西へ征く者への祈り
西へ征く者への祈り
1914年10月にセイロン島が陥落。
南では大きく日本軍が戦線を拡大させていたが、北での動きは小さかった。
満州国境での日中連合軍とロシア帝国軍の戦いでは、戦線の大きな動きがなかった。
最大の戦いとなったニコラエフスク包囲戦において日中連合軍は2個軍40万の兵力を投入したにもかかわらず、ニコラエフスク攻略に失敗した。
ロシア帝国は開戦と同時にアジアとヨーロッパの二正面に戦線を抱えることになったが、優先順位は間違えなかった。
まずは、ヨーロッパ。そして、アジアの順番である。
そのためシベリア方面に配置されているのは1個軍でしかなかったが、守りを固めたロシア軍はさすがに強かった。
塹壕と機関銃の組み合わせはアジアにおいても有効だった。
一度はニコラエフスクを包囲した日中連合軍だったが、ロシア軍は街の全周に鉄条網を張り巡らせ、塹壕を掘り、機関銃を携えて待ち構えていた。
万歳の掛け声と共に突撃を開始した日本軍は、猛烈な弾幕射撃を浴びて死体の山を築いた。
シンガポールのような要塞ならともかく、野戦築城で突撃が止められると考えていなかった日本軍は無為な突撃を繰り返し、僅か1日で3師団を壊滅させてしまった。
攻勢作戦全体での死傷者は25万人を超えている。
これは本国の大きめの地方都市一つ分に等しい数字だった。
人命の凄まじい損失は本国で大問題となったが、ヨーロッパの西部戦線では割とポピュラーな損害であることが判明し、沙汰止みとなった。
ニコラエフスクの防衛成功は、負け続けのロシアにとって福音となった。
ロシア軍は開戦緒戦こそオストプロイセンの一部を占領するなど、戦争の主導権を握ったがドイツ軍の反撃を受けて敗退した。
1914年8月末にはタンネンベルクの戦いで大敗し1個軍20万を喪失。オストプロイセンから撤退していた。
だが、ロシア軍はシベリアでは負けなかったのである。
戦線整理のために日中連合軍が後退したところで厳しい冬将軍が訪れた。
シベリアの冬は戦争に適した季節ではなく、雪の中に何もかも埋もれてしまった。
猛烈な寒気(-40~60度)によって日本軍の小銃は凍りついた。
そのため、日本軍は射撃前にアルコールを垂らして火をつけ、銃身を温めてから射撃しなければならなかった。
それが用意できない最前線での鉄火場では死んだ戦友の体温が残っているうちに死体で銃を温めて射撃する手法が現場の創意工夫で編み出された。
金属部分を素手で触るのは厳禁で、うかつな新兵が手の皮膚を剥がされて後送されることがしばしば発生した。
シベリアの寒気の中でも平然と動作するロシア軍や中国軍の小銃を日本兵は羨ましく思った。
ロシアや中国の小銃といえば、粗雑な作りで有名だった。そのため射撃精度は低い。
しかし簡素な設計で、部品同士のクリアランスが広くとられていた。
そうであるがゆえに塵や泥、氷などが詰まって故障することは殆どなかった。
射撃精度の点では、日本製の小銃は圧倒的に優越していたが、精度を高めるために部品同士が精緻に組み合わされており、戦場の運用では最適解とは言えなかった。
また、日本軍の銃剣はナイフ型であったが、分厚い防寒着を着用してると布地で刃が滑ることがあった。
中国軍の銃剣はスパイク型で防寒着を容易く貫通した。
小銃そのものも、威力の面で中国軍やロシア軍に劣っていた。
日本陸軍が採用した6.5mm弾は射撃の反動が小さく連射速度や射撃精度に優れていた。日本陸軍は射撃速度でイギリス陸軍と張り合っており、1分間に30発以上撃てるように歩兵を訓練していた。
理屈の上では、歩兵1個小隊で機関銃1丁と十分に渡り合える射撃速度であった。
ただし、そのようなことができる熟練兵は開戦からしばらくすると姿を消してしまったので、結局、日本軍は機関銃に頼ることになる。
