18世紀への扉
18世紀への扉
1689年6月12日、織田信忠の大阪城入城から100年を記念して、天皇行幸が行われ、日本全国から集められた大名達が大阪城大広間で平伏した。
その後の祝宴や式典は7日間に渡って続き、大阪城下においては町民に酒や菓子、金配りが行われ、盆暮れ正月が一度に2つも3つも来たとされるほどの乱痴気騒ぎとなった。
最終日には、大阪の広小路通で大規模な馬揃えが行われ、6頭立ての黄金馬車に乗った5代目将軍織田信綱が市中を練り歩いて人々の度肝を抜いた。
信綱は参加する大名に趣向を凝らした扮装を命じており、自分自身も赤いビロードのマントに、孔雀の羽根と白いレースのフリルをあしらった真紅のドレス(女装)を身に着けて、馬揃えに臨んでいる。
さらに自分の行進に合わせて花火を打ち上げるなど、やりたい放題であった。
祝賀の締めには、フランスから建築家を招いて作らせた西洋能楽堂(現:大阪国立劇場)にて、自作の西洋歌舞伎を天覧上演して、観覧した天皇を楽しませた。
歴代の織田将軍家の当主は基本的に派手好きで地味な人間はいないが、誰が最も派手かを問われたら、100人中のうち100人が五代目信綱の名を上げるだろう。
権力を愛し、美を極め、最後は理解者を得ることなく孤独に死んだ信綱の一生を通して、18世紀を迎えた日本について述べる。
五代将軍織田信綱は、1656年2月23日に大阪に生まれる。4代将軍織田信朝の次男だった。幼名は何故か定かではない。
4代目信朝は虚弱体質で、子宝にも恵まれなかった。
嫡男の織田信重も父親の体質を引き継ぎ体が弱かったことから、早期から家督継承者として養育が行われた。
織田一族は眉目秀麗で端正な顔をした者が多いが、その中でも信綱は白眉とされ、細面に大きな目と彫りの深い造作が合わさり、絶世の美男子と評判だった。
また、肉体も父に似ず壮健で、大病もなく元服した。ただし、持病の腹痛があり、中年になるまで月1度は必ず体調を崩した。
元服と同時に和泉岸和田に所領7万石を得て、岸和田藩主となる。ただし、家督継承者として大阪城につめていたことから、岸和田に入ったことは一度もない。
信綱の将軍就任は1680年のことで、僅か25歳だった。
大阪幕府の政治機構は完成されつくしており、信綱の若さは何ら問題にはならなかった。
ただし、幕府機構の整備は将軍の権力を弱体化させるものでもある。
実際に4代目将軍信朝は、政治意思決定を五大老の合議に委ねており、自らの見解を述べることもなかったことから、
「左様せい様」
などと陰口を叩かれる有様だった。
現代でも信朝の評価は低い。
「信長は全て自分で決めた。信忠は半分は自分で決めた。秀信は四半は自分で決めた。信朝は自分で何も決めなかった」
とまで言われている。
しかし、信朝の治世に大きな失政はなく、戦乱を招いたこともないことを考えれば、この評価はいささか公平性を欠くと言えるだろう。
幕府の政治意思決定は五大老の合議制であり将軍は独裁者ではないのである。
信綱も当初は、信朝の方針を踏襲し、政治については五大老の合議に任せていた。
だが、五大老筆頭として辣腕を奮っていた豊臣秀邦が死去(1682年)すると状況が変化した。秀邦があまりにも有能だったことから、隠されていた合議制の欠陥が浮き彫りになったのである。
五将家の合議制は17世紀半ばをすぎると形骸化していた。
本来なら勢力均衡が保たれていたはずの五大老だったが、100年近く続いた天下太平によって、経済力に格差が生じていた。
豊臣家が領する筑前・筑後は国際貿易港の博多を要し、海外貿易の窓口として豊かな税収があった。筑後川の豊かな農業生産もあり、五大老筆頭にふさわしい経済力があった。
農業生産力がある豊かな加賀・越前を領する柴田家や、讃岐・伊予・淡路のような瀬戸内航路の税収がある丹羽家はマシだったが、銀山が枯渇した石見・出雲を領する明智は財政が傾いており、山国の甲州・信濃・上野しかない滝川は、豊臣家から金を借りているほどだった。
秀邦は、類まれなる政治調整能力で、巧みに利益配分を行って利害を調整し、機能していない合議制を事前の根回しで動かしていたのである。
だが、子の豊臣秀和は、残念ながら無能という他ない人物だった。
