されど、日本人はインド洋で踊る
されど、日本人はインド洋で踊る
1914年6月28日 サラエボ事件
オーストリア=ハンガリー二重帝国は事件の責任を追及し、セルビア王国に最後通牒突きつけた。
その内容は、セルビアが受け入れ不可能な内容であり、開戦の口実づくりでしかなかった。
イギリスの外務大臣エドワード・グレイはオーストリアの最後通牒を
「最も恐ろしい文書」
と評した。
しかし、この要求の殆どをセルビア政府は飲み込んだ。
オーストリア=ハンガリー二重帝国とセルビアの国力差は歴然としており、戦争に勝ち目はないと考えられていたからである。
しかし、オーストリア帝国政府は要求が満たされなかったとして、7月28日にセルビアに宣戦を布告した。
サラエボ事件からオーストリアの宣戦布告までの1ヶ月間は7月危機と呼ばれる。
この間に、ヨーロッパ各国は戦争準備と戦争回避を同時に実行した。
車の運転に例えるならば、アクセルとブレーキのペダルを同時に押し込んだ状態だろうか。
余り賢い人間のやることではなかった。
全ての戦争回避努力は失敗に終わったのは、ある意味、当然の成り行きだと言えた。
ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世とロシア皇帝のニコライ二世とイギリス国王ジョージ5世は従兄弟の関係で、戦争回避を模索して電報で交渉を行ったが全ては暗礁に乗り上げた。
戦闘当事国のトップが全員親戚なら、どうにかなりそうなものだが、どうにもならなかった。
16世紀の日本の東北地方だったら、合戦の現場にみんなのお姉ちゃんが乗り込んで来て体を張って止めてくれそうなものだったが、今回は20世紀でヨーロッパだった。
この3人のうち、最も責任が重いのはヴィルヘルム2世だと言えた。
ヴィルヘルム2世の現実認識は超常現象的なまでに楽観的であり、サラエボ事件の後に休暇をとってヨットでクルージングに出かけてしまった。
ヴィルヘルム2世が、オーストリアの強硬姿勢を知ったのは政府閣僚による閣議やブリーフィング等ではなく、別荘に届けられた新聞報道で、だった。
彼が従兄弟のニコライ二世が連絡をとったのはロシア軍の動員開始後で、もはや全てが手遅れだった。
ヴィルヘルム2世は従兄弟のロシア皇帝に動員停止を求めたが、それは不可能である。
動員の速度は兵力の多寡に直結しており、一度動員が始まってしまうとそれを止めることは仮想敵国に兵力量で劣ることを意味する。
ロシア皇帝のニコライ二世が、
「技術的に不可能」
と動員停止を断ったのは、動員という巨大な戦略兵器システムの本質を的確に理解していた証左であり、ヴィルヘルム2世の認識不足であった。
或いは理解していても、帝室の紐帯によって最悪の事態は避けられると考えての行動だったのかもしれない。
しかし、事態は帝室の紐帯などという旧権威で制御できる次元を超えており、蒸気機関車の鉄輪で容易く踏み潰される程度のものでしかなかった。
もはや国王や皇帝の権力で国家の軍事システムを制御できる時代は終わっていた。
ロシア帝国の総動員発令は、7月30日であった。
7月31日、日本政府は総動員を発令。大量の赤紙を発行して予備役を招集した。
8月1日、ドイツがロシアに宣戦を布告。
日本では在留邦人の緊急帰国やヨーロッパ周辺海域にいた商船の退避を急いでいた。
帝国海軍の全艦艇は最寄りの鎮守府に集結を進めており、出師準備を整えて政府の宣戦布告を待っている状況だった。
シンガポールには、戦列艦隊の第1、第2戦隊が集結し、守りを固めた。
8月3日にドイツはフランスに宣戦布告、翌4日にイギリスはドイツに宣戦を布告した。
日本の宣戦布告は8月5日で、日中独三国同盟に基づきロシア及びイギリス、フランスに宣戦を布告して戦争状態に突入した。