反動の小さい6.5mm弾は未熟な新兵でも扱いやすいライフル弾と評価されたが、機関銃の弾薬としては威力と射程が不足していた。
そのため機関銃同士の打ち合いになると一方的に撃ち負けた。
結局、日本陸軍は現実を認めざるえなくなり、中国軍も採用していた8mmモーゼル弾を重機関銃や軽機関銃用の弾薬として採用することになった。
日本軍が歩兵用の小銃弾を更新したのは第一次世界大戦後のことで、機関銃と弾薬を共通化できるモーゼル弾が採用され、日中独の弾薬規格は統一されることになる。
それはさておき、冬の間に極東ロシア軍はさらに塹壕を掘り進め防御を固めて1915年の雪解けを迎えることになる。
極東ロシア軍は前年の戦いから防衛戦には自信を持っていた。
日本軍が去年と同じ戦い方をする限り、それは正解だった。
しかし、それが誤りだったことがすぐに分かった。
雪解けと同時に、日中連合軍はモンゴル高原を馬で突破し、バイカル湖に進撃したのである。
ロシア軍の誤算は、日中連合軍が鉄道を使って攻めてくると思い込んでいたことである。
実際に1914年の戦いは満州鉄道の沿線に沿って行われた。
鉄道を使った軍事輸送は20世紀の軍事常識であり、軍団を養うのは鉄道あるのみであった。
モンゴル高原には鉄道はなく、ただ草原が広がるばかりであったから、ロシア軍はここが主戦場になるとは考えていなかった。
それは日本陸軍も同様だったが、中国軍の結庵将軍の考えは少し違った。
結庵将軍は、中国の救国の英雄である楊威利の義息である。
元は戦災孤児で、満州を視察旅行していた楊威利に拾われた。それ以前、どこで何をしていたのかは本人も覚えていない。
楊は結庵が軍人になることには反対していたが、楊に恩返しがしたかった結庵は反対を押し切って入営し、強引に軍人となった。
その後、極東戦争で楊元帥の指揮下で奮戦し、軍人としての才覚を示した。
第一次世界大戦時は若くして中華帝国軍陸軍大将にまで上り詰めていた。
あまりにも若すぎる(36歳)という批判もあったが、議会政治や立憲主義を強く擁護する結庵将軍は、義父の名声を政治利用したい孫文にとって都合のいい人物だった。
中国では軍部が議会を無視して政治介入することがしばしばあったのである。
議会政治の擁護者であった楊元帥の死後、苦境に陥った孫文が結庵を擁立したのは自然の流れだったといえる。
なお、結庵は孫文の独裁的な政治手法を嫌悪していたが、表立って孫文を批判することはなく、孫文の命令には忠実だった。
それはさておき、モンゴル高原の突破である。
これはロシア軍にとって全くの奇襲だった。
結庵将軍はシベリアのロシア軍を戦略的に包囲するためには、モンゴル高原を突破し、バイカル湖でシベリア鉄道を遮断するべきだと考えた。
そのために必要な馬の数は、補給や換え馬の数も含めると40万頭(最終的に120万頭)に達したが、日本や中国全土からかき集めれば、可能な数字だった。
騎馬民族の征服王朝の流れを汲む大中華帝国では馬が大切にされており、モンゴルや満州では多くの牧場が残っていた。
中国は産業革命を迎えて発展著しかったが、産業革命の恩恵は内陸部には伝わっておらず、清朝の続きをやっていた地域も多かったから馬は重要な生活の足であった。
ちなみに日本では鉄道交通網の発展と自動車の実用化で、牧場文化は崩壊寸前まで追い詰められていたから、軍馬の調達は大変だった。
日本陸軍は騎兵を過去の遺物と見なしており歩兵と砲兵、そして鉄道に投資していたことから騎兵は1個師団が維持されているだけになっていた。
その1個師団を任された秋山好古中将は、結庵将軍の大胆な構想に賛同して、全面的に協力した。
本国に比べて牧場が残る蘭州や、オスマン・トルコ帝国からアラブ馬を買い集めたのである。
オスマン・トルコ帝国は、1914年11月に同盟国側として参戦していた。
セイロン島からすぐに海上輸送で日本軍の増援が到着し、メソポタミア戦線で英仏軍と対峙した。