秀吉の再来とまで言われた秀邦の唯一の失策は、無能な嫡男を後継者にしたことだと言われるほどである。
そして事前の根回しが機能しなければ、合議制は機能せず、ひたすらに未決の決済文書が積み上がっていくことになる。
何も決められない五大老を見限った信綱は、取次役でしかなかった側用人に抜擢人事を行って有用な吏僚を配置して、親政を開始する。
五大老と奉行衆は、なんとか主導権を取り戻そうとしたが、織田一族からなる連枝処が信綱を味方したので、上手く行かなかった。
信綱は、幕府の綱紀粛正に乗り出し、幕府官僚や天領の代官に対する監査・査察を強化し、緩みかかっていた綱紀を粛清した。
法制改革にも手をつけ、武家諸法度や宗門法度、公家諸法度も時代にそぐわない部分を改めている。
貨幣経済の発展に伴って増加していた金公事(金銭訴訟)についても、金公事式目を制定して裁判の迅速化を図るなど、貨幣経済への対応を図った。
若き日の信綱は決断力に富み、その清廉さから非常に人気があり、名君として慕われた。
幕府財政を傾けることになる芸能への傾倒も、最初は趣味の範囲内だった。
悪名高い生類憐れみの令が制定されたのも名君時代のことである。当初、生類憐れみの令は罰則を伴っておらず、保護対象となったのは牛馬や病人、けが人や老人だった。
そもそも生類憐れみの令が出されたのは、戦国末期に伊勢から広がった畜産業が日本全国に拡大し、家畜の適切な管理がなされず、病気や年老いた家畜が遺棄され、社会問題になっていたからだった。
糞尿を撒き散らし、疫病の発生源となる家畜の遺棄は公衆衛生上の脅威である。
また、新田開発によって食料増産が進み、戦争が絶えて久しいことから日本列島の人口は飽和しつつあり、嬰児殺し、姥捨て山が横行していた。
最初の生類憐れみの令は、これらへの対応を念頭においたものであり、農村や城下町などの地域単位で相互扶助するように指示するものだった。
これは日本初の社会福祉法制であり、画期的なものだったと言える。
同時期、フランスでは太陽王ルイ14世の統治にあって、傷病兵の生活施設としてオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)や公営病院を建設し、社会福祉の増進に努めている。
最新の歴史研究では、生類憐れみの令はルイ14世の政策を意識したものと分析している。
その証拠に、17世紀末の日本とフランスには国交があり、信綱とルイ14世には幾多の親書のやり取りがあった。
フランスはアジアに権益がないので、日本と国交があっても益にはならなかったが、絶頂期のルイ14世は、遠いアジアであっても自らの威光を知らしめようとしていた。
対日貿易をほぼ独占するVOC(オランダ東インド会社)と敵対していたフランスとしては、日蘭関係に楔を打ち込めれば儲けものという打算もあったともされる。
海外情報も適宜、外国奉行の手によって報告があったため、遠いヨーロッパで幾多の戦争を勝ち抜き、領土を拡張するルイ14世を信綱は非常に尊敬していた。
信綱のフランス贔屓は年を経ることに強まり、
「斯くの如き夢の宮殿に住んでみたいものだ」
と、ルイ14世から贈られたヴェルサイユ宮殿の絵図を寝所に飾るほどになった。
織田将軍家は初代信長が洋服を着用するなど、代々何かしら西洋かぶれなところがあり、この程度の奇行なら誰も気にとめなかった。
だが、VOCはそうは考えなかった。
もしも、日本がフランスと同盟を結び、東南アジアのオランダの植民地を攻撃すれば、ひとたまりもないからである。
流石の信綱も、ルイ14世を真似て領土拡張戦争を起こそうという意思はなかったし、VOCのそれは完全な杞憂なのだが、それを確かめる術はない。
日本人傭兵は昔ほど多くはなかったが、雇用関係は継続していた。
彼らは以前よりもさらに義理堅くなり、契約に忠実で、すぐに裏切る東南アジアの現地人よりも労働力としても、兵士としても遥かに有用な存在となっていた。
「日本人の傭兵隊をヨーロッパに派遣すれば、フランス軍に勝てるのではないか?」
と真剣にオランダ本国で検討されたほどである。
しかし、日本との交渉で祖法を理由に拒絶され、実現しなかった。
VOCは日本を自陣営に繋ぎ止めるために、なりふり構わない外交攻勢に出た。
