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プリンチップの弾丸は撃ち抜けない



プリンチップの弾丸は撃ち抜けない



 極東戦争終結後、日本及び中国の指導的な立場にいる政治家は一つの結論に達した。

 それは、 


「ヨーロッパの紐帯を破壊しないかぎり、アジアへの再侵略は不可避」


 というものだった。

 実際に、そうした公的な政策方針決定が存在しているわけではないが、伊藤博文や李鴻章は死去するまでヨーロッパの紐帯を最大の脅威と考えていた。

 歴史的に見てもナポレオン戦争後のウィーン体制やビスマルク体制といったヨーロッパの平和状態が長期に渡って継続する時、その力は外部へと展開された。

 ヨーロッパが対立か紛争状態であれば、ヨーロッパ以外は平和でいられるのである。

 それまでアジアや西太平洋での政治・外交に終始していた日本は、極東戦争を経てヨーロッパまで巻き込んだ外交政策の必要性を痛感した。

 極東戦争以後の日本外交はむやみに大国主義且世界規模的な視野に立った動きをしていく。

 日本が警戒したのはイギリスとロシアの連携だった。

 ロシアは極東戦争後も清露国境に大軍を駐留させ、清を圧迫し続けた。

 イギリスは極東戦争で消耗した後に第二次ボーア戦争でさらに疲労していたが、インド洋艦隊を増強して、日本海軍に対抗する姿勢を崩していなかった。

 日中は、ヨーロッパ最大の海軍国と最大の陸軍国の連携を妨害するためにあらゆる手管を用いたが、イギリス・ロシアの利害は一致しており、その関係を崩すことはできなかった。

 イギリスとロシアが対立するとしたら、それはロシアが極東以外で南下政策を採った場合のみだった。

 英露の分断が不可能と感じた日本は次善の策としてヨーロッパに同盟国を探すことになる。

 当初、日本が接近したのはフランスだった。

 フランスはビスマルク体制下のヨーロッパで孤立しており、同盟の可能性はあった。イギリスとも植民地獲得競争で敵対する関係にある。

 しかし、ロシアとは対立しておらず、むしろ同盟を結びたがっていた。

 フランスは普仏戦争の復讐に燃えており、ロシアと同盟してドイツを東西から包囲しようとしていたのである。

 更に日本はオーストリア=ハンガリー二重帝国とも交渉を重ねたが上手く行かなかった。

 彼らはまとまらない国内政治で消耗して、アジアとの同盟などありえなかった。

 最終的に日本と中国が見つけた同盟相手はドイツだった。

 これは意外なことだった。

 何しろ、日中にとって最大の政治的脅威はビスマルク・ドイツだったからだ。実際に彼は極東戦争後の日中の外交攻勢を巧みにさばき、ヨーロッパの紐帯を維持し続けた。

 間違いなくビスマルクは、19世紀末のヨーロッパ最高の政治的な指導者であった。

 だが、ビスマルクが1890年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と対立して罷免されると状況が変わった。