日本の宣戦布告によって、サラエボ事件は世界規模の大戦争に拡大した。
ヨーロッパとアジアを覆った複雑な同盟関係による緊張と対立、連鎖反応は瞬く前にユーラシア大陸を越えて、インド洋を戦場に変えたのである。
8月5日には、ドイツ軍はベルギーに侵入してリエージュ要塞攻略を開始している。
8月6日は、日本海軍の巡察艦根室が退避中のロシア商船の「フコンタクテ」を拿捕した。
その際に「フコンタクテ」の乗員が抵抗して、日本海軍の臨検隊1名が死亡。これが日本人の戦死者第1号となった。
後戻りできない一線を越えた日本軍は、168号計画に基づき大戦力をシンガポールに集結させた。
168号計画は、イ~ト号なる7つの基本戦争計画である。
当初はイロハ計画であったが、その後に語呂合わせで168号計画と称されるようになった。
欧米ではP.168などと省略されることもある。
当初は対イギリス戦(イ号計画)と対ロシア戦(ロ号計画)の二つしかなかった。
その後、ハ号(対フランス)、ニ号(対アメリカ)、ホ号(対ドイツ)、へ号(対中国)、ト号(対ヨーロッパ連合)、チ号(国内戦)までが想定された。
イ号計画は海軍省によって計画され、ロ号計画は陸軍省によって作られた。
どちらのプランにおいても共通しているのは長期持久・消耗戦略である。
これはあまりにも敵国首都が遠すぎるという判断がある。
ロンドン、モスクワまでに占領軍を送る具体的な計画は如何なる想定を以てしても立案不可能だと考えられていた。
日本の攻勢限界を見極めたイギリス海軍やロシア陸軍の反撃によって、進撃はどこかの段階で阻止されるはずであったし、その限界点で決戦を挑んで勝利することが求められた。
それで決着がつけば良いが、敗北した場合は軍を撤収させて内線防御に移行し、侵攻軍に耐え難い損害を強要した上で政治的な決着を模索することになっていた。
どちらにせよ、敵国を完全に滅ぼす絶滅戦争計画のようなものは想定していない。
それでも開戦から3週間足らずで、シンガポールに日本海軍連合艦隊が集結したのは、イギリス海軍の跳梁を阻止し、少しでも戦線を本国領土から遠ざけるためだった。
その陣容は以下のとおりである。
戦列第一艦隊
司令部 戦艦 「扶桑」
第一戦隊 戦艦 旗艦「扶桑」「山城」「近江」「播磨」
第二戦隊 戦艦 旗艦「金剛」「霧島」「榛名」「比叡」
第一戦列巡察艦戦隊 戦列巡察艦 旗艦「八島」「穂高」「高千穂」「剣」
第二戦列巡察艦戦隊 戦列巡察艦 旗艦「笠取」「衣笠」「青葉」「鈴鹿」
第一水雷戦隊 戦列巡察艦 旗艦「吾妻」
第二水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
第十二水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
第十四水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
戦列第二艦隊
司令部 戦艦「相模」
第三戦隊 戦艦 旗艦「相模」「伊豆」「駿河」「武蔵」
第五戦隊 戦艦 旗艦「敷島」「朝日」「三笠」「初瀬」
第四戦列巡察艦戦隊 戦列巡察艦 旗艦「妙高」「愛宕」「御嵩」「畝傍」
第五戦列巡察艦戦隊 戦列巡察艦 旗艦「那智」「摩耶」「六甲」「吾妻」
第二水雷戦隊 戦列巡察艦 旗艦「春日」
第三水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
第十一水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
第一三水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
戦列第三艦隊