具体的には、信綱の私室をオランダ本国から取り寄せた貢物で満杯にしたのである。
信綱の西洋かぶれはこれで極まり、大阪城の大奥では西洋ドレスを来た側室や女中、側女が溢れ、小姓や茶坊主、取次役でさえ洋服を着るようになった。
幕府の中がそうなら、外も同じであり、大都市部で洋服を着ることが大ブームとなる。
大阪時代の屏風絵に残る洋服を着る丁髷を結った侍というちぐはぐな存在は、信綱の時代に生まれたものである。
17世紀末になると日本各地に西洋建築が現れるが、これも信綱の西洋かぶれを抜きにしては説明がつかない。
信綱がフランスから招いた、或いはオランダが送りつけてきた建築家による西洋建築の代表例としては、大阪城山里丸迎賓館が挙げられる。
山里丸迎賓館は、当初は信綱の私室として建設された。
フランスのベルサイユ宮殿のグラン・トリアノンを模したものとされる。
しかし、当時の日本の建築資材・技術で完全な模倣は不可能であり、和洋折中となった。
それでも信綱は、
「大阪にもヴェルサイユはある」
と述べて、非常に満足したという。
あまりにも機嫌が良かったので、鬱状態の赤穂藩の藩主が大阪城内で刃傷沙汰に及んでも、無罪放免になるほどだった。
山里丸は緊急事態における将軍の避難所として用意されたものだったが、以後、信綱は本丸ではなく山里丸で起居し、政務を行った。
山里丸での生活は完全なフランス式で、ベッドで眠り、食事はテーブルで取り、フランスから取り寄せた彫金を施された豪華な執務机と椅子に座って書類を決裁した。食事も、フランスからコックを招いてフランスの宮廷料理を再現した。
日本でパン食が始まるのは、信綱以後のことである。
ちなみにフランスでよく食卓に供されるバゲットが、フランスパンと誤って広まったのは概ね信綱の勘違いが原因とわかっている。
信綱の死後、大阪城内の行き過ぎた西洋かぶれは改められ、外国人のコックは殆どが解雇された。解雇されたコックは日本全国に散らばり、日本にフランス料理が広まることになる。
山里丸迎賓館の他に、現存する当時の建築としては横浜天主堂が有名だろう。
信綱時代になると日本のキリスト教抑圧政策は停止された。
ルイ14世はカトリック教会勢力には冷淡だったが、宣教師の入国や布教活動を禁止する日本の宗教政策には反対で、信綱に布教解禁を求めている。
17世紀も末になるとスペインの退潮は決定的になり、後ろ盾を失ったカトリック教会はかつてのような力を失っていた。
日本国内のキリスト教徒の数も落ち着いていたことから、信綱はルイ14世の要求を受け入れ、宣教師の入国を認めた。
フランス人宣教師、カレド・マルシェが長崎に上陸したのは1688年のことである。
意気揚々と来日したマルシェが見たのは、100年のうち土着化した日本式キリスト教の姿で、その教義は仏教と神道の微妙なカクテルと化していた。
教義の変質に驚いたマルシェが正当なカトリックの教えを広めるための教育施設として作ったのが、前述の横浜天主堂である。
外国暮らしが長く、来日する前はインドの貧民街で布教活動をしていたマルシェは、非常に壮健な人物で102歳で亡くなるまで日本で布教を行った。
日本で最初にインド式カレーが広まったのが横浜であることは言うまでもないことだろう。
さらにフランスの支援によって日本で初めて欧州式の大学が作られた。
現在の大阪外国語大学である。完成は1701年だった。
若き日の信綱は非常に知的好奇心に富み、ヨーロッパの学問を学びたいとルイ14世に親書を送った結果、実現したものである。
教員の殆どがカトリックの宣教師で、実態としてはカトリックの宣伝機関だったが、ギリシャ・ローマ式の学問体系が日本の教育界に展開した意義は大きかった。
フランスに対抗してオランダが横浜に大学(後の横浜国立大学)を作り、これに刺激を受けた浄土真宗が京都に大学(後の京都国立大学)を建設した。
ヨーロッパへの留学も信綱の時代に始まることになる。
日本全国の大名家も降って湧いた教育熱に煽られて独自に藩校を作っていった。
市中でも寺子屋に通うことが当たり前となり、立身出世に読み書き算盤は必須とされた。
18世紀半ばには、日本の識字率は9割に達したのはこうした背景を抜きにしては考えられないことである。