 伊藤首相はビスマルクを罷免したヴィルヘルム2世を、


「あれは阿呆か?それとも・・・」


 などと警戒しつつもドイツへ外交攻勢に出た。

 ヴィルヘルム2世は植民地獲得こそがドイツを栄光に導くとして、「世界政策」と呼ばれることになる膨張政策を採用し、軍事力を背景に強引な植民地獲得を画策した。

 そのためイギリス・ロシアとの対立は不可避であった。

 ヴィルヘルム2世の膨張政策は、ビスマルクの築いたヨーロッパの勢力均衡を破壊するものだったが、当初は誰もそのことに気が付かなかった。

 ビスマルク体制下のドイツは戦争を経験することなく経済発展が続き、国家全体が上向きの雰囲気に包まれていた。

 そのため、ビスマルクの現実主義的(地味な)外交政策は世論の支持を失っていた。

 人々は29歳でドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世の語る夢に魅了されていたのである。

 また、現実の問題としてドイツ経済には新たな植民地が必要だった。

 ビスマルク時代に得たドイツの植民地はアフリカの一部地域に過ぎず、イギリス・フランスに比べると見劣りした。

 産業革命を経て増大したドイツの工業生産に外部のはけ口が必要だったのである。

 さらにドイツは人口問題も抱えており、余剰人口の移民先を探していた。

 日中の外交攻勢は、巨大市場である中国・日本の市場の開放から始まり、日本はそれまで日本人以外の移民を禁止していた大蘭州をドイツ人に限っては開放するとした。

 さらに日本は南太平洋の島嶼領土の売却まで提案している。

 19世紀末の日本の人口は植民地人を含めて1億人に達していた。中国も産業革命に突入して人口爆発を迎え3億人という巨大な人口を抱えている。

 その購買力はあまりにも魅力的だった。

 さらに移民先としての大蘭州はドイツから遠いものの気候は穏やかな土地であり、開拓地としては申し分なかった。

 南太平洋の島嶼領土に関しても、経済的には全く無価値であり、日本からすると不良資産でしかなかったが、ヴィルヘルム2世の個人的な虚栄心を満たすには十分だった。

 また、ドイツは日本はともかく中国には好意的だった。

 中国の大中華帝国憲法はドイツ憲法を模範にしたものであり、中国軍もドイツの軍制をモデルとしていたのが大きかった。

 反対に日本は帝国を名乗りながらも象徴君主制の上に、自由主義や民主主義に迎合する偽帝国として嫌悪していた。

 だが、自分の好き嫌いを封印することができる程度の分別はヴィルヘルム2世にもあった。

 逆に言えばその程度の分別しかないと言えた。

 日中独による同盟交渉は、1902年に結実して日独中合作(日独中三国同盟)が締結される。

 ロシア帝国を東西から包囲するこの同盟によって、ロシアはヨーロッパ方面に兵力を拘束され、シベリアの戦力を増強することができなくなった。

 既にロシアはフランスと秘密同盟(露仏協商)を締結してドイツを東西から包囲していたが、逆に包囲されることになった。

 1904年にはシベリア鉄道が全線開通し、ロシア軍の戦略輸送力は飛躍的に強化されたが、状況は変わらなかった。

 この年は極東ロシア軍が55個師団まで増強され、戦争の危機が最も高まった年である。

 日中もほぼ臨戦態勢にあり、日本海には連合艦隊が展開していた。

 しかし、何事もおきずに1904年危機は終息に向かった。

 最終的に、ロシアは極東進出を諦めた。

 東西を日独中に包囲されたロシアに、もはや戦争に訴えるという選択肢はなかった。

 ロシアの同盟国のイギリスは極東戦争・ボーア戦争で疲弊しており、第二次極東戦争を戦える状況ではなかったのも大きかった。

 ロシア皇帝ニコライ2世は極東の南下政策を断念するしかなかったのである。

 代わりに、ロシアはイギリスとの妥協を成立させ、1907年に英露協商を締結した。

 この協定はドイツに対する秘密同盟であると同時に、バルカン半島へのロシアの進出を認めるものだった。

 それはイギリスの生命線である地中海航路を危険に晒す可能性があったが、ロシアの不凍港を得るという悲願を利用してドイツ包囲網をつくることをイギリスは優先した。

 前述の露仏協商と併せて、英仏露の三国協商が成立することになる。

 ベルリン、ビザンチン、バグダッドを鉄道で結び中東への進出を図るドイツはロシアのバルカン半島進出を容認できるものではなく、ロシアと対立するオーストリア=ハンガリー二重帝国及びイタリア王国と同盟を結び、五国(日独中墺伊)同盟を作り上げた。