日本軍の狙いはシナイ半島、そしてスエズだった。
インド洋の制海権は日本海軍が掌握しており、オスマン・トルコ帝国からアラブ馬を買い付けることは十分可能だった。
秋山は、冬の間に馬をかき集めて、陸軍第1騎兵師団を実質的に2個師団半まで増強することに成功してる。
日本国内でも、1914年の戦いがあまりにもむごたらしい損害を発生させたことから、結庵将軍の大胆な作戦に賛同する者は多かった。
「あの楊威利の息子が言うのなら・・・」
と岸和田の陸軍参謀本部も結庵に協力した。
鉄道のない場所を、しかもまともに道路も整備されていない草原を近代軍隊が走破するなど、考えられないことだった。
何もない草原や荒野を行軍すれば、遭難する危険さえあった。
だが、結庵将軍は中国海軍の協力を得て、天測航法で草原を突破してきた。自分自身も六分儀の使用法などを学んで、作戦立案に活用している。
また、チンギス・ハーンの先例を詳細に研究し、全ての戦闘部隊に補給部隊を帯同させることで250kmまでは無補給で行動できる算段を整えていた。
軍隊の補給とは単純に武器弾薬食料を充足するだけではなく、医療活動や衣食住の提供、レクリエーションも含む総合的なものである。
それを戦闘部隊と帯同させて動かすというのは、実質的に一つの街を馬の鞍に載せて運ぶことに等しかった。
が、やってやれないことはなかった。
日本の工業生産力と中国の人海戦術の組み合わせは一種の魔法の杖だった。
不安は砲兵火力を欠くことであったが、日本製の新兵器である迫撃砲は分割して馬の鞍に載せられることが判明して解決された。
草原を突破した大騎兵集団は、イルクーツクに殺到して殆ど戦闘らしい戦闘もなくこれを陥落させた。
イルクーツクにいたロシア人は、五色旗と日章旗を掲げる騎兵の津波を見ただけで戦闘を放棄した。
1915年5月15日のことである。
イルクーツク陥落の知らせはすぐには伝わらなかったため、極東ロシア軍は日中連合軍の侵攻に激しく抵抗した。
しかし、やがて増援や補給がなくなり、イルクーツク陥落が口伝えに前線へと届くと軍組織は雪崩打って崩壊していった。
軍上層部は士気の低下を恐れてイルクーツク陥落を兵士に伝えなかったが、そのことで逆に不信感を育てる結果となった。
やがて真実が伝わると嘘の発表をしていたシベリアのロシア軍司令部は兵士に見捨てられることになり、極東シベリアの戦いは終焉に向かった。
イルクーツクを陥落させた結庵将軍と秋山将軍は、後方からの増援を待つことなく軍を西へ進撃させた。
所謂、
「西方長征」
の始まりである。
目指すは、4,000km彼方にあるモスクワだった。
当座の必要な物資はイルクーツクのロシア軍倉庫や民間からの徴発によって賄われた。
替え馬については、なぜかモンゴル高原に住む諸部族が、我先にと提供してくれることになったので問題にはならなかった。
それどころか、なぜか彼らは食料や娘まで差し出して、結庵軍に帯同することを願い出てきた。
多くのモンゴル人にとって結庵の軍勢は彼らの崇めるチンギス・ハーンの生まれ変わりに他ならなかった。
「神の軍勢が復活した」
「テングリのお告げを聞いた」
「チンギス・ハーンの墓所の扉が開いた」
などと諸部族の長老は神秘体験を口々に語った。
秋山将軍も、
「モンゴルの高原で夜空を見上げたとき、薩摩人の神降りとはこういうことかと自然と納得した」
と後に振り返っている。
いつの間にか大ハーンの称号まで贈られていた結庵将軍は軽く困惑したが、秋山将軍の勧めもあって、彼らの帯同を許した。
一方、ロシア人は恐怖のどん底に突き落とされた。
かつてロシアをタタールのくびきに置いたモンゴル軍ほど、彼らにとって恐ろしいものはないからだ。
多くのロシア人が、モンゴル人を恐れ、蔑み、崇拝していた。
イルクーツク陥落の知らせは尾ひれがついた形でヨーロッパロシアに伝わり、最終的にイルクーツクの全住民は皆殺しにされたということになった。