司令部 戦艦「摂津」
第四戦隊 戦艦 旗艦「摂津」「和泉」「河内」「淡路」
第三戦列巡察艦戦隊 戦列巡察艦 旗艦「筑波」「生駒」「蔵馬」「伊吹」
第三水雷戦隊 戦列巡察艦 旗艦「日進」
第九水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
第一八水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
第二二水雷隊 艦隊型水雷艇 4隻
36cm砲搭載艦で固められた戦列第一艦隊は日本海軍最強部隊であった。
30cm砲搭載艦を集めた戦列第二艦隊を併せて戦艦16隻、さらに戦列第三艦隊の摂津級4隻や本土で錬成中の伊勢級4隻を含めれば、合計24隻に達する。
この他に前レ級戦艦24隻、戦列巡察艦24隻があった。
イギリス海軍の開戦時に保有するレ級以上の戦艦は31隻であった。
ドイツ海軍の戦艦は16隻で、日本と合計すると40隻となりイギリス海軍を上回った。
この戦力差は時間経過でさらに拡大するものと考えられており、イギリス政府は開戦前に軍備制限条約を提案している。
しかし、イギリス海軍の戦艦保有量を日独の2倍と規定するなど、あまりにも手前勝手なものだったので拒絶された。
連合艦隊司令部は戦艦「金剛」におかれ、その司令長官は三木谷舞弥海軍大将が就いた。
三木谷海軍大将は、装甲戦列艦伊吹の艦長として伝説のマラッカ海峡海戦に参加した生え抜きで、軍歴の殆どを海の上で過ごした海の漢だった。
坂本龍馬の教え子の中でも、突出した才能を示し、その信頼は絶大なものがあった。
坂本は君臨すれども統治せずとして、基本的に海軍人事に口出しすることはなかったが、第一次世界大戦を前にして三木谷を連合艦隊司令長官に推薦している。
三木谷の才覚とはそれほどのものだった。
海軍の期待を一身に背負った三木谷提督の用兵は疾風そのものだった。
開戦から、28日後の1914年9月2日はセイロン島沖に艦隊を進め、翌9月3日にイギリス海軍インド洋艦隊との決戦に臨んだ。
イギリス海軍もまた、日本海軍との決戦に備えてインド洋への戦力集中を図り、虎の子の巡洋戦艦6隻及び戦艦14隻、合計20隻を送り出した。
インドこそ大英帝国の力の源泉であり、インド洋の制海権喪失は北海の制海権喪失に匹敵する致命的な敗北であるからだ。
本国に残る戦艦は11隻まで減少したが、ロシア海軍のバルト海艦隊とフランス艦隊がそれぞれ4隻ずつ弩級戦艦を保有しており、ドイツ海軍に数的優位は確保できていた。他に大量の前レ級戦艦(42隻)の戦力もあり、ドイツ海軍は港から出ることはなかった。
日本海軍も急いでいたが、それ以上にイギリス海軍は急いでいた。
バルト海は冬になれば凍結してロシア・バルト海艦隊は行動不能になるため戦力としてはあてにならなくなるからだ。
さらに時間経過で戦力差が拡大する日独海軍を相手に、戦力差が小さいうちに決戦し、戦力を削いでおく必要があった。
運命のセイロン島沖海戦は、上陸船団を撃滅すべく出撃した英インド洋艦隊と船団を守る連合艦隊が激突して始まった。
英インド洋艦隊の作戦参加艦は121隻、日本海軍は95隻だった。英インド洋艦隊の戦力が多いのは多数の駆逐艦が参加しているためである。
日本側の艦隊型水雷艇は航続距離に不安があり、旧式の艦隊型水雷艇は燃料不足で海戦に参加できない船が多かった。
海戦はお互いの艦隊の目となる偵察艦隊同士の遭遇戦に始まり、通報を受けた日英の高速艦が現場に殺到して、大規模な砲撃戦となった。
先に戦場に到着したのは日本の高速戦艦部隊だった。
三木谷提督が座乗する旗艦の金剛を先頭に榛名、霧島、比叡、敷島、朝日、三笠、初瀬は、英インド洋艦隊の軽巡洋艦戦隊を蹴散らした。