 ヨーロッパに巨大な対立構造が完成したことを日中の政治家は喜んだ。

 彼らの対立はアジアの共通利益であるからだ。

 しかし喜びは長くは続かなかった。

 あまりにも彼らの軍事対立は先鋭化しすぎていた。

 特に英独の建艦競争は、日本にとって悪夢だった。

 ドイツは海外植民地獲得のためにティルピッツ海相の指導下にて「ドイツの将来は海上にあり」のスローガンの下、大海軍の建設に邁進した。

 1898年の第一次艦隊法に基づく海軍拡張は戦艦19隻を基幹とするものだったが、1900年の第二次艦隊法は倍増の38隻に拡張された。

 イギリス海軍も対抗心をむき出しにして、最終的には戦艦、巡洋戦艦を合計60隻保有するという何かが振り切れた大軍拡に至る。

 頭のネジが外れた英独建艦競争を生み出した責任については当事者のものだが、日本も全く無関係とは言えなかった。

 1905年、日本は世界の海軍関係者を驚愕せしめた革新的な装甲戦列艦を建造した。

 その装甲戦列艦(戦艦)は既存艦の主砲である30cm砲を連装5基10門搭載し、高速発揮のためコジマ式蒸気タービン(コジマ機関)を備え、射撃方位盤を装備することで遠距離でも命中弾を得ることができるという在来型の戦艦を陳腐化する革新的な存在だった。

 即ち、連山級戦艦である。

 技術試験を兼ねて中国海軍からの発注により建造された連山級戦艦は四季崎重工の横須賀造船所にて建造された。

 陸軍国で予算に乏しい中国海軍が、既存の戦艦2隻分の戦力を1隻分の予算で実現するという無謀に挑戦し、技術的ディレッタントと称される四季崎重工がそれに応えた結果完成した連山級戦艦は日本海軍を含めて全世界の海軍国に、


「レ級ショック」


 という一大センセーションを巻き起こした。

 レ級戦艦によって、既存の戦艦は全てが陳腐化して、各国の海軍軍備は0から仕切り直しとなったのである。

 今なら海軍拡張でイギリスに勝てるとドイツが考えたのも無理はなかったし、イギリス海軍の焦慮は凄まじいものだった。

 イギリス海軍はレ級戦艦に驚き、そして速やかにほぼ同じコンセプトのドレッドノート級戦艦を1906年に完成させた。

 連山とドレッドノートは僅か半年の差でしかなかった。

 もしもドレッドノートが先に完成していたら、以後建造される戦艦は全てド級戦艦と呼ばれていたことだろう。

 先を越されたイギリス海軍関係者は大いに悔しがったとされる。

 一番最初に海軍拡張を開始したドイツは、日英の最新技術に対抗できず、彼らがド級戦艦ナッサウを完成させたのは、1909年で連山から4年遅れ、ドレッドノートから3年遅れだった。

 以後、各国は猛烈な勢いで連山級戦艦をモデルとした戦艦の建造を開始した。

 ちなみに中国海軍は世界初のレ級戦艦保有国となったが、続く戦艦建造の予算がなかったことから、早々と列強国の建艦競争からは脱落した。

 日本海軍が保有した最初のレ級戦艦が、摂津級戦艦である。

 摂津級は連山のほぼ同型艦であったが、砲塔を1基減らして4基の砲塔を艦の中心線上に配置することで、片舷8門を実現していた。

 連山は3、4番砲塔が背中合わせに配置されており、連装5基搭載しながら片舷4基8門が限度だった。さらに砲塔を1基減らした分だけ摂津は防御力を改善することができていた。