モンゴル軍の残虐さは、ロシア人にとって忘れがたいものだった。
中国人と日本人とモンゴル人は顔のつくりが似ていたので、遠くから見ると全部モンゴル人に似ていることから、ロシア人の反応はヒステリックなものだった。
ロシア皇帝ニコライ2世は、
「ドイツと単独講和して、モンゴル軍とだけ戦うことはできないか」
と最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公に下問している。
これに対してニコライ大公は、
「それなら全部と講和なさる方がよろしい。今ならシベリアを失うだけで済みます」
と回答している。
そこでニコライ2世は、ニコライ大公を最高司令官から解任し、新たなシベリア軍司令官に任じて送り出した。
後任はグリゴリー・ラスプーチンの助言を受けて自ら就任した。
これは二重の意味で不味い対応だった。
東部戦線ではドイツ軍の夏季攻勢が迫っていた上に、結庵汗の軍勢は1個軍を投入したところでどうにかなる相手ではなかったからだ。
この頃、シベリアでは1週間に1個ずつ、シベリア鉄道沿線の都市が結庵軍によって攻め落とされていった。
結庵軍の進撃速度(先行偵察騎兵の場合)は、1日70kmも移動した。
これは第一次世界大戦の常識からかけ離れた数字であった。
同時期の西部戦線ではフランス軍は5km前進するのに、20万発の砲弾と1個軍を必要とした。
ロシア軍はシベリア鉄道を爆破したが、結庵軍を止めることはできなかった。
相手は馬に乗って移動していたからだ。馬が使えないところでは船を使った。
結庵将軍は沿線都市を制圧すると食料などの軍需品を徴発して兵站を賄った。
モンゴル人は古の軍法に従って、男は奴隷にして女は犯すものと考えていたが、寛大なる結庵汗は彼らを許し、保護するように命令した。
モンゴル人は皆、結庵汗の言うとおりにした。
クラスノヤルスクで、結庵軍はニコライ大公の新シベリア軍と対決したが、結庵将軍は騎兵の機動力を最大限に活かしてクラスノヤルスクごと包囲してしまった。
ニコライ大公はヨーロッパの最新戦術を以て対応したつもりだった。
即ち、塹壕と鉄条網と機関銃による縦深防御である。
しかし、広大なシベリアでは塹壕を掘っても、左右から簡単に回り込まれてしまうので足止めにもならなかった。
騎兵は正面攻撃を避け、陣地があれば迂回するものだった。
こうした騎兵の機動戦に対応できるのは騎兵だけだった。
ロシア軍のコサック騎兵は果敢にも反撃したが、数が違いすぎた。相手は20万騎の騎兵集団だった。
それでもコサックの突撃は、モンゴル人達に感銘を与えた。
サーベルを振りかざして突撃するコサックに対してモンゴル人は古式の作法に則って、槍や刀剣で対応した。
さらに結庵将軍には切り札の秋山将軍の騎兵師団がいた。
日本製の最新兵器(機関銃や迫撃砲)で武装した秋山騎兵師団は火力でコサック騎兵を粉砕した。
その鮮やかな手腕から、秋山将軍はモンゴル人達から馬頭将軍と慕われた。
モンゴル人をヨーロッパにいざなった伝説のキプチャク・ハン国の王を擬えた異名である。
包囲されたニコライ大公は降伏勧告を蹴って徹底抗戦の構えだったが、結庵将軍は無理攻めを避けて後続を待った。
日本と中国はお互いの国鉄職員や共同経営の満州鉄道の職員を総動員してシベリア鉄道を修復し、改軌して結庵将軍の後を追いかけていた。
歩兵主体の近代軍隊の進撃速度はシベリア鉄道の修復速度に依存していた。
ロシア軍は橋やトンネルを爆破していたので、修復工事は容易ではなかった。しかし、クラスノヤルスクに関しては、河川交通が使用可能だった。
鉄道輸送でバイカル湖まで移動した河川砲艦や装甲艇がエニセイ川を遡行して、クラスノヤルスクへ移動することができた。
