のことである。
以後、台湾は鄭氏の治めるところとなり、現在の台湾王国へと続いている。
鄭成功自身は、大陸への反攻「反清復明」を果たすことなく、翌1662年6月23日に熱帯病により病没した。
以後の鄭氏は「反清復明」を掲げるものの清の圧迫が強まり、日本が再び講和を斡旋して、1683年に「反清復明」の旗を下ろして、清の冊封下に入った。
台湾は冊封体制に組み込まれたが、日本との関係は維持した。
鄭氏には、日本から豊臣秀邦の娘が嫁ぎ婚姻同盟が結ばれた。また、生き残った日本人傭兵が台湾王国の要職につき、日本から親族を招き寄せ土着化していった。
台湾王国は、冊封体制下に入ったものの内政の独立を維持し、朝貢貿易と日本の間接貿易の拠点となることで18世紀から19世紀初頭にかけて繁栄の時を迎えることになる。