 摂津は連山の試験結果を踏まえて装甲配置も合理化されており、以後の日本式戦艦の標準形式となった。

 日本戦艦の連装4基8門というのはレ級戦艦としては最低限の火力であり、防御装甲も石炭庫を間接防御構造として使用するなどして、装甲を削減していた。

 これはリソースを速力(23kt)と航続距離(10,000海里)に割り振った結果である。

 広大な太平洋での活動を求められる日本戦艦は航続距離を重視していた。

 さらに必要な場所に必要な時に戦力を糾合するには速力が必要であり、火力と防御は必要最低限度のものを確保することで良しとしていた。

 そのため排水量の割に日本戦艦は攻防性能が低かった。

 広大な太平洋国家である日本らしい選択であると言えよう。

 防御に割り振ったドイツ戦艦や、ドイツ戦艦に対抗するために火力と速力を求めざる得なかったイギリス戦艦、速力を切り捨てて防御と火力と航続距離を高いレベルで一致させたアメリカ戦艦など、戦艦はその国の海軍戦略環境を表す指標である。

 1907年予算で、摂津級は4隻が同時に建造された。

 さらに翌年には摂津級の船体を延長して機関を増設した戦艦「敷島」級が現れる。

 攻防性能は据え置きで速力を27ktに引き上げた敷島級はイギリスでは巡洋戦艦と認識されたが、イギリスの巡洋戦艦ほどは装甲を削っておらず、通常のレ級戦艦と同じ装甲と火力を備えていた。

 後に現れる高速戦艦を先取りした存在と言えるだろう。

 1908年予算で敷島級は4隻同時建造となった。

 以後、日本海軍は毎年4隻ずつ戦艦を建造していった。

 所謂、四四艦隊計画である。

 日本海軍は演習や過去の海戦を分析することで、一人の指揮官が掌握できる最大兵力は4隻までと結論していた。

 そのため低速だが攻防性能に優れた戦艦と攻防性能を多少妥協した高速発揮可能な戦艦を4隻ずつセットで用意することで、最小のコストで最大の戦術パフォーマンスを発揮できると考えた。

 四四艦隊計画は英独の建艦競争に追随すべく、12年で48隻の戦艦を整備するものとなった。

 日本海軍も十分に頭のネジが外れていたと言える。

 実際のところ、途中から陸軍国のドイツは日英の建艦速度に対応できなくなっていた。

 宿命的なライバルである日英は、お互いだけを見つめ合って、強大な海軍軍備の整備に狂奔していった。

 1909年予算の相模級は、敷島級から機関を減じて、砲塔を1基追加して火力を強化した改摂津級戦艦だった。速力は23ktになったが火力不足を解消したという点では大きな意義があった。

 しかし、船体中央に追加された砲塔は取り回しが悪く、運用に難があった。

 全門斉射すると艦全体を爆風が覆ってしまい上部構造物が破損するという重大な欠陥があったのである。そのため交互射撃しかできなかった。

 1910年計画は、主砲口径を一気に36cm砲に拡大した連装4基8門装備した超レ級戦艦計画となった。

 これはイギリスの超レ級戦艦計画に対応したものである。

 1909年に建造開始したイギリス海軍のオライオン級は34.3cm砲を備えた世界初の超レ級戦艦であった。

 オライオン対抗艦の扶桑級戦艦は日本初の超レ級戦艦であり、世界最大の36cm砲を備え、オライオン級で日本海軍を超えたと安堵していたイギリス海軍を震撼させた。

 しかし、36cm砲連装4基8門の扶桑に対して、34.3cm砲連装5基10門のオライオン級はほぼ同等の火力性能であった。

 扶桑級は4隻が建造され、続く1911年計画では、扶桑の船体を延長して機関を増設した金剛級戦艦が4隻建造された。

 27ktの速力と36cm砲連装4基8門を備えた金剛級は、1912年計画の伊勢級の母体となった。

 伊勢級は、金剛級の船体をさらに拡大して36cm砲連装10門の搭載と引き換えに速力を23ktまで減じている。

 相模級で問題となった船体中央砲塔を廃止して、艦尾を延長することで無理なく10門搭載しており、伊勢級の完成度は極めて高かった。

 1912年にイギリス海軍はクイーン・エリザベス級戦艦を建造し、38.1cm砲によって日本海軍の36cm砲を突き放すことに成功するが、38.1cm砲連装4基8門の投射火力は伊勢級の36cm砲10門とほぼ同等であった。