ビーティー提督が座乗する巡洋戦艦ライオンを先頭に英巡洋戦艦部隊が到着すると同航戦となったが、ここで日本海軍の遠距離砲戦能力が光ることになる。
日本海軍は同盟国のドイツから優れた光学機器を輸入可能で、測距儀はカール・ツァイス製か、同社の製品を日本でライセンス生産したものだった。
20世紀の初頭、ドイツの光学技術は世界一を誇り、多くの優れた形式のレンズを生み出した。
21世紀現在においても、流通する殆どのレンズがドイツで発明された形式を基礎としているほどであり、光学技術に関しては他の追随を許さなかった。
距離20,000mから発射された霧島の36cm砲弾は、英巡洋戦艦インディファティガブルの砲塔天蓋を叩き割り弾薬庫を誘爆させ、これを一撃で轟沈せしめた。
さらに15分後には英巡洋戦艦クイーン・メリーが全く同じ形で轟沈した。
速力を以て防御装甲の代わりとするイギリス式の巡洋戦艦は防御力が不足しており、特に遠距離から大落下角度で降り注ぐ砲弾を受け止める水平装甲が不足していた。
砲塔装甲も不足気味だったが、それ以上に致命的だったのは速射を重視したイギリス海軍は砲塔内にコルダイトを配置するなど安全規則を無視した運用を行っていたことである。
砲塔を撃ち抜かれたインディファティガブルは、安全規則を無視して砲塔内部に置かれていたコルダイトに引火誘爆して一撃で轟沈する羽目になった。
状況はクイーン・メリーも同じである。
2隻の巡洋戦艦を相次いで失ったビーティー提督は、本隊との合流すべく反転北上し、追撃する日本艦隊と再び同航戦となった。
この時、三木谷提督の指揮があまりにも高速かつ的確であったことから追撃目標の英巡洋戦艦部隊を追い越してしまった。
ビーティー提督は進路を塞がれた上に、2倍の敵を相手にするという劣勢の中でさえ、戦艦霧島、比叡を大破させ、朝日を沈めているがそれが限界だった。
イギリス艦隊の旗艦ライオンを撃ち抜いたのは日本艦隊の旗艦金剛だったとされる。
機関停止に至ったライオンは漂流し始めたが、止めは刺されなかった。
インド洋艦隊の本隊が到着したためである。
本隊を率いるジョン・ジェリコー海軍大将は巡洋戦艦部隊が壊滅したことを知っていたが、日本の高速艦隊が突出していることにも気がついた。
この時、連合艦隊の本隊はあまりにも速い三木谷提督の直卒部隊に追随することができず、遥か後方を走っていたのである。
そして迂闊なことに三木谷提督はジュリコー本隊の主砲射程圏内に踏み込んでしまっていた。
この瞬間こそ、インド洋艦隊に残された最後の勝機だった。指揮官を討ち取り、敵の高速部隊を全滅させる絶好のチャンスだった。
ジュリコーの報復と呼ばれる三木谷提督直卒部隊への砲撃は熾烈を極めた。
旗艦金剛には7発の12インチ砲弾を命中して、艦全体が火だるまになった。不運な三笠は弾薬庫を撃ち抜かれて爆沈した。
水平防御が不足しているのは日本海軍の戦艦も同様だったのである。
だが、幸運な三木谷提督はジュリコーの報復から逃れることに成功する。先にビーティーの巡洋戦艦部隊が壊滅したため、退路を塞がれることはなかったからだ。
連合艦隊本隊が到着したことで数的不利を悟ったジュリコー提督は撤退を決意した。
大量につれてきた駆逐艦による遠距離魚雷攻撃によって、追撃する連合艦隊本隊は変針を余儀なくされたが、連合艦隊は追撃の手を緩めなかった。
最高速力23ktの連合艦隊に対して英インド洋艦隊は20ktが限度だった。
僅か3ktだったが追撃時の3ktの優越は効果絶大だった。
さらに連合艦隊には、三木谷提督直卒の高速部隊が残っており、ジェリコーの撤退を効果的に妨害した。
三木谷提督は最前線で指揮を執ることでジュリコーの本隊を捕捉しつづけ、追撃は1昼夜に渡って続いた。
日没後は水雷戦隊による夜間襲撃が行われ、足が止まった船から順番に後方から追撃する連合艦隊に捕捉され撃沈されていった。