信綱は語学に優れ、外国人家庭教師を雇うことでイングランド語、フランス語、オランダ語、ラテン語を自在に操ったという。
そのため、上級武士の教養として、外国語が追加された。
信綱はしばしば気分によってフランス語やオランダ語以外の応答を一切、無視したことから大阪城に詰める武士は、外国語が使えないと出仕すらままならなかった。
怪しい外国人講師が城下町で外国語を教えるようになり、近隣の農村から下級武士が栄達を求めて城前留学に励む風景が広がった。
西洋文化の影響は多方面に渡り、ブーツを履いた松尾芭蕉が奥羽を旅して俳句を読み、浮世絵は西洋画の技法が取り入れ、歌舞伎にシェイクスピアの作品が混じり、虚無僧の笛がオーボエになったりした。茶道にコーヒーが取り入れられたのも玄禄年間のことである。
100年の平和のうちに爛熟した日本文化と西洋文化のデタントが生み出したのが、玄禄文化と呼ばれる時代である。
信綱は、その一つの先端を走った芸術家であった。
自分で一から西洋歌劇の台本を書き、大奥にダンスホールを作り、麗しい側室を集めて聖歌隊を編成し、彼らを歌わせるために西洋能楽堂を作ったが、まだ満足できなかった。
山里丸に洋館を作り、フランス式の宮廷生活を模す日々を送るうちに、信綱の熱情と妄想はいっそう募り、制御不能になっていた。
信綱究極の野望であるヴェルサイユ宮殿の造営は1695年に始まる。
摂津の川辺郡にフランスから招いた建築家や職人を大量動員することで無理やり建設が始まった日の本のヴェルサイユ宮殿は、莫大な費用と高度な建築技術を要することから1709年に信綱の死によって未完に終わった。
ただし、楽堂など建物の一部は完成しており、信綱の死後に側室たちが集まり、信綱の霊を慰めるために西洋歌唱劇を催している。
それが好評を博し、いつしか日本全国からその耽美な世界を一目見ようと熱烈な数寄者を集める聖地となった。
勘のよい方なら既にお気づきだろうが、これが宝塚歌劇団の始まりである。
信綱は時代に愛されたあまりにも眩く輝く光であった。
自らを、
「日輪の化身」
と呼び表した将軍など信綱ただ一人だけである。
おそらく、太陽王を自称したルイ14世を意識した発言だろうが、全盛期の信綱にはそれに値するものがあった。
故に、その闇もまた深いものになる。
冒頭の天皇行幸は、信綱時代になんと23回も行われた。これは第2位の三代将軍織田信秀の3倍の数字である。
信綱の在任期間は29年だったから、ほぼ毎年行幸していた計算になる。
信綱時代の天皇行幸は趣向の限り尽くした豪華なものだったから、50万両から70万両の費用がかかった記録が残っている
さらに宝塚宮殿の造営など、莫大な費用を費やした巨大建築も平行して行っていた。
そんな金がどこから出てきたのか?
17世紀末になると、日本各地の鉱山開発は行き詰まり、産出量が減少していた。
枯渇したわけではないが、100年前ほどの採掘は望めなくなっていた。
17世紀の日本の海外貿易は大陸からの絹や陶磁器、奢侈品の輸入であり、基本的に大赤字であったから、凄まじい勢いで金銀が国外へ流出した。
信綱時代になると信長、信忠時代に蓄えられた遺産は殆ど使いつくされ、国庫は空の状態になっていた。
にもかかわらず、信綱が華美な生活を送ることができたのは、錬金術ともいうべき貨幣の改鋳事業があったためである。
貨幣の改鋳は、信綱政権初期の名君時代に始まった。
当初の意図は国内の流通促進のため、旧式化していた小判や丁銀といった日本式貨幣を簡便な西洋式の銀貨・金貨のような計数貨幣に改革するものだった。
新通貨の意匠は概ねオランダのギルター銀貨や金貨を参考したものだった。これは当時の日本の海外貿易が概ねVOCを相手にしたものを考えれば、当然の選択だった。
問題は丁銀や豆銀を鋳潰して銀貨に改鋳する際に、銅や鉛を混ぜることだった。
金貨についても同様であり、市中から旧貨を回収するだけで、貨幣量が1.5倍に増えた。その差益が幕府の収益となる。
玄禄時代の日本が好景気に沸いたのは、貨幣改鋳によって貨幣の流通量が増え、緩やかなインフレーションが進んだことが大きい。
また、信綱の散財は公共事業として、巨大な有効需要を作り出した。