この手の小型艦の運用は中国陸軍(河川軍の管轄は陸軍であった)の得意とするところである。黄河や長江のような大河川を抱えているからだ。
後続の歩兵が到着すると結庵将軍は、船でエニセイ川を渡り、後を任せて西方長征を再開した。
市街戦など、騎兵のするものではないからだ。
結庵将軍が去った後のクラスノヤルスクの戦いは、西部戦線のような大量の砲弾を使用した砲撃後、廃墟となった市街地を日中連合軍の歩兵が制圧して終了した。
1915年7月15日のことである。
この攻撃は市民を巻き込んだ凄惨なものであった。
日中連合軍は市民に退避を呼びかけたが、多くは市街地から出ることを拒んだ。
モンゴル軍に皆殺しにされると勘違いしていたのである。
結庵汗に従うモンゴル人はさっさと大ハーンの慈悲に縋らなかったロシア人の頑迷さを愚かしく思った。
なお、ニコライ大公は司令部が40サンチ自走臼砲の直撃弾を浴びて崩壊し、瓦礫の下にいるところを救助され、そのまま捕虜となっている。
そのニコライ大公と1個軍が抜けた後の東部戦線は記録的な大敗を喫した。
ドイツ軍はロシアを戦争から脱落させるため、西部戦線から1個軍を引き抜いて戦力を増強した上で、大規模な夏季攻勢に打って出た。
シベリアに1個軍を振り向けていたロシア軍は、兵力でドイツ軍を下回った上に、指揮官交代のドタバタで戦える状態ではなかった。
また、軍総司令官としてニコライ2世は無能さを露呈した。
クラスノヤルスクの戦いで1個軍をさらに失うとドイツ軍の攻勢が続く東部戦線からさらに1個軍を引き抜いてシベリアに送ってしまったのである。
ニコライ2世は撤退して戦線を縮小すれば乗り切れると考えていたが、ドイツ軍の攻勢はニコライ2世の予想を上回っていた。
ドイツ軍第10軍はミンスクを陥落させ、オーストリア軍第4軍がリウネを占領。ロシア軍はポーランド、バルト三国、クールラントから叩き出され、本国にまで攻め込まれる羽目になった。
シベリアに送った1個軍もまた結庵将軍の前に敗北した。
そもそもシベリア鉄道は単線しかなく、輸送能力には限界があった。
1個軍(20万人)の移送も、分割しておらねばならず、そして、分割して送るということは各個撃破を意味していた。
ニコライ大公は各個撃破を恐れてクラスノヤルスクに兵力を集中させたがまとめて包囲される結果に終わった。
どちらにせよ結庵の大騎行を止めるには兵力が不足していた。
ノヴォニコラエフスクでは、結庵将軍は守備態勢の未完成を見取って、後続の歩兵を待つことなく市街地へ騎兵で突撃し、守備隊司令部を制圧して降伏させた。
この功績により、僅か37歳で結庵は元帥に昇進することになるが、誰も異論を挟むものはいなかった。
救国の英雄の後継者は本物の天才だったからだ。
ノヴォニコラエフスクの陥落は9月11日のことである。
ここからモスクワまではおよそ3,000km離れており、西方長征はまだ四分の一が済んだばかりであった。
結庵軍はここで冬営に入った。
冬のシベリアは戦争には適した季節ではなかった。
やや冬営の判断が早いという批判もあるが、結庵軍の強さは兵站が軽いことにあり、糧秣は現地での徴発に頼っていた。
そのために常に移動し続けなければ、軍が飢えてしまうのである。
これは中世の軍隊と何ら変わらない姿であったが、やがて後方からシベリア鉄道を使って歩兵の軍隊が追いつき、兵站が整えられたので問題なく結庵軍は冬を越せた。
なお、結庵軍に追いついた日中連合軍は、当初、結庵軍をロシア軍の偽装兵だと勘違いし、あわや同士討ちをするところだった。
というのも、結庵軍では被服や兵器を鹵獲品に頼っており、遠目から見るとロシア軍にしか見えなかったからだ。
所属や階級も不明なモンゴル人達に至ってはどう説明したら良いのか分からない状態だったが、如才ない秋山将軍が義勇兵と一括して処理した。
結庵元帥は年始の挨拶で、今年の目標としてウラル山脈突破を掲げた。