 日英の建艦能力と技術力はほぼ互角と言ってよかった。

 もはやドイツなどそっちのけで、日英の建艦競争は世界二大海軍国の全てを打ち込んだ死闘となっていた。

 1913年計画で日本海軍は遂に41cm砲を連装4基8門を備える長門型戦艦を生み出した。

 超超レ級戦艦の誕生である。

 長門、陸奥、呂宋、蝦夷の4隻が揃った日本海軍第1戦隊は世界最強の戦艦部隊となった。

 日本海軍は長門級をこれまでの戦艦とは一線を画した新世代の戦艦と考えていた。

 特に速力は日本型戦艦の基本であった23ktから26ktへと向上していた。

 日本海軍はそれまで23ktと27ktの低速・高速戦艦を組み合わせた戦列艦隊を整備してきたが、長門型からは26ktと30ktの組み合わせに発展する予定だった。

 対抗馬であるクイーン・エリザベス級もまた25ktの高速戦艦であり、日英はほぼ同時期に高速戦艦のコンセプトにたどり着いたといえる。

 長門以降の41cm砲搭載艦の整備計画を前述の四四艦隊計画から発展した八八艦隊計画とすることがある。

 1914年計画の加賀級では長門級の船体を延長して機関を増設し、41cm連装4基で30ktを発揮する完全なる高速戦艦だった。

 しかし、第一次世界大戦勃発により、完成したのは加賀と土佐の2隻のみだった。

 日本の加賀級に対抗するためにイギリスで建造されたのがアドミラル級巡洋戦艦であり、1番艦のフッドのみが完成したので、フッド級と称されることもある。

 次の赤城級は加賀級の船体に41cm砲10門と搭載した伊勢級のスケールアップ版になる予定だったとされる。しかし、全艦が建造中止となった。

 赤城級の次はペーパープランに終わったが、46cm砲連装4基を搭載し、加賀級を拡大した船体に石油専燃缶を搭載することで30ktを発揮する超超超レ級戦艦だった。

 排水量は60,000tに達する予定だったとされる。

 46cm40口径砲は試射に成功しており、建造は可能だった。

 幻に終わった1915年計画艦は後に建造される46cm砲搭載艦「Υ(イプシロン)」計画の重要な基礎資料となった。

 1910年代に入るとヨーロッパには戦雲が立ち込め、日中の政治家は対応を模索することになった。

 1913年には、元海軍軍人の山本権兵衛内閣が成立したが、これはヨーロッパの緊張とは無関係ではなかった。

 山本権兵衛は島津斉彬から始まる薩摩閥と呼ばれる政治エリートの資産を引き継いだ最後の一人である。

 1年戦争後に新政府に協力した外様大名は、毛利、島津、長宗我部、伊達、徳川、上杉の六家であったが、伸長著しかったのは島津斉彬率いる薩摩閥だった。

 島津斉彬公の手腕は、明智光英にも比肩するものであり、新政府において最大勢力を築き上げた。

 島津公の政治的な資産を引き継いだのが大久保利通と西郷隆盛だった。

 薩摩閥に次いで勢力を拡大したのが毛利、同位で徳川と言えた。

 毛利は吉田寅次郎や高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、木戸孝允といった人材を輩出し、長州閥と呼ばれる派閥を形成した。