最終的にコロンボ港に逃げ込めた英戦艦は8隻だった。戦艦の損失は12隻。生き延びた船も被弾して損傷を抱えていた。
日本海軍の戦艦の損失は戦艦3隻と大破3、中破2であり、三木谷長官直卒の高速部隊はほぼ壊滅状態となった。
しかし、本隊の損傷艦は少なくセイロン島上陸作戦は続行可能だった。
日本海軍はコロンボ港を封鎖し、インド洋の制海権を確保した。
セイロン島沖海戦は、日本海軍の勝利に終わったのである。
この戦いで、日本海軍は高速の戦艦こそが海戦の主役であることを確認した。27ktが出せる金剛級や敷島級が戦闘を主導し、低速の本隊に海戦の決定権はなかった。
イギリス海軍もまた高速の戦艦こそ海戦の主役であることを認識したが、同時に自国の巡洋戦艦が全くの欠陥品であることに気がついた。
速力で防御力の不足を補うとしたイギリスの巡洋戦艦は日本海軍の36cm砲の前に無力であり、一発の被弾で戦闘能力を失いかねない欠陥兵器であることが露呈した。
仮にビーティー提督の巡洋戦艦部隊に、ジュリコーの本隊到着まで生き延びるだけの生存性があれば、突出していた三木谷の高速部隊は逆に壊滅させられていたはずである。
本隊到着前に巡洋戦艦部隊が壊滅したことが、イギリス海軍の敗因といえた。
セイロン島沖海戦の勝利は報道発表によって直ぐ様、各国に伝わり、特に同盟国のドイツでは大きく取り上げられた。
連合艦隊司令長官の三木谷海軍大将が、追撃時に英巡洋戦艦部隊を追い越したエピソードは広く知られるところになった。
その戦いぶりは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からも
「シュトルム・ウント・ドランク、ミッターマイヤー」
と激賞されるほどであった。
三木谷舞弥はドイツ人には発音が難しく、語感が似ていたことから、ドイツでは三木谷提督は専らミッターマイヤーと呼ばれることになる。
ちなみにミッターマイヤーは南ドイツやオーストリアでは一般的な人名である。
それはともかくとして、三木谷提督は疾風のごとく戦線を拡大させ、インド洋の要地を次々に抑えていった。
セイロン島上陸から2週間後には、紅海入り口のソコトラ島へ海兵隊を上陸させ、イギリス軍が防備を固める前にこれを奪取した。
さらにセイロン島の戦況の安定を見ると戦線から海兵第1師団を引き抜いて、仏領マダガスカル島に上陸させている。
南アフリカのケープタウンにも日本軍が上陸して、南アフリカ戦線が始まった。
英仏軍の展開は後手に回り、日本軍は小兵力で占領地を拡大することができた。
それもこれもインド洋の制海権を確保していることが大きかった。
日本軍は、セイロン島の東海岸に3個師団(第1海兵師団、陸軍第11、13師団)を上陸させるとツリンコマリーを確保し、連合艦隊の泊地とした。
損傷艦はシンガポールか、呂宋まで戻って修理を受けたが、ツリンコマリーでもある程度の修理が可能なように工作艦が進出している。
その他に給食艦、病院船、給油艦、補炭艦、航洋タグボートなどがツリンコマリーに入り、一つの海上都市を作り上げていった。
陸の戦況は、補給を絶たれたイギリス軍が絶望的な抵抗を行っていたが、次々と増援を送り込める日本軍が圧倒して、コロンボを包囲した。
英インド洋艦隊最後の日が迫った。
コロンボ港は機雷で出口を封鎖されていた。
潜水艦も配置され、沖合には第二戦列艦隊が待機して、コロンボから脱出を試みるイギリス海軍の出港を待ちわびていた。
最終的に英インド洋艦隊に止めを刺したのは陸軍の要塞攻略砲部隊と飛行機だった。
日本陸軍は極東戦争の折、シンガポール要塞を3度攻撃して3度とも攻略に失敗した苦い経験がある。
分厚いベトンに守れた要塞砲やトーチカを破壊できなかったのである。