その治世の前半は善政と讃えられたのは、経済好況期であったことが大きい。
だが、貨幣価値の下落でインフレーションが進むと物価が高騰し、都市の低賃金労働者を直撃するようになる。
金銀に混ぜものを加える改鋳事業は、一部の知識人からは、
「陽にあたえて陰に奪う術」
として、激しく批判された。
さらに1695年頃から始まる奥州の飢饉、1698年の大阪大火、1703年の玄鹿地震・火事、1704年の浅間山噴火、1707年の富士山噴火などの天変地異も貨幣改鋳が原因と考えられた。
現代では、これらはただの自然災害である。
しかし、当時、金・銀は陰陽思想の上で、国土の骨と位置づけられており、それに混ぜものをすることは邪気を呼び込む行為と解釈され、自然災害は改鋳事業の責任とされた。
信綱はこうした批判を迷信として切り捨てた。
晩年になるほど、信綱は西洋科学やキリスト教思想に傾倒していったが、これは批判勢力に対する反発があったためと思われる。
それがさらに保守派の反発を呼び込むという悪循環に陥った。
現代では、日本科学会の最高峰と位置づけられる国家科学院も信綱の時代に作られたが、これはルイ14世の科学アカデミーの模倣であり、同時に保守派の批判に対する対抗措置でもあった。
信綱は、確定ではないものの、晩年にはキリスト教に入信していたと思われる。
山里丸迎賓館には、明らかに元隠し部屋と思われる部屋があり、その造作から礼拝堂があったと考えられている。
神にも縋らなければならないほど、信綱の人間不信は酷いものになっていた。
特に身内の不義密通(不倫)が信綱を追い詰めたとされる。
信綱には実子がいなかった。
当時の大奥には、一説によれば1200人の側室、側女がいたとされるが、子を孕んだものは3人しかいない上に全員に不義密通の疑いがあった。
そのうち2人は母子諸共死を賜った。
生き延びたのは正室、鷹司信子だけだった。
鷹司家の正室を処断することは政治的に不可能であり、さらに不倫相手は信綱が最も信頼していた側近、森吉保だったことが判明している。
生まれた子供(女子)は、丹羽家の預かりとなり、寺に入り一生を終えた。
許すことも、罰することもできない妻や部下を持ち、毎日顔を合わせなければならなかった信綱の心中の暗黒は計り知れない。
晩年は酒量も増え、一人でいる時間が増えていった。
政治的な判断力も精彩を欠くようになり、政令の朝令暮改が増えて政治を混乱させた。
悪名高い生類憐れみの令は、晩年の3年間の間に114回も修正と布告が繰り返し、保護対象が家畜や人間から、野生動物、犬、猫、鳥や魚類、昆虫にまで無秩序に拡大していった。
当初は罰則なしの法令だったが、実効性が伴わなかったことから、刑罰を伴うことになり、保護対象が拡大し、恣意的な運用が横行したことから悪法へと堕ちていった。
信綱は、京都の東山に日本で初めて動物園(現:京都東山動物園)を開くなど、日本近代動物園の開祖ともいう業績の持ち主だが、その動物愛護精神は完全に常軌を逸していた。
おそらく、人間を全く信頼できなくなっていた信綱は、決して自分を裏切らないペットを心の支えにしていたと思われる。
だが、愛犬(パピヨン種)のために巨大な御殿を造営するのは完全にやりすぎだった。
信綱の最後は、パピヨン御殿の階段から足を滑らせたことによる脳挫傷だった。
パピヨン御殿には小姓さえ近寄らせなかったために発見が遅れ、見つかったときには既に事切れていた。
織田将軍家で孤独死したのは、信綱ただ一人である。
信綱の死によって、五代に渡って続いた織田将軍の嫡流は途絶えた。
さらに後継者を決めないままに死去したため、家督継承者を巡って政争を招き、幕府政治は混乱することになる。
信綱の政治により、国家財政は破綻寸前までに追い詰められ、貨幣改鋳のやりすぎにより海外貿易では銀での決裁をVOCに拒否されるなど、大阪時代は大きな曲がり角を迎えた。
そのため、信綱は暗君、暴君として歴史に名を残すことになり、当世の信綱の評価は極めて低い。
しかし、近年の歴史研究の進展により、従来の定説が覆され、経済政策の先見性が見直されてつつある。西洋文化の受容や教育制度の発展にも寄与し、その後の日本の発展に欠かすことのできない礎石を築き上げたと再評価されるようになっている。