 木戸孝允は、大久保利通、西郷隆盛、徳川慶喜と輪番で政権を担うほどになったが、長州閥は短命なものが多く、木戸も若くして世を去っている。

 長州閥は最終的に伊藤博文が相続したが、後に続く人材を得なかった。

 というよりも、政党政治の発展で大名家の政治閥は力を失っていたという方が適切だろう。

 薩摩閥も山本権兵衛が最後の継承者であった。

 薩長閥崩壊後も続くのが徳川閥で、20世紀に入っても度々首相を送り出すなど、徳川家の繁栄は続くことになる。

 織田、明智の後に天下を獲ったのは、徳川と謳われる所以である。

 徳川の繁栄は、徳川慶喜の手腕もさることながら、彼の長命に負うところが大きい。徳川慶喜は1913年まで生きて徳川閥の長老として君臨した。

 長宗我部は、閥と呼べるほどの勢力を得なかったが、そうであるがゆえに政党政治の確立に奔走した板垣退助を生み出して、民主主義の時代を築いた。

 また、救国の英雄となる坂本龍馬は土佐の生まれである。

 マラッカ海峡海戦の英雄は、終身元帥として帝国海軍に君臨したが、統治せず、政界にも進出しなかった。

 終身元帥は軍服を脱ぐことができず、軍人は政治家にはなれない。

 坂本には政界進出の意思はなかったものの、最後まで軍服を脱げないことを窮屈に思っていたという記録が残っている。

 事実上の飼い殺しといっても良かった。

 その名声があまりにも巨大すぎるために止む得ない措置とも言える。

 ちなみに飼い殺しの英雄としては、中国の救国の英雄と名高い楊威利元帥も事情は同じだった。

 二人には交流があり、肝胆相照らす仲だったことはよく知られている。

 英雄は英雄を知ると言われるが、


「まるで隙がなく、如何なる打ち込みも通じないことがすぐに分かった」


 と、坂本は楊の並々ならぬ才覚を一目で見抜いたとされる。

 しかし、後にそれは楊威利ではなく、楊威利のボディガードを務めていた李氏八極拳の開祖である李書文だったと勘違いだったことが判明し後に取り消している。

 楊威利は天才的な戦術家であったが、それ以外は全くの無能だった。

 さらにしばしば自分の命を省みない迂闊な行動をする悪癖があったので上司の李鴻章が最高のボディガードとして寄越したのが神槍として名高い李書文であった。

 ちなみに坂本も楊威利と同じ病に罹病していたが、北辰一刀流の免許皆伝であり、自力で切り抜ける能力があったのでボディガードはいなかった。

 坂本が披露した北辰一刀流を見た李書文は、


「合理の剣」


 と、近代剣道の始祖となった北辰一刀流の動きを的確に評した。

 坂本は李書文の八極拳に深い感銘を受け、日本に広めたいと考えた。

 そこで李書文に弟子入りさせたのが、当時、海軍少尉であった結城日である。

 日本の古流柔術を取り入れた結城流八極拳は三代目の晶によって完成され、日本式八極拳として全国へ広まった。

 結城流八極拳の絶招「鉄山靠」はあまりにも有名である。

 話が逸れたが、山本権兵衛は組閣が済むと精力的に外交活動を行って、長く日中の外交的な懸念事項であった台湾や琉球、ベトナムを独立や付属地の確定交渉を決着させた。

 その手腕は、中華帝国首相の孫文からも激賞されている。

 さらにアメリカ合衆国との間に経済協力と太平洋の現状を定めた9カ国条約を締結した。

 太平洋周辺に領土を持つ日本・中国・台湾・琉球・ベトナム・ドイツ・アメリカ・カナダ・イギリスの9カ国の領土の相互承認と不可侵を定めた9カ国条約によって太平洋の安全を確保しようとしたのである。

 アメリカやカナダは西海岸や北米大陸の安全保障に神経を尖らせていたから、この提案は歓迎された。

 この条約により、日本は布哇や阿羅斯加に軍備制限をかけられたため、保守派を中心に反発は少なくなかった。

 しかし、多くの人々はこの条約により太平洋の現状が固定されたことを歓迎した。

 また、仮に戦争が起きるとしたら、それはシベリアの凍れる永久凍土でロシア軍との決戦か、遥か彼方にあるインド洋でイギリス海軍との決戦だと考えていた。

 そして、サラエボの銃声が響き渡ると、そのとおりになった。





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