戦後、日本陸軍は要塞のベトンを破砕することが可能な大口径砲の開発を推し進め、40cm自走臼砲として実用化した。
有効射程は15kmと口径の割には短いが、これは大重量砲弾(ベトン弾)を大落下角度で目標に発射する臼砲であるため止む得ないものだった。
野戦で運用することは考慮されていないが、ディーゼル機関を搭載することで時速12kmで自走することが可能だった。
ただし、重量が77tもあるため自走での長距離移動は現実的ではなく、戦場付近まで鉄道で輸送されることになっていた。
コロンボ攻略には、12門の40cm自走臼砲が投入された。
この砲撃を誘導したのが日本陸軍航空隊のMb5偵察機である。
Mb5偵察機は日本陸軍航空隊が初めて採用した2人乗りの偵察機で、機体構造は木製複葉布張りだった。エンジン馬力は120馬力しかなかった。
とはいえ、ライト兄弟による人類初の動力飛行が12馬力のガソリンエンジンで1903年に達成されたことを考えれば、必要にして十分だったとも言える。
ライトフライヤーの成功によって、世界中に航空エンジニアが誕生した。
この場合の航空エンジニアというのは自称である。
航空力学のような学問体系は存在しない時代故に、誰でも思い立ったその日から航空エンジニアであった。
日本でも、そこらへんにいるちょっと金がある大学生や暇人がライトフライヤーを見よう見まねで作り、飛行実験を行って、墜落して大量に死亡する事故が起きた。
21世紀現在なら政府による法規制が叫ばれたところだろうが、20世紀初頭の日本人は非常にゆるい死生観をしていた。
また、金なら幾らでもあった。
1910年代の日本は日本式帝国主義全盛期である。太平洋の富という富を日本列島にかき集める金満国家だった。
大阪や横浜の中流以上の家庭は中国人か朝鮮人のメイドやサーヴァントを雇って家事をやらせることが当たり前のこととされた。
メイドを雇えない下流向けに、あたかもメイドを雇っていると見せかけるためだけに玄関掃除だけを行うメイドを派遣するサービスまであったほどだ。
大阪の全人口に匹敵する数のメイドが登録されていたというのだから驚きである。
好景気のため、空前の人材不足で企業は人の確保に四苦八苦した。
金余りの企業は社員を確保するために大学に金をばら撒き、就職前から海外旅行に連れていきそのまま拉致して社員にするようなことまでやっていた。
そこで金のある企業がスポンサーになり、日本全国の大学や好事家が参加する飛行機コンテストが琵琶湖湖畔で開かれたのは1907年のことだった。
これが21世紀現在まで続く、鳥人間コンテストの源流である。
このコンテストの優勝者の中から、真の航空エンジニアが誕生していった。
Mb5偵察機は、その内の一人、光菱渡の手によって設計された。
彼が設立した光菱航空機は第一次世界大戦を経て日本を代表する航空機メーカーに発展していった。
光菱は日本初の航空機メーカーというだけあって、パイオニアを自称して高速機の開発に強いこだわりがあった。
後にマッハ3級の芸術的な戦略偵察機Mb1707”黒鳥”を生み出して光菱は世界を震撼させることになるが、1914年に飛んだMb5の最高速力は100km/hが限度だった。
しかし、水上艦を偵察するなら十分だった。
Mb5偵察機による着弾観測射撃によって、インド洋艦隊の頭上に40cmベトン弾が降り注いだ。
在泊艦艇は緊急出港したが、彼らの前には機雷原と潜水艦の待ち伏せ、そして第二戦列艦隊の砲列が待ち構えていた。
機雷と潜水艦の待ち伏せで戦艦2隻が沈み、脱出が不可能であると悟った英インド洋艦隊は残存艦艇を自沈させた。
コロンボも40cm自走臼砲の砲撃によって、軍港要塞を粉砕され陥落。
1914年10月8日、セイロン島は日本軍の手に落ちた